つ『軽薄な態度は幸福に関わるか』 後編
……何だ? うちの学園の制服ではないな……他校と思われる生徒が二、三名、教室の隅で集まっていた。随分と背が高いし、筋力もありそうだ。運動部の人間だろうか。囲っている所を見ると、その中心には誰かが居るようだが。
しかし、どうして他校の生徒がうちの学園に居るんだ……?
見たところあまりガラも良くないようだし、B組の教室に入って良いとも思えないのだが。
「寂しかったじゃん、サイエンス。最近はどうなんだよ」
「……まあ、それなりにやってるよ」
声で分かった。中央に居るのは、君麻呂か。道理で、いつまで経っても練習に来ない――サイエンスって。
そうか、葉加瀬だからか……なんて安直な。
いつものおどけた様子は何処に行ってしまったのかと思わせるような、冷淡な口調だった。
窓を背にした君麻呂の顔が、少しだけ見えた――……あまり、旧友と出会った、という雰囲気ではないな。どちらかと言うと君麻呂は居心地が悪そうにしていた。
……訳ありか。
「俺達、サイエンスが居なくて寂しかったぜ。どう? その後、バスケの方は」
馴れ馴れしく、筋肉質な男は君麻呂の肩に腕を回した。……君麻呂は、随分と生気の無い瞳だった。その双眸は男達を見ておらず、何処か宙を彷徨っている。
「……もう、やってない」
「そうだよなあ、そんなにおチビじゃやれる事ねーもんなあ!!」
「ぎゃはは!!」
背が小さいからってバスケで役に立たないとは限らないんだぞ。某有名なポイントガードを知らんのか。
いや、しかしこの状況は……。あまり良いとは言えなさそうだぞ。俺が割って入るべきか、それとも姉さんや瑠璃も呼んでくるべきか……いや、別に何事もない可能性もあるしな。
適当に様子を見て、会話が一段落した頃にでもドラマの撮影のために声を掛けるのが良いだろうか。
それにしても君麻呂は中学時代、バスケなんかやっていたのか。意外というか、なんというか。それにしちゃあ体力が無いし……まあ、もう卒業学年であることだし、高校入ってから全く運動していなかったとすれば、そんなものだろうか。
ケーキがあまりに堂々と見ているので、俺は手を伸ばしてケーキを捕まえた。
「きゃっ。……大丈夫ですよ、私、見えませんから」
「馬鹿。お前、君麻呂に見られた事をもう忘れたのかよ」
「あっ……すいません」
やれやれ……こいつも毎度、物忘れ激しすぎだろ。ただでさえ、少しずつ巨大化してるのに。
ケーキに構っている場合でもないか。俺は、視線を教室に戻した。
「今日、練習試合なんよ。この学校にお前が居るって聞いてさ、ちょっと楽しみにしてたんだけどさー。居なくてガッカリしたわー」
「はは。ごめんな、もうやってなくてな」
「マジ有り得ねえと思う訳よ。俺達中学じゃ仲間だっただろ、この責任どう取ってくれんの?」
「……は?」
「いやだから、どう責任取ってくれんのって」
うちの学園のバスケは、確かそれなりに活発だ。
卒業学年なんだから、それまでにうちの学園と練習試合した事なんて何度もあっただろう。今更そんな言い掛かりを付けるなよ、と思う。
……どうやら、あまり穏やかではない感じだ。練習試合ということは、あいつらの学校も管理下の教師が何処かに居るはずだし、ひとまず職員室に向かうか。
「とりあえず、もう仲間じゃねーって事にしねえ?」
「そうだな」
――えっ。
俺が目を離そうとした瞬間、君麻呂が殴られた。猫背のままポケットに手を入れていた君麻呂は為す術もなく転び、ポケットに入っていた携帯電話が床に転がる。
いきなり殴んのかよ。結構腕力有りそうだし、あれは痛い……
「じゅ、純さん」
「分かってる。でも、俺が乱闘を起こすのはちょっとまずいだろ。職員室に行かなきゃ」
とは言うが、君麻呂から目が離せない。もしも職員室に向かっている間に、もっと酷いことになったら、と考えてしまう。
足は職員室に向かう前に、教室の中に入って止めろと命じている。
――間辺慎太郎の時を思い出す。時が戻ったとはいえ、二度も停学は喰らいたくないが……
君麻呂のポケットから転がった携帯電話に、一人の男が目を付けた。携帯電話は開いていて、ディスプレイが丸見えになっている。……今の衝撃で割れたんじゃないか……?
