つ『ノットイコールは紅色の薔薇を語れるか』 前編
八月五日、日曜日。早朝とは言い辛い、深夜。
二階堂レイラは真夜中に俺を探し、部屋まで辿り着く。その部屋に俺が居ないと分かれば、別荘の中を探し、そして外の海に気が付くはずだ。あえて別荘の窓から見える位置に座っているのだ。来てくれなければ困る。
しかし……夜の海って、夏場でもそれなりに冷えるんだな。歩道へと続く階段に座り、俺は半袖シャツで来てしまった身体を擦った。思えば前回は浴衣のままで連れて来られたので、そんなに寒く無かったのかもしれない。
あの浴衣、結構良い性能してたんだな……
「純さん、今度は外で待っているんですね」
「前回はたまたま目が覚めなかっただけで、俺が扉を開ける音に姉さんが気付いて目を覚ます可能性はゼロじゃないからな」
なるほど、とケーキが手を叩いた。……どちらかと言えば、姉さんと杏月にぴったりとくっつかれている冷房の効いた部屋で、レイラが来るのを待っているのが苦痛だったという理由の方が意味合いが強いのだが。
まあ、それをあえてケーキに伝える必要もないだろう。
今回は腕時計を持っているので、時刻を確認した。深夜の二時か……そろそろ、一日の中で一番寒くなる時間に到達する。レイラが来るのもそろそろだと思うけど……上着、取って来ようかな。
「風邪引くぞ」
ふと、背中に衣類らしきものが被さった。……ジャケットか。これはありがたい……俺は振り返り、声を掛けた人物を見た。
何だ? 前回は、こんな出来事は起きなかったけれど……
「越後谷」
俺は階段から立ち上がり、歩道の上で俺を見下ろす越後谷の姿を確認した。数少ない街灯に上から照らされているが、顔はよく見えない。
街灯の柱に体重を預け、腕を組んでいた。なんと表現するべきか、その越後谷は異様な雰囲気を身に纏っていた。
「二階堂が今、お前を探してる。……もうじき、来ると思うぜ」
「そ、そうか。ありがとう」
俺は越後谷に手を振って、砂浜に立った。来ると分かっているなら、階段に座っているよりも砂浜に出た方が見付かりやすいだろう。
来たとしても越後谷がこんな所に居たんじゃ、レイラも諦めて戻ってしまうか……? それは困る。俺は昼のうちに予め買っておいた、髪飾りを確認した。
これを渡しておくことで、あえてレイラお気に入りの髪飾りを登場させることなく、その日を終えようという作戦なのに。
――いや。
もしかして、別荘の位置からは、今の越後谷の姿は見えない……のか?
越後谷は街灯の柱に寄り掛かっていて、街灯は海側を向いている。海と反対側に走ってしまえば身体は闇に隠れ、姿を見付ける事は出来なくなるだろう。
「穂苅、お前さ」
俺は、すっかり気にしていなかった。
この越後谷司という男が実はとんでもないダークホースで、とてつもなく勘の鋭い男であるということを。
何度もそのような場面を見て、そして、俺はそれを回避してきた。
越後谷がその中で生まれる様々な疑問を、あるいは一つの謎に繋げる所まで辿り着いている事に、俺は今の今まで気付いていなかった。
「なんか、おかしくねえ?」
――冷や汗が、頬を伝って落ちた。
「……何が? 何言ってんのか、分かんないけど?」
「今、何してる?」
「何も、してないよ。姉さんと杏月が寄ってきて眠れないから、ちょっと夜風に当たろうかと思っただけだ」
「俺は今、二階堂が来る、と言った。お前はそれに、『ありがとう』と答えた」
――やばい。
適当な嘘を付いて、逃げられるような相手じゃない。そう確信させる一言だった。時を戻す度、越後谷からは微妙な反応をされた。積もり積もった疑問が今、こうして俺に向けられているのだろう。
「どうして、ここに居るんだ? お前、昼に誰にも言わず、どこかに出掛けたよな。……何してたんだ」
「何もしてないって。考え過ぎだ」
「じゃあ、今そのポケットには何が入ってる」
いつか、誰かから言われるのではないかと思っていたけれど。
その第一号が越後谷というのは、俺にとっては心臓に悪い。最も遠い存在から問い掛けられるというのは、一気に情報が拡散する恐れがある。
間違っても真実を話すわけには、行かない。
「お前は二階堂の事をそこまで好きじゃない。なのに、今日は二階堂に贈り物をするんだな。……そもそも、何かがおかしいとは思ってた。初めて出会った筈なのに、まるで見知った人間であるかのような顔をされた。間辺慎太郎が仕掛けてきた時の、お前の行動にも謎が残る。……黒いワゴンの時だって、どうして事件が起こる事を知っていたんだ」
越後谷が動いたことで、ちらりと表情が見えた。
気丈で冷静な様子を装ってはいるが、明らかにその表情には不安や焦りの色が浮かんでいた。
――疑っているが、自分が変な事を言っているという意識も、あるのか。
