つ『繰り返す時に希望を見出すか』 前編
君麻呂の妹、葉加瀬春子が一体どういった病気を持っていて、何故手術以外の手段が無くなったのかという事については、俺が関与する事ではない。
それでも、君麻呂の一文字に縛った唇が、あまり只事ではない状況であると告げていた。どうやら、ケーキの言っていることは間違いではないらしい。
俺はすぐに病室を出て、化粧室へと向かった。廊下でいくつかの病人と擦れ違い、それだけで俺は気分が悪くなってしまった。
――ケーキには、この中の誰が生きて誰が死ぬのか、分かっているって事かよ。
化粧室の個室に入ると、俺は鍵を閉めてケーキと向かい合った。
「……どういうことだ、ちゃんと説明してくれ」
連れて来られたケーキは後ろで手を組んで、羽ばたいて上下に動いていた。
「……すいません、あまりに様子が悪かったもので、つい」
そんなに、春子ちゃんの様子は変だったか? 咳き込んでいたり、やつれていた訳でも無いのに。
少なくとも、俺には死期のようなものは見えなかった――寧ろ、これから治っていきそうな様子でさえあった。
俺には見えないものが、ケーキに見えているとでも言うのだろうか。
「何が、起こっているんだ」
化粧室には、誰かが入って来る様子はない。俺は一応、外を警戒しながらケーキに聞いた。
病院らしい、化粧室を分ける緑色の壁は、まだ新しく傷がない。
ここは総合病院だ。近場では最も医者の人数が多く、それなりに有名だと聞いたこともある。大きな怪我や入院でもしなければ、それこそ来ることもないような場所で――風邪やインフルエンザ程度なら、個人病院で十分だからな。
それだけ、医療技術が集まっている場所とも言える。
「……人には、生まれ持った寿命があります。事故などで死期が早まる事はありますが、基本的にはその一度の人生の中で、得られる最長の時間というものは決まっています。死期が近付く時、その人の魂は僅かに、天界へと向かう兆しを見せるものです」
なのに、それでは駄目だと言うのだろうか。
きっと、医療技術のようなものとは関係ないのだろう。もっと、精神的なもの――あるいは、真理に近いモノとも言えるだろうか。人があるべくして手に入れた寿命のような。
「普通の『神の使い』はそんな事を意識しませんが、私は魂の仕分け人をやっていたので……」
「……仕分け人ってのは、分かるのか。そういうのが」
「天界に上がってきた魂がいつ、どのくらいの数になるのか分からないと、仕事量が分からないじゃないですか。……だから、予め予測しておくんです。自分の地域で、どれだけの魂が天界に向かうのか、その予兆を見ることで」
そんなもの、見えるのか?
人間の俺には、分からないが――……
「……感覚みたいな、ものか?」
「そう、ですね。特にはっきりと、これだ!! とは言えないのですが……例えば、死期が分かる猫というものが居ます。普段はちっとも懐かないけれど、その人が死ぬ時だけ擦り寄ってくる猫。そんな感じです。なんとなく、分かるんです」
確かに、話には聞いたことがある。別に猫じゃなくても、所謂――霊感、と呼ぶのだろうか。人間には見えないものを見る生き物は、やっぱり居るのだろう。
俺が感じた『虫の知らせ』のようなものも、それに該当するのかもしれない。
『あるいはー、彼にとって親しい誰かー……人が死ぬ時、周りの人にも極稀に、天界へと続く道が見える事がありますー。ご存知あるかどうかは、分かりませんがー』
……だからって、納得なんか出来ない。
「――じゃあ、勘違いだって、あるんだろ? 手術しかないって言われてんだよ。手術したら、治る可能性もあるってことだろ」
「お、おそらくは」
「じゃあ、もうそんな事、言うな」
少しきつい口調で、窘めるようにそう言った。……別に、ケーキが悪い訳ではない。俺が状況を整理出来ず、やり切れなくなってケーキに八つ当たりをしているだけだ。
人の不幸の話など、聞いて気持ちが良い訳がないということは、やっぱりある。
少し気まずい顔で、ケーキは言った。
「……はい」
俺は少しだけ申し訳なくなって、ケーキの頭を撫でた。
――だって、悲しい事じゃないか。
春子ちゃんに会った時、初めて君麻呂が、いつも訳の分からない事ばかり言って場の空気を掻き乱す君麻呂が、素顔を見せたような気がしたのだ。
もしもあんな態度をしている理由が、病気の妹を励ますためだとしたなら。それは、なんと健気なことだろうと思ってしまったのだ。
化粧室を出て、廊下を歩いた。君麻呂とレイラがいる病室へと向かう。
「……本当に、バカな奴」
健気で、そして愚かだ。
馬鹿をやることで妹が喜ぶとは限らないし、病気が治る事もない。
ただ、一時のために通り過ぎて行くもの。
今更ながら、越後谷の言っていた言葉と、表情の意味が理解できた気がした。
病室の扉を開こうとして、勢い良く内側から扉が開かれる。唐突なことで、俺は誰が部屋から出てきたのか、すぐには把握できなかった。
呆然と、その後ろ姿を見詰めた。
……君麻呂?