「何、今時ガラケー使ってんの? マジ有り得ないっしょ……あれ? おい、見ろよ」
瞬間、君麻呂が覚醒して起き上がった。
「……おい待て、やめろ!! 返せよ!!」
君麻呂は手を伸ばすが、別の男に捕まってしまった。そのまま、背中から羽交い絞めにされる。
この他校生、寄ってたかって君麻呂みたいな力の無い男を……
……段々、職員室に行く気が失せてきた。
「ぎゃはは!! こいつ、妹にばっか電話してんぜ!!」
「通話時間ヤバいんじゃねえの? あ、無料通話か! やべー、マジきめえ」
――そうか。いつも猫背でポケットに手を突っ込んでいたのは、もしかして携帯電話を操作していたのかもしれない。
俺は、いつか君麻呂が言った言葉を思い出していた。
『なあ、純さ。お前、姉貴の事、どう思ってる?』
『……まあ、普通に大切に思ってるよ。家族として』
『そか。仲良くやれな』
それは少しだけ、普段全く真面目にならない君麻呂の本質を見たような気がして。
胸の辺りが締め付けられるような感覚を覚えた。
――ひょっとしたら俺は、葉加瀬君麻呂という男について、何かとんでもない勘違いをしているんじゃないか。
あるいはそれは、君麻呂が絶対に公開したくないモノなのかもしれないけれど。
「電話してみよーぜ」
「マジで? くはは、想像しただけでウケるわ」
羽交い締めにされた君麻呂が、蒼白になって叫ぶ。
「返せ!! 殺すぞ、クソ野郎!!」
その言葉が、どうやら男達の気に触れたらしい。
「……ああ? 誰がクソ野郎だって?」
「コイツ、ちょっと調子乗り過ぎじゃね?」
……もしかして、越後谷の言ってた『あれ』って……君麻呂の事だろうか。
越後谷は、今日バスケ部に練習試合がある事を知っていたのだろうか。いつまでも空き教室に来ない君麻呂の事を心配していたのかもしれない。
流石に授業では教室が違うし、君麻呂がこんな事になっていると予測した訳ではないだろうけど……
任されたのか、俺。
……やれやれ。
停学になったら、君麻呂に飯を奢って貰うとしよう。
「クソ野郎ってなんだよ。俺達友達だと思ってたのにさあ……!!」
胸倉を掴まれ、君麻呂が呻いた。俺は男の後ろから徐ろに近付き、左足を振り被る。
周囲に居た二人の男が、俺の存在に気付いた。俺はその男達を一瞥すると、無表情のままで胸倉を掴んでいる男の横っ腹を蹴り飛ばした。
ずしん、と左足に重みが走る。
百キロ超はありそうな筋肉質の男が、俺の蹴りで机に突っ込む。君麻呂は不意に降ろされ、床に転んだ。
「な、何だ……!?」
――まあ、何が起きたのかは分からないだろうな。
怒りと言うよりは、動揺。俺みたいなもやしっ子の蹴りで、重たいバスケ部の男が飛ばされた事に驚いているのだろう。俺は君麻呂の前に立ち、携帯電話を持っていた男の手首を掴んだ。
力を入れると、苦しそうに男が呻く。
「がっ……!? な、何だコレ……」
「この携帯、返してくんないかな」
「……わ、分かった。分かった」
男の左手の力が緩んで、携帯電話が手を離れる。俺はそれを、反対の手で捕まえた。
……さてと。もうこの男に用はない。
俺は男の胸をヤクザキックで一蹴。出入口の扉に向かって男が二メートルほど吹っ飛び、尻餅を付いた。
そういえば、俺も前にガラの悪い男に囲まれて苦労した事があったなあ。あの時は瑠璃に助けて貰ったんだっけ。
今とのギャップに、少しだけ懐かしさを感じる俺だった。
「悪いけど、帰ってくんないかな――ここ、幼稚園じゃないから」
「おいお前、何なんだよ急に!! ざけんなよ!! 誰だよ!!」
「誰、だって?」
残った一人の男が喚いている。君麻呂は首を抑えて、ゲホゲホと咳き込んでいた。
殺気を隠さず全身から放出した。ぐい、と男を睨み付ける。勢いがあるからか、あまり身長差は気にならなかった。
向かって来るようなら、全面戦争だ。一人で相手にする自信は、あるぞ。
「――『友達』だけど?」
男はしゃくり上げるように声を出した。……そんな言葉、簡単に使うんじゃねえよ。俺みたいなタイプの人間がそれを一人獲得するのに、どれだけ苦労しているのか知らんのか。
