つ『水面下で泳ぐ脚は視えるか』 後編
杏月の部屋の前まで辿り着くと、俺は何回か深呼吸をした。あまり、恋愛ごとで真面目に話した経験はない。ちょっとした事で舞い上がってしまったり、正常な判断が出来なくなってしまうことがあるかもしれない。
肉体的な誘惑なんかなら、まだ逃げる事に意識が働くこともあるけれど。
俺は拳を構え、そして――ノックをした。
「……純」
中から杏月が出てきて、俺の顔を見る。拒絶されてはいなさそうだが、憂鬱そうな重苦しい顔をしているように見えた。
……こんな時、なんと声を掛ければいいのだろうか。
「杏月、少し話をしないか」
「……ん」
ぎこちなく、杏月は頷いた。部屋の中に通されると、俺は初めて杏月の部屋というものを目にした。
ここは、穂苅の敷地内にある本家から、長い吹き抜けの通路を通った先にある『離れ』。
元々は親父が厳重に俺達の侵入を管理していた場所で、ある程度成長してからも何となく入る事を拒否していた場所だ。
特に装飾の無い簡素なシャツとジャージのズボン。杏月の部屋着と思われる格好は、普段外で見かける杏月の印象をかなり大きく変える。ゴテゴテとした服が好きな割に部屋の中は姉さんよりも遥かにシンプルで、現実的だった。
元学習机と思わしき机の周りは、俺にとっては謎の機械関係の部品と思われるもので埋め尽くされていたが。
パソコンの画面……モニターか。モニターと思わしきものが三つ、キーボードも三つ。カーテンは閉まっていて、どことなくミステリアスな印象を与える。
携帯電話が妙に高性能だったり、操作速度が異様に速かったりするのは、これが原因か……
「座って。……何飲む?」
杏月が冷蔵庫を開けて――……何で個人用の部屋に冷蔵庫があるんだ。中身はほぼ、炭酸飲料。それも栄養ドリンク系列だ。
何気なく杏月が取り出した某元気ドリンクを受け取ると、俺はなんとも言えない気持ちになった。
「お前、いつもこんな所で生活してんのか」
「え? 居心地良いよ?」
「そうじゃなくて、なんか物淋しいと言うのか……」
俺がそう言うと、杏月はけたけたと笑った。
「人が一人生きていくのに、愉快も寂しいもないよ」
……そんなものだろうか。
現実的だが、簡素な部屋。華やかではなく、生きていく為に必要なものが最小限あるといった様子だ。何より、この『離れ』には人の気配がない。親父だって、当時からよく出張していたし……
そこで知る。
杏月は、一人だったのだ。
「私、両親いなくて困ってたから。パパに拾って貰えただけでも、感謝しないとね」
――部屋の扉を開いても、誰も居ない。
そんな事は、一人暮らしでも始めなければ有り得ない事だと思っていた。だから、この部屋には現実味があるのかもしれない。ここにあるのは、たった一人で生きていく為に必要なものが揃っていたから。
姉さんと俺の新しい部屋を見た時は、こんな感情にはならなかったのに。
俺が卓袱台前の座布団に座ってドリンクの蓋を開けると、杏月は俺と同じ元気ドリンクを飲み、ベッドに座った。
「純、あんま気にしないで」
「……そりゃ、無理だろ」
俺がそう言うと、杏月は自分のドリンクを卓袱台に置き、ベッドに横になった。
横向きに微笑む杏月の様子は、どこか誘惑的で、艶っぽい。
「私ね、思い出したんだよ。――純とのこと、全部、思い出した」
不意に発されたその言葉は、
「――純はこれで、『七回目』」
俺の中に、確かな衝撃を与えた。
「……いつからだ?」
「んー、合宿の時から」
「なんだよ。お前、やっぱり……」
「あ、ちょっとバレてた? 一生懸命隠してたつもりだったんだけど、ちょっと感激しちゃって」
舌を出して、杏月は微笑む。俺は溜め息を付いて、卓袱台に頬杖をついた。
なんだよ。だったら早く、伝えてくれれば良かったのに――思えば、合宿が終わってから杏月と二人きりになる機会なんて、殆ど無かったな。これはこれで、仕方無いとも取れるだろうか。
しかし、杏月が時間の逆転に抗ったということは、あまり良い事ではないのだろう。どこかでシルク・ラシュタール・エレナとも話さなければなるまい。
俺はケーキを見た。ケーキは俺の意志に気付いているのか、うんうん、と頷いている。
「ね、ケーキ。あいつは、人じゃないの?」
あ、そうか。俺とのやり取りを全て思い出したということは、当然ケーキの事も見えるようになって……
「……今のところは、人、です。でも合宿の件があったように、少しずつお姉さんは、人として存在できる範囲を越え始めています」
ふーん、と呟いて、杏月は目を閉じる。そのまま眠ってしまいそうな静けさだったが、杏月はうっすらと目を開き、俺を見た。
「純、ちょっとこっち来て」
……なんだ?
