つ『繰り返す時に希望を見出すか』 後編
その日の夜、俺は瑠璃に電話をすることにした。
『……そうなんだ。そんな事が、あったんだね』
「だからさ、君麻呂の心を開かせようとは、思うんだ。その時に、快く皆で迎えてやりたいなって」
『うん、良いよ。そういうことなら。りっちゃんにも言っておくよ』
理想の兄貴像、か。
なんだろう。いつか俺も、姉さんにそんな希望を抱いた事があっただろうか。考えてみれば、俺もずっと姉さんは普通の姉ではないと、一般的に見て異常だと思い続けてきた。
健康な時の葉加瀬春子にとっての葉加瀬君麻呂とは、理想の兄貴ではなかったのかもしれない。いや、春子ちゃん自身に『健康な時』というものが過去あったのかどうかは、俺には分からないけれど。
『なあなあで、なんとなーく浮ついた感じで、一緒に始めてるもんね』
「ま、今のところはただの変な奴である事には変わりないからな」
『あはは』
でも春子ちゃんの考えはどうあれ、君麻呂は春子ちゃんの事を心から想っているようだった。元からきっと、大きな心の支えだったのだろうと思う。
……テレビかあ。テレビねえ。
それに出たからといって、何がどう変わるわけでもないと思うけど。春子ちゃんにとっては思い付きで言った事でも、君麻呂にとっては大きな何かがあったのだろうか。
本人、覚えてもいないようだったが……
『でも、なんか訳ありな感じでほっとしてるよ。実は私、今の葉加瀬くん、あんまり得意じゃなかったんだ』
「それは多分、君麻呂も理解してると思うよ」
『えっ……』
「瑠璃だけじゃなく、多くの人が苦手だと思ってるんじゃないかな」
ちゃんと話とか、出来ないもんなあ。元が人見知りだったとするなら、きっとそれも影響しているんだろう。
ああやって、よく分からない仮面を被らなければ、人と話をする事が出来ないのだ。自分の事を知られるのが怖いから話さないんだろうし。
過去に普通に接していて、失敗した経験があったから。
そう考えると、なんだかなあ、と思う。
「純さん!! 純さん、ちょっと!!」
ケーキが呼んでいた。……何だろう。何かあったのだろうか。
「あ、ごめん。そろそろ夕飯だから、切るね」
『あ、うん。ありがとう、純君。私、ちょっと考え直す事にするよ』
「まあ、そうしてくれると嬉しいよ。それじゃ」
テレビ、役者、髪の毛。携帯電話。やっている事がいちいち的を外れているというか、空回りし過ぎだ。そんな事をするくらいなら、普通に妹と居る時間を増やしてやれよ、と思う。
役者を始めて、アルバイトをして、その間は家族とは会えない訳だろ。
……よく、分からんなあ。君麻呂が何を思って、そんな事をしているのか。
俺はベランダから戻り、キッチンへと向かった――……
「――姉さん?」
火が点いたままのコンロ。
魚が焦げても、なお熱し続けるフライパン。
エプロン姿のまま、キッチンに倒れている姉さんがいた。
「姉さん!? 大丈夫!?」
「純くん、すとっぷ」
伸ばしかけた手を、すぐに引っ込めた。
――何だ? 顔を真っ赤にして小刻みに痙攣している姉さんは、股の辺りを抑えて浅い呼吸をしていた。
もしかしてこれは、また……
「んっ――!! 純、くん、火、とめ、て」
「……あ、ああ、はいはい」
慌てて、ガスコンロの火を止める。一応フライ返しで魚のムニエルを裏返すが、既に真っ黒で食べられる段階ではなさそうだ。
ケーキが呼んでくれて、助かった。もしかしたら、家から小火が起こっていたかもしれない。
しかし――
どうしてしまったんだ、姉さんは。
いつも、そうだった。ある時突然発情して、俺に襲い掛かるなんてよくある事だった。
でもこれは、普通じゃない。
今までと比べても、明らかに。
額から流れ落ちる汗の量が、レベルを超えている。
「……大丈夫? ベッドで寝てる?」
俺は今一度、姉さんに聞いた。だが姉さんは、目を固く閉じて何かに耐えるばかりだ。
……風邪、みたいなものなんだろうか。
だったら、解熱剤とか……効くのかな。どうなんだろう。
「――はっ、――はっ……」
あんまり洒落になっていない。冗談抜きで辛そうだし、呼吸困難に陥っている。……どうにかして助けてあげたいが、俺が触ると酷くなるんじゃどうしようもない。
どうしたら――
考えている間に、俺の視界が反転した。足をすくって転ばされ、間髪入れずに唇が重なる。
「んぐっ!? ……んっ!!」
あ、あれ?
