つ『瑠璃と司の温泉旅行』 後編
天井から垂れた雫が、浴槽に落ちた。
「ふー」
撮影の予行練習? 本番撮影は明日のようだ――……ということで、越後谷は私を一人部屋に残し、放置。日が落ちても帰って来なかったので、一人露天風呂なんかに入っている私であるが。
まあ、一人旅に出たと思えば……一人旅なんてしたことないけど……。それなりに優雅でもある、かもしれない。
早くもホームシックに掛かり気味な私。知らない人ばっかりで、知っているのは宇宙人だし。何なの、この状況。
……くすん。
涙を流しても誰も見てくれないので、私は開き直る事にした。あまりメジャーな旅館ではないのか、貸切風呂には誰も居なかったので、こうして都合良くも拝借しているというわけだ。
貸し切り露天風呂って、良いよね。一人で入れるというのが。誰も来ないって分かっているから、落ち着くし……
「……あれ?」
ふと、水の音がした。
誰か入って来たのかな。そう思って辺りを見回すけれど、誰も居ない。
――ひょっとして、妖精だったりして。
少しだけ、物語を考えた。
その世界では、妖精は神様の使いなの。神様は世界を動かすような、そんな仕事をしていて。妖精はそれを手伝う係。
色々な人の所に訪れる不幸や幸福の量を調整していて、世界が平等に動くように、毎日お仕事をしているんだ。
ある時、神様のもとに、とんでもなく大きな災いが訪れる事が分かるの。それは未来予知みたいな能力で、見通していたり――人間界はこのままだと、消滅しちゃう!
だから、それをどうにかするために、神様は妖精さんを使って、人間界のヒーローに助けを……
「……荒唐無稽すぎる」
思わず、苦笑いをしてしまった。
少女漫画っぽいテンションで始まるのに、どうして少年漫画みたいなテイストなんだ。まずジャンルは何? 冒険? ファンタジー? 恋愛? ……よく分からない。
こんなのではなくて、もっとしっかりとした恋愛ものとかの方が良いんだろうな。
「何が荒唐無稽なんだ」
「ううん、独り言。別に気にしな――」
――えっ。
「――えええええ!?」
振り返ると、そこにはかの越後谷司様がいた!!
いや、様って何!? 待って、落ち着いて、私混乱してる!!
越後谷は何食わぬ顔で私を見詰めて、しかもちょっと不満気な顔をしていた。
「何何何なんでいるの!? ちょっ、ほんと、何でいるのっ!?」
背を向けて、ざばん、と浴槽に沈む。首だけ振り返って越後谷の表情を確認すると――眉をひそめて、頭を掻いていた。
「……それは、俺の台詞だ」
私の台詞だよ!!
「なんで!? どうして!? おかしいでしょ、私、確かに鍵掛けて――」
「ああ、それで変な方向だったのか。鍵、ちゃんと掛かって無かったぞ」
「うそお!!」
じゃあ私、ずっと無防備な状態でお風呂に入って……ううん、駄目。そんなの私が許さない。
越後谷といるこの状況の方が、許される事ではないけど……でも、越後谷は特に何の感情も沸かないのか、ため息を付いて浴槽に浸かった。
「……いや、出てってよ」
「別に良いだろ。ついこの前まで一緒に入ってたじゃないか」
「誤解を招くような事言わないでくれる!? 五歳よ、五歳!!」
「人生八十年だと仮定してもたかだか八分の一程度の時間しか違わねーよ」
何!? 何でこの男はこんなに達観しているの!?
ていうか、八分の一って言ったら結構大きい差じゃないの!?
「あの時とはもう身体のつくりが違うの!! ちょっとはデリカシーを持ってよ!!」
「ああもう、ガタガタうるせーな。どうせ胸も尻も出てないだろうが」
ぐさり、と越後谷の直球ストレートな言葉が私の胸に刺さる。……無い胸に。
違うもん。……これから大きくなるんだもん。
待て。こいつは男じゃない。宇宙人じゃないか。宇宙人なんだから、一緒に入っても別に害はないのかもしれない。
……私のことも、特に女だとは思われていないようだし。
あれ。何でだろう。嬉しい筈なのに、涙が……
「ああおい、待て!! 何故泣く!?」
越後谷には分かるまい、この気持ち。少し前まで私の方が背が高かったのに、いつの間にやら逆転し、見た目だけは大人になっていく越後谷には。
頭の中はまだまだ子供なくせに。
……そうなのだろうか? もしかして、私の方が子供なだけ?
