つ『2つの目的は1つの解決策を得るか』 前編
「……な、何言ってんだ。何かあったのか?」
電話越しに、震える声が聞こえてくる。九月十七日、午前二時。このタイミングで時を戻すと、九月十五日、土曜日の朝に戻る。
土曜日の朝といえば、俺とレイラが初めて春子ちゃんに会った日に戻るということ。手術をどうするかと告げられて、思い悩む一日だ。
君麻呂には、やり残した事がある。
そして俺も、時を戻す事に意味を確立させようとしていた。
「春子ちゃんは、手術に失敗したのか?」
寝室を出て、姉さんを起こさないように扉を閉めた。
今ここで姉さんが起きれば、また俺は見境なく襲われる可能性がある。……時が過ぎるごとに悪化していく姉さんが、次はバケツの水程度で目を覚ますのかと言われたら、あまり期待は出来ないと思う。
それを考えると、残された時間は少なくなっていると思って良いだろう。
俺は淡々と、そう言った。
「……そうだよ。駄目だった」
ベランダに出ると、夏を過ぎた、少しだけ涼しいと感じられる風が通り過ぎていった。雲の隙間から顔を出した月は、また一時的にその表情を隠そうとしている。
眠っている姉さんが、俺の後を追って死ぬことはできない。
――気持ちが固まるよりも早く、俺は行動していた。
「後悔、してるか?」
「……わかんねえ。もう、わかんねえよ。結局俺は春子に何もしてやれなかったとか、そんな事ばっかり頭に浮かぶんだ。手術が失敗すると分かっていたら、残された何日かの時の中で、春子の望みをいくつか叶えてやる事が出来たんじゃないか、とか」
くしゃり、と何かが擦れる音がした。君麻呂が携帯電話を握り締める音だろうか。
「失敗するかどうかなんて、誰にも分からないのに、さ」
――そう。
手術が失敗すると分かっていたら、残された寿命を蔑ろにして手術を選ぶなんてことは、誰もしない。当たり前だ。それは自殺をする事と、大差無いことなのだから。
だが確実に死ぬと分かっていなければ、その数パーセントの少ない可能性に賭けることは、なんら不自然じゃない。
それだけ、人は生きる事に必死なんだ。
何のため?
――――愛する人のためか?
「君麻呂。ひとつ、提案したいことがあるんだ」
「……提案?」
背の高いマンションのベランダから、俺は夜景を眺めて言う。夜の街は眠らない。今日は月曜日でこれから学校や仕事に向かう人々が何人も居るはずなのに、相も変わらず高速道路は車が走り、店の看板は光り輝いている。
――決して、俺は君麻呂と春子ちゃんの都合の良いように、未来を変えたい訳じゃない。
俺は、俺の目的のままに、君麻呂と共同戦線を組むだけだ。
「前に言ったよな、俺は時を戻せるって。今日時を戻すと、九月十五日の朝――つまり、春子ちゃんが手術を決断する前に戻るんだ」
君麻呂は無言でいた。
俺の言っている言葉の意味を、理解したのかもしれない。
「……だって、そんな事をしても、春子は」
「分かってる。別に春子ちゃんの病気を治せる訳じゃない。……ただ、今ここで手術を決断するよりは、いくらかの時間を手に入れられるはずだ」
その時間の中で、お互いにケジメを付ける事だって、出来るはずだ。
本来ならば何も解決する事なく、悲劇のままに終わる予定だった君麻呂と春子ちゃん。それを覆す事が出来る。
「……正気か?」
「勿論、本来は君麻呂の目的のために時を戻す事は出来ない。だから、俺は俺の目的のために時を戻す。君麻呂、お前にそれを協力して欲しいんだ」
「どうすれば良いんだよ」
「今から、俺の家に来てくれ。電車は無いから、タクシーで。一時間もあれば着けるだろ」
「タクシーって、そんな金」
「大丈夫だ。今日、時は戻る。金なんか使った内に入らない」
君麻呂はまだ、俺が何をしようとしているのか、完全には理解出来ていないようだった。まあ、とにかく来てから事情を話すしかないだろう。
今この場で電話を通して話をしていても、埒が明かない。
「……で、できるのか? そんな、ことが」
少し、しっかりとした根拠を残しておかないとな。
「君麻呂、お前もどこかで覚えているんじゃないか? 『I shall never survive you』は、俺が時を戻す前に使ったキーワードなんだ」
「あ、ああ。それは……」
はっきりと、言葉を意識して口に出した。
「――越後谷司が、事故に遭って死んだ日だ」
俺は君麻呂の返事を待たずに、電話を切る。
