つ『I shall never survive youを唱えるか』 後編
何度も時を繰り返す事のリスク。朧げながら、なんとなく俺にもその実情が理解できてきた。それを知ったからといって、俺の選択が変わることはないのだが。
今回は、人が死んでいる。それをどうにかする為には、時を戻すしか方法がないのだから。
俺は無心で、家へと急いだ。姉さんが今頃心配して、俺の帰りを待っている事だろう。
何度も時を繰り返し、俺の選択を変えることによって、俺と姉さんの関係も変わっていく。
「……あれ」
帰宅途中、ケーキがぼやいた。
「どうした? ケーキ」
ケーキが胸に手を当てて、何かを考え込んでいるようだった。その表情には、僅かな焦りが見て取れる。
……なんだ? 少し、焦燥に駆られているようにも見えた。
「……いえ」
そんな態度を取られてしまったら、俺だって気になってしまうじゃないか。ただでさえ今は、緊張で手が震えそうなのに。
やれるだけの事は、全てやった。後は、姉さんの暴走を待つのみ。俺が死ぬことを待つのみだ。
家の扉の前まで辿り着くと、俺は目を閉じ、深呼吸した。
「……さあ。行くぞ」
自分に言い聞かせる。姉さんはどんな暴走をするだろうか。火炙りは、文字通り死ぬような思いをした。……出来れば、もう少し痛くない死に方がいい。
目玉を潰されるのは、痛み以上に気持ちが悪い。
マンションから飛び降りるとか、そんな感じで事前に意識が飛ぶようなやつがいい。
自殺志願者か、俺は。まあ、そうなのだけれど。
俺は扉に手を掛け、ドアノブを開いた。
「あ、純くん、おかえり!」
家の中へと入ると、姉さんがエプロン姿で出迎えてくれた。最初は普通だ。ある瞬間から、姉さんは別人へと変化する。
さあ――どこからでも来い。
「ただいま、姉さん」
「今日はね、純くんが元気になるカレーを作ってみました!」
姉さんは俺の背中を押し、食卓へと俺を誘う。柔らかな素手が俺の背中に触れる瞬間、恐怖に体を引き攣らせた。
「――純くん?」
くそ。何を挙動不審になっているんだ。まだ、何も起きていないじゃないか。姉さんが暴走することを、俺は気付かない振りをしていなければいけないのに。
どうしても、身体は硬直してしまった。
姉さんはそんな俺を見て、何も言わずに俺を後ろから抱き締める。
「今日、美濃部さんと会ってきたんでしょ?」
「……うん、まあ」
「越後谷くんのことは、話せた?」
――あれ? なんか、変だ。
勿論、話さなかった。美濃部と会うことは別の意味を持っていて、俺の目的のために美濃部と出会う予定だったからだ。
心の内側でささくれ立った何かが、俺を傷付けた。
「大丈夫だよ、純くん。お姉ちゃんはどんな時も、そばにいるからね」
食卓に辿り着くと、姉さんは手を叩いて、明るい表情を作り出した。その態度に、俺は姉さんを見る。
姉さんは何食わぬ顔で食卓に食器を並べ始めた。
俺は俯いて、姉さんに見えないように歯を食いしばった。
嘘だ。
「じゃあ、手を洗って。ごはんを食べよう!」
――なんで。
なんで、何も起こらないんだ。
「純くん。ほら、座って」
なんとなく、そんな予感はしていた。ケーキの表情とか、美濃部の態度とか、前回とは決定的に違うものがいくつもあって、それは姉さんを暴走させるに足りないのではないかと、少しだけ思っていた。
でも、出来事は全部なぞっただろう。俺は出来るだけの事をした。予定通りケーキ屋に入って、映画を見た後に昼食を食べて、ベーグル専門店で茶を飲んで――……
そして、あの展望タワーに美濃部と二人で行く。
その『シナリオ』は、全てこなしてきた。青木さんが家に来ただけで暴走してしまう姉さんだ。
これだけの事をやれば、きっと姉さんは。
「姉さん!!」
「――きゃっ」
俺は真正面から、姉さんに抱き付いた。姉さんは目を丸くして、俺の行動に驚いた。
ほら、いつもの驚異的な嗅覚で、俺が美濃部と居たことを確認してくれよ。そうして、俺を殺してくれ。
――俺を殺してくれ。
もう、二十一時を回ってるんだ。時間がないんだ。
頼むよ。
「……怖かったね、純くん」
姉さんは、優しく頭を撫でる。俺はどうしようもなくやるせない気持ちになってしまい、涙を流した。