大人の女性なら、こんな事になっても慌てたり驚いたり、しないものなのだろうか……
私には無理です。
「……悪かったよ。元気出せ。な?」
越後谷が私の肩を叩いて、顔を覗き込んだ。上目遣いに見詰めると、越後谷は微笑んだ。
「可愛い、可愛い」
「……ほんと?」
「ああ。そのうち女らしい身体つきになるだろうよ」
……むう。
仕方ないから、ちょっとだけ許してやるか。
「……今日、何してたの?」
「読み合わせと、後カメラとの立ち位置とかな。どうも一日掛かりなのは、主役の予定が立て込んでて、明日来るかららしい。その間に、必要な事を全部決めるんだと」
「そうなんだ」
子役とはいえ、仕事かー。……越後谷、格好良いなあ。
まだアルバイトも出来ないような私達。なのに、越後谷はもう働くということを知っているんだ。
なんだか、他の子達とは少し足並みが違うようで、ちょっと悔しくなった。見た目も関係して、特別だと言われているように感じる。
学校のテストが何点だとかいうのは、きっと越後谷にはどうでもいいのだろう。勉強しないし。
「なんで越後谷は、俳優をやろうと思ったの?」
私がそう聞くと、越後谷はきょとんとして応えた。
「……なんでって?」
「え? いや、理由とかあるでしょ?」
「無いよ?」
「……無いの?」
何か特別なエピソードとかあるものかと思っていたけれど。例えば、ご両親が俳優とか。……あの頑固そうなおじさんが、俳優? ……いやあ、それはちょっと考え難いか。
おばさんは確かパン屋さんのお手伝いだったので、それもないだろう。
越後谷は微笑んで、私を見下ろすようにして言った。
「好きだからだよ」
それだけ言って両手を頭の後ろで組むと、脚を伸ばした。
……いいなあ。なんか、私にはない『自由さ』みたいなモノを感じる。
常識にとらわれていなくて、純粋に自分の目標だけを追い掛ける何か。
「瑠璃は、好きな事とかねえの?」
「……好きなこと?」
「あるだろ、ピアノとか、書道とか」
「あ、あれはお父さんとお母さんがやれって言ってるだけで、別に好きとかでは……」
越後谷はふーん、と呟いて、あらぬ方向を向いた。もう、興味が失せたらしい。
きっと越後谷は、他の子供達とは違う部分を見ているのだ。それがきっと、『漆黒の騎士』たる所以なのだろう。
幼い頃から自分にも他人にも正直で、しかも物事を達成するためには手段を選ばない越後谷。それに振り回されてしまうのは、越後谷が自分の夢を叶えるために必死になっているからだ。
……何だか、そう考えると遠い存在のように思える。
「……ないよ」
「ん?」
「ないよ、好きな事とか。私には、目の前に広がっているものをこなすので、精一杯で……」
「目の前に広がってるものって?」
「そ、それは、勉強とか、習い事とか……」
「くっだらねえ」
そう言われると、少しだけ悲しくなる。私はそれを一生懸命にやる事が、人生のすべてなのだ。
それが否定されるということは、即ち私自身が否定されているに等しい。
でも越後谷は、そんな私の頬を片手で掴んで、ふにふにと動かした。
「ふぉっ!? ふぁふぃふんほ!!」
……どうやら、かなり不機嫌になっているらしい。
一頻り私の顔で遊ぶと、越後谷は満足したのか、私の顔を捨てた。
ひどい。
「やりたい事、やれよ。何をするかくらい、自分で決めろ」
むっ。
心外だ。こんな場所に勝手に連れて来るような男に、それを言われるのは。言い返せないのが、とても悔しい。
「……越後谷に、私の何が分かるのよ」
「協力してやるよ」
「えっ?」
越後谷は、偉そうに胸を張って、腕を組む。そうして、私を意地悪な目で見た。にやりと笑う様は、まるでドラマの悪役のようだ。
「俺はお前の兄貴みたいなモンだろ? 仕方ないから、協力してやるよ」
誰が兄貴だ。弟でしょ。
……はあ。なんだか、真面目に考えてる私が馬鹿らしくなってきてしまった。結局、色々考えているようで何も考えていなくて、もしかしたらこの男もただの馬鹿なのかもしれない。
自意識過剰で、傍若無人で、唯我独尊な越後谷。
なんだかなあ。
「お前に好きな事とか好きな奴ができたら、積極的に応援してやろう」
「……あー、はいはい。ありがとね」
……って、好きな奴?
