つ『紅い華やかな瞳に真実は隠れるか』 前編
轟音と共に、あちこちから悲鳴が上がる。白い腕が見えた辺りで、俺はそこに何が現れたのかを把握した。身体が芯から冷えるような錯覚に襲われ、俺は思わず喉を鳴らした。
それなりの距離を逃げてきた筈なのに、俺の居場所がバレているのか? 元々姉さんは、俺の居場所に敏感だ。まるで示し合わせたかのように、いつも姉さんは俺の前に現れる――それも、恐ろしい速度で。
手を引かれる感覚があった。流れるように俺は、杏月と共に店を出る。
「行くよ!!」
「えっ……待って!! 置いて行かないでくださいまし!!」
レイラが顔を真っ青にして目尻に涙を浮かべ、俺と杏月に必死で付いて来る。……レイラもそれなりに運動は達者な方だとはいえ、穂苅恭一郎に鍛えられてきた杏月の比ではないか。何故俺が杏月の速度に付いて行けているのかは、よく分からないが。
駅の自動車事故の時といい、何か、潜在能力のようなものが開花してきているのかもしれない。
ファミリーレストランを出て、杏月が目指したのは繁華街。……あまり事を大きくすると、噂だけでもあっという間に広まる可能性がないか? もしも街の外に噂が知れたら……しかし、他に逃げる場所もない。
それにしても、あまりに速すぎる。黒い翼で、飛んで来たのかもしれない。
「杏月! どこに逃げるんだ?」
「密閉された建物の中。できれば、匂いが消える場所。……どっか、ないかな」
匂い、か。確かにそれは、姉さんの中で有力な情報になっているかもしれない。杏月も姉さんの鼻がおかしい程に良く利く事に気付いていたのか。追い掛けられるのは俺だけだったから、他の人にはあまり知られ難い情報だと思っていたが。
繁華街をジグザグに駆け抜け、地下通路へと潜る。地下であれば、姉さんも飛んで来る事はできない。杏月のコースは完璧だ。
しかし、今の姉さん相手に何時間逃げられるのかは、正直よく分からない。
いや、そもそも逃げているだけじゃ駄目なんだよ。どうにかして、俺は姉さんが暴走した原因を探り当てなければならないのだから。
と言っても、何か推理するきっかけがなければ、考え始める事も出来ない。
レイラを見ていて、何か姉さんの暴走のきっかけを掴めれば良いのだが。
……あれ? そういえば、レイラは。
俺は後ろを振り返った。
「――ちょ、杏月、ストップ」
レイラが転んで、膝を押さえていた。俺はレイラに駆け寄る。
ヒールの踵が折れていた。……え? ちゃんと見てなかったけど、今までヒールで走ってたのか? ……よく付いて来たな。前言撤回、運動神経は相当良いらしい。
「だから、付いて来なきゃ良いのに」
杏月が悪態を付いた。
まあ足手まといになるなら置いて行けというのは最も有力な手段だ。一人になったレイラが姉さんに襲われる事はないだろうし、二人になった俺達はより身軽に動く事ができる。
杏月が協力してくれた時の戦力が何倍にも跳ね上がるということは実証済みだし、何よりいざという時に庇う人間が少なくて楽だ。
俺としては、できれば付いて来て欲しいけれど、あまり無理を言う訳にはいかないし……
ここらへんが、潮時かな。
「……レイラ、その足じゃもう一緒に行動するのは無理だろ。失敗に終わったら連絡するから、そこら辺の喫茶店で休んでいてくれよ」
「嫌ですわ。……わたくしも行きます」
「あんたねえ!! 分からないの!? 邪魔なの!! 私と純だけの方が、都合が良いのよ!!」
レイラは杏月の言葉に、俯いてしまった。杏月はいつも言い方は厳しいが、言っている内容は正論ばかりだ。これ以上無理に協力をしようとしても、足を引っ張るだけの可能性が高いだろう――……
「……嫌ですわ」
だが、レイラは杏月に抵抗した。
「わたくしが、ジュンの姉をおかしくさせてしまったのだとしたら――責任はわたくしにありますもの」
意外にも責任感の強いレイラの言葉に、杏月の表情が緩んだ。巻き込まれているだけだということは明確なことだが、本人には罪の意識があるらしい。
「無礼を働いて放っておくことは、お父様の意志に反しますわ」
そう言って、レイラは無理に立ち上がった。片方だけ折れたヒールを脱いで、レイラはストッキングのままで地面に立つ。その表情には、はっきりとした覚悟が見て取れる。
……やれやれ。レイラの尊敬するお父様も、さぞかし自分の娘が誇らしい事だろう。
俺は立ち上がったレイラの腕を掴み、自分の背中に背負った。
「なっ……!? ジュン!?」
