つ『メインヒロインは一周して元に戻るか』 前編
八月四日、土曜日。
合宿という目的で二階堂の別荘へと到着した俺達は今、大変な問題に突入していた。
そんな俺は、何故か水着で砂浜に立っている。照り付ける強い日差しはこの二日間で既に俺の肌を焼き、俺は少しだけ肌を黒くさせていた。
何故砂浜に水着で立っているのかと言えば。
「純くん純くん、こっちおいでよー!!」
俺達はただ、遊び呆けていたからだ。
ドラマの練習が何処に行ってしまったのかと思われそうだが、本当に全く、何も先へは進んでいない。
事は八月三日の朝、さて練習を始めようかという時間まで遡る。
そう、メインヒロイン騒動だ。
越後谷は相変わらずの姉さん推し、姉さんが参加するならと杏月が前に出て、青木さんが美濃部を一生懸命推薦する。これだけでも話は収拾が付かないのに、君麻呂が主役をやらせろだとか、当然二階堂も撮影に参加するのだとか、厄介な話ばかり持ち上がってしまったため、一同は頭を冷やそうという結論に達した。
頭を冷やすという名目で、遊んでいるだけだというのは見ての通りだが。
提案したのは杏月。もとい、遊びたかっただけだろうな。多分。
「……いい。俺、泳ぐの苦手なんだって」
「ボードたから泳がなくて大丈夫よー」
姉さんが黄色のボートで悩ましい肢体を惜しげも無く晒し、優雅に水上の散歩を楽しんでいた。荷物を頑なに運ばせなかったのは、水着を見られたくなかったからか……。当日、俺を誘惑するために。
海パン一枚でビキニの姉さんと接触なんて、出来ないに決まっている。
……かと言って他に行く場所もないので、俺はこうして砂浜にただ突っ立っているのだが。
「純、サンオイル塗ってー」
杏月もまた、肩紐の無いタイプの水着を着ている。バンドゥビキニとか言っただろうか……平和じゃない。背中の結び目を解いて、レジャーシートにうつ伏せになっていた。
溜め息を付かざるを得ない。
「塗らないよ。隣の美濃部に塗って貰えよ」
「純に、塗って欲しいのおー。おねがいー」
「塗らない」
「……ちっ。慣れてきたか」
可愛く強請られても困るというか、裏で黒い顔が見えている。ビーチパラソルの下には、杏月と美濃部。美濃部は俺をちらりと一瞥すると、何か複雑な顔をして目を逸らした。
良かった。美濃部はレースの付いたワンピースタイプの水着でへそも見えず、平和な感じだった。
結局、昨日一日はずっと避けられていたからな。今日こそは、言わなければ。
俺は美濃部の前にわざと立ち、屈んだ。美濃部が仰天して、俺に背を向ける。
……うーん。越後谷を庇う必要はあるだろうか。
「聞いてくれ、美濃部」
「……なっ、なっ、なっ、なっに、かなっ?」
無いな。
「俺が一昨日越後谷に告白されたのは、美濃部も知っていると思う」
「えっ、やっぱり、アレはそういう……」
「だが、安心してくれ。俺はノンケなので、きっぱりと断った」
美濃部は目を丸くして、俺に視線を向けた。……長かったぜ。一日避けられ続けて、ロクに話す機会も無かったからな。だが、昨日一日で分かった。美濃部は海に来ても、泳ぐ事が出来ないということが。
何故今日は表に出てきているのかと言えば、昨日と違って今日は全員、海に出て来ているからだ。
昨日はバーベキューの食材を買い集めるという使命があったからな。今日こそは、というわけだ。
「……あ、そう、なの? それであの時……」
「そうなんだ。残念そうにしていたけど、理解して貰ったよ――おあああっ!!」
不意に横から蹴られ、俺は日向の砂浜にダイブした。熱い!! 熱い熱い!!