俺は言われるままに立ち上がり、杏月に近付く。杏月は俺の左手を掴むと、――うわっ。
ベッドに向かって、強く引いた。バランスを崩した俺は、杏月に覆い被さるように倒れ込んだ。
「……あは。純、すっごいドキドキしてる」
頬を赤らめて、杏月は言う。杏月は女性らしい服装をしておらず、今日は無地のシャツとジャージなのに、寧ろ今までよりも……
心臓の鼓動が速くなってしまう事を、抑えられなかった。
「純は多分、私と結ばれた方が幸せになれると思うよ」
取り留めもなく、杏月はそんな事を言う。
「なんとなく、分かるんだ。こうして純と出会えて、出会った時から、ああ、この人は私の好きな人なんだろうなーって思った。……でも、純の隣にはいつもあいつがいて、あいつは私よりも純の事を知ってた」
……姉さんが。
そうか。姉さんが先頭を切り、それに嫌々付き合わされる俺。後ろから付いて来る杏月――その光景を杏月の視点から見ると、そのように見えていたのか。
杏月はもしかしたら、俺の知らない所でプレッシャーを感じていたのかもしれない。
姉さんと自分の差についての、プレッシャーを。
「でも、もういいんだ」
「……杏月」
「いや、ネガティブな意味じゃなくて、ほんとに。なんか違うなって思って」
杏月の言葉の意図がわからず、俺は胡乱な顔になってしまった。それを見て、杏月が楽しそうに笑う。
いや、本当に。さっぱり、意味が分からない……
杏月は俺の首に手を回し――んっ!?
「もー、可愛いなあ、純は」
押し付けるような口付けのあと、杏月はそんな事を言った。
思考を制圧するような、強引なキス。俺はすっかり考えていた事が飛んでしまい、体重を杏月に預けた。
夏場の薄いシャツの下は、透き通るように柔らかい。
「私は、多分あいつに憧れてたんだと思う。どうにかして奪いたくて――でも、なんとなくだけど、気付いて。あいつが変な姿になって暴れ出した時、心配になっちゃったんだよ」
――時が戻った後の、姉さんへのキスの意味は。
急速に解決した思考は、俺の中に温かい感情を与えた。
「私、あいつの事も好きだったんだよ。いがみ合って、奪い合ったりしたけど。で、私は二人のこと、大切にしようって思ってた事に気付いたの」
「……俺は、姉さんとは付き合わないぞ」
「別に、そこはどうでもいいのよ。『家族』として大切にできるか、でしょ?」
「だって、杏月は」
「分かってる。……今までは、全然そんな事思ってなかった。でもなんか、元々はそう思ってた気がして。そしたら、今度は純の隣じゃなくても良いかな、って思ったんだよ」
……分かるようで、分からん。
今度は俺の胸に額を押し付け、ぐりぐりと頭を動かした。
「んー! そこは、『家族』にしてくれたパパに感謝、かなっ?」
杏月の中で何が問題として残っていて、何が解決したのか、俺には分からない。
それでも満足そうに微笑む杏月の表情には、少なくとも嘘はないように思えた。親父が話した時にいち早く部屋を出て行ったのは、俺に早くこの話をしたかったからなのかもしれない。
杏月は賢い。
大方、俺が後を追い掛けて部屋に来ることも予想してあったに違いない。
きっと姉さんも怖がったり怯えたりしながら、杏月の事を大切に思っている。
――思っていたら、良いと思った。
「というわけで、純。戻ってきてから色々あったけど、私をもっかい『妹』認定してください」
「変な事言わなくても、お前はずっと俺の妹だよ」
「一日違いでも?」
「変わらねーよ」
「やった!!」
一瞬何が起こったのか分からず、俺は目を白黒させた。物凄い力で視界が反転し、杏月の向こうに天井が見える。
ああ、回転したのか。
俺は押し倒される格好に――……
――うおっ。
杏月は俺に再び唇を押し付け、俺の口内を堪能していた。唐突な出来事に俺は頭が混乱してしまい、抵抗もせずにいた。
唇を離すと、杏月は悪戯っぽく俺に笑い――
「じゃあこれからは、やりたい放題だねっ! お兄ちゃん!」
いや、しないだろ普通のキョウダイはキスとか。……しないだろ。……しないよな?
