つ『瑠璃と司の温泉旅行』 前編
とにかく如何なる話も出来ないほどに無愛想で、ありえないほど厚かましい。
「ああおい、ちょっと来い、瑠璃」
私から見る幼馴染の越後谷司といえば、まさにそのような存在だった。
髪を染める手前、特に幼少時(五歳)の時に、お向かいの中村さんちのゴールデン・レトリーバーを愛馬の如く乗り回し、何故か意思疎通して街中を徘徊していたというのは、まだ私の記憶に新しい。
常に真っ黒な服を着て、子供だというのに髪を染め、一メートル長はあろうかという木の棒を振り回し、犬に乗って無言で出歩くものだから、近所のおば様からは危険人物として『漆黒の騎士には近付くな』などと言われていた。
それでも本人は全く気にする事がなかったのだから、神経の太い男だ。
危険人物が漆黒の騎士だなんて、近所のおば様方も随分と愛嬌のある呼び名を付けていたけれど。
「……何? 何か、あるの?」
「ああ、ちょっとな」
インターフォンを鳴らされて扉を開くと、その越後谷司という存在が――記憶の中の漆黒の騎士よりは、いくらか背丈も伸びた――男が、私を見ていた。
最近よく遊ぶようになった、りっちゃんこと美濃部立花ちゃんには、何故かいつも不機嫌に接する所があるけれど。
この男の場合、不機嫌も上機嫌もよく分からないので、私はいつしか考えないようにしていた。
「ちょっと、引っ張らなくても自分で歩けるってば!」
中二の夏。今思えば、あれが私の人生の転機だったのかもしれない。
当時の私は元『漆黒の騎士』が未だに根強く警戒されていたということで、隣に住んでいるにも関わらず、あまり交流はなかった。それでも長いこと一緒に居るうちに、半ば家族のようなものになっていたのだけど。
小学校に入ってからは一緒に遊ぶ事もなくなり、主に私が越後谷のためにノートを貸したり、消しゴムを貸したり、宿題をやったり……あれ、なんか良いように使われてるだけだ、私。
あの謎の説得力を持った真顔で「頼む」と言われると、明らかに悪いのは越後谷なのに手伝ってしまうのだ。
「智恵。こいつ、俺のマネージャー代理だから」
それでも、この唐突に発生する謎のイベントと、私を見て「いや、明らかに年齢足りてないでしょ」と落胆しているおばさん――お姉さんを見ると、叫ばずにはいられない。
私の青春を返せ。
「……いや、明らかに年齢足りてないでしょ」
「そんな事はない。確かに若干幼く見えるかもしれないが、こいつは立派な二十代後半だ」
――ぷちん。
真顔でそう言い放つ越後谷の後頭部を、本気で殴った。
特にリアクションもないことが、逆に私の倦怠感を煽る。
「越後谷!! あんた、サバ読むのもいい加減にしなさいよ!!」
「何を言っているんだ瑠璃。鯖は食うもんだぞ」
智恵さんと呼ばれた、越後谷の知り合い――綺麗なボブカットのお姉さんは、腕を組んでため息を付いた。
誰だろう、この人。学校の人ではないだろうし……最近越後谷と接する機会が無かったので、彼のヒューマンネットワークが分からない。
「……同い年ね?」
「違う。二十代後半だ」
「……越後谷君。悪いけど二十代後半はね、中学校の制服を着ていないのよ」
「おい瑠璃。お前が家で制服なんか着てるせいで、乳臭い子供だということがバレたじゃないか」
――ちっ、乳臭――!?
何なの!? 放課後にいきなり人の家のドア叩いて、引っ張られて、何で私乳臭いとか言われてるの!?
制服を着替える前にヨーグルト食べてたら悪いの!?
見たいテレビ見ちゃ駄目なの!?
ほんと何なの!?