とにかくこれで、君麻呂は俺の家に向かうしかなくなるはずだ。曖昧に残った記憶の欠片を俺が真実にする事によって、君麻呂は俺の言葉を信用するしかなくなる。
そもそも、ケーキの存在だって把握されているんだ。そうと決まれば、君麻呂はここに来るだろう。
そこで、時を戻そう。
算段は、付いている。
◆
君麻呂はきっかり一時間の時を経て、俺の家に現れた。ケーキはおろおろと辺りを飛び回っている。
インターフォンは鳴らないようにしていた。俺は黙って玄関扉を開き、外に出た。
中に入ろうとしていた君麻呂に、俺は首を振って応答した。
まだ、中では姉さんが寝ている。起こしてしまったら、その後が大変だ。
音を立てないように意識して扉を閉め、俺は扉を背にして君麻呂と向かい合った。
「純さん……本当に、時間を戻すのですか」
「……ああ。やるしかない」
「でも、死ぬことは……」
「分かってる。でも、あのままの姉さんを放っておく訳にもいかないだろ」
ケーキは気まずそうな顔をして、俺から目を逸らした。
……何だ? やけに消極的だな。姉さんの翼を見た時点で、もう俺には時間を戻す以外に選択肢は無いと、気付いている筈なのに。
薔薇の香水があれば姉さんは暴走するが、また変身されてしまっても困る。今回もシルク・ラシュタール・エレナに隠して貰えるとは限らないし、状況は変わってしまう可能性がある。
ともすれば、やはりレイラよりも君麻呂だったのだ。
「さっぱり話が、見えないんだけど」
君麻呂は俺とケーキのやり取りを聞いて、怪訝な顔をしていた。
端から見たら、気が狂った人間が一人で会話をしているようにしか見えないだろう。ケーキが見えている君麻呂には、その限りではないだろうが。君麻呂はきょろきょろと辺りを見回して、誰も居ないことを確認していた。
「まず、君麻呂に言っておかないといけない事があってさ」
「……な、なんだよ」
「時を戻すためのルールは、俺が死ぬこと。それから、姉さんが俺の後を追って死ぬこと、なんだ」
君麻呂は目を見開いて、俺の言葉を聞いていた。
そう、『I shall never survive you』のくだり、そのままだからだ。
これで君麻呂も、当時の俺が一体何を追いかけていたのか、気付いたのではないだろうか。
「じゃあ純、俺に『魔法を使える訳じゃない』なんて言ったのは……」
君麻呂の言葉に、俺は微笑んだ。
「そ。……あんま、良いもんじゃないんだ。ごめんな」
「何となく、分かってはいたよ。だからお前に、無理に頼む事もしなかったし、さ……」
結局、察しが良いのだ。時を戻すなんていう発言が出ているのだから、俺にとっては春子ちゃんの手術は容易に試す事が出来るということは、君麻呂も気付いていた筈だしな。
俺は春子ちゃんとの面会の間、そして病院を出てからも、一度も君麻呂に『時を戻せばいい』とは言わなかった。
それが簡単に起こせる事ではないと、君麻呂は気付いたのかもしれない。
君麻呂が本当に普段のように、空気の読めない発言ばかりを繰り返す馬鹿なら、絶対に俺に頼み込む筈だ。そうすることで、春子ちゃんにとっての『最善』が選べるのだから。
結局の所、こいつも頭の回転が速い奴なのだろう。
「でも、戻す。そのためには、君麻呂に頼まなきゃいけない事があるんだ。……協力、してくれるな」
「協力って、何を――……いや、マジか」
俺は頷いた。
「ここで俺を殺して、それから姉さんを殺してくれ」
今の姉さんに、正常な判断を求める事は難しい。そうでないとするなら、今寝ているこの瞬間を襲う事が最も都合が良い。
包丁で刺された程度で姉さんが死ぬかと言われたら、それは分からないが――仮にも人体の急所だ、超人の姉さんだって簡単に生き残る事は出来ないはずだ。
どの道、俺が死んでから目を覚ませば、姉さんは俺の後を追って死ぬだろう。
「……そんなもん、このマンションから飛び降りれば済む、話じゃないのか」
「ああ、俺はそれでも良いよ。俺が死んですぐに、姉さんに発見されない可能性があることが問題なんだ」
一体、俺が死んでから姉さんが死ぬまでの間にどれだけの猶予が許されているのか、まだはっきりとしていないからな。
それを言ってしまうと、どうして時が戻るのかという事もよく分かっていないのだけれど。
姉さんが暴走する原因も、薔薇の香りのせいだと確定はしていない事だしな。
だが一つだけはっきりとしていることは、俺が死んだ後に姉さんが死ぬ事で、時は戻るということ。
これは、越後谷の時に試した。
