つ『淡い恋の詩は胸に届くか』 後編
「――――えっ?」
何が起きたのか分からず、始めは痛みも感じなかった。俺は驚愕に目を見開いたままで、姉さんもまた、同じような顔をしていた。
動いたのは一瞬。そして、遅れて腹から血が吹き出す。
――俺の、腹から。
「あがあっ――――!?」
俺はどうすることもできず、口から血を吐いた。ぐりぐりと動く姉さんの左腕は、まるでそれが意思を持っているかのように、俺の腹を這いずり回る。
なんだよ。
――なんだよ、これ。
俺が攻撃されるのは、ある程度予想されていた事だ。それは覚悟していたつもりだったし、死ぬつもりではいた。
死ぬだけの苦痛を何度も味わった俺は、耐えるための覚悟をしていたのだ。
――なのに。
「――やめてっ!! ――なんで!? やめてよ!!」
どうして姉さんは、悲痛に顔を歪ませながら、俺の腹を抉っているのか。
腕が引き抜かれると、俺は砂浜に投げられた。仰向けに転がり、くり抜かれた腹の穴から血が広がっていく。
水風船でも割ったかのように、砂浜は濡れていく。ただし、それは絵の具のように真っ赤に。
それでも飽き足らず、姉さんは俺の上に馬乗りになった。
両手で首を掴まれ、万力を込められた。
「うあ――!! うあああああ――――!! 止まれ!! 止まれ!! この!!」
姉さんが口では抵抗しながら、身体で俺を殺しに掛かっている。
止めどなく溢れる涙は俺の頬に当たり、砂浜へと流れていく。
ケーキが砂浜に落ち、腹を抑えて蹲った。
「なんで、私……嫌だよ。やめてよ。お願い、誰か、誰か――」
――ああ。
俺と姉さんの関係は、呪われている。
本心ではないんだ。
姉さんが俺を殺したがっているのは、本心ではない。内側に居るもう一人の姉さんが、表面上に現れたり、隠れたりしているんだ。
ごめん、姉さん。
今の俺では、姉さんを助ける事ができない。
こんな、無力な俺では。
でもきっと、姉さんを呪縛から解き放ってみせるから。
――俺の事を、忘れさせてみせる。
◆
携帯電話のアラーム音がして、俺は目を覚ました。
すぐに起き上がり、俺はその場の状況を確認する。俺は――ベッドに寝ていない。和室には布団が二つ、並んでいる。その真ん中に寝ている俺。俺の激しい動きに少しだけ目を覚ましたのか、姉さんが何度かもぞもぞと動いて――また寝た。
携帯電話を止めて、俺は日時を確認する。
八月四日。……そうか、結局姉さんに殺されたのは、日付が変わった後だった。やはり適当な時間に戻っている訳ではなく、時間が戻る法則はあるのだと再確認した。
一応、あのテキストファイルも確認しておくか。
六回目の死亡について、俺は簡潔に記した。姉さんが豹変したことについても、記述しておく。
こいこがれるしのか、という単語は消えている。
天界の監視に対するシルク・ラシュタール・エレナの防衛策なのかどうかは分からないが、一応解決のきっかけとなる推理はできた。
後は、それを実践するのみ――……
俺はケーキを揺さぶり起こすと、拾い上げて頭の上に乗せた。
「ふにゃっ!? ……あ、純さん」
「行こう、ケーキ」
八月四日は、皆で海に出る日だ。朝食の後にヒロイン決めをやり、決まらずに海に出る。
「……時間、戻りましたね」
頭の上でケーキが呟いた。落ちそうになりながら、諦めて俺の胸へと移動するケーキを見て、俺はリビングへと向かう。
キーワードは、『赤いハイビスカス』。
恋い焦がれる花の香りを、消しに行こう。
「純くん純くん、こっちおいでよー!!」
朝はひとまず、前回と同じように進めた。前回までは時が戻ってから問題解決までにあまり時間が取れなかったので、他のことを考える余裕が無かった。
対して今回は、八月四日の土曜日、丸々一日分の時間がある。
八月五日の朝に、二階堂レイラが赤いハイビスカスの髪飾りをして来ない方向で進めれば良いのだから、そう難しい話ではない。
「純、サンオイル塗ってー」
レジャーシートの上で杏月が、背中を出して俺に声を掛けた。
……杏月には、前回までの功績があるからな。これくらいは手伝ってやっても良いだろうか。
俺は溜め息を付いて苦笑すると、杏月の隣にあるサンオイルを手に取った。
「……えっ? 純、あれっ? ……塗ってくれるの?」
「ああ、いいよ」
杏月が仰天して、俺を見ていた。……まあ、杏月は俺の心境など分かり切っているだろうから、これは予想を裏切る行為とも言えるか。すべすべとした背中に、俺はサンオイルを広げた。
……うーん、見方によるだろうが、これは確かにエロいな。
「ちょっ……あはは!! くすぐった……は、んっ!! ストップ、ストップ!!」
なんだよ。人がせっかく、要望に応えてやっているというのに。怪訝な顔で杏月を見ると、杏月は素早くビキニを直し、身体を起こして俺に向き直った。
……なんで、正座なんだ。
「……わっ、……うわー」
隣で美濃部が、これまた慌てて俺と杏月の様子を見ていた。
「……ごめん、背中……弱いみたい」
杏月はそう言って、俺に両手を差し出した。サンオイルを返せ、ということだろうか。杏月にサンオイルを手渡すと、杏月はそれの蓋を開け――ぶっ。
ちょ、何で俺に……やめろ、気持ち悪っ……うわあ!!
