つ『その死に価値は生まれるか』 前編
二階堂レイラは俺を夜の砂浜まで連れて来た。別荘の勝手口から漏れる微かな明かりによって、ようやく海と空の境界線が分かるというほどに、夜の海というものは暗い。一目見て、俺は不思議と恐怖を覚えた。
勝手口が完全に閉まると、頼りになるのは月明かりだけ。目が慣れるのに数秒の時間を必要とした。程なくして、うっすらと波の動きが見えてくる。
今夜は月が明るいので、それが視界の僅かな助けになっているのだろう。二階堂は気にも留めていないのか、俺の手を掴んでずんずんと歩いて行く。
「ちょ、ちょっと。二階堂さん」
俺が声を掛けても、二階堂は返事をしない。別荘がどんどんと離れて行き、明かりが遠くなっていく。それに従って、海はより深く、暗闇に包まれた。
真夜中に呼び出したかと思えば、これだ。……どの道眠れなかっただろうという問題はあったが、だからといって起きて活動したい訳ではない。
二階堂は振り返ると、俺の手を振り払った。
「い、いつまで手を繋いでいるつもりですのっ!? ……ふん、これだから庶民はっ」
えー……
「……あのう、二階堂さん。俺に相談があったから、ここまで連れて来たんだよね?」
「連れて来てなど居ませんわ!! 貴方が勝手に付いて来たんでしょう!? 言い掛かりはやめて欲しいですわね!!」
……うーん。
難しい、娘だな。
二階堂は腕を組んで、薄目を開けて俺を睨むように見詰めた。何か、品定めをしているかのような目だった。だが視線はそのうち、周りの状況に集中していった。
「……なんだか、不気味ですわね」
「いや、アンタが連れて来たんでしょ」
「こ、これでもわたくしは合気道をやっているのですわよ。変な事をしたら、許しませんからね」
「何もしねーよ!!」
アホらしい。そもそも、二階堂さんが俺に用事とも思えないし。大方、一人では眠れなくなったとか、そんな所ではないだろうか。俺はそのように予測した。
そんな、お嬢様の戯れに付き合っている必要もないかな。
明日こそ、本格的に練習を始めるかもしれないしな。……戻ろう。
「あっ……!! ちょっ……」
二階堂が俺の袖を掴んで、離さない。……何だよ。俺より背が高い女の人は姉さん一人で十分なんだよ。
完全に勝手な言い掛かりだということは分かっていたが、つい恨めしく思えてしまった。背は高いし、金髪だし、わりと美人だし……加えてお嬢様だろ? 性格以外は姉さんと似たようなスペックじゃないか。
あ、身体能力的な差はあるか。まあ、どうでもいいのだが。
「……何?」
「いえ……その……」
煮え切らない二階堂の態度に、俺は眉根を寄せた。……何なんだ。さっさと解放してくれよ。何を考えているのか知らないが、俺にとってはロクな事ではないだろう。
何も起こらないのなら、それに越したことはない。
「――ふ、ふん!! どうしてもと言うなら、わたくしのお手伝いをさせてあげてもよろしくてよ!?」
帰ろう。
「ごっ……ごめ、なさっ……ちょっと、待っ……」
二階堂が俺の腕を引っ張るのを無視して、俺はずるずると二階堂を引き摺ったまま歩く。……砂浜で良かったな。運動靴を履いている俺は、サンダルの二階堂に突っ張る余裕を与えない。
「何だよ!! 俺は眠いの!!」
……おや。
暗がりで良く分からなかったが、二階堂の様子は結構必死だ。顔が近付くと、その目尻に涙が浮かんでいるのが分かった。
そこまで来ているのに、素直に俺と話をする事が出来ないとは……。二階堂も、相当な捻くれ者ということか。
思わず、溜め息を付いてしまった。
「……何? 話くらい、聞いてあげるよ」
ぱあ、と二階堂の表情が明るくなった。……何だ、笑えば結構可愛いじゃないか。
と思っていたら、二階堂はすぐに元の仏頂面に戻ってしまった。
「ふん……仕方ないですわね。そ、そこまで言うなら、わたくしに協力させてあげましょう」
……あ、嬉しそう。すごく嬉しそうだ。
なんか、二階堂を見ていると苛めたくなる衝動に駆られるな……。どうしてだろう。今までに見たことのない、初めてのタイプだった。
高い背のわりに胸もないから、胸に動揺する俺としてはありがたい。
「……で?」