「い、行こうぜ!! おい!! こいつやべえ!! ……お、俺は帰るからな!? じゃあな!!」
言いながら、未だ転んでいる男二人を放置して、残った一人は逃げ出した。
……おいおい。安い友情だな。
男が逃げ出した事を見て、慌てて二人も立ち上がる。君麻呂の前で壁になるように佇む俺を怪訝な表情で一瞥して、教室を去って行った。
出入口の前で、男が廊下に向かって転んだ。
「な、何でこんなトコにビニールテープが……」
……ん? ああ、ケーキか。
逃げて行った男達に向かって、舌を出していた。……他の人から見たら、完全にポルターガイスト現象だよな、あれ。
君麻呂が居るからか、ケーキはそのまま廊下の隅に隠れた。
――教師が駆け付けて来るだろうか。
いや、でもよく考えたら、担当の教師に相談するという事は、あいつらが俺に負けを認めたって事だよな。
十センチ以上の身長差、圧倒的な体格差の俺に喧嘩で負けたとは認められないだろう。
つまり、俺は安全かもしれない。
ふー。
「……サンキュー。助かったぜ、純」
全く覇気のない声で、君麻呂は言う。
俺は後ろを振り返って、未だ教室の床に座り込んだままでいる君麻呂を見た。冗談の塊みたいな態度をいつも取っている癖に、今この瞬間だけは台詞さえ、発する様子はない。
俺は携帯電話を返した。君麻呂はそれを受け取ると、力無く笑った。
「……昔、虐められててさ。たまたま来たらしいんだ……情けねえな」
情けなくはない。少なくとも、君麻呂は奴等に媚びなかった。あれだけの体格の男三人に囲まれたら、早々戦えるものではない。
俺だって、ついこの前までだったら姉さんを呼びに走っただろうと思う。
「君麻呂。……大丈夫か?」
あまりにも頼りない。不安定で、風が吹けば飛んでしまいそうだった。君麻呂はそれでも、俺と目を合わせる事はない。
それどころか左手で顔を覆って、俯いてしまった。
「……すまね。ちょっと、今日は撮影、行けそうにないわ」
「ああ。分かった、瑠璃には伝えとくよ。……その、さ。電話。ごめん、ちょっと見えて」
携帯電話を奪った時、意識していなくても見えてしまったのだ。
発信履歴に妹しかない携帯電話。同じ日の決まった時間、朝、昼、夜と三度ほどコールされている様子だった。同じ番号と同じ時間で埋め尽くされていれば、いくら見ないようにしていたって、その異常さに気付いてしまう。
気になってしまったら、しっかりと画面を見てしまった。半分ほど割れていて、名前の部分が一部、潰れていた。
それは、いつかの俺の携帯電話のような状態だった。
ふと、君麻呂がようやく目を見せた。虚ろ気な眼差しの向こうは携帯電話に向かっていたが、特に何処を見ている訳でもない。
「妹、病気でさ」
その時何故か、君麻呂が口にした言葉以上の事を、俺は察したような気がして。
俺の中で葉加瀬君麻呂という男に対する謎が、一本の真っ直ぐな線に繋がった気がした。
「……君麻呂、お前、まさか」
不覚にも気付いてしまったのだ。
毎朝、必ず決まった時間にコールされている携帯電話。もしもその電話が、常に通話中になっているような事があったら。
有り得ない話ではない。朝、携帯電話を通話状態にする。昼間に少し話して、また通話状態に。夜も、また。
病気の妹は、きっと入院していた。直感的に、そう気付いた。
君麻呂は常に、ポケットの中の携帯電話に、自分の声を聞かせていたんじゃないのか。
「……あれ、もしかして気付いちゃった?」
君麻呂の奇行。
役者のような大袈裟な振る舞い。誰も得をしないのに、馬鹿なことばかり、狙ったように行動する君麻呂。
白いトルコギキョウ。花言葉は、『希望』。
――越後谷救出の時、深夜に現れ、俺に託していった花。
『いやあ、実は妹がケーキ焼いたらドドメ色の物体ができちまったらしくてさあ!! めっさ泣いてたから買って行ってやろうかと思った俺えらくね? でも、仕方ねーけど越後谷にやるよ。大変だろうからな』
大変なのは、越後谷じゃなかった。
白いトルコギキョウを受け取る、主の方だ。
「――――もうすぐ、死んじゃうんだ」
それは、たった二人しか居ない教室の空気を凍り付かせるには、十分な威力を持っていた。