つ『その手を離してさよならを告げられるか』 前編
ひとの人生って、一体どこからが始まりで、どこまでが終わりなんだろう。
葉加瀬君麻呂との一件は、俺にそんな事を考えさせた。まるで当たり前のように前世がどうだ、時間が戻る事がどうだと言ってきたけれど――……
俺と姉さんは、どこからが始まりで、どこまでが終わりなんだろうか。
「それじゃ、行きましょう。キミマロ。ハルコ」
「おう。準備できたかー、春子」
「……ん。大丈夫」
だってほら、普通は君麻呂と春子ちゃんのように、今世は今世の知識だけで生きているのが普通な訳だろ?
人の記憶はこの肉体が滅びる事に合わせて無くなるから、『一度きりの人生』なんて表現されるけれど。その『記憶が無くなった魂』がその後どうなるのかなんて、誰にも分かりゃしないことでさ。
きっと、生まれ変わるんだ。
昔はもしも人が生まれ変わっていくなら、どうして記憶が無くなってしまうんだろう、なんて考えていたけれど。
よく考えてみれば、それはすごく幸せなことだ。
「ね、ねえ、お兄ちゃん。いい加減、何を考えてるのか、教えてよ」
「何をって、何が?」
「とぼけないでよ。……急に手術はするなとか言ったり、外に出ようって言ったり……説明してよ」
君麻呂は黙って、外出用の服に着替えた春子ちゃんを抱き締めた。
それはまるで、いのちの音を聞いているかのようだった。
もしも生まれ変わるとするなら、『記憶』なんて、無い方がいいんだということに気付く。
「――手術して失敗したら、それで終わりなんだろ。その前に、ちょっとだけで良いから、一緒に居ようぜ」
今生きている事の悩みや、しがらみや、その他色々なもの。螺旋のように積み上がって、俺や他の人々の人生を形成していくなにか。
もしもそれが永遠に積み上がっていくものだとしたら、人の罪は一生消えないものか?
あるいは、判断を間違えたり、取り返しの付かない事をしてしまった記憶が、永遠に残っていくんだ。
嬉しかった記憶も、やがて過去になり、思い出になって、灰になっても忘れられる事なく、永遠に残っていく。
もう二度と、味わう事は出来ないのに。
それって、幸せな事だろうか。
――そこまで来てしまったら、俺は思うのかもしれない。
『死にたい』。全てを捨てて、一からやり直す事ができたら。
そう考えると、世の中というものは本当によく出来ているのだと実感する事ができた。
「……ん」
春子ちゃんは頬を染めて、ぎこちなく頷いた。病状が病状だからか、病院も思っていたよりは、すんなりとゴーサインを出してくれたように思う。
聞けば、君麻呂の両親は病気で亡くなっていたとのことだ。元々あまり身体の強い一族ではなかったらしい。
二人に親戚はいない。
だから、君麻呂にとっては最後の家族なのだ。
でも今になって、俺はそれを悲しい事だとは思わないようになった。
「じゃ、行こう」
長く生きるか、短く生きるか。
その間に、優劣なんかない。
幸せの定義は、長く生きる事じゃない。
――姉さん。
俺はようやく、姉さんが何を抱えて、どういう苦しみを背負っているのか、分かったような気がするよ――……
◆
街に出ると、久しぶりの太陽の光だと言って、春子ちゃんは大喜びをした。ずっと病院で入院をしていると、太陽の光を浴びる機会はほとんど無くなってしまうらしい。
入院を経験したことのない俺には理解できない事だけど、もしもそうなったら太陽の光に感動したりもするんだろうか。
あるいは、ずっと夜勤で昼間に睡眠を取る生活が続いていたりしたら?