何だよ、一体誰――越後谷か。それは仕方ない。
「穂苅、お前はそういう事をしない奴だと思っていたよ……」
「悪いけど、お前の体裁とか俺にはどうでもいいんで」
越後谷の後ろから、二階堂が駆け寄って来た。気配に気付いて越後谷が顔を顰め、俺を通り過ぎて行く。
砂浜で追いかけっこか。……何だ、仲良いじゃないか。
「ツカサ・エチゴヤ!! どうしてわたくしから逃げるんですの!! 大人しく捕まりなさい!!」
越後谷は完全に無視。受け流しているというよりは、それ以外の選択肢を取る余裕が無いようにも感じられた。二階堂は長い脚をフルに使った全力ダッシュで――姉さんとは全然フォームが違うけど、それなりに速いな。
最も、越後谷には及ばないようだったが。
仲良いなー。
「ちょっ……ゼエ、ゼエ……待っ……」
それを後ろから、君麻呂が追い掛ける……というより、完全に付いて行けていない様子だった。まあ、あのスピードで炎天下の中を走るのはお前には無理だよ。
ふー。
「ほっ、ほっ、穂苅、君。クッキー、食べる……? さっきまで冷蔵庫に入れてたから、ちょっと冷たいかもしれないけど……」
「あ、そうだね。じゃあ、頂こうかな」
「おお! りっちゃん、私にもちょーだい」
美濃部が出発の時から言っていたクッキーを、俺と杏月で物色した。オーソドックスなバタークッキーにジャムの塗られたものや、市松模様のものもある。すごいな。手作りでバリエーションを沢山作るの、大変だと思うのだけれど。
何気なく一口、頬張った。言われた通りに少しだけ冷たかったが、この炎天下の中では丁度良い。
バターの香りが口の中に広がった。
「んん、うまいよ、これ」
「ほんと!? ……良かった」
「すごーい!! りっちゃん、どうやるの?」
「うん、これはね……」
そのうち力尽きる追い駆けっこを涼しい場所から眺めながら、和気藹々としている俺達だった。姉さんもぷかぷか浮いているのに飽きたのか、こちらに近付いて来る。
あれ? そういえば、青木さんを見てないなあ。何処に行ったんだろう。
「ふぎゃっ」
……なんか手で踏んだ。
見ると、ケーキの尻が俺の右手の下にあった。どうやら、ビーチパラソルの下で涼む事に決めたらしい。
「暑い……暑いです……しんでしまいます……」
死なないだろお前。
暑いなら、海に入って来れば良いのに。ケーキの質量じゃあ、海に流されて何処かに行ってしまいそうだが。
……あれ?
何か、この光景にものすごい違和感を覚える。……何だろう。
「純さんっ! 純さん、腕を! 腕をどけてくださいっ。というかお尻を触らないでくださいっ」
「……あ、ああ」
言われた通りに腕をどけると、ケーキは立ち上がり、頬を膨らませて俺の二の腕を叩いた。
別に何でもない、ただの出来事の筈なのに。どうしてこんなにも、変な感じなのだろうか。
うーん……何か出て来そうで、出て来ないような……
「純くん? 大丈夫? 熱中症?」
近付いて来た姉さんが、屈んで俺の顔を覗き込んだ。俺はハッと気付いて顔を上げ、姉さんに向かって手を振る。
「ああいや、俺は大丈――」
――ぐはっ。
ビキニの姉さんが前屈みになって、俺の目の前に。知ってはいたが、ここまで水着が栄えるのもすごいな……。亜麻色の髪から滴り落ちる雫も、姉さんの魅力に拍車を掛けている。
加えて逆光だ。これはもう、海辺の女神と言っても良いだろう。
何を考えているんだ、俺は。
思考を掻き消すように、俺は立ち上がった。
「……ちょっと、青木さんを探して来るよ」
「さっきまでその辺を泳いでたけど」
そういえば、青木さんは泳ぐのが好きだったな。水泳部だった事もあるみたいだし、スポーツも得意みたいだからきっと相当泳げるのだろう。もしかしたら、もうこの辺には居ないかもしれない。
ケーキは……のびてるし、放っておくか。
「そうだね、そろそろお昼だし。私も一緒に行くよ」
「あ、いいよいいよ姉さんは休んでて。俺、探して来るから」
俺は手を振って姉さんから離れようとした、が……
ああ、姉さんが泣きそうに。いや、違うよ。別に姉さんと一緒に居たくない、とかではないよ。俺の笑顔が引き攣る。……おいおい、杏月と美濃部が居るんだぞ、ここには。
……頭を抱える思いだ。
俺は仕方なく近付き、姉さんの腰に手を回して抱き締め――
や、やば……やばいってこれはやばいちょっと姉さん俺を抱き締め返さなくて良いから待って!!
「俺一人で大丈夫だから、……あ、あー……安心して、待ってて」
「……はい」
満足そうに微笑んだ姉さんを横目に、俺は姉さんに背を向けて海へ全力ダッシュ。炎天下だというのに暑さを忘れるほど、俺の頭がどうかしている。
くそっ……何で海でこんな目に……
今は青木さんの事を考えよう。姉さんの事は忘れるんだ。
青木さんの胸も、すごいよなあ……
死ね俺!! 合宿イチから出直して来い!!
