つ『その手を離してさよならを告げられるか』 後編
唐突な君麻呂の行動に、俺達は全員、呆然とその様子を眺めてしまった。全速力で駆け出してビルの中に入って行く君麻呂の姿には、どことなく決意の意志を見て取る事ができた。
くだらない事にいつも必死で、ただ目標だけは大きく、極端な君麻呂。
でも、どうしてその背中が大きく見えるのだろう。
「ジュン、あれは……放っておいて良いんですの? わたくしには何かまた、とんでもない事をしでかしそうに見えるのですけど……」
「ん、まあ……というか、俺を君麻呂の保護者にしないでくれよ」
当然向かったのは屋上なのだろう。俺達は行き交う歩行者の流れに逆らい、立ち止まって屋上を眺めていた。
不思議と、俺は君麻呂を止める気がしなかった。レイラの言う通り、極端な事をやりそうな気はしていたが――君麻呂の行動には、悪意は見られなかったからだ。
「……あ」
俺達を見て、立ち止まった人影があった。買い物帰りなのか、肩に下げたトートバッグの中身は、服やら化粧品やらで膨らんでいた。
ちょっと会っていなかっただけなのに、何故かとても懐かしい気がした。それは、俺が時を戻したからだ。
穂苅杏月は俺を見ると、唇を尖らせて近寄ってきた。耳元に唇を近付け、杏月は囁いた。
「……時を戻したの?」
俺は頷いた。……随分と不服そうな顔だな。どうして相談しなかったんだ、と言われているように感じる。
眉をひそめて笑い、俺は親指で屋上を指差した。そこに居る全員が立ち止まって屋上を見ている事に気付いて、杏月もその撮影現場を目にする。
「何、してんの……?」
今に分かるよ。
屋上が何やら、慌ただしくなってきた。中継をしているカメラはその対象物に止まり、先程までカメラに向かって話していた筈の女性が唐突に振り返る。
そして、その場所から先程まで下でバカをやっていただけの男が一瞬、顔を出した。鬼の首でも取りに行くかのような表情で、再び屋上の陰へと消えて行く。
「お兄ちゃん、それはやりすぎ……」
春子ちゃんが両手で顔を覆った。
「ほんと、何してんの……」
杏月は苦い顔をしていた。
だが、君麻呂は真剣だった。これは欠片も冗談ではない、本気の行動だと、君麻呂の顔がそう告げていた。屋上の不審な様子に気付き始めたのか、何名かの移動途中の人間が、俺達と同じようにビルの上を注視し始めた。
「スピーカーだよ!! 音量……これかあ!?」
君麻呂の声が、スピーカー越しに聞こえる。
……確かに、これはやばいな。明らかにやり過ぎだ。本来なら、止めに入るべきなのだろう。
今からでも、ビルの屋上へと向かえば――……
「やれ――!! 君麻呂――!!」
――なんで俺、応援してんだ。
馬鹿がうつってしまったのだろうか。
ぞわぞわと、足の下から這い上がってくるような高揚感に包まれていた。それは全力で悪戯をしている時のような、あるいは必死で何かを達成しようと努力している時のような瞬間だった。
「――――よし、こうだな!?」
ついに、下にいる俺達にも見える位置に、君麻呂が屋上から姿を現した。
逆光に染まり、顔は陰に。太陽が姿を隠すことで、下にいる俺達からは、君麻呂の顔はよく見えない。
だが、その中でも一際目立つ、茶髪に一部だけ入れられた青い髪は、太陽の光に当てられて、その色を強く表した。
ヴィジュアル系を気取ろうとして失敗したみたいな、頭の悪い髪型。
決して品が良いとは言えない、無様な素行。
「見てるか春子!! 出たぞ、テレビに――!!」
――本当に、馬鹿な。
「こら、キミ!! 何をしてるんだ!!」
「るっせーよ!! 三十秒で良いから黙ってろ!!」
マイク越しに、野太い男の声が聞こえる。君麻呂の周囲に、声の主と思われる数名の男性が現れた。
何事かと、下に居た人々は次々に屋上を見る。買い物帰りの主婦、休日出勤をしているサラリーマン、中にはその場に停車して、ハザードランプを点灯させたままで窓から顔を出す男もいた。
遠目に、陰になっていた君麻呂の顔が少しだけ見えた。
おかしなほど眉は逆ハの字を描いて、鼻の穴を広げて。八重歯を見せて、
「俺はなあ――!!」