杏月は俺に馬乗りになったまま、……待てやめろ服を脱ぐな!!
下着はいつも通りのかなり際どいアレだから、ジャージとのギャップがやばい!!
「ねえ、最近ブラがきつくなってきたと思うんだけど。お兄ちゃん、サイズ測ってー」
「……杏月。それは妹じゃない。……ビッチだ」
結局、関係は変わったのか変わっていないのか。
……もう、杏月が満足してるならそれで良いや。
◆
まあ姉さんと杏月との間でゴチャゴチャしていた問題も、それとなく解決したのか解決していないのかも分からないような様子で、俺は実家を後にした。そろそろ姉さんの下に帰らないと。ただでさえ調子が悪いのだ、倒れていたりしたら困るからな。
親父は結局、杏月の部屋を出てからは何も文句を言わなかった。俺と杏月がどういう立ち位置になるのか、ある程度把握していたのだろうか。『離れ』から戻った俺は、親父にニヤニヤとした気持ちの悪い顔をされるだけだった。
親父の事だから、元々その目的で俺を呼び出したのかもしれない。人を小馬鹿にしたような態度ばっかり取りやがって……
でも今回ばっかりは親父のお陰で杏月との関係が固まった事もあるし、本来は感謝しなければいけないのだろうか。
「なんか、負けた気分なんだよなあ」
「はえ? 何がですか?」
「……いや、何でもない」
すっとぼけたケーキの返事に、俺は苦笑した。どうして何でもかんでも把握しているんだ、あの親父は。自分の父親ながら、ちょっと怖いよ。
俺は携帯電話を取り出し、姉さんにコールした。
『あ、純くん?』
「もしもし、姉さん? 今から帰るけど、調子はどう?」
『……うん、まあ、今のところは……駄目。速く帰って来て。純くんが足りない』
そりゃ、俺は居ないんだから足りないだろうよ。
『純くん、お父さんは……なんて?』
「ああ、特に問題ないよ。厄介事がひとつ減っただけかな」
『厄介事……? どういうこと?』
「まあ、帰ったら話すよ」
俺は姉さんの返事を聞いて、電話を切った。進行方向から差し込む夕日が眩しい。ふと公園を見ると、もう子供が居る様子はない。……そうか、もう十七時回ってるのか。今日は姉さんの代わりに、飯くらい作らないとな。
「――さん。純さん」
「どした? ケーキ」
俺の頭の上に凭れ掛かっているケーキが、頭に疑問符を浮かべた。
「なんですか?」
「……え? 今、呼ばなかった?」
「私は呼んでませんよ」
俺は立ち止まり、辺りを見回した。この辺りは人通りが少ないので、夕方でも人はほとんど居ない――……
声がするのは、公園の方からだろうか? 俺は公園の中へと入り、声の主を探した。
瞬間、凄まじい光量が何もない空中から発され、金色の煙が現れる。俺は思わず目を覆った。
「っぽ――――ん!!」
……あ、このノリはアレだ。
シルク・ラシュタール・エレナのやつだ。
眉根を寄せて目を開くと、空中に座るような姿勢で現れたシルク・ラシュタール・エレナが、何か妙なポーズを取って俺にウインクした。
ついに効果音は自分で喋る事にしたらしい。
「シルク・ラシュタール・エレナ、参上でーす!」
「……で、何?」
「もうちょっと良い反応してくださいよー!!」
なんというか、反応に困るんだよ。演出いらないから、普通に登場してくれよ。
全く本当に俺の周りは、親父といい君麻呂といい、親父といいレイラといい親父といい……変な奴ばかりだ。
「良いから、何?」
「そうです、ちょっと問題がありましてー」
シルク・ラシュタール・エレナは普段通り間延びした声で、俺を指差した。
「申し訳ないんですがー、やり直しできる時間がー、卒業よりも短くなってしまいそうなんですー」
……え?
それは適当な顔で言う事じゃなくて、結構問題……じゃないか?