恋愛ってこと? ……考えられないなあ。私が誰かを好きになるビジョンなんて、全く見えない。
私はまだ、ひよっ子。恋愛初心者には、漫画とか小説くらいが丁度良い。好きな人に好きって言うのは、きっと大変な事だろうと思うから。
越後谷は満足したのか、勝手に背を向けて浴槽から出ようとした。
……あ、そうだ。
「越後谷さー」
「なんだ?」
「りっちゃんのこと、好きなの?」
……あ、転んだ。
「なんなんなん何でそうなるんだよ」
あ、動揺してる。
……ものすごく動揺していた。
「だって、なんかりっちゃんにだけ冷たくない?」
「好きだからじゃねえよ!! 嫌いだからだよ!!」
「……なんで嫌いなの?」
「トロいし、なんか言葉遣いおかしいし、母親の弁当はいつも牛乳だけ残すし、数学の時間になるといつも寝てるし、携帯電話のストラップにウサギとか付けてるし……」
……詳しいなー。
やっぱり、好きだからなのか。あの態度は。……越後谷のそういう所は、ちょっとだけ可愛いかもしれない。そういえば、私がりっちゃんと仲良くなってからというもの、結構な頻度で私の隣に居るものね。
そうか……越後谷も恋をしているのね……
何だかちょっとだけ、母親の気持ちになる私である。
「そうだ、瑠璃。お前、気を付けろよ」
「気を付ける?」
「美濃部は怖がりだからな。お前の真似、するぞ」
……何のことだろうか。真似? 別にファッションを真似されたことはないし……真似。
何かを真似されているのだろうか。……よく分からない。
私が理解していない事に気付いたからか、越後谷は溜め息をついた。
「最近、一緒に泳ぎ始めただろ」
「まあ、最近は温水プールによく遊びに行ってるけど……水泳部には入ってないし、りっちゃんは私が水泳部だってことも知らないよ? ……どういうこと?」
「だから……もう本当、お前も大概だな。もういいや」
「な、なによ」
越後谷は頭を掻いて、浴槽から出て行ってしまった。
……何よ。気になるじゃない。
出入口の扉を開いて、越後谷は私を一瞥した。ふと指をさして、越後谷は言う。
「あとお前、警戒心薄すぎ」
え?
……何だか、会話の最中でいつの間にか、私は立ち上がっていたようだった。
当然、ここは露天風呂な訳であって――……
その後、私が絶叫したのは、言うまでもない事だった。
★
好きなこと、かあ。
越後谷を見ていて思う。いつも彼は自分の興味がある事に一直線で、他のものを何も見ていない。それだけ一生懸命になれるものがあるということは、私のような人間からすれば羨ましい事だ。
私は水泳をやっているけれど、越後谷ほどに頂上を目指している訳ではない。それは趣味の範疇なのだ。
そんな越後谷の真剣な様子を魅せつけられた帰り道、私はちょっとだけ悔しくなったのだった。
「はい、じゃあお疲れ様でした。ここで降ろして良いよね?」
「おう。智恵、助かったぞ」
「……はいはい。次は我儘言わないでくれると助かるわー」
越後谷は車から降りる傍ら、智恵さんをじっくりと見詰めて、言った。
「それは……無理だな」
「ちょっとは大人の事情を察しなさいよ!!」
あ、殴られてる。越後谷が私以外に殴られてるの、珍しいなあ。
駅前の大通り、歩道に停車していた黒塗りの車は、排気ガスを出して私達から去って行く。私はお辞儀をして、それを見送った。
……本当、何のために来たんだか分かったもんじゃない。
けど。
「それじゃあ、俺達も帰るか」
越後谷は私に背を向け、勝手に歩き出した。
――きっと、これからもそうなのだろう。高校は都内で探すと言っていたし、事務所から近い場所を選ぶに違いない。
私は、どうするの?
これから、どうしようか。
「――越後谷!」
ふと、呼び止めてしまった。
越後谷は振り返り、目を丸くして私を見詰める。
なんだか、その背中がずっと前を歩いて、いつか私の前から消えてしまうんじゃないかって、焦ったのだ。
どこまでも勝手な、『漆黒の騎士』。
そして、その幼馴染である私は。
「私も、越後谷と同じ学校、行く、から」
「俺と同じ? ……何でだよ」
何でだろう。
咄嗟に、言ってしまった事だ。特に理由なんてなかった。
自由奔放と優等生。
なんだか、そんなレッテルを貼られてしまうのが嫌だったのかもしれない。
「……ドラマ、作ろうと思って」
口から出任せ、何も考えていない一言だった。少なくとも当時の私にとっては、それは。
その言葉が、私を本当に都内に住まわせる威力を発揮するなんて、この時は全く思っていなかった。
越後谷は少しだけ考えて――その後、
「ま、いいんじゃねーの?」
そう言って、笑った。
好きなことを見付けるためには、まず試すことからと言う。
この時の私は、きっと生まれて初めて、『自分の足で、手で試す』事を始めたのだ。
「――――うんっ」
その後、この言葉をきっかけに両親と大喧嘩をして、家を飛び出したはいいけど仕送りが全く無くなってしまったりとか、まあ私にしてはとんでもない事をしてしまうのだけれど、それはまた別の話。
とにかく如何なる話も出来ないほどに無愛想で、ありえないほど厚かましい。
私にとっては宇宙人のようなこの男が、いつか大物になったら少し嬉しいななんて。
……本当に少しだけ、そう思った。