……何れにしても、今の学生の身分ではあまり思い付かないな。
「はい、ハルコ。アイスクリームですわ」
「わー!! 三段!? 食べきれないよ!!」
「ほら、あーん」
「えっ!? えっ!? ……はいっ」
出遅れて、戸惑いながらもレイラのスプーンを咥える春子ちゃん。それを見て君麻呂が、だらしない笑みを浮かべた。
「純。百合って、良いよな。デュフフ」
「……お前、自分の妹にそういう感想を持つの、どうかと思うぞ」
「いやだってほら、金髪美女に寝取られたと思えば、それはそれでオツ――あふんっ」
春子ちゃんの車椅子を押していたはずの君麻呂が、きりもみ状態で横っ飛びに宙を舞う。
レイラのハイキックが炸裂し、そのまま電信柱に激突していた。
「おー……」
春子ちゃんが拍手をして、レイラを称える。……いや、吹っ飛んだのお前の兄だぞ。
レイラは腕を組んで、鼻を鳴らした。
「こんな時くらい、下品な素行を慎みなさい」
君麻呂は額から血を流して、倒れていたが――急に立ち上がると、レイラに敬礼をした。
「ありがとうございます!!」
「……えっ?」
唐突な勢いに、レイラが思わず身を引いた。
君麻呂は敬礼をしたまま、レイラに近付いて行く。
「ありがとうございます!!」
「ちょっ……やめてくださいまし」
……顔が近い。顔が。
「ありがとうございます!!」
「気持ち悪いですわ!! おやめなさい!!」
君麻呂。お前キャラがぶれすぎて、最早全くぶれなくなってきたな。そんなお前を尊敬するよ……
「はー……レイラお姉ちゃんは、綺麗だねえ。本当に良かったの……? うちのお兄ちゃんで」
「この下品な男に今のところ、良い要素など一つもありませんわ」
「いたっ……ちょ、二階堂、痛い。痛い」
……いや、それじゃ駄目だろ。付き合ってる設定なんじゃないのか。レイラは君麻呂の耳を引っ張りながら、すました顔で言った。
高いヒールのせいで、レイラと君麻呂はまるで姉と弟のようだ。
「……でもまあ、ジュンの次の次の次の次の次くらいには、成長を見込んで評価をあげても良いですわね」
その様子に、春子ちゃんがくすりと笑った。反応を確認して、レイラが微笑む。
まあ、これなら仲の良いカップルに見えなくもないか。
「……よう。何してんだ、お前等」
振り返ると、そこにはスポーツバッグを背負った、越後谷司の姿があった。……くそ。相変わらず、かっこいい顔をしやがって。
レイラはなんとも言えない顔をして、春子ちゃんは目を輝かせていた。
君麻呂が般若のような顔をして、越後谷を見る。
「え、エチゴヤァ……何故、こんな所にっ」
「別に、何処に居ようと俺の自由だろ」
「いーや!! お前に自由などないねェ。お前は大にんじん帝国の羊飼いがお似合いだコノヤロー!!」
「……それは一体、日本で言うとどの辺の地位になるんだ」
謎の吹っ掛けと共に、颯爽と越後谷に絡みに行く君麻呂。ジムにでも行ってきたのだろうか。何しろ鍛錬を怠らない男だから、ゼミ以外にも色々とやっているんだろうな。
ふと、俺の袖が引かれた。春子ちゃんが口を三角にして、越後谷を見ていた。
「……穂苅さん。あれも、お兄ちゃんの友達なんですか」
「あ、ああ。越後谷司。まあ、友達っていうか……君麻呂にとっては、ライバル的な感じ……なのかなあ」
君麻呂は振り返り、春子ちゃんに向かって越後谷を指差した。
「見ろ春子ォ!! この俺と勝るとも劣らないイケメンレベルを!!」
差された指を、越後谷が無言であらぬ方向に曲げる。
「グオァ――――!!」
……君麻呂、お前、バカだなー。
「……いや、お兄ちゃん。それは無理があるでしょ」
「ツカサ・エチゴヤと比べてしまったら、神とミジンコですわね」
「グッサ――!!」
春子ちゃんのツッコミに、レイラが補足まで付けた。君麻呂が胸を押さえて、オーバーリアクションと共に地面へと突っ伏した。
……大分、調子が出て来たんじゃないか、君麻呂。良かったな、越後谷がここに来て。
予想外の面子だったからだろう、越後谷は少し面食らったような顔をして、俺とレイラと春子ちゃんを見る。左手から背中に回したスポーツバッグが、越後谷の動きに沿って揺れた。
「……葉加瀬、……妹、か?」
「あ、はい。葉加瀬春子と申します。はじめまして」
越後谷は目を細めて、クールに呟いた。まじまじと眺めると、春子ちゃんが思わず頬を赤くする。