「乙女の話は座って聞くものですわよ」
ムカつくなー。
とは思ったが、話が先に進まないのでひとまず座ることに。
「……ふふ」
あ、笑ってる。頑張って表情を隠しているが、あれは笑っているぞ。
二階堂はその場に座り込んだ俺の隣に、体育座りをするように座った。
……なんだろう、不思議と可愛く思えてきた。理由は分からないが。
愛玩動物を可愛がる時のような感覚に似ているかもしれない。二階堂『らしさ』に慣れてきてしまったのだろうか。
「……で?」
「あのっ、……あのですわねっ。わたくし、ですわねっ」
落ち着けよ。『わたくし』と『ですわ』しか言ってないぞ……。
二階堂は僅かに頬を染めて、妙に慌てた態度だった。こんな暗闇に二階堂と二人で居る所を他の人物に見られたくないので、出来ればさっさと済ませたいのだけれど……。
「……ですから、わたくし、ですが……あのですわね」
「……帰っていい?」
「言い辛いのですわ!! バカ!!」
「逆ギレ!?」
二階堂は何度か深呼吸をしていた。俺は欠伸をして、どうにか眠気を堪える。さっきまでも姉さんと杏月に挟まれて眠れなかったから、俺はかなり眠いんだが……。
「わたくし、ツカサ・エチゴヤのことが……好きですの」
「知ってるけど」
「でも、ツカサ・エチゴヤは振り向いてくれないのですわ」
そりゃあ、態度が悪いからだろ。……二階堂くらいの美人になれば、余程性格に問題がなければフリーの男は大概許可するだろうに。
まあ、その性格に大層難があるのが二階堂レイラという娘だ、という意見もありそうだが。
二階堂は自分に言い寄ってくる人間は本気で蹴り飛ばす癖に、何故か二階堂を避ける人間ばかり好きになる、と噂だからな。
お陰で我儘娘というレッテルまで貼られているのだ。
「……どうしていいのか、分からないのですわ。恋愛経験なんて……ありますわ、バカ!!」
無いらしい。
「……で?」
「あ、ありますけど……でも、ちょっとお付き合いさせて頂いている期間は短くて、ですわね。情報が、た、足りない……」
言葉にしていくうちに声が尻すぼみに小さくなっていく二階堂の顔が、長い金髪に隠れた。
つまり、二階堂は恋愛経験が無いので、俺に助けを依頼したい、ということらしい。……助けって何をするんだよ。恋のキューピットばりに、二階堂の魅力を越後谷に伝えれば良いのか。
俺が声を掛けた所で、越後谷が振り向くとは到底思えないが……。
「じゃあ、何で手当たり次第に告白なんか……」
「手当たり次第になんてしてませんわ!! バカ!!」
疲れるなあ……。
「断じてしていませんけど、……告白しないと、先には進めない事ですし、仕方ないのですわ」
「……普通に仲良くなれば良いんじゃないの?」
「だって!! マンガでは……あっ、わ、わたくしの知っている恋愛小説では、告白から先にするものだと」
「あー、はいはい。もういいよ」
確かに少女漫画って、告白して何故かOKされて、そこから物語がスタートしたりするよなあ。
理由も分からずに好きになり始める展開ばかりを読んでいれば、そのように行動する女子もまた現れるということか。まあ、少女漫画は運命を求め、少年漫画は成長を求めるって、どこかで見たような気もするし。
二階堂はつまり、それに踊らされてきたということか。
「じゃあ、二階堂さんは越後谷のこと、本当に好きなの?」
「勿論、格好良いと思いますわ!!」
「……中身は?」
奇妙な間の後、二階堂は言った。
「だ、だって。まだお話したことも、あまりありませんし……」
諸君。二階堂レイラは、思ったよりも駄目な人間だったぞ。
いや、何となく分かっていたような気もするけれど。つまり二階堂は、自分好みの顔を持っている男に対して、運命を求めて手当たり次第に告白しまくっていた、ということになるじゃないか。
いくら何でもそれは、断られても仕方ないだろうに……
「……あのさ。悪いんだけどそれはー、恋では、無いんじゃないかなあ」
やれやれ。何の相談が来るのかと思えば、大したことな――うおおうっ!?
二階堂の頬から溢れるものを見て、俺はぎょっとしてしまった。……泣くのか!? 俺何か悪い事言った!?
