つ『擦れ違いは人を引き寄せるか』 前編
一度だけでいい。俺にも、魔法をくれ。
君麻呂はそう言って、俺の肩を掴んだ。その表情は真剣そのもので、俺の隣で不安そうに様子を見ているケーキの事も、把握しているようだった。
……ずっと、ケーキのことは見えないつもりになっていたのか。確かに、特に説明もされなければ自分がおかしな幻覚を見ているのだと思っても不思議じゃない。
君麻呂は地べたに手を突いて、俺とケーキに向かって頭を垂れた。
その必死さは、決して見ていて気分の良いものじゃない。
「お願いします!! リスクがあるなら、俺がどうなっても構わない!!」
俺だって、病気が治る方法があるなら協力してやりたいよ。
……でも、そういう訳にはいかないんだ。
「……すまん、君麻呂。お前一つ勘違いしてる」
君麻呂は頭を下げたまま、微動だにしない。夏の夜風が、一部だけ青い茶髪を撫でていた。こんな車通りも多い道のど真ん中で土下座なんかしているもんだから、通り掛かった人は君麻呂と俺を見て、怪訝な表情を浮かべて去って行く。
こんなことは、あまり言いたくないが。
「俺は、『魔法』を使える訳じゃない」
地べたを向いていた顔が上がる。それは何か、俺の真偽を図るような瞳だった。
「俺ができるのは、最大三日前に戻ること。……他には、何もできないんだ」
間違っても、人の病気を直したり、延命させたりできるような能力じゃない。融通は利かないし、俺の意図しない場所で時間の逆転が起こったりもする。
便利な能力なんかではない。寧ろ、厄介な呪いとでも言うべきだ。
君麻呂は俺の言葉の意味を把握し、何度か反芻しているようだった。……だが、程なくしてその場に座り込み、頭を垂れた。
「……そうかあ」
駄目で元々、のつもりだったのだろうか。ケーキが君麻呂の思っていた通りの『幻覚』なら、もしかして変な奴だと思われるかもしれない。そうでなくても、俺は君麻呂の事を頭がおかしくなったと思うだろう。
初めから俺に、過度の期待をしていた訳ではなかったのだろうか。
君麻呂は取り落とした花束を抱え、立ち上がった。
「すまね、純。変な事言って」
「……ああ、いや」
そんな事は、どうでもいい。ただ、君麻呂は常に必死で、どうにかして妹の病気を治そうとしている。
それだけは、痛いほどに伝わった。
「ちなみに、そこの妖精は本物?」
「……妖精ではありません。神の使いです。……ケーキといいます」
居た堪れなくなったのか、ケーキは特に俺の問題には何も関係しない筈の、葉加瀬君麻呂に自己紹介をした。黙っていれば幻覚として扱われたかもしれないのに、だ。
君麻呂は目を閉じて、軽く笑った。
「――明日、春子に手術を勧めようと思ってる」
一体病室から逃げ出してから、どれだけの時間を使って悩んでいたのだろう。
今までどこにいて、何をしていたのだろうか。
「例え数パーセントでも生き残る可能性があるなら、それに掛けてみた方が、春子の為じゃないかと思うんだ」
一体どの程度かは分からないが、手術をしなければ少なくとも、ほんの少しの間だけは生きる事ができる。だが、手術しなければいつか、確実に死ぬ。
手術をして生き残る可能性は高くはないが、もしも成功すれば春子ちゃんは治る。
それは、難しい選択だ。
「……どうして、今まで手術を試さなかったんだ」
「あんまり、成功確率が高い手術でも無いらしくて。体力があれば良いってもんでも無いらしいんだ。まだ、その治療を出来る医者さえ、そう多くないみたいな感じらしくて」
君麻呂は近場の公園を指差した。歩き出したので、俺も君麻呂の後に続いた。夜の公園に人気はなく、黒い猫が俺達を一瞥して、さっと何処かに消えた。