わなわなと拳を震わせるが、越後谷は至ってクールな顔で智恵さんを見ている。
……殴りたい。すごく。
「……私が行けないのよ、だから出演は他の子に」
「瑠璃が行ける。何も問題ない」
「せめて、ご両親に」
「瑠璃の親には、俺から言っておく」
「違うわよ。あなたのご両親に」
「それは問題ない。既に言った」
「ち・が・う。あなたのご両親に同伴して貰いなさい」
「その必要はない」
ああ、智恵さん怒ってる。私の目から見ても分かる程に怒ってるよ。怖いよ。
何で越後谷って空気読まないんだろう。寧ろこっちも怖いよ。
私、どうしてこんな所に居るんだろう……
「……どうしても、と言うのね?」
越後谷は頷いた。
こういう所、すごいよね。私なら普通、ここまで厚かましい態度は取れないよ……しかも、厚かましくできる対象が私や同年代の友達だけじゃなくて、大人も含まれているというのが……
「……分かったわ。それじゃあ、どうにか代理の人間を立ててみる」
ああ、智恵さんの迷惑になってる。すっごい迷惑になってるよ……
智恵さんは黒塗りの車に乗ると、そのまま去って行った。
「それで、何の交渉をしてたの?」
越後谷は下顎を撫でながら、言った。
「温泉旅行に行くための交渉だ」
……はあ?
★
つまり物事の発端は、越後谷がいつからか一生懸命になってやっているゼミの依頼で、お仕事を引き受けたというのが始まりらしい。
私は俳優も目指していないし、何か芸術をやっている訳でもないので詳細は分からない。でも、何でもそれは大層すごいことらしい。
越後谷自身は何だか良くわからない感じで、当然の事だと思っているようにも見ることができるし、さり気なく興奮している様子も垣間見ることができた。
単純に温泉旅行に行けるというのが嬉しいだけなのかもしれない。
「……えちごや」
「智恵、後どれくらいだ?」
「五分もあれば着くわよ」
智恵さんが溜息を付いて、そう言った。
代理を立てるとか言っていたけれど、結局代理は立たなかったらしい。越後谷をキャストに加えるという事は、代理を立てる前に決定事項にしてしまったらしく。仕方なくなのかどうなのか、智恵さんが同伴する事になったのだという。
「三ヶ月ぶりの彼氏とデートの予定だったのになあ……」
それはもう、仕方なく参加することにしてくれたのだ。
ごめんなさい、智恵さん。うちの越後谷がこんな、傍若無人な奴で。
いや、そんな事より私には、もっと重要な事がある。
「……えちごや」
「なんだ、瑠璃」
――気まずい!!
なんで私が撮影現場のプロと思われる人々に囲まれながら、越後谷の隣に座っているのかを、この地球上の誰かに問い詰めたい。
普通許可されないでしょ、何でこんな事になってるの。
どうして越後谷は何事も無かったかのように座席にふんぞり返っているの。
「……便所か?」
「違うわ!!」
かえりたい。
何故か周りからは微笑ましい感じで見られているし、これはもしかしてアレだろうか。勘違いされているのだろうか、私達。
すいません、私は越後谷の幼なじみで、別に恋人とかそういうのじゃないんです。
両膝をきちっと揃えて、席に縮こまる私。土日で撮影するらしく、一泊二日なのだという。
どうしよう。お父さんとお母さんには、友達の家に泊まるって言ってきちゃったんだけど。
どこまで信頼されているのか、越後谷が言ったからなのか、誰も何も聞いてこないし、問題にもならないし……
「……あ、あの」
「ハイ、瑠璃ちゃん? どうしたの?」
「青木です。……あの、ごめんなさい。実は私、おかあさ……両親に断りを入れていないのですが」
「あ、私の方から言っておいたわよ。心配しないで、流石に未成年を親の許可なしに外泊とかさせられないから」
――――えっ。
あれ? じゃあ何? 私、越後谷の意向で連れ出されたということを、お父さんとお母さんに承諾されてここにいるの?
あんなに嫌いだったはずの越後谷の頼みに、どうして……
「すっごいハンサムな彼氏に誘われてるからって、言っておいたわよ」
余計なことすんなああ!!