こういう行動がセクハラにならないのは、越後谷ならではだよな。……本人も、そういうつもりは全く無いようだし。
君麻呂がやっていたら、レイラに蹴られている所だ。
「……兄と違って、随分まともだな」
「んだとコラ!! シバくぞコラ!! 柴犬の如く!!」
……君麻呂に会話の主導権を与えていると、埒が明かない。俺は苦笑して越後谷に向かった。
なんだよ、柴犬の如くって。柴犬に謝れ。
「今日は、ジムかなんか?」
「ああ、みの――なんでもない」
「……みの?」
「なんでもない」
……美濃部? なんだよ。何故そこを隠す。別に隠す必要ないだろ。
越後谷は俺と目を合わせない。……少しイラッときたので、越後谷の肩に手を乗せた。
越後谷は俺と目を合わせない。
……このやろう。
「……話せよ、越後谷」
「なんでもない」
「つかちゃんって呼ぶぞ」
「せめてつーちゃんにしてくれ」
そこまでして言いたくないのかよ。……まあ、良く分からないし無理に聞く事も無いんだけどさ。
気になるなあ。みの。……美濃部、だよなあ。瑠璃と揉めているみたいだし、越後谷はきっと気を使ってくれているんだろうな。
――いや。
もう他人事の振りをして、受け身になっているのはやめよう。
美濃部と瑠璃はきっと、俺のことで揉めているんだ。
「それで、これから駅前まで行くんだけどさ。つーちゃんも来る?」
「……アア、イクヨ」
それとなく使ってみたら、越後谷が固まった。どうやら鳥肌が立っているようで、余程気持ちが悪いらしい。
俺はニヤニヤと笑いながら、言った。
「どうしたのつーちゃん」
「……ナンデモネエヨ」
青い顔をして、越後谷は言う。
君麻呂が鬼の首を取ったような顔をして、越後谷に近付いた。
……顔が近い。
「んー? どうしたのかなァつーちゃん? つーちゃんの『つ』って何の『つ』? それはねー、えちごやつかさの『つ』――痛い痛い痛い!!」
「お前は、人を怒らせるのが、本当に、得意だな!!」
君麻呂の脇腹に、越後谷が何度もヤクザキックを喰らわせていた。
そのやり取りに、思わずといった様子で春子ちゃんが吹き出した。
「……あはは……あははは!! お兄ちゃん、もうやめて……あはは!!」
殴り合いへと移行寸前の君麻呂と越後谷が、揃って春子ちゃんを見た。余程おかしかったようで、腹を抱えて笑っていた。
その様子に、君麻呂が心から嬉しそうな顔になって、表情をほころばせた。
「嫌だ。やめない」
君麻呂はずっと、携帯電話を通話状態にして、春子ちゃんに自分の一人漫才を聞かせていた。
春子ちゃんが病院で一人、寂しくならないように。
常に猫背なのも、ポケットに手を突っ込んでいたのも、それをカモフラージュするため。
「……うん。ありがと」
俺も、すっかり騙されたよ。
越後谷は目を閉じて、半ば呆れ混じりといった様子で微笑んだ。
――あ、そうか。越後谷が「つーちゃんにしてくれ」なんて何事かと思ったけど、場の空気を読んだだけか。
……このイケメンめ。
「さ、ツカサ・エチゴヤ。結局、わたくし達に同行しますの? しませんの?」
「まあ暇だし、付いて行ってやっても良いぜ」
「アアン!? てめーは来なくて良いんだよ!!」
「行く」
「痛っ!! 痛い!! ちょっ、お前本気……ごめっ、ごめ、なさっ……」
越後谷に蹴られ続ける君麻呂が、ふとビルの屋上を見て、表情を変えた。釣られて俺も、君麻呂と同じ方向を見る。
……ビルの屋上で、何かの撮影をやっているようだ。あれは……ニュースか何かだろうか。スーツを着た女性がマイクを持ち、何やら下界に手を広げて喋っている。
それを見て、君麻呂は目を見開いた。
「……何ですの? 撮影?」
「街角なんとか、とかいう名前の、昼間にやってる中継番組だな。ランチのうまい店とか、人気のグッズ屋なんかを中心に、毎週やってる番組だよ、たしか」
レイラの問いに、越後谷が補足した。
なるほど、そういう類の番組か。確かに、休日なんかにはよく見る――でも、それが一体なんだと言うのだろう。
「――越後谷、わりい」
「あ?」
「俺、お前より先にデビューするわ」
何を言っているんだ、と思ったのも束の間。君麻呂はビルに向かって、一直線に駆け出した。
「おい、君麻呂?」
俺が声を掛けると、君麻呂は振り返り、余裕もなく、俺に指を突き付けて叫ぶ。
「――純!! 愛は!! 速度だろォ!?」
それは俺じゃなくて、姉さんの言葉で――
君麻呂はそれきり、俺達に背を向けて走って行った。