「その足じゃ歩けないだろ。大人しく背負われてろ」
「こ、こんなはしたない格好で外なんて歩けませんわ!!」
「うるさい、時間がない。何処に行く」
レイラは俺よりも背が高いが、身体は細いので体重はかなり軽い。階段なんかで天井が低い所があったら、少し気を使ってやらなければ。
走り出すと、レイラは大人しくなった。杏月がレイラを睨んで、舌打ちしながら走る。
「ポイント稼ぎやがって……」
何も俺に関わる全ての女子に敵意を示さなくても。と思う。
しかし、無駄に時間を使ってしまった。地下道とはいえ、姉さんが探しに来ることは勿論可能だ。あの様子では、俺が居る場所など始めから特定されているように思える。
とにかく、考える時間を稼ぎたい。別に事が終わったら殺すなり、姉さんの好きにしていいんだ。姉さんの暴走を食い止める手段を見つけるまでの時間さえ、稼ぐことができれば。
「――水族館」
不意に、背中のレイラがぽつりと呟いた。
俺は背中に背負っているので見えないが、杏月が不機嫌な顔をしてレイラを見上げる。
「駅の近くに、水族館がありますわ! 魚と海の匂いが強いですから、もしも匂いで追っているなら逃げられる確率は高い筈です!!」
なるほど。
やるじゃん、レイラ。そう思いながら、俺は走るスピードを上げた。一度でも振り切る事が出来れば、その時間を使って考える事も可能なはずだ。
とにかく、今は考えている余裕がない。
「……純」
「どうした? 杏月」
杏月が息を切らしながら、言った。
「……あんた、……速くない?」
確かに、背中にレイラを乗せているというのに俺の走るスピードはいつもと変わらず、寧ろ速いくらいだ。杏月の走るスピードに合わせている程に。
やっぱり、俺にも越後谷の一件以来、何らかの身体強化が働いているのかもしれない。
それが何なのかも、どういうきっかけで現れたのかも分からないが。
それより、一体何だ? 頭上が、揺れているような――……
「……やばい。杏月、やばい」
「な、なによ」
……もしかして、これって。
考えるよりも早く、事件は起きた。
「……これは、いくらなんでも……おかしいだろ――!!」
ミシミシと軋むような音がして、俺はレイラを背中におぶったまま、左手を伸ばして杏月の手を握る。そうして、走るスピードを更に上げた。
瞬間、地下道の天井が砕け、今まで俺達が走っていた位置にコンクリートの塊が落ちて来る。人々は叫び、逃げ惑った。
そこに降りて来る、真っ黒な翼の天使――
――やばいやばいやばい!!
真っ直ぐにその瞳は、こちらを見ている。
「嘘でしょ――!?」
杏月が叫ぶ。地下道なら、空を飛んで追い掛ける事が出来ない、だって?
そこが地下道なら、ぶっ壊せば良いじゃないか!!
常人なら有り得ない。だが、簡単な話だった。姉さんは常人じゃない、既に人であるかどうかすら怪しいのだから。
「……ローウェン。……大丈夫よ、今度は絶対にあなたから離れたりしない。命尽きて白骨になるまで、生まれ変わっても、私達はずっと一緒よ」
俺は姉さんからどんどん離れている筈なのに、何故か姉さんの声はしっかりと耳に届いた。
声が大きいと言うよりは、テレパシーのようなもので直接頭に届いている感じだ。いや、勿論今までにテレパシーを受けた事など無いので、感覚でしかないのだが。
俺は少しだけ振り返り、姉さんを見た。相変わらず真っ黒になった髪と、黒い翼。高速で飛んで来たからなのか、服は所々破けてなくなり――そして、真紅の瞳が俺を見据えていた。
姉さんは、生気のない笑顔を浮かべている――
まるでブリッジをするように、姉さんの身体が反対側に大きく折れ曲がり――ちょっと待てよ、あの角度はおかしいだろ!? モンスターかよ!!
背中の翼が、大きく羽ばたかれる。
「純!! 階段!! もう地下道は使えないわ!! 上がろう!!」
杏月が指差した。――ま、間に合うのか!? 服が破れる程高速で飛んで来たんだろ。正直、こんな距離じゃ階段を上がる暇なんて――……
姉さんが――高速で、俺に飛んで来る。
――あっ。
俺、死んだかも……
「ぐあァッ!!」
俺は咄嗟にレイラを地面に降ろし、姉さんの突進を喰らって階段に激突した。衝撃で地下道が大きく揺れ、階段を上がっていた杏月がその場に伏せる。
強烈に後頭部を打ち、階段にめり込んだ、俺の意識が遠くなっていく――……
「やっと、見付けた。――ごめんね。一人にして、ごめん。大好きよ、骨まで愛してあげる」
――遠くなっている、場合か!!