つい先程まで耐えていただけの姉さんが、俺の両腕を拘束して獣のような瞳で見ていた。興奮しているのか息は荒く、何より押さえ付ける姉さんの手が熱い。
これは一体、どういう状況で。
「純くん、一生のおねがい。……しよ?」
あ、あれっ? おかしいな。ついさっきまで、そんなモードじゃなかった筈なんだけどな。
まいったな。油断してたなー……
「し、しない」
「一回だけで良いから。……じゃないと、もう壊れちゃう」
……目がマジだ。
姉さんは俺に馬乗りに跨ったまま、背中に手を回した。いや、大丈夫。今日は裸にエプロンじゃないし、そんなもの外されても――……紐を解き、はらりとエプロンが俺の胸に落ちる。
挑発的な流し目を送られ、姉さんは俺の右手を掴んで口元に持って行った。
「――――わっ!?」
人差し指を咥える。
目を閉じて、姉さんが俺の人差し指を食べる。く、くすぐったい!! そしてそれ以上に、これは――
――やばい。心臓の鼓動が大きくなってきた。
わざと俺に見せるように、扇情的な様子を見せつける――ちょ、ちょっと待てって!!
こんな体勢じゃあ、抵抗しようにも……
「ね、姉さんっ!! ストップ!!」
俺は強引に指を引き抜いて、姉さんの行動を止めさせた。
「……むー」
少し不機嫌になった姉さんは俺の胸に落ちたエプロンを背後に投げ、自分のシャツに手を掛けた。……マウントポジションを取られている格好では、顔を背ける事すら難しい。
せめてもの抵抗として、目を閉じる。
い、いつ目が覚めるんだ。ケーキはどこに行ったんだよ。
さっきまでここに――あ、そうか。また、バケツに水を汲みに行ったのかもしれない。
布の擦れる音がする。
頼む、早く来てくれ……!!
「純くん。目、開けて」
姉さんが、優しく俺の頬を撫でる。
ゆっくりと、目を開いた。
「――好きよ」
官能的な声音に、頭がくらくらする。柔らかい唇は至近距離まで迫り、啄むように鼻の頭に触れた。
……段々と、抵抗する気力が無くなってくる。
もう、良いんじゃないか?
どこかで、誰かが囁いた。
「純くんは私のこと、キライ?」
「……嫌い、なんかじゃ」
ない。
好きなんだろう?
だから、姉さんと似た人を選ぼうとした。しっかりしていて、未来を見通す力を持っている人を。
結局、どれだけ抵抗しても、お前はキョウダイである姉さんの事を愛しているんだよ。
そうなのか?
違う。愛してはいるけれど、それはキョウダイとして、家族として、だ。俺が姉さんを選ぶ事はないし、俺達の関係は呪われている。
俺が姉さんを選べば、姉さんといつか心中する事になる。
――それでも。
白く、細い腰に触れた。
「――んっ」
姉さんが喉に掛かったような、湿った声を出す。
良いんじゃないか? それでも。
これだけ愛される事など、きっと生涯掛けても無い出来事ではないかと思う。世の中には星の数ほど一人で生きている人が居るのに、俺は生まれながらにして隣に居る人に触れることができる。
それは、凄い事じゃないか。
抵抗する必要なんてない。時が来たら一緒に死んで、俺達は永遠に愛し合えば良いじゃないか。
好きなように――――
「純、くん」
ざばん、と大きな音がした。
――水の音。
瞬間的に俺は覚醒し、姉さんの束縛から逃れる。気が付けば四つん這いになっていた姉さんから逃げるには、身体を上にずらせば済む話だった。
俺、今、何を。
「純さん!!」
上半身裸になった姉さんが、唐突な出来事に固まっていた。俺は立ち上がり、すぐに姉さんを擦り抜けて、背中を見た。
「……ご、ごめん、姉さん。やっぱり姉さん、熱があるみたいだよ。……薬、買ってくる」
姉さんは自分の痴態に気が付いて、咄嗟に旨を隠した。顔から火を吹いたのか、うなじは火傷でもしたかのように赤い。
――見ていると、気が狂いそうだ。
きっと、姉さんも同じなのだろう。
俺は逃げるように部屋を出て、玄関扉を開いて外に出た。
「――やっぱり、あれも姉さんの『暴走』なんだ」
気持ちを落ち着かせるためにそう呟いて、俺は走ってマンションから逃げ出した。
もう一歩、後一歩で、俺は取り返しの付かない過ちを犯す所だった。何を考えていたんだろうか。どうして、自分自身でバッドエンドに直行するような事ばかり考えてしまうんだろう。
姉さんに近付くと、俺にも変化が訪れる。
酒を飲んだ事がないので分からないが、これを『酔っ払う』と表現するのだろうか。
思考力や判断力が鈍り、本能のままに行動してしまいそうになるのだ。