倒れ込むように、海に飛び込んだ。
――何だか、青木さんの様子がおかしいのだ。
普段通りに話し掛けてくるかと思えば、どこか距離を取って俺から離れる一面も見える。付かず離れずの距離を保っているようで、近付いては離れての繰り返し。
越後谷の事故の時から、どうにも様子がおかしい。
『……惚れたな』
……いや、それはないだろう、と思う。
何より青木さんは美濃部の事を俺に薦めていたし、今更その考えが変わるとも思えない。青木さんは元々、美濃部と俺を引き合わせるためにドラマ制作に俺を引き入れたのだと思っていた。
実際、そのような一面もよく見ていた事だし……。青木さん自身、あんまり恋愛を考えているような態度を見せない。
ならば、別の回答だ。
青木さんは俺を、避けている。
……気持ち悪いから?
「……ごぶばっ」
泳ぎながら、思わず溺れそうになってしまった。
それは……思い当たる節が多過ぎて、一体何処から当たっていいのか分からない……。青木さんの前で姉さんとラブシーンを見せたこともあったし、青木さんの下着問題に協力した事もあったし、男なのに……。
ああ、君麻呂に目を付けられたという事もあるな……。これは結構ポイント高いかもしれない。もちろん、減算の方で。
よもや君麻呂と仲間というような扱いを受けていたとしたら、俺の株が暴落することは避けられないだろう。
青木さんが推薦した美濃部だが、最近は俺に慣れてきたのか、あまり積極的に近付いて来る事も無くなったし、相変わらず告白はされないし……
……あれ? 俺、結構ピンチ……なのか?
卒業までにどうにかして彼女を、という約束だった。思えばもう、八月になっているんだよな。今年を過ぎれば、全体の四分の一が過ぎたという事に。
俺、何か変わったか?
……いや、変わっていない。
美濃部の海外行き騒動とか、越後谷の事故騒動とかあったけれど、俺の状況は未だに進展していない。……いや、時間制限があるということを考えると寧ろ後退している。
やばい、なあ。
「……ってない。……ってる」
大分、姉さん達から離れてしまった。岩陰の近くまで来た俺は、ぶつぶつと呟く声を聞いた。青木さん、こんな所に居たのか。道理で、岩陰に隠れているならすぐには見付からない筈だ。
俺は静かに泳いで、岩陰の裏を見た。
「……なんとも思ってない。……ちょっと、思ってる」
……何、言ってんだ?
背を向けているので、あまりちゃんとは聞き取れなかった。何を思ってるって?
「あー、もう……」
「……青木さん?」
「わひゃいっ!?」
飛び跳ねるように岩陰から振り返った青木さんは、俺の姿を確認すると目を白黒させた。……ものすごく仰天している、といった様子だろうか。顔を真っ赤にして、何やらもじもじと動いていた。
……可愛いな。
「ほっ!? 穂苅君!? な、なんで!?」
「そろそろお昼にしようかって、言ってたから」
「あああそうそうなんだねっ! わかった、すぐに向かうからっ」
青木さんは俺と目を合わせないようにして、水面を凝視していた。……やっぱりこれは何か、わだかまりを感じている様子、だよな。どうしたんだろう。
聞いてしまうのは、あんまり良くないだろうか。……でも、俺としてはこのままでは少しやり難いというのがあるしな。
意を決して、聞いてみよう。
「……あの、青木さん、さ」
「なっ、ナニ、かな」
「なんか合宿始まってから? もっと前からか、俺のこと避けてない?」
青木さんの身体が、固まった。
……まずいことを言ってしまった、だろうか。だが越後谷から吹っ掛けられた事で妙に意識してしまい、なんとなく聞かずにはいられなかった。青木さんは悶えていた動きを止め、両手を胸の前に持って来た。どこか、俺との間に壁を作りたがっているように見えた。
相変わらず、目は合わせないままで。
「……ご、ごめんね。気になった?」
「ちょっと、ね」
青木さんは、何も言わない。
これは、好意なのか? 嫌悪なのか? 姉さん以外に経験の浅い俺には、どうにも判断し兼ねる。出来れば嫌悪ではないと信じたいけれど。
もしも、好意だったら――……
「青木さん、さ。……もしかして、俺のこと――」
――何を言ってるんだ、俺は。馬鹿か。
ナルシストか!? うわあ、これは駄目だろ。流石の青木さんもドン引きだろ。
ど、どうしよう。聞きかけた口は半開きのままで固まり、俺はその場から動けなくなった。とんでもない事を、聞こうとしてしまった。流石に青木さんも、俺が何を聞こうとしたのかは分かるだろう。
この場所で、このタイミングで、二人きり。
青木さんは頬を染めて、潤んだ瞳で俺を見て――……
潤んで、いるのか? これは、さっきまで泳いでいたせい? 何だよこれ。どういう気持ちを内側に持っているのか、さっぱり分からないよ。
俯いた青木さんは、そのままで――そして、顔を上げて俺を見た。
はっきりと、瞳を見た。
「――本当の事、言ってもいい?」