「あれだけ俺の事を好きだと言っていた二階堂が、何故か朝から様子がおかしい。『まるで、一度経験した出来事をあえてなぞっているかのようだ』。二階堂は多分もう俺の事を好きではないし、何故かお前を意識しているような気さえする」
越後谷は眉根を寄せて、怪訝な表情を浮かべていた。
「仮設を立てた。『穂苅純は、俺の知らない時間を、どこかで過ごしているんじゃないか』。それか、あるいは――俺達全員の記憶が、消されているのかもしれない。何時かは分からないけれど、どこかで。お前に」
さて。
「――分かった、分かった。白状するよ」
当然、この場は誤魔化すしかないな。
「今日あたり、どうしようもなくなったレイラが俺に助けを求めて来るんじゃないかって、思ってたんだよ。わざわざ、お前に気に入られそうな髪飾りを探しに行ってたんだ」
「それだ。それも、おかしい。お前はつい昨日――もう一昨日か。まあ、そんな事はどうでもいい。『二階堂さん』って、呼んでたじゃないか」
「昼間に、試しにレイラって呼んだら、こっちの方がしっくりくるかなと思っただけだよ」
越後谷の表情が変わった。自分がおかしい事を言ってしまったのではないかと、焦りを感じているような目だ。
それもそのはず、越後谷の意識の中では、どうやっても詰め切れない『時間の逆流』という問題が残っている。俺が『時間が巻き戻っている』と口にしない限り、越後谷の知らない空白の時間が一体どこで発生したのか、突き止める手段はない。
何しろ、出来事は隠されているのではない。『起こっていない』のだから。
「……そう、か」
「越後谷、お前疲れてるんじゃないか? 随分ファンタジーみたいな事言ってるけど、大丈夫?」
越後谷は頭を抱えた。俺は何も答えない。杏月とレイラに話したのは、たまたまだ。時間が戻る事が大前提だったから、そうする事ができた。
これからもう一度、時間が戻ることは有り得ない。
「……そうだな。すまん、おかしな事を言った」
「良いよ良いよ。戻って寝なよ。……あ、明日からレイラのアタックが強くなるかもしれないけど、勘弁な」
「それは困るからやめてくれ……あ、そうだ。昼間のアレ、見てたぞ」
……あ。
そうか。俺と瑠璃が――慣れないな、この呼び方。瑠璃が岩陰に居た時、その上に越後谷は辿り着くんだっけ。
「俺も変なことするかもしれないけど、勘弁な」
「えっ……」
「ジュン・ホカリ!!」
あっ。
レイラが駆け足でこちらに向かってくるのが見えた。再び視点を階段の上に戻すが――もう、越後谷は居ない。……何だよ。俺、何されるんだ。
越後谷は何を考えているのか分からない……だが最後に見えた楽しそうな表情からは、これから俺を貶めると言っているかのような、悪戯っぽさが感じられた。
「もう、探しましたのよ……どうしてこんな所に居るんですの?」
「ごめん、ちょっと夜風に当たってたんだよ。何か用?」
「こ、ここではちょっと問題ですわ……もう少し、先に行きましょうっ」
レイラの返事を聞くでもなく、俺は街灯の当たらない砂浜の奥へと進んだ。慌てて、レイラが後を付いて来る。この辺りは街灯もまばらにしかなく、更に奥へと進めば真っ暗な闇が続いている。
ふと、その暗闇に染まる海の向こうに、ぼろぼろの姉さんを探してしまうのは、どうしてだろうか。
――俺は、気を引き締めた。
「も、もうこの辺りで良いですわっ! ……ぶ、不気味ですわね……」
前回のように、レイラのペースに合わせていたら時間がいくらあっても足りない。さっさと事を済ませて、俺は明日に備えたい。
レイラよりも数歩ほど俺は更に奥へと進み、振り返ってレイラを見た。
「越後谷をどうにかして、振り向かせたいんだろ?」
レイラの瞳が、驚きに染まる。
「な、なんで……」
「なんとなく? 今日あたり、相談されるんじゃないかと思ってたんだ」
絶句、といった所だろうか。レイラは訳も分からずに俺の目を見て、言葉の真偽を見定めようとしている様子だった。
だが、レイラはふと溜め息を付いて――……両腕で、自身の身体を抱いた。
「……わたくしも、実はそれを言われるような気がしていましたわ」
やっぱり巻き戻った時間の記憶は、完全には消えないのか。
繋がらない記憶は、留めようがない。人は何かしら、どこかで出来事や体験を繋げて物事を覚えるものだ。ならば、その『経験』すら無くなってしまった記憶のやり場を、人はどこに求めれば良いのか。
つまりは、そういうものなのだろう。時を戻す事のリスクとは、同じ時間が二度訪れる訳ではないという部分に集約されるのかもしれない。
蜃気楼のような繋がらない記憶は、やがて無かったことになってしまう。あるいはそれは、既視感のようなもので。