病室には、レイラが残っている。出て行った君麻呂の様子を案じてか、どこか曇った表情になっていた。
「……ただいま。どうしたの?」
レイラに聞くが、レイラは答えない。あまり、良くないやり取りが行われたのだろうという事だけが分かる。俺は病室を見回し、春子ちゃんに聞くことに決めた。
春子ちゃんは至って普通だ。幼い顔立ちは大人びた表情で、開きっ放しの扉を見ている。
「良かったら、話して欲しいんだけど」
「ごめんなさい。こんな空気になってしまって……今日は、遊びの予定でしたか?」
「いいんだよ、そんなことは」
そもそも俺は、こんな出来事でもなければ君麻呂の事情を聞き、春子ちゃんに会うつもりだった。それを考えると、手間が省けた形になる。
何れにしても、本音が聞きたいとは思っていたのだ。
さっきの君麻呂は、随分と思い詰めている様子だった。
本人は春子ちゃんについて『もうすぐ死ぬ』などと言っていたが、気持ちの上で整理など付いていないだろう。
それを考えると、たった今この場所でどのようなやり取りが行われたのかという事については、ある程度予想も付く。
「実は、私の病気が――今後、急速に悪化していくということが分かったんです。それで、もう手術をするとしたら、今しかタイミングがないと」
そうか。……それで、君麻呂は判断できなかったのかもしれない。
「手術しても、上手く生き残れる確率は、そう高くないと言われました」
難しい、問題だ。
俺のように過去に戻ることができる人間で無ければ、尚更。
どこか、実感は湧かなかった。それは俺が、時を戻すために何度も死んできたからかもしれない。当事者にとっては重大な問題なのだろうが、どこか感覚が麻痺してしまっている。
忘れるな。俺はもう、時を戻せない。
「君麻呂は、戻ってくるのかな」
「分かりません。……今日は、難しいかも。馬鹿な兄で、申し訳ありません」
そして、関わるべきではない。
もしも俺が時を戻す魔法を使って、宣告される少し前に戻ったとしても。春子ちゃんを助ける事はできないだろうし、何度も君麻呂が苦悩するのを見ているだけの結果になる。
――ならば、今俺に出来ることは、なんだろうか。
どうせだから、聞いてしまおうと思った。
「……春子ちゃん。君麻呂は普段、あまり素直にならないというか――真剣な態度を取ったことが、ないんだ」
そう聞くと、春子ちゃんは窓の外を見て言った。
「――ほんと、馬鹿なんだから」
その言葉には、僅かな怒気が含まれていた。同時に、やり場のない感情をどこかに置いて来ているかのような――そんな予想をさせた。
戻って来てから黙っているレイラが、自分の腕を掴んで目を逸らした。
余程、居心地が悪いらしい。
「私が、お兄ちゃんが虐められていたのを心配していたから。学校が変わったから、もう平気だって言い張るんですよ」
実際の所、君麻呂のB組での立ち位置は、レイラしか知らないことだ。この年齢にもなって、虐めもないと思うが――……他校の生徒が来た時の君麻呂の反応を見ると、まだ傷は癒えていないような気がする。
今は、どうなのだろう。
レイラを見ると俺の質問したい内容が分かったようで、レイラは首を振った。
「勿論、わたくしのクラスで虐めなんて起こさせませんわよ。そんな低俗な」
こんな時、クラスの格調を高くする人間というものは、頼りになるものだ。
「携帯電話で、無料通話できるからって二つも契約して。……私は、お兄ちゃん以外に掛ける人なんて、いないのに。髪も染めて、今度は虐められるような格好をしない、って」
それで、あんな髪色なのか。
それでも、君麻呂は自ら選んだのだ。
あえて、出来損ないのチンピラのような態度を取る君麻呂。その上で、自分の学園生活が楽しいということを主張した。
毎月――もしかしたら、毎週かもしれない。春子ちゃんの病室に、花を贈って。
「……妹。キミマロが役者を目指したのも、貴女に関係がありますの?」
「役者……? お兄ちゃんが、ですか?」
春子ちゃんは目を丸くして、レイラの言葉を聞いていた。……何だ? もしかして、話していないのだろうか。
だったら、あまり聞かない方が良かった質問かもしれないな。
程なくして――何かに気付いたかのように、虚ろ気な表情で視線を泳がせた。
「もしかして、お兄ちゃん」
レイラが怪訝な表情になった。春子ちゃんは俯いたままで、両手の親指を合わせる。
「一回だけで良いから、テレビに映ってよって、頼んだから、かな」
――たった、それだけの事で?