きっと俺がどうして泣いているのかなんて、姉さんには気付きようも無いのだろう。
でも、俺は姉さんの胸にすがった。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんは、ちゃんと純くんを見てるからね」
越後谷を助けられるのは今、世界中で俺一人。
その俺は、越後谷を助けられない。
現実はいつも思い通りには行かず、何度も俺は、人生を繰り返す。
自分の、人生を。
◆
どうしようもなく泣き続けた後で、俺と姉さんは遅めの夕食を食べた。
俺は亡霊のような顔をしていたと思う。姉さんは何も言わず、俺の涙だけを受け止めて、落ち着いた笑顔でそばに居てくれる。
そうして、時刻は二十二時を回った。
何も手段が思い浮かばず、俺はソファーで死んだように横になっていた。
壁に掛けられた時計を、ただ眺めていた。
「純くん、お風呂、わいたよ」
姉さんが優しい声音で、俺にそう告げる。
二十二時半。
俺はゆらりと立ち上がり、姉さんの脇をすり抜けた。
「……ちょっと、コンビニ行ってくる」
「うん、わかった」
何も言うことはない。姉さんは当たり前のように頷いて、俺の外出を許可した。雑にサンダルを履き、俺は覇気のない顔で部屋の扉を開いた。
外に出ると、日中よりはいくらか涼しい空気が肌を撫でる。
俺はそのまま、マンションを出た。
「純さん、ごめんなさい」
一人になると、ケーキが横から出てきて俺に謝罪した。俺はケーキの顔も見ず、駅へと向かって歩く。
「何で、ケーキが謝るんだよ」
「……私、ちょっとだけ気付いてました。お姉さんがおかしくなる時は、いつも胸の辺りが痛むので」
そういえば、俺が姉さんに殺される時、いつもケーキはまるで自分が殺されているかのように、痛みに悶えていた。もしかしたら、俺とケーキの間でも何かを共有しているのかもしれないと、少し思う。
だが、俺は言った。
「そんなもん、確定的な要素じゃなかっただろ」
「……まあ、それは、そうです……けど」
何れにしたって、あの場でケーキがそれに気付いていても、意味がない。
俺は時を戻すのに失敗したのだ。今更、それを覆す事は出来ない。
姉さんを暴走させる手段は既に無く、美濃部と出会ったとしてもそれは変わらない事が分かり、俺の計画は全て潰れた。
他の要素など、一切思い当たらないのだ。
「別に、良いよ。どうしようもなくなるのが、先に分かるか、後に分かるかの違いだろ」
「……はい」
ケーキもこの展開には納得出来ないのか、俯いていた。
どうしても、一回目の出来事が他の人間にとっては真実であると思い込みたくなる。俺と姉さんの運命だけが全てにおいて『失敗』で、他の、例えば青木さんや越後谷、美濃部のような人間は『成功』のルートを歩んでいたと。
俺は時を戻す事で、越後谷の未来に『失敗』を作ってしまったと。
この出来事を、俺は俺のせいにしたかった。
そうすれば、時を戻すための理由になると思ったんだ。
この運命は間違っていると、突き付けてやりたかった。
俺以外の誰かが死ぬなんていうのは、もう二度と見たくないんだ。
――もう、二度と。どうして、そう思ったのだろう。
「うわ!! 純か!? びっくりした、誰かと思った」
ふと声を掛けられ、俺は顔を上げた。
あまり出会って間もないのに随分昔から知っていたような気がする、青メッシュの男が立っていた。俺の顔を見るなり目を丸くし、大袈裟に驚いた後で馬鹿笑いして肩を叩いた。
どうしてこんな所で、葉加瀬君麻呂なんかに出会ってしまうのか。
……なんか、白い花束を持っていた。
「あんだよなんだよ!! 恋の悩みにでもハマっちまったのか!? はいぱー思春期か!! あっはっは!!」
あまりに、場違いだ。
俺が溜め息を付くと、君麻呂は急に顔色を変えた。
「――マジで、何かあった系じゃね? 話せよ、純」
意外にもその様子が真面目過ぎて、今までの君麻呂の雰囲気とは似ても似つかなかったため、俺は面食らってしまった。
両肩を捕まれ、目を合わせられる。
真剣だ。
なんだよ。こいつ、そんなキャラじゃあ無かったじゃないか。
「……君麻呂?」
