つ『葉加瀬君麻呂は笑われるべきか』 前編
『一度、携帯電話を覗いちまった事があってな。その時に、葉加瀬の事情を察した事がある』
夜、越後谷から電話があり、そのような事情を説明された。
同時に、昼間にあった出来事についても、越後谷と共有する。
意図して馬鹿なことばかりする男は、その役を演じていた。本当は内気で、あまり表に出ないタイプの男だったという。
ある日の俳優養成ゼミに現れた葉加瀬君麻呂という男は、始めは黒髪で眼鏡を掛けた、お世辞にも目立つとは言えない少年だった。その時から言う事だけは大きく、何度も『俺はテレビに出る』と公言していたらしい。
その時に越後谷も訳有りだと知って、馬鹿だと思いながらも気に掛けていたと言うのだ。
『……ま、どのみち面倒臭い事には変わりないから、関わろうとは思ってなかったけどな。お前が引っ張ってくるまでは』
それが越後谷なりの気の遣い方なのかもしれないと、俺は少し思った。
越後谷は面倒だ迷惑だと思いながらも、君麻呂の事を避ける様子はない。そういえば俺の時も、訝しげな顔をしたり疑いを掛けたりしながらも、ドラマに参入する事そのものは否定されなかった。
「越後谷から見て、君麻呂ってのは役者に向いてんの?」
『いや、向いてない。無理だ。絶望的だ』
……そこまで言わなくても。
『……何より、ガラじゃねえんだよ。無理してんのが分かって、なんというかな』
「ああ、分かる。わざと明るくしているような感じなのは、何となく俺も感じていたと思う」
『聞いた話なんだが、あの家、母子家庭なんだよ。お袋さんも足が悪くて動けないみたいで、ゼミに通うような金はそもそも無くてさ』
杏月も大概だと思ったが、越後谷の情報収集能力も侮れんな。
一割でも、ケーキにその能力があれば。俺も少しは楽に目標達成できたかもしれない。
『それでどうするかって言うと、あいつは深夜にバイトを始めたんだ。駅から遠く離れた、俺達はあまり行かないコンビニで。見知った人間と鉢合わせるのが嫌らしい』
まあ、その理由は昼間のアレを見ていれば、なんとなく分かる。
『で、朝七時かなんかに帰って来て、それから学校に行くんだよ。だから、授業は全部寝てるらしくてな』
「先生は? そんな事したら、黙ってないんじゃ……」
『おそらく、バイトしている事そのものを公開していない。だから教師には言わない方が良いな』
「なるほど……」
じゃあ、もしかしたら元はそこまで成績が悪い訳でも無かったんじゃないか。全教科赤点なんてどれだけ頭が悪いんだ、とは気になったけれども。
……待てよ。じゃあ、君麻呂はその上で、今度は勉強を頑張ってレイラに告白しようって言うのか。
それは、いくらなんでも無茶では……
『俺が知ってるのは、それだけだ。まさか妹が死ぬほど重い病気だとは、俺も知らなかったけど』
「そうか……ありがとう」
通話を切って、夜空を見上げた。
ベランダの夜はまだ夏の熱気を残していて、湿度が高い。それでも、少しは涼しくなっただろうか。
俺は、葉加瀬君麻呂の事を完全に誤解していた。
ただの愉快で面倒な奴だと、特に意識せずに思っていた事は認めるしかない。この世に何も考えず馬鹿をやっている人間など、早々居ないものだ。
それぞれが、それぞれの事情を持って行動している。それを、改めて思い知らされた。
理由があるのだ。人には言えない、俺と姉さんの関係のような理由が。
「はい、純くん」
後ろから手を回され、俺の目の前にアイスコーヒーが現れた。俺がカップを手に取ると、横から姉さんが現れる。
「お電話は、どうでしたか?」
……どうも、こうも。驚くべき出来事ばかりだ。本当に、人は見かけに寄らないと思った。
俺が苦笑すると、その笑顔の意味を察したのか、姉さんは微笑んだ。
「……よく、分からない。どうするべきなのかも、なんて声を掛けて良いのかも」
「葉加瀬くんに?」
頷くと、姉さんは手に持っているアイスコーヒーを一口、飲んだ。ふー、とため息を付くように、胸で呼吸をする。
「んー、ガンガンに冷やすと頭がキンキンするねー」