一直線に、叫んだ。
「お前が生きてたこと、絶対に忘れないからなあ――!!」
それは、ただ、必死な。
「何年経っても、一生、忘れないからなあ!! 俺が生きてる限り、お前はここに生きてんだぞ――――!!」
不器用で、下品な、男の覚悟だった。
加速度的に、君麻呂の声量が上がる。自然と周りに居た人々に、その言葉は伝わった。
所々で聞こえる、スピーカーの音量を上げ過ぎた事によるハウリングの音が耳に痛い。でも、不思議と嫌な印象は受けなかった。
声が涙に濡れているのが分かった。
「お前はずっと、俺の妹だからなあ――!! 寂しくなんか、ないからなあ――!!」
ついに君麻呂がマイクを取り上げられ、屋上の陰に消えた。
俺にも聞こえた。きっと、春子ちゃんにも届いたはずだ。
それはきっと、君麻呂が時を戻してまでも春子ちゃんに伝えなければならなかった、最後の言葉だったのだろう。
「――ほんと、バカ……」
そう言う春子ちゃんの頬には、涙の筋があった。顔を隠したまま、耐えるように震えていた。
やがて耐えられなくなったのか、その場で泣き崩れた。レイラが宥めるように春子ちゃんの頭を撫でた。
「……あれ」
奇妙にも、杏月はこれまでの俺達の――君麻呂の事情を知らないにも関わらず、涙していた。本人にも理由が分からないようで、涙をハンカチで拭きながら、頭に疑問符を浮かべていた。
越後谷がため息を付いて、組んでいた腕を解き、ポケットに手を入れた。
「……デビューっていうのは、そういう事じゃねえよ」
確かに。
……さて、これからはただ、怒られるだけだろう。もしかしたら、学園での立場も危うくなってくるかもしれないな。
俺は右足を一歩、ビルに向かって出した。本当に仕方ないから、付き合ってやろう。
同時に足を出して、互いに顔を見合わせた。
越後谷が驚いて、目を丸くしていたが――ふと、微笑む。
俺も笑った。
「越後谷、どうだよ? 俺の作戦、わりとイケてなかった?」
「馬鹿言え。穂苅の知らない間に、俺が前日から仕込んでおいたんだよ」
「ははは、んなわけねーだろ」
越後谷と二人、歩き出す。
まあ、同じ境遇になる人間が二人も居れば、君麻呂も少しは後悔しないんじゃないかな。
◆
最終的な結果として。
意外にも、俺達は大きな罰を受けずに終えた。中継だと思っていた番組が実はそうではなく、実際には君麻呂がテレビに出ることは無かったというのが大きな原因だ。
当然とんでもないお叱りを受けたのだが――実際には番組が放映中に邪魔された訳ではなく、撮り直しがきくという事と、学生という身分から、どうにか罰金だ何だという問題には発展せず、辛くも胸を撫で下ろす事になったのだ。
停学、下手を打てば退学も有り得る事態だっただけに、いくら安堵しても足りない。
さて、主犯の君麻呂であるが。
「なあ、ごめん。ほんとごめんよ。……春子おー」
……春子ちゃんが、一切口を利いてくれなくなった。
絶望的なまでに恥ずかしい行為の中、大声で自分の名前を呼ばれるだけに飽き足らず、本人はまず撮影現場の方々にこっぴどく叱られ、慌てて駆け付けた養成ゼミの先生に怒られ、学園の校長まで出て来て怒られたのだから、まあ当然と言えば当然の結果だろうか。
現在時刻、十八時。太陽が沈み行く時間になってしまったのは、これまで怒られ倒した結果である。……つまり、春子ちゃんはせっかく休日に久しぶりの外出をしたのに、どこにも行けなかったという結果になってしまった。
せめてメガホンで屋上から叫ぶ程度にしておけば、注意程度で済んだかもしれないというのに……。
というわけで病室へと帰り行く一同は、特に会話が盛り上がるでもなく歩いていたのである。
「たのむよ。なんか喋ってくれよ」
「お兄ちゃんサイテー」
「……うぐっ」
素っ気なく言われた言葉に、君麻呂が車椅子を押しながら、片手で胸を押さえる。
「非常識。狂気。変態」
「え、そこまで言う……?」
春子ちゃんは振り返って、君麻呂を睨み付けた。既に真っ青な顔色をしている君麻呂が、春子ちゃんの剣幕にたじろいだ。