「ご、ごめんね? ごめんね? 別に変な意味で言ったんじゃなくてさ! 好きなら良いと思うよ、うん!」
無言で泣き始める二階堂。……あー、もう。これでデリケートなのかよ。難し過ぎて、そろそろどう対応して良いのかも分からないよ。
かといって、迂闊に頭なんて撫でようものなら殴られそうだし……。どうしたらいいんだ……
二階堂は自分が泣いている事に気付いたのか、慌てて涙を拭いた。
「……わっ、わたくしは、恋がしたいですわ」
少しだけ、二階堂の声が震えていた。
「お父様が、一人前のレディは恋をするものだって、言ってましたもの」
ああ、そうか。二階堂がどうにかして恋愛をしようとしているのは、一人前になるためなのか。……不器用な奴だなー。そうしないと『お父様』とやらに認めて貰えなかったりとか、そういうのがあるのかもしれない。
でも、恋愛って故意に起こすようなものでは無いと思うんだが……『好き』って言えば、好きになる訳でもないしな。
相手は兎も角、自分が好きになれなければどうしようもない。
「……分かった、分かったよ。協力する」
「ほ、ほんとですの!?」
「越後谷に気持ちが伝われば良いんだろ」
多分、俺は複雑な顔をしていたのではないかと、少し思う。
一体何を協力すれば良いのかもよく分からなかったが。二階堂の不器用さと必死さに、少しだけ心を動かされてしまったのかもしれない。
二階堂は俺の方を向いて、俺の両手を握り締めた。
「あ、ありがとうっ!! ジュン!!」
珍しく、感情が顔に現れていて、二階堂はとても嬉しそうだった。
まあ、素直な時は可愛いと思うんだけどな。
「はいはい。……で、俺は何をすれば?」
「そうですわねっ! まずは、ツカサ・エチゴヤにわたくしの魅力を伝える事が優先だと思いますわ!」
お、意外といい線行ってるじゃないか。
「なるほど。それで、どうする?」
「わたくしが居ないとこんなに寂しいということを証明するため、わたくしとジュンが両思いになる線で行きますわ!!」
……全然いい線行ってねえ。デッドボール場外ホームランみたいだ。
「……なんで、俺?」
「え、だってそれは、ツカサ・エチゴヤはジュンの事が好きですし」
あー、あったね、そんな設定。……越後谷、二階堂が未だに勘違いをしていると知ったら、自分の愚かさに頭を抱えるだろうな。
「二人揃って居なくなったとあれば、わたくしがいかにツカサ・エチゴヤにとって必要な存在だったのか、分かるはずですわ」
いや、それは既に付き合っている二人だったら、そうなるかもしれないけど……。
赤の他人に近いんだぞ。二階堂はB組、越後谷はC組で、クラスも違えば接点も少なかった筈。それで、必要な存在がどうとか言われても……正直、理解はされないと思う。いや、されない。間違いない。
「……いや、それはさ」
「協力してくれるって言いましたわよね!?」
二階堂は慌てて、俺の手を掴んだ。……ま、良いか。二階堂が本当に越後谷の事を好きかと言われたら、多分そうではないと思うし。やるだけやって、真実の愛とやらに目覚めれば、それで良いのかもしれない。
……あ、そういえば君麻呂に頼まれていたんだったな。ちょっと、協力してやるか。
「そういう風にするなら、君麻呂に迫るというのはどうだろうか」
「あんなカスを相手にしている暇はありませんわ」
……哀れなり、葉加瀬君麻呂よ。
まあ、いいや。別に俺が君麻呂に協力したからといって、どうなる訳でもないし。
今回もそうだけれど、知ってしまった以上、このまま二階堂が勘違いを続けているのを黙って見ているのは、同じ学園内の有名人として少し罪悪感を覚えるしな。
俺は立ち上がり、尻に付いた砂を払った。
「……まー、適当にやってくれ。合わせるよ」
「協力感謝してあげますわ、ジュン」
変な日本語だなあ。とは思ったが、ツッコミを入れるのも面倒なので、俺はそのまま別荘へと歩き出した。……あれ。なんか、若干空が明るく……マジかよ。結局夜通し眠れなかったのか。
夏場だから、まだ四時といった所だろうか。さっさと戻って寝よう……
「あっ、ジュン!!」
振り返ると、二階堂は腰に手を当てて、俺に向かって人差し指を突き出した。若干前屈みになる体勢は、胸はないがくびれはあるので、非常に様になる。
「――今日から、わたくしの事をレイラと呼びなさい。良いですわね」
「はいはい。じゃあな、おやすみ、レイラ」
面倒事もあったもんだ。