こめかみに拳を当ててぐりぐりと動かしながら、姉さんは言った。かと思うと、姉さんは目を閉じて、すう、と息を吸い込んだ。そうすると、どこか姉さんの長い亜麻色の髪が、夜空に光っているように見えた。
月明かりに照らされる白い素肌は、見ていると吸い込まれそうだ。
思わず、その神秘的な光景に魅入ってしまった。
「――目を閉じてね。暗闇の中を、歩くの」
それは、いつの話だろうか。
「真っ暗な闇の中で、私は一人なの。誰も居ないから、自分が一人であることも分からなくなっちゃう。そうするとね、すごく怖くなるんだ。まるで自分がこの世から居なくなってしまったみたいな気がして。ううん、ひょっとしたら、この宇宙のどこにも居なくなってしまったような」
意識の上での話だ。もしかしたら、それは夢の中の話だったのかもしれない。
それでも、何故か俺は、いつか何処かで、似たような経験をしたのではないかと思った。
「そんな時にね、胸に手を当てて、信じるの。私はここにいるよ、あなたはどこにいますか? 会いたい、きっと会える、って」
感じた、と言った方が正しいのかもしれない。
「本当はどうして欲しいのか、言葉じゃ分からない時もあるんだよ。どこかですれ違ったり、衝突、したり――……だから目を閉じて、考えてみて。どうしたら、幸せになれるか」
姉さんは、一体どれだけの時を経て、ここに居るのだろう。
前世の記憶は、おそらく無い。それでも、姉さんは神の使いに昇格できる程度には『徳』とやらを、経験値を積んだのではないか。だとしたら、この崇高な人は、どれだけの苦痛を経験して、どれだけの悲しみを背負っているのか。
そんな事を考えたら、少しだけ恥ずかしくなった。
「んんー、どう? 久しぶりに、お姉ちゃんっぽかった?」
「……姉っていうか、宗教みたいな」
「えー!! ひどーい!!」
「冗談だよ」
そうだ。
君麻呂の妹とやらに、会いに行こう。
そうして、君麻呂が背負っている使命を共有する。俺には何も出来ないかもしれないけれど、そうすることで君麻呂の負担が少しは減るかもしれない。
どんな出来事があって、何を考えて、どうやって生きてきたのか。
「……純くん」
「どうしたの?」
……おや?
姉さんの様子がおかしい。自身の身体を抱いて、何やら震えていた。……なんだ? なんか、頬は赤いし……
……あれ。これ、ひょっとして例のアレか。
「……んっ……ちょっと……ベッドに……行ってきます」
「だ、大丈夫? 調子悪い?」
調子が悪そうと言うよりは、エロいが。
姉さんは太腿を抑えて、自分と戦っていた。何やらもじもじと脚を動かしている。
「なんか、変なんだよ……」
最近、しきりにそう言うな。今までも俺を襲おうとしていた事は幾度と無くあったが、今回は姉さんも異常だと認識しているようだ。
あの姉さんが言うんだから、余程おかしいのだろう。合宿の後からであることを考えると、気味悪いが……
俺が見た、黒髪の女性――……
……ヤバいな。早めに手を打っておきたいけれど、どうしたら良いのか分からない。
何か、ヒントになりそうなものは……
あ、そうだ。
俺は携帯電話を取り出し、レイラにコールした。
『……ハイ、ジュン! ごきげんよう、どうしましたの? こんな時間に』
今、一回でも呼び出し音、鳴ったか? 姉さんじゃあるまいし……
ま、まあいいだろう。
「レイラ、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
『わたくしのスリーサイズですの?』
「いや、違う。どうして真夜中に聞く必要があんの、それ」
『ふふふ。それは勿論』
「あ、いい。何となく察した。いや、そうじゃなくて」
『……緊急ですの? わたくしで良ければ、協力しますわ』
話が早いな。流石はお嬢様。
いや、お嬢様は関係なくて、おそらくレイラのお父様とやらが良い教育をしているのだ。
「合宿の時なんだけどさ。レイラがしていた格好について、詳しく教えてくれないか」
『詳しく、と言いますと?』
「赤いドレス、ハイビスカスの髪飾り、薔薇の香り? の香水。後は何か、身に付けていたか?」
『あら? わたくし、ハイビスカスの髪飾りを付けて行きましたっけ?』
――やばっ!?