――姉さん。綺麗だった。
俺はもう一歩で――
「馬鹿野郎!!」
自分に向かって、叫んだ。
思考を掻き消すように、夜の街を走る。
杏月にあんな事を言っておいて、なんてザマだ。弁解のしようもない。
俺は家族には、手を出さない筈だろ。
何を言われても。
気のせいだ。
何かに取り憑かれたかのように、俺は姉さんを求める。
はっと気付いて、俺は立ち止まった。
「――そうか」
俺の一歩後ろをぴったりと付いて来ていたケーキが、急に立ち止まった俺に、不安そうな表情を浮かべた。
「……純さん?」
姉さんだけではないんだ。呪われているのは、姉さんだけじゃない。
俺だって何度も時を戻す事で、急激に強くなったり、色々な変化を起こしている。その中で姉さんに対する抵抗力が弱まっていたとしても、俺は気付く事が出来ない。
姉さんがおかしくなるのと同時に、俺も姉さんに狂い始めているんだ。
なんということだろうか。
俺は、姉さんとの関係に『家族』を求めているにも関わらず、全く相反する道を歩き続けているのだ。
「……ケーキ。俺は、どうしたらいいんだ」
「どう、したら?」
決まっている。
俺と姉さんがこの関係を脱するためには、俺が早く彼女を見付けるしかない。
そうしないと、俺の中で姉さんの存在がどんどんと大きくなって、やがて立場が逆転してしまう。
環境を、変えなければ。
気休めみたいなモノでは、駄目だ。決定的な、何かを見付けなければ。
「純?」
ふと、声を掛けられた。俺が振り返ると、そこには――君麻呂?
そうか、気が付けば駅の方まで来てしまっていたのか。それにしても、何でこんな所に。病院も君麻呂の実家も、この駅にはないというのに。
――あれ? そういえば、前にもこの辺りで会ったことがあるような。
「……なんだよなんだよ!! 恋の悩みにでもハマっちまったのか!? はいぱー思春期か!! あっはっは!!」
君麻呂は、まるで昼間の出来事が何でもなかったかのように、俺に笑い掛ける。背中を何度も叩かれると、俺はなんとも言えない気持ちになった。
君麻呂の手に抱えられた花束は、以前よりも遥かに量が多くなっていた。
また、贈るのか。
その花を、春子ちゃんに。
「……どうしてまた、こんな所に居るんだ?」
「ああ、この辺りに知り合いの花屋があるんだけどさ。俺が事情を話したら、店が終わった後に売れ残りの花をいくらか貰えるようになって。通ってるんだよ」
そういう事だったのか。何故コンビニに出ただけで出会ったのか、少し疑問だった。
君麻呂はここで夜に花を貰って、休日は春子ちゃんに贈りに行っていたんだ。きっと毎週花を買う訳に行かないのだろう、君麻呂の金銭状況が伺える。
……春子ちゃんは、君麻呂の事をしきりに馬鹿だと言っていた。
きっと愛しているからこそ、君麻呂の今の行動が許せないのだろう。
今の君麻呂は、無理をしすぎだ。
「そうか。……早く帰れよ。じゃあ」「話せよ、純」
俺は振り返って別れを告げるつもりだったが、立ち止まらされた。
君麻呂が真剣な表情で、俺のことを見ていたからだ。
そして、俺は。
「I shall never survive you。『私はあなたが死んだ後、生きながらえはしない』」
その言葉に、反応してしまった。
君麻呂が両手に抱えていた花束を、地に落とす。
「――知ってる、んだな。――ハハ、ハハハ!! 知ってるんだな!! こんなマイナーな花言葉、興味がなきゃ知るわけないもんな!!」
不意打ちだった。そして、それは明らかな狙いを持って放たれた言葉だった。
出会った時に前と全く同じ台詞から始まった事を、警戒しておくべきだった。俺は無意識に、前回出会った時の事をシミュレーションしてしまっていたのだ。
君麻呂はやつれたような笑みで、俺に近付いた。ずしんと、何か胸の奥に重たいものを置かれたような感覚があった。
俺は目を見開いたまま、どうする事もできずに、ただ君麻呂の行動を見ていた。
「おかしいと思ってた。……これは、疲れてしまった俺の、幻覚だと思ってた。そこの妖精も、……変な、記憶も」
君麻呂はケーキを見て、言う。そうして、俺の胸倉を掴んだ。
「――――純!! お前は未来を変えられるんだろ!? そこの妖精の力でよオ!!」
――何言ってんだ、こいつは。
「頼むよ!! 春子を助けてくれ!!」
「……お、お前」
「一度だけで良いんだ!! 俺にも『魔法』をくれよ!!」
その日、俺と君麻呂の関係が、音を立てて崩れた。