……そっか。つまり、ハンサムな彼氏というのが誰なのかは、公開されていないというわけだ。保護するのもこの様子だとゼミ関係の会社――なんだろうし、越後谷の名前は一切表に出ていないのか。
ただでさえ面倒だった内容が、どんどん悪化していってるよ……。どうしよう……
「安心しろ、瑠璃。俺は少なくともお前よりは見た目に気を使っている」
「そういう問題じゃないでしょ!? っていうかさり気なく女の子に酷いこと言うな!!」
「はいはい、痴話喧嘩やめてー。着いたからー」
帰りたい……
越後谷御一行が泊まる予定の旅館は、それはもう立派な温泉宿だった。学校でならともかく、プライベートでそんな場所に行ったことがない私は、その広さにドギマギしてしまう。
良いのかな、私みたいな小娘がこんな場所に来ちゃって……。変じゃないかな。変だよね……
つい、きょろきょろと周りを見回してしまった。サラリーマンっぽいスーツの人や、おばあちゃん――高齢の人は居るけど、やっぱり私みたいな子供は来ていない。
はあ……
「はい、瑠璃ちゃん。これ、鍵ね」
「青木です。ありがとうございます」
それとなく、智恵さんに鍵を渡された。
そのまま、智恵さんは中へと入って行く。……あれ? 越後谷の鍵は……?
……え、まさか……
エレベーターを上がると、客室の扉が並んでいる。真っ直ぐに歩いて行き、智恵さんは客室の一箇所で止まった。
「越後谷君。こんな大きな仕事は当分ないだろうから、子役と言えども気合い入れて行きなさい」
「ウイッス」
越後谷は頷いた。智恵さんはウインクをして、越後谷に言う。
「――これは、そのためのサービスだからね?」
そう言って、去って行った。
……えっ。
いや、まさかとは思ったよ。まさかとは思ったけど。
「どうした。入れよ」
相部屋――……
越後谷が私の手にしている鍵を奪って、中へと入った。堂々と中を物色している越後谷は、やっぱり厚かましい態度だと思う。
いや、有り得ないでしょ。年頃の男女を客室に放置とか。しかも相手が越後谷なんて。
――無理無理無理!!
だってこいつ、元・漆黒の騎士だよ? 名前だけ聞いたら中二病丸出しだよ?
「……おい、瑠璃。廊下歩く奴の邪魔になるから、入れ」
――そっか。智恵さんは、何もないと思ってるんだ。
智恵さんから見たら、私と越後谷なんてまだまだ子供だもんね。そういうの、あんまり気にしないよね。
恋人と言ったって、せいぜいガールフレンドくらいにしか思われていないのかもしれない。
私は部屋に入り、扉を閉めた。
「……何、してるの?」
「いや。これから撮影の予行練習だろうからな。準備運動しておこうかと思って」
……私はこの宇宙人と、一夜を共に過ごさなければならないのか。
何も考えていないようで、常に何か考えているっぽいこの男と。
そりゃ家は隣だったし、子供の頃はよく遊んでいたけど。
いや、遊んでいたと言うよりは、私が連れ回されていただけとも言えるけど……
「どうしたんだよ、瑠璃。なんかここに来てからおかしいぞ」
おかしいのはあんただ。
「……何も、しない?」
「何も……って、何を?」
……本当に、何も考えていないんだろうか。
そもそも、どうして私を呼んだの? 何のため? ……もしかして、本当に智恵さん達の言う通り、越後谷は私に気があったり……するの?
と思っていたら、越後谷は溜息を付いた。
「……瑠璃。お前と俺の仲だから、一応言わせて貰うけどな」
「な、なによ」
やれやれと言った様子で、越後谷は首を振って――
――うん?
「俺がお前に惚れるとか、ないから。有り得ないから。マネージャー代理として、形だけでも立てようと思っただけだから」
私の中で、灼熱のように燃え上がる何かが、音を立てて切れた。
表現はおかしいかもしれない。でも、切れたのだ。
もしかしたらそれは、私の堪忍袋の緒だったのかもしれない。
「うがあ――――!!」
「うおっ!? おい待て!! 投げるな!! 荷物を!!」