ベンチまで歩くと、俺と君麻呂はそこに座る。
どこかで、物寂しげに鳴く虫の声がした。
「何か他の方法で生き残る事ができるなら、そっちを全部試してからの方が良いんじゃないかと思ったんだよ。春子もそう考えていたし……でも、なんか手術以外の方法では、どんどん悪くなっていく一方でさ」
「……そか。まあ、そうだよな」
失敗すれば死にます。試しますか? と言われて、あっさり踏ん切りを付ける人間はそう多くはないだろう。自分がいつ死ぬかが分からなければ、それを試すことも無いのかもしれない。
だが体力だけの問題ではないとしたら、君麻呂と春子ちゃんの選択肢は間違っていなかったのかもしれない。
例えその間、病院でしか生きる事が出来なくても。
「今ここまで来て、『ああ、ここまで来たんだな』って思っちゃったんだよな。……それで、昼間はなんかどうにもやり切れなくなって。……ごめん」
「いや、いいよ」
そういう事だったのか。君麻呂は別に、春子ちゃんの今の状態に背を向けた訳ではなかったんだ。
初めから、手術をする事は頭の中に入っていたのか。
君麻呂は手に持っていた、花束を見た。そこには色とりどりの花が、君麻呂の方を向いている。
何故か、その花を見ていると元気が出るような気がした。
「マリーゴールド。サネカズラ。アロエ。棗。ハゲイトウ。ベンケイソウ。……これだけあれば、きっと奇跡も起こせると思ってるんだ」
花言葉に関係するのだろうか。おそらく、そうなのだろう。その花の内容については、俺には分からなかったけれど。
君麻呂は、心からそう信じているようだった。
「明日、春子に届ける。……そして、手術をするんだ。春子は病院から出るんだよ」
病院を出て、元気に外を歩き回るか。病院を出て、棺桶に入るか。
それがどちらに転ぶのかは、まだ誰にも分からない、なんて。益体のないことを考えてしまった。
君麻呂は花束を握り締めて、それを――ケーキに向けた。
「ふえっ!?」
「――お願いします。……神の使い、なんだろ。届けて欲しいんだ。どうか、春子を助けてやってください。……お願いします」
何度も、願を掛ける。
元より、君麻呂に出来ることは祈ることくらいだった。だから春子ちゃんの病室にあった花瓶には、沢山の花が生けてあったんだ。
ケーキは何も言わない。君麻呂は立ち上がった。
どこか、満足そうな顔をしていた。
「サンキューな、純。きっとこれで、大丈夫だ」
「……君麻呂」
「大丈夫だ。……春子は、大丈夫。きっと、奇跡は起こる」
何度も、自分にそう言い聞かせて。
「じゃあな」
君麻呂は、公園を出る。
「――明日、俺も行くよ」
その言葉を、君麻呂は背中で受け止めた。振り返って返事をする代わりに、花束を振って返事をした。
不器用な男だと思う。
「……ごめんなさい、純さん。神様は、人の病気を助けてはくれません。神様の仕事は、人を救う事ではないですから」
「ああ。分かってるよ」
あるいは長い時間の中で、もしも人々を監視している神様が人間に変化を起こせるなら、この世に病気は存在していない。
それはきっと、世界を回す上で重要な事なんだ。誰がどれだけ生きるのか、生きれば幸せなのかという問題について、一度の人生だけで考えてはいけないのかもしれない。
姉さんと俺に、前世の問題があるように。
だから春子ちゃんがここで、この人生に決着を付ける事は、何も問題ではないんだ。
……そうだろうか。
「俺も、今回は時間を戻すつもりはないよ」
例え、手術に失敗したとしても。時間を戻して何度試したって、同じ事が起こるはずだ。
手術をする医者を、次々に変えてみるか? いつか当たりを引けば、春子ちゃんを助ける事が出来るだろうか。
……いつ死ぬのかも分からないのに?