俺はポケットから、予め買っておいた髪飾りを取り出した。あまり自己主張しないタイプの簡素なもので、モチーフになっているのはイルカ。勿論、香りもない。
「こいつを、暫く付けておくと良いよ。越後谷は多分、派手派手しいのは嫌いだ」
……と、思う。まあ、理由など何でもいい。
明日一日を乗り切る事ができれば、俺は何も言うことはないのだから。
「……協力、感謝しますわ」
「それじゃ、また明日な」
さて、まあこんな所だろうか。俺は振り返り、レイラに手を振って別荘へと歩き出した。
イルカとハイビスカスの髪飾りを両方付ける、なんていうことは無いだろうし、一応はこれで回避できるだろう。
そしてゆっくり、今後の対策を考えればいい。
姉さんが暴走する原因が特定できているなら、それを克服する事だって不可能ではないはずだ。
「あ、あの、ジュン」
ふと、呼ばれて立ち止まった。……何だ? まだ、何かあるのだろうか。
振り返ると、レイラは美しい金髪を湖風に靡かせて、受け取った髪飾りの袋を弄っていた。
暗がりなので、表情まではよく見えない。
「……何?」
「わ、わたくしが居ないと寂しいということを証明するために、わたくしとジュンが付き合っている振りをするのは、どう、かなあと……」
だからそれ、あんまり有効じゃないって。
前回は流されて同意するしかなかったけれど、今回は予め対策を考えておいたんだ。その流れに付き合う理由もないだろう。
「……うーん、あんまり良い作戦ではないと思うんだよなあ。普通しないし、両思いにならないと効かないでしょ」
「いえ、それは大丈夫ですわ」
どうしてそこまで、力一杯否定するんだろう。勝算があるようにはとても思えないのだが……
何故か自信満々に、そう言われた。
どうするべきか……まあ、そこまで言うなら乗ってあげても良いのだろうか。
「……まあ、良いけど」
「や、やった!!」
「ああ、でも俺、花柄嫌いなんだ。それだけは覚えておいて」
「……わ、分かりましたわ」
……何故か、とても喜ばれた。
一応、それだけは言っておかないとな。これで花柄の服を着ることも、ハイビスカスの髪飾りを付けてくる事もないだろう。
これで、完全封殺か。
「今日から、わたくしの事をレイラと呼びなさい。良いですわね」
「ああ、分かった。おやすみ、レイラ」
もう、前から呼んでるけどな。
「……不思議、ですわね。なんだか、レイラと呼ばれた方がしっくりきますわ」
レイラには、記憶がない。姉さんが暴走してからの、八月五日の記憶が。
それでも、実際に俺はレイラを助けたり、背負ったりして、親密度を深めている。それは美濃部の時と同じように、やり直した世界に影響することもあるのだろうか。
きっと、あるのだろう。美濃部が二度目のデートで、全く違う反応を示したように。
俯くレイラを見て、俺はそんな事を考えた。
◆
八月五日、日曜日の朝。
前回よりはいくらか眠る事のできた俺は、予定通りの七時に目覚ましをセットして、起き上がった。目覚ましが鳴る前に止める事に成功したので、まだ姉さんも杏月も眠っている。
今日一日は、失敗する訳に行かないのだ。前回は八時に目が覚めた事を覚えていたので、俺は七時に起きる事にした。
こうすることで、姉さんと杏月が起きてくる時間を一時間ずらすことが出来るはずだ。
俺は二人を起こさないようにそっと起き上がり、部屋の扉を開いた。
勿論、眠りこけているケーキを掴む事も忘れない。
「あふん……んん……ぐえ……」
ケーキの腰辺りを掴むと、無駄にブリッジするような姿勢になっていた。……寝苦しそうだ。そのうち起きるだろう。
部屋の扉を閉める。……出だしは好調だ。昨日からシャツとジーンズに着替えていたので、朝の着替えもない。
「あ、おはよう、ほか……純君」
既に瑠璃が起きていて、リビングでフライパンを振るっていた。
「玉子焼き?」
「ううん、スクランブルエッグ。まだ、皆寝てる?」
「お泊り二日目の朝って、大体疲れて眠りこけてるもんだからなあ……もう少し、寝てるんじゃないかな」
「あはは、じゃあもうちょっとだけ寝かせてあげようね」
フライパンを覗き込むと、美味しそうなスクランブルエッグの香りがしてきた。瑠璃は料理も上手いのか。超人的な身体能力を除けば、やはり姉さんに勝るとも劣らない……
瑠璃は顔を赤くして、俯いた。
「……純君、あ、あんま、じっくり見ないで。……照れます」
「あっ、ああ、ごめんっ」
長いポニーテールが揺れた。照れている瑠璃は、やはり可愛い。姉さんだったらここで、肉体的誘惑に入る所だからな……
しかし、なんだか姉さんと姿を重ねてしまうなあ。背格好が似ているのだろうか。
「純、君?」
瑠璃が目を瞬かせて、声のする方を見た。
そこには、フリルの付いた可愛らしい服装の、美濃部が――……
――――あれ?