なんで俺がサンオイル振り掛けられてんだよ!!
「ええっ!? ……うわ、わー……」
美濃部が顔を真っ赤にして、……しっかり俺と杏月の様子を観察していた。
杏月は色っぽい眼差しで、べとべとになった俺の身体に覆い被さり――
「おい、杏月!! 待てお前、何が一体どうした!!」
「……純、はあ……キス、しよ」
美濃部が見ているこの状況で!? 遠くで俺の様子を観察していた姉さんが、丁度何事かと気付いた様子だった。こちらに向かって来る……いつもと姉さん、杏月の立場が逆だ。
青木さんは既に居ないし、そろそろ越後谷とレイラが登場する頃じゃないだろうか。
ああ、それを君麻呂が後ろから追い掛けるんだけど――って、そんな事を考えている場合ではなくてさ!
「んっ……純、好きいー。ねえ、好きって言ってー」
普段の二倍は甘えん坊な顔で、杏月が俺の胸に顔を寄せてくる。……なんか、変だぞ? こんな展開、前回には無かった――……
「――良かった、本当に。……無事で」
――――えっ?
「こら、杏月!! 純くんが困ってるでしょ、やめなさい!!」
――その時、聞き取る事が難しい程に小さく、呟かれた気がした。
急激に動いた心臓は俺の身体を冷やし、俺は炎天下の中、冷や汗を流した。
姉さんが杏月の手を引き、行為を止めさせようとした。それを見て、杏月は――姉さんに飛び付き、姉さんの唇を――え、ええっ!?
美濃部は既に言葉もなく、呆気にとられて杏月の様子を見守っている。
「んっ!? ……んん!?」
姉さんが訳も分からず、されるがままになっていた。……ビキニの女性二人が揉み合う様は、それはもうなんというか……なんというかである。
遠くから越後谷が走って来て、姉さんと杏月に視線を合わせた。
「――百合か」
それだけ呟いて、その場を通り過ぎる。
何だ、この混沌とした状況は。……それより、杏月は一体どうしてしまったんだ?
杏月は何も言わず、ただ姉さんの身体を弄っている。……弄るなよ。遅れて走って来たレイラが、この異常事態を確認して顔を真っ赤にした。
「へっ!? ……な、なんですのこの状況は!? ジュン・ホカリ!! なんですの、この状況は!!」
二回も言うなよ。俺が聞きたいよ。
姉さんがようやく杏月の唇から逃れ、目を白黒させて杏月を見た。
「……あ、杏月? ……どう、したの?」
「……なんでもない」
途端に杏月は不機嫌な顔になって、姉さんの胸に顔を埋めた。
何でもないってことは、無いだろうよ。……でも、この状況。まさかとは思うが、……まさか。
良かった、無事で。その台詞の裏に隠れている事なんて、俺には一つしか思い浮かばない。
でも、レイラは何も気付いていない様子だし――……
「ところでさ、レイラ」
「……ジュン・ホカリ!? どうしてわたくしの名前を呼び捨てに……無礼な男ですわね!!」
……覚えていないだろう。明らかに。
ならば、俺の気のせいだろうか。
いや、でも。そうでないのなら、この杏月の態度は一体何なんだ。よもや、サンオイルを塗られただけでこうなるとは……考え辛い。
「純、なんかサンオイルって全身塗りたくると、アレみたいだよね」
なんだよ。
……よもや、サンオイルを塗られただけでこうなるとは思えないが……どうなんだ。杏月に限り、それは有り得るのか。
いけない、そろそろ青木さんの所に向かわなければ。
「そろそろお昼だよね。俺、青木さんを呼んでくるよ」
俺は立ち上がり、そう言ってその場を離れ――いや、待て。一つだけ忘れていた。
「美濃部、美濃部」
「えっ!? ――はっ、はっ、はい!! な、な、な、なんでしょうか!!」
「俺はホモじゃない。越後谷がホモなんだ」
ついでに、そう言っておいた。
「ちょっ……ゼエ、ゼエ……待っ……」
君麻呂、改めて思うが、お前は体力が無さ過ぎる。
◆
この日をやり直す事が確実になった時、俺はこのタイミングのやり取りをどうするべきか、考えていた。
失敗したような気がしたのだ。できれば、もう一度やり直したいと思っていた。