春子ちゃんは自分がいつ死ぬのか、俺達に話さなかった。
それは自分自身も分かっていないのか、あるいは――話すことが出来ないほど短いのか、どちらかだ。
何度も殺す訳にはいかない。時を戻す事には、リスクがあるんだ。いつか、自分が何度も死んでいる事に気付くかもしれない。
君麻呂がケーキの存在に気付いたように。
◆
九月十六日、日曜日。
俺は再び、葉加瀬春子の入院している病室まで来ていた。
姉さんは今朝も様子がおかしかった。俺はすぐに家を出る事で、姉さんと鉢合わせる事を回避した。
家から出ている時は普通なのに、俺の近くに寄ると様子が変わる姉さん。前からその兆候はあったが、最近はどんどん悪くなっている。
……春子ちゃんの病気と同じだ。知らない間に、どんどん悪くなっていく。
だが、俺にどうにかできるとも思えない。
時刻、十時。……一応面会時間の範囲内みたいだけど、君麻呂はこんな時間に現れたりはしないだろう。深夜はバイトをしているみたいだし。
「あれ? 純さん、あれって……」
ケーキに言われて、俺は後ろを振り返った。
タクシー乗り場に、黒塗りの車が一台、高速で走ってくると急停止した。
……あの車、確か。
「全く、九月も半ばの朝だというのに、暑いですわね」
車の中から、背の高い女性が顔を出す。俺の顔を見ると、驚きに目を丸くしていた。
「……あら、ジュン。どうしましたの?」
「お前こそ、どうしたんだよ」
二階堂レイラは俺の下へ駆け寄ってくる。俺が聞くと、レイラは少し恥ずかしそうに腕を組んで指を動かしながら、そっぽを向いた。
「別に、気になった訳ではありませんけど? 昨日のキミマロ・ハカセがあまりに不憫だったので、少しだけ様子を見てあげようと思っただけですわ」
……気になったなら、気になったと言えよ。
しかし、春子ちゃんの病室に行くのが俺一人ではなくて、助かった。少しだけ入り難い空気はあったんだよな。レイラが来てくれた事で、いくらか俺も背中を押されたような気持ちになった。
「行こうか」
再び、昨日と同じ場所に入った。朝方の病院には既に沢山の人が居て、改めて眠らない施設なのだということを確認した。
俺とレイラは一直線に、春子ちゃんの病室を目指す。
まだ、君麻呂を見ていないけど。ま、いいか。先に会って、それから君麻呂を待てば――
「いい加減にしてよ!!」
……なんだ? 春子ちゃんの病室から、何やら大きな声が聞こえた。
俺とレイラは顔を見合わせ、そして――急ぎ足で、病室へと向かう。
春子ちゃんの病室の前まで辿り着くと、何かが割れる音がした。
扉を開いた。
「――あっ」
春子ちゃんは立ち上がり、息を荒らげていた。……既に病室には、君麻呂がいた。君麻呂は無言で、春子ちゃんの方を見ている。俺とレイラが扉を開けて入ったのに、こちらには見向きもしなかった。
君麻呂の隣には、投げられた花瓶が――……
そこにあるのは、昨日君麻呂が持っていた花じゃないか。
春子ちゃんは俺に気付いて、顔を背けた。
「私の気持ちも知らないで、馬鹿なことばかりして……もう、手術しかないって言われたの。だから、花なんて持ってこないで」
「どうして?」
「まるで私が、これから死ぬみたいじゃない!!」
君麻呂は落ちた花を集めて、もう一度、春子ちゃんに渡した。
その手は、思い切り叩き落とされる。
怒ることもなく、君麻呂は春子ちゃんを見ていた。
「死なない。……これは、生き残るための願掛けだ」
「こんな時に神頼み!? お兄ちゃんはいつもそう。やることがいっつも的外れで、何の役にも立たなくて」
春子ちゃんは泣き喚いて、君麻呂の頭を殴った。
……錯乱している事くらい、俺にも分かった。そっと、病室の扉を閉める。
これから手術をする事に、絶望を感じているのかもしれない。
「私、ずっと恥ずかしかった。……今度はテレビに出るって? 私、お兄ちゃんがあんまりに頼りないから、もっとしっかりしてくれって言ったつもり」
「そうだよ。だから、その通りにしようとしてる」
「違うよ。お兄ちゃんは全然分かってない。テレビなんかどうでもいい。電話の向こうで、いつも何してるの!? 全然面白くない。三流芸人みたいなことして」
「人と話したいって、言ってただろ」
「そういう事じゃないでしょ!?」
どうしてそこまでして、妹の願いを叶えようとするのだろうか。
いつもやり口は強引で、理屈に沿っていない。
「――私、死ぬんだよ? そっとしておいてよ」
君麻呂は、落ちた花を再度手に取った。
顎を引いて、決して騒ぐ事をしない。……あれだけいつも騒いでいる男が、こんな時に限って冷静だった。
そこに、何故か背中の大きな――そう、兄の姿を感じた。
「馬鹿でもいい。春子、お前は死なない」
君麻呂は、ポケットから眼鏡を取り出した。……そういえば君麻呂は昔、眼鏡を掛けていたと言っていた。
ポケットから取り出したそれを、君麻呂は地に落とす。
いつも履いている運動靴で、ぐしゃりと潰した。
「俺は信じる。馬鹿だからな」