俺はしっかりと目を開き、姉さんを見据えた。姉さんは薄ら笑いを浮かべながら、細い腕で万力を発揮し、俺の首を絞めてくる。……やばい。本当に、死にそうだ。
いや、普通ならとっくに死んでいる。
「耐えて、純!!」
杏月が叫んだ。……耐えてって、こんな状態でいくらも保つわけ……
浮かび上がった意識が、再び奈落の底に沈もうとしていた。
ああ。何のヒントもないまま、俺は時間が戻る事になるのか。
こんな状態になってしまったら、時間がちゃんと戻るかどうかも怪しいが――……
「――ぐえっ!?」
姉さんの頭が何かに弾かれたように俺に迫り、激突した。ふと腕力が緩み、俺は慌てて姉さんの右手を首から離す。
杏月がコンクリートの塊を持って、姉さんの後頭部を殴ったらしい。
……なんて度胸のある奴だろうか。
姉さんの瞳が、俺を離れて杏月に向いた。
「……フィリシア……邪魔を、しないで……」
目を大きく見開いて、杏月を見ていた。杏月が恐怖のためか、蒼白になってコンクリートの塊を落とす。
「ねえ、私はローウェンを不幸にしたい訳じゃないの。分かるでしょう……? 貴女なら、私の気持ちが分かる……」
「……く、来んなバカ!! 目を覚ましなさいよ!!」
「貴女じゃあ、彼を助けられない……助けられない、助け、タス、あは、あっはっはっは!!」
姉さんは泣きながら笑う。ゆらゆらと揺れて、今度は杏月に近付いた。抵抗しても無駄だと悟ったのか、杏月が固く目を閉じて姉さんの攻撃を受け止めようとする。
俺は起き上がり、状況を確認した。
――やばい。姉さんの攻撃が杏月に届いたら、杏月が死んでしまう。
そうなれば、もう猶予は――……
どうする!? どうするどうする!!
何か、姉さんに弱点はないのか!?
幸いにも、姉さんは先程の杏月による攻撃が効いたのか、まだ覚束ない足取りで杏月に向かっていた。
姉さんの弱点!? 素直に戦ったって勝ち目はない。とにかく、今は俺以外に攻撃を受けている人間は居ない。どうにかして他の誰も攻撃を受けず逃げられれば、それさえ叶えば――……
「フィリシア、貴女も分からなくなっているのね。大丈夫、私が助けるよ。分からないなら、一緒に逝こう?」
――――あった。
俺は一足飛びにレイラに近付き、レイラの頭に挿さっている、ハイビスカスの髪飾りを手に取った。
香りを確かめる。
――大丈夫。作り物でも、香りさえあれば大丈夫だ。
「レイラ、借りる」
「えっ……」
俺はハイビスカスの髪飾りを取り、姉さんに向かった。姉さんは丁度、杏月の肩に手を掛けている所だった。訳の分からない事を呟きながら、イカレた瞳で杏月を見ている。
――姉さんの『闇』から、逃げるな。この時は、絶対に戻る。自分に心の中でそう言い聞かせ、俺は姉さんの鼻に、そのハイビスカスの髪飾りを押し付けた。
今の姉さんの鼻は、きっと元の姉さんよりも遥かに優れている筈だ。元の姉さんが既に人間離れした嗅覚を持っていたのにも関わらず、だ。
それを考えれば、常人と比較した刺激の倍率は計り知れない高さだろう。
「ひっ――――!?」
想定通り、姉さんは鼻を押さえて崩れ落ちた。余程衝撃的だったようで、顔を抑えて悶えていた。
俺は目を閉じている杏月の手を引き、レイラを背負い、走り出す。
走れ!! このチャンスを逃したら、次は絶対に逃げられる事は無いぞ!!
自分にそう言い聞かせ、無我夢中で走った。息が切れる事よりも精神的なプレッシャー、恐怖による身体の硬直が走ることの邪魔をする。姉さんは最早、化け物だった。俺を追い掛ける化け物――……
どうして、そんなにも必死になって俺を殺そうとするのだろうか。憎まれているなら、それは復讐のためだろうが――とてもではないが、そんな様子は見られない。
あんな姉さんは、見たくない。何故だか混乱した思考の中で、俺はそんな事を考えていた。