思わず、春子ちゃんが言った言葉の意味を反芻して、頭の中に何度も思い浮かべた。勿論、春子ちゃんは本気で君麻呂にそんな事を頼んだわけではないだろう。
本当だろうか?
たった一言そう言っただけで、本来の自分を書き換えてまで役者になる事を決意した――……?
「……そういえば、キミマロはいつも、絶対にテレビに出るんだと言っていますわ」
もしもそれだけの理由で役者を目指しているのだとしたら、少し不安になるほどの純粋さだ。越後谷の言う通り――本当に、馬鹿。それ以外の何者でもない。
ずっと俳優関係を目指している越後谷と、必死で張り合っていた。
だけどその馬鹿さ加減は、人をなんとも言えない気持ちにさせる。人の心を動かす、というのはこういう事なのか。
「人見知りではなくなった、格好良いお兄ちゃんの姿を――未来の姿を、思い浮かべた時にそう言った記憶があります」
妹の思い付きに近い希望を、死に物狂いで叶える兄。
そんな人間は、見た事がない。
虐められていたから?
それを、妹に知られていて、心配させている事にも気付いていたからか?
「葉加瀬さん。診察の時間です」
春子ちゃんが返事をすると、医師は部屋に入ってくる。俺達を見て、微笑んだ。俺とレイラも会釈して、笑みを返す。
つまり、この場所にはもう居られない、という事なのだろう。俺が病室を出ると、レイラも後から付いて来た。
――そっと、病室の扉を閉める。
「……行こうか、レイラ」
「ですわね……」
君麻呂は、きっと今日のうちはもう戻って来る事はないだろう。
レイラと二人、俺は病院を出る事に決めた。
「知りませんでしたわ。キミマロがそんなものを背負っていたなんて」
「春子ちゃんのこと?」
「……ただの低俗な人間、くらいにしか思っていませんでしたもの。……携帯電話で妹に声を聞かせているなんて」
「俺だって、ついこの間まで知らなかったし。隠していたんだと思うよ」
「隠していた? どうしてですの?」
友達が居なくなるから、なんて思ったのかもしれない。結果として本来の自分を隠すことで、君麻呂は今の関係を築いている訳だしな。
本当は内気で暗い奴だなんて、思って欲しくないのだろう。
花言葉に詳しい、辺りで何かイメージと違う時があるな、とは思っていたんだ。姉さんの事を聞かれた事もあるし、ずっと何かがあるとは思っていた。
……でも、その『何か』に対して、今回ばかりは何もできない。
見守るくらいの事しか。
「……さあ。色々、事情があんだろ」
「そう、ですわね。あまり触らない方が良いかもしれませんわ」
レイラも頷いて、俺の言葉に同調した。空気が読めないようで、このお嬢様は何故か結構空気が読める。
でも、明日から君麻呂とどう接するべきなのかは、悩む所なんだろうなあ、なんて思う。
病院を出ても、そこに君麻呂の姿はなかった。
ふと、携帯電話が鳴る。……姉さんからだ。
「もしもし?」
『あ、純くん? 今日はいつ帰って来る?』
「そろそろだけど」
『分かった。じゃあ、もう夕飯の支度始めちゃうね』
最近の姉さんは調子悪そうだし、俺も早めに戻るか。
俺はレイラに手を振った。
「ごめん、そろそろ帰るよ。月曜日、またよろしく」
「分かりましたわ」
「君麻呂のこと、普通に接してやってくれな。今は難しい時期だろうから」
レイラは縦ロールをさらりと左手で撫でると、無い胸を張った。
「わたくし、同情は好きではありませんの」
……やっぱり、ただのお嬢様とは違う、一風変わった奴だよなあ。