「でも、飛び降りる前に姉さんが目を覚ましたらとか、色々考えちゃってさ。できれば姉さんの目の前で死にたいんだけど、自分で死ぬ自信がなくてさ」
未遂で終わってしまったら、全てがおしまいだ。確実に死ななければならない。
「……そ、そんなもん、俺にだってできるかどうか……」
「心臓を刺してくれ。自分が痛い訳じゃないんだから、できるだろ」
俺は、自分の胸を叩いた。君麻呂が恐怖に足を竦ませるのを、じっと見ていた。
「交換条件だ。俺の心臓を刺す代わりに、俺は時が戻ったら君麻呂に、手術は成功しないと教える」
俺を殺した後、速やかに姉さんを殺す。そうすることで、時が戻る。
君麻呂が乗ってくれなければ、俺は自分でやるしかないのだが――……
大分、怯えているな。人を殺したことなんて無いのだから、当たり前か。しかもそれが、自分の知っている人間ともなれば。
「大丈夫だ、君麻呂。時は戻る」
「……お前は、そうかもしれないけど。……お、俺は、どうなるんだ」
もう一つの未来、ってやつか。確かにそれも、少しは考えた事がある。でも、多分そういう戻り方はしないのだろうと思った。
「ほら、越後谷が死んだ時のこと、覚えてるだろ。思い出せないか?」
「んな事、言われても――」
君麻呂は、目を見開いた。
――やっぱり、意図して聞けば、記憶は出て来るんじゃないか。
「……そうだ。ゼミに来ない日があった。……それ、だよな。休む筈のない越後谷が、ゼミを」
「そう、それだ」
――いける。
俺は玄関扉を開き、君麻呂を中に入れた。暗闇の中を、二人で歩く。台所から包丁を取り出し、俺は寝室へと向かった。
はは、まるでサスペンスドラマの犯人役だな。最も、事件を起こすのは俺ではなくて、君麻呂だが。
寝室の扉を開き、中へと入った。
「――あっ!! ――ああ!! ――ぐ、うっ――」
姉さんは既に、感じている様子ではなかった。ただ、苦しみ悶えているといった雰囲気だ。
「……なんだ、これ」
君麻呂がぼやいた。俺は黙って、姉さんのシャツを捲り、君麻呂にその背中を見せた。
小さな黒い翼は、明らかに大きくなっている。
やっぱり、俺がここに居るせいだろう。何度も時を戻す中で、姉さんの状態はどんどん悪化していたんだ。そしてそれは、俺と一緒に居ることで進むのだろう。
だったら、この二日間を無かった事にして、それから――俺のやることは、決まっている。
「まさかこれ、黒い髪に、なるのか」
大分、思い出してきたみたいだな。まあ、その記憶もこれから無くなるんだけど。
俺は包丁を、君麻呂に手渡した。仰向けに寝転び、攻撃を迎え入れる準備をした。
「――頼む」
震えているのだろう。しゃくり上げるような声が、君麻呂から聞こえてくる。……こういう役は、もしかして君麻呂よりも越後谷の方が良かったのだろうか。でも、越後谷は時を戻した後に全てを思い出しそうだしな……。
瑠璃、美濃部は論外だし、レイラだって難しそうだ。杏月も――とにかく、女性には頼めない。
とすると、やはり君麻呂か。
「……し、信じるぞ、純。……ホントだな? ……本当に、時間は戻るんだな?」
「そうだよ。ちゃんと、俺と姉さんを殺してくれれば、大丈夫だ」
ケーキが苦しみ出した。その様子を見て、俺は間違っていないのだと確信を得る。
大きく深呼吸をした。
少しでも抵抗すれば、君麻呂が恐怖して逃げ出すかもしれない。
――確かな、覚悟を。
「やってくれ」
瞬間、姉さんの翼が大きく広がった。君麻呂がそれを見て、蒼白になる。
君麻呂が錯乱気味に、こちらに向かってくる――……
俺は、目を閉じた。
「――――うわあああああ!!」
胸に走る激痛に、自分の意識が遠のいていくのを感じる。
――――あれ?
俺は、目を開いた。
痛く、ないぞ。
……まさか君麻呂、……失敗、したのか?
まさか、そんな筈は。
身体は動かない。仰向けに寝転がり目を閉じたままで、俺の胸から真っ赤な血が流れている。
……あれ? 『真っ赤な』血?
俺は、俺を見ている。……これは、俺の視点じゃない。
君麻呂が俺を見て、ガチガチと歯の根を震わせていた。
「ば、化物……!!」
俺は左手で君麻呂の首根っこを掴み、壁へと押し付けた。そのまま、壁に君麻呂の身体がめり込んでいく。
君麻呂は意識を失った。
――――え?
やばい。
やばいだろ、これは。何してるんだ、俺。何で俺が、君麻呂を攻撃するような事を。
「――――がっ、――があああああ!!」
あっ。
これ、俺じゃなくて、姉さ
◆