「ああ、いや。俺の気のせいだったかもしれない。俺が渡した奴だよな、確か」
『ハイビスカスの髪飾り、お父様からのプレゼントなのですわ。ジュンが覚えているなら、わたくしは付けて行ったかもしれませんわね』
付けて来たよ。失われた時の中でね。
これ、やばいな。ついうっかり存在しない過去の話をしてしまったら、他の人の記憶が繋がり兼ねない……。俺が気を付けていれば大丈夫だろうけど、変にボロを出さないようにしないと。
「……そ、それで、他には何かあったか?」
『他に、ですか……ちょっと、記憶がもう曖昧ですわね……』
うーん、と唸りながらレイラは考えていた。
『ごめんなさい、やっぱり思い当たりませんわ。それ意外には何も無かったと思いますわよ』
「そうか……ありがとう」
予想外れか。……レイラが身に付けているものがもう無いのなら、姉さんの現象は自然に発生しているものだ、とも考えられるだろうか。
……自然に?
だとしたらそれは、かなり危険だ。姉さんの変化には、常に暴走が付き纏う。
『ところでジュン、次の土曜日、空いてますの?』
「次の土曜日……? どうして?」
『どうしてもこうしても、デートに決まってますわよ!』
……ノリノリだな、レイラ。分かってるけど。この様子を見ていると、つい忘れそうになる。
「レイラ、俺達、越後谷を振り向かせるために、付き合ってる『フリ』してんだよね?」
『えっ……』
「……違うの?」
『…………も、勿論ですわよ? 当たり前ですわ、合点承知の助ですわよ』
ものすごく動揺していた。
既に目標がどこかに飛んで行き、今を謳歌している二階堂レイラにとって、越後谷司とは一体何だったのか。……いや、まあスペックが高いとか、大方そんな所で判断していたのだと思う。
あれ? じゃあ、もしかして俺ってレイラの初恋の……
いやいや。それは無いだろう。無いということにさせてくれ。
「あ、そうだ。じゃあ、君麻呂も誘っていい?」
『……あの低俗庶民を?』
低俗庶民、て。
「君麻呂、レイラと仲良くなりたいらしいよ。まあちょっとくらい関わってやりなよ」
『……ジュンは、低俗庶民の事を良しとしていますの?』
話せば話すほど、君麻呂が哀れに思えて来るのは一体なんでなんだろうな。いやしかし、君麻呂がただのキモ面白い奴ではないということは、既に証明された事だし。
普通にしていれば、もしかしてあいつにもチャンスはあるのかもしれない。
「まあ、良い奴だと思うよ」
『ええ……』
「駄目、かな」
『……ジュンがそこまで言うなら、呼んでも……良いですわよ』
――今、レイラの中の『俺』株が頂点に達した。
きっと今売れば大儲けできるだろう。それはもう、バブル全盛期の如く。
『で、でも、勘違いしないでくださいまし! わたくしが付き合っているフリをしているのは、ジュン、貴方ですからね!!』
「……あー、はいはい。それじゃな、おやすみ」
付き合っているフリの筈なのに、何故か重みが結婚しているノリである。その一途さを利用している俺も俺だが。
今はただのですわ嬢だが、きっといつかレイラも良いお嫁さんになるに違いない。
あれ、少しだけ涙が……
そうか、これ、あれだ。付き合っていると言うよりは、娘の感覚に近い。
俺、今まさに貴方と同じ気持ちになっているかもしれませんよ、レイラのお父様。
◆
九月十五日、土曜日。
俺は君麻呂を体よく呼び出し、待ち合わせ場所に立っていた。俺、レイラ、君麻呂の三人で行動する事など初めてに近い――初めてなので、俺としても少しだけ緊張している。
何故なら、この二人はドラマ制作メンバーの中で『最も波乱を呼び』『最も面倒で』『最もアクの強い』二人だからである。
これが、ただで終わる筈がない。
人呼んで、スリー・モットモの法則である。
「純さん、暑いです」
俺の隣で、ケーキが溶けている。流石にこの気温では、俺の胸の中に入っていたら暑くて死んでしまうだろう。ぱたぱたと仰ぎながら、宙に浮いていた。
「なんだか、最近妙に暑いんですよね……。なんででしょう」
「そりゃ、ケーキが大きくなったからじゃないの?」
「ふえ? 私、大きくなってます?」
……本人には、自覚がないのか。これはこれで驚きだな。
初めは俺の手のひらに収まるサイズだったんだぞ。今は既に、チワワが空飛んでるくらいのサイズに近い。
いや、チワワは飛ばないけれども。
羽が黒っぽくなっているのも、もしかしたら気付いていないんだろうか。
もしかしたら、言わない方が良いのかもしれない。
「あ!! ジュン!!」
おお、レイラが来たか。