「ほんと、少しは後のことを考えてよ!! 私がどれだけ恥ずかしい思いをしたのか、分かってるの!?」
「……はい。ほんとすいませんでした」
ぶすっと唇を尖らせて、春子ちゃんは言った。
「私、手術、受けるよ」
君麻呂だけではなく、俺とレイラも驚いてしまった。ここに来る手前、君麻呂の口から手術はするなと伝えた――つまり、手術が成功する事は無いと、言外に話したようなものだ。
正確には医師の口からそれを伝えられた訳ではなく、俺と君麻呂は未来を見てきたから言える事だったのだが――……現実は変わらない。
成功しないから、手術はしない方がいい。それは、春子ちゃんにもある程度理解された筈だったのに。
「……理由、聞いても良いか?」
君麻呂が、神妙な面持ちで問い掛けた。春子ちゃんは、その問に微笑んで答える。
「何もしないで死んじゃったら、どうして私は何もしなかったんだろうって、後悔すると思う。……例え成功する確率がゼロパーセントでも、やる事に意味があると思うんだよ」
――そうか。
春子ちゃんは、『気持ち』を選んだんだ。
君麻呂の誠意に、全力で答えるということ――例え死んでしまっても、自分が覚えている限り、春子ちゃんは寂しくならない。
これから先、君麻呂が死ぬまでの間、君麻呂は春子ちゃんを見守っているということ。
応えようと思ったのだろう。
その、覚悟に。
「……そか」
君麻呂は肩を落として、それでも何かに納得したかのように、そう言った。君麻呂もまた、春子ちゃんの覚悟を受け取ったように思えた。
九月。太陽が沈んで、真夏よりは少しだけ涼しくなった、夕焼けの空。数が少なくなった蝉の声。
遠くに見える飛行機雲を眺めて、春子ちゃんは言った。
「――私、お兄ちゃんが私のお兄ちゃんで、本当に幸せだと思うよ」
いつか生まれ変わる時、春子ちゃんは記憶を無くし、代わりにこの歴史を持って、生まれてくるんだ。
もしかしたら、それがシルク・ラシュタール・エレナやケーキの言う、『徳』なのかもしれない、なんて。
車椅子を押しながら、春子ちゃんに悟られないように必死で涙を堪えている君麻呂を見て、俺はそんな事を考えた。
……やれやれ。
そういえば、君麻呂と時を戻した瞬間から、ケーキがいないな。
どこかに出掛けているのだろうか。
「……ん?」
ふと、レイラが俺達の数メートル後ろで俯いて歩いているのを見付けた。俺は速度を落とし、レイラと歩調を合わせた。
レイラが顔を上げて、俺を見る。気まずそうに、目を逸らした。
「どうしたの?」
「……な、なんでもありませんわっ」
――は、はーん。
なるほど。この唯我独尊お嬢様にも、母性本能というものがあったか。
「守ってやりたくなった?」
「なっ!? ……そ、そんなわけ!! そんなわけありませんわよ!!」
守ってやりたくなったのか。……まあ、手術を受けて春子ちゃんが君麻呂の下から離れたら、君麻呂は当分一人で泣き倒すのかもしれない。
そこにあるのは前とは違い、単なる悲しみではないだろうけど。
「俺の事を気にしてるんなら、俺とレイラは付き合ってる『フリ』だからな。あんま、気にする必要ないぜ」
「うっ……も、勿論そんな事は分かっていますわ!!」
レイラはもじもじと両手の親指を弄り倒しながら、難しそうな顔をしていた。
小さな声で、ぶつぶつと呟いている。
「そんな、私が好きなのはジュンなのであって、別にキミマロに心が動いた訳じゃないですわよ……。ああ、でもあんなのを見せられたら、なんか面倒を見ないとダメな気がしてくるじゃないですの……まさか計算済み!? ひ、卑怯ですわ、キミマロ・ハカセッ……!!」
……小さな声でぶつぶつと呟いているが、残念なことに丸聞こえだった。
さて。
俺も、ケジメを付けなければいけない。
時を戻した段階から俺には覚悟が出来ていた。後はそれを実行するだけだった――……葉加瀬君麻呂の一件を見て、このままではいけないと、改めて思い知らされた。
そもそも、俺は中途半端過ぎたんだ。
姉さんは特定の条件下でしか暴走しないと分かり、暴走するためのきっかけも分かった時点で――つまり、合宿が終わった時点で。俺は早く決断をしなければならなかったのだ。