自分に嘘だけは、付かないでね。素直でいてね。
その台詞の後に青木さんは、おそらくは自分の中にあった告白を、胸の内にそっと閉じ込めたように思えたのだ。
そして告白はそれきり闇に消え、その後に聞くことは無いのだろうと思えた――……
ここで本音を聞くのは、正解だったのか。それとも、不正解だったのか。
ただ、少なくとも正解ではなかった。そう思う。
「……なんとも思ってない。……ちょっと、思ってる」
青木さんの気持ちを焦らせる事で、俺は早急に決断を求めてしまった。結局の所、俺のことが嫌いなのか、どうなのかと迫った。
そうすることで、青木さんの中にあった、言葉に出来ない気持ちの正体を特定させてしまったのだ。
「あー、もう……」
「……青木さん」
「わひゃいっ!?」
飛び跳ねるように岩陰から振り返った青木さんは、俺の姿を確認すると目を白黒させた。顔を真っ赤にして、何やらもじもじと動いている。
……あの日と同じだ。
「ほっ!? 穂苅君!? な、なんで!?」
「そろそろお昼にしようかって、言ってたから」
「あああそうそうなんだねっ! わかった、すぐに向かうからっ」
青木さんは俺と目を合わせないようにして、水面を凝視していた。俺と一緒に居ることで、居心地が悪いのだろうと思う。
――なら、
「……あの、青木さん、さ」
「なっ、ナニ、かな」
「合宿始まってから、俺のこと避けてるよね」
あえて、責めるように言った。青木さんの身体が固まる。
青木さんは悶えていた動きを止め、両手を胸の前に持って来た。どこか、俺との間に壁を作りたがっているように。
相変わらず、目は合わせないままで。
「……ご、ごめんね。気になった?」
少しだけ申し訳無さそうに、青木さんは言う。
……分かってる。ここで俺が、最も青木さんを焦らせる一言を口にしてしまったのだ。まるで今まで積み上げてきたモノを一度に倒してしまったかのような、嫌な感覚を覚えていた。
ここ場面では、本当は青木さんを信頼しなければいけなかった。
「俺はさ。青木さんのこと、好きだと思ってるから」
青木さんが、目を見開いて俺を見る。――瞬間、
ただでさえ赤い顔が、それはもうすごいことになってしまった。
「――はっ、えっ!? ――えっと、……あの、それは……」
「一緒にドラマを作る、仲間として」
なんとなく。
恋愛の駆け引きって、こういうやつなんだろうか、なんて。
「……そ、そっか。そうだよね。……うん、私も穂苅君のこと、好きだよ……なんだあ。そっかあ」
「青木さん」
「……ん、何?」
言わなければいけない事があるのだ。
それはきっと、青木さんが俺の口から聞きたかった言葉なのだろうから。
「自分に嘘だけは、付かないでね。素直でいてね」
青木さんの瞳が揺れる。
多分やり直すとしたら、こんな感じではないだろうか。青木さんの中では、俺が必要以上に詰め寄った時の記憶が完全には消えず、心の何処かに残っているのかもしれない。それでも、俺は言おうと思った。
前回のあの時は青木さんが耐えてくれただけで、俺はきっと、関係を壊そうとしていたのだと思う。
「――――うんっ」
青木さんは嬉しそうに、頷いた。
よし、次は髪飾りだ。今の段階では全く仲良くない二階堂レイラを、俺の方に引き寄せる。おそらく、昼の十二時を回った所だろうか。
大丈夫。今の時間なら、余裕はたっぷりある。
「青木さん、行こう。昼、始まっちゃう」
「うん。……あの、穂苅君」
不意に、引き止められた。青木さんは俺の腕を掴んで、頬を紅潮させて俯いていた。
その表情に、胸が高鳴った。
「……ほ、穂苅君のこと、純君って、呼んでも、いい?」
――思考が、固まる。
「そっ、それで、私のことも、る、瑠璃って、呼ん――ごめんごめんなさいなんでもないです!!」
あー。
あれだ。やっぱ、青木さん――青木瑠璃って、こういうところが可愛いんだよな。
「行こう、瑠璃」
青木さん――瑠璃が、水の底に沈んだ。