「今日、越後谷の馬鹿がゼミに来なかった。あいつが連絡なしに休む所なんて見た事無かったから、少し驚いてた」
その剣幕に、思わず俺は答えてしまった。
「……越後谷は、土曜日に、交通事故に、巻き込まれた。クラス違うからまだ知らないかもしれないが、学校にも来てない」
君麻呂の表情が、固まった。
もしかして君麻呂って、越後谷と仲が悪い振りをして実は二人共仲が良かったとか、そういう話なのだろうか。だったら、俺の口から知らせない方が良かっただろうか。
「それじゃ、病院に居るんだな? いやー、あいつ馬鹿じゃね? たかが車くらい、超スピードで避けろっての……はは」
珍しい、空元気だった。
君麻呂は手にしていた花束を俺に突き付けた。思わず、俺はそれを手に取る。
俺は、そんなにも必死になった君麻呂を、初めて見た。
「白いトルコギキョウ。花言葉は『希望』だ。今度、あいつの病室に持って行ってくれよ」
そんな事を、言われても。
越後谷はもう、この世には居ないのに。
そうか。まだ、君麻呂は越後谷が生きていると思っているのか。
「……どうして、こんなもんを?」
……本当、場違いな奴。
「いやあ、実は妹がケーキ焼いたらドドメ色の物体ができちまったらしくてさあ!! めっさ泣いてたから買って行ってやろうかと思った俺えらくね? でも、仕方ねーけど越後谷にやるよ。大変だろうからな」
まあ、越後谷なりの気遣いなのだろうか。こんなもの、貰っても越後谷には渡せないのに。
花言葉、ねえ。こいつがそんなモノに興味があるというのは、少し驚きだな。
ドドメ色の花言葉――……
――え?
くろみのくわ?
――――『黒実の』『桑』?
「……君麻呂。……お前、花言葉、結構詳しかったりするか?」
唐突に浮かんだ言葉に、俺は急激に心拍数が跳ね上がるのを感じた。『くろみのくわ』なんて繋がっていたから分からなかったけれど、もしかしてそれは、『黒実の桑』という意味だったのではないか?
根拠はない。でも、あまりにもスムーズに言葉は頭の中に生まれた。
俺の中で大きな太鼓を鳴らすように、何かの知らせが鳴り響く。
――まさか。
――――まさか。
「ん? まあ俺たんレベルになれば、花言葉大会とか余裕じゃね? って感じよ」
「……桑の花の花言葉って、何か知ってるか?」
「桑ァ? またマイナーな……ていうか急に、どうしたんだよ」
「良いから!!」
君麻呂の調子付いた言葉にも反応せず、俺はただ硬直していた。どういう訳か、パズルのピースがある日ぴったりと嵌ったかのような、納得を感じてしまったのだ。
君麻呂は何かを思い出すようにうんうんと唸りながら、額に指を当てていた。
「えっと……ちょい待てよ、俺ちゃんの崇高な記憶力に掛かればこんなモン……そう、元ネタは確かギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』だ。駆け落ちをしようとしている二人が桑の木の下で出会おうとして、ティスベが血だらけの猛獣に会って、洞窟に逃げ込んで……」
「……それで?」
「ピュラモスは遅れて桑の木に到着するんだが、猛獣が口の周りを赤くしていたもんで、てっきりティスベは食べられたもんだと思って、自殺するって話だよ。珍しく、あんまり良い話じゃないよな」
「それで?」
俺は君麻呂の肩を掴み、身を乗り出した。俺のあまりの食い付きぶりにか、君麻呂は少々驚いた様子で、怪訝な表情を浮かべた。
「洞窟から出てきたティスベはピュラモスの死を見て、絶望して自殺する。その血で桑の実が黒くなったから、白はウィスダム……『知恵』で、黒はアイシャール・ネバー・サバイブ・ユー……」
――神様の、伝えたかった事って。
「『私はあなたが死んだ後、生きながらえはしない』……じゃね? 神話から花言葉逆引きとか、俺すごくね!? 天才じゃね!?」
俺は時計を見た。
二十三時、三十分。
急げ。
ここから家までの間で一番近い、最もやりやすいポイントは――……
「ありがとう」
俺は君麻呂に礼を言い、すぐにその場を離れた。
「えっ!? ちょっ、純!!」
助かる。
――越後谷は、助かる。
まだ、間に合う。
――――急げ!!