立ち止まり、俺は携帯電話を開いた。
「……純?」
杏月が気付いて、俺の下に駆け寄ってくる。
ほら、調度良く電話も掛かってきた事だしな。
俺は杏月に目で語りかけ、電話に出た。
「もしもし、姉さん?」
『じゅ、純くん? ……大丈夫? 今、どこにいるの?』
「今は用事があって、病院の方に来てるよ。総合病院」
『……そうなんだ。あのね、もしかして気にしていたら、……アレなんだけど、あのね、私、純くんが居るから、変になってるからとかじゃ、なくて……』
姉さんは、俺に気を使ってばっかりだ。
思わず、苦笑してしまった。
そもそも、一度死んだ命だ。俺はシルク・ラシュタール・エレナが時を戻さなければ、八月のカラオケパーティーの夜に死んで、それきりだった。
だから。
「――姉さん。俺、実家に帰るよ」
姉さんの時間が止まる瞬間が、俺にも分かった。
それは、必然。いつかは起こる出来事であり、俺が姉さんから離れても大丈夫だと分かった以上、言わなければならないことだ。
姉さんを、前世の呪いから救うために。
『……な、何、言ってるの? ……そ、そっか、ごめんね。違うの、お姉ちゃん、あのね、勘違いなの』
「そう、勘違いなんだ」
淡々と、俺は言った。
「姉さんは、俺のことが好きな訳じゃないんだよ。……正確に言うと、今の俺のことが好きな訳じゃないんだ。姉さんが好きなのは、もっと前の俺――いや、俺でもない人なんだ」
ローウェンと呼ばれた、前世の俺。
遠い記憶の中で姉さんが求めた、この時代には存在しない誰か。
姉さんは、この世に居ない人に恋をしていた。
それは見せかけの輝きと、よく似た鏡を重ね合わせただけの――残像のようなものだった。
『純くん……? 分かんない、純くんが何言ってるのか、全然分かんないよ……。お願い、純くん、帰って来て? ちゃんと、お姉ちゃんとお話しよ?』
俺が戻れば、姉さんの様子はまたおかしくなる。
時を戻した事は、一時的な改善に過ぎない。次は姉さんが暴走してしまうかもしれない。
――俺も、諦めよう。
「姉さん。……俺、たぶん、姉さんのこと、好きだったんだと思う」
家族だから、キョウダイだからと、何度も拒絶してきた。
何度も拒絶しなければ、理由をどうにかして付けなければ、頭がおかしくなりそうだった。
姉さんの誘惑。
辛かったのは、姉さんだけではなかった。
『わ、私も、純くんのこと――』
「でも、諦めるよ」
俺には、姉さんは眩しすぎる。
姉さんの前世の魂は、『神の使い』に姉さんを昇格させる程度には、優秀なものだった。姉さんの『徳』は人間界で暴走し、黒い翼を生やし、逆に人を傷付ける所まで来てしまった。
会話の内容が分かったのだろう。杏月が固く口を閉じて、俺を凝視していた。
「姉さんは、自分の人生を生きて良いんだ。俺に縛られなくて良いんだ。自由になるべきなんだよ。……姉さんが好きな俺は、夢なんだ。……ただの、幻なんだよ」
『何で!? 分かんない!! 全然、分かんないよ!!』
「このままじゃ、俺と姉さんは壊れてしまうんだよ。今は分からなくてもいい。――きっと、分かる時が来るから、さ。だから、当分会わないよ」
『嫌!! 嫌!! 嫌!! 帰って来て!! 純くん、帰って来て!!』
姉さんの中で今、納得など出来ないだろう。
でも俺はこれ以上、暴走した姉さんを見るのはもう嫌だ。
俺のせいで。
大切な姉さんが壊れる所は、もう見たくない。
「――――さよなら」
電話を切った。
耳元にある腕を降ろし、俺は呆然と空を見上げた。
どうしてだろう。
こんな結末しか辿ることの出来ない俺の宿命を、悲しいと思った。
「純。……大丈夫。帰ろ」
晴天の夕暮れ、雨は降らなかったけれど。
『――通過点だよ、純くん。君は振り回されるだけの自分から、意識して人を選び、守る立場になるんだ』
どういう訳か、俺の頬は濡れていた。
ここまでのご読了、ありがとうございます。第五章はこれで終了となります。
さて、この『ヤンデレ姉』ですが。タイトルの通り、全十章構成です。
ようやく折り返し地点まで辿り着きました。読んでくださる皆様に感謝です。