つ『連続通り魔の犯人を追えるか』 前編
青木さんが俺の下に駆け寄ってきたのは、それから一時間後の事だった。どうしても会って話がしたいとのことで、俺は既に待ち合わせ場所で待っていたので青木さんに来て貰ったのだ。
どうやら青木さんは全力で走って来たようで、俺と出会うなり膝に手を付き、ぜえぜえと肩で息をしていた。
嫌な予感は拭えない。
もしかして君麻呂にケーキが見えたのは、越後谷に事件が起こる事の予兆だったのだろうか?
……いや、それなら青木さんにケーキが見えていたっておかしくはない。君麻呂よりは青木さんの方が越後谷に近いだろうし、そうとは言い切れない。
待て待て、落ち着け。まだ何が起こったのかも聞いていないのに、大事だと決め付けるのは早いだろう。もう一人の冷静な自分が囁いた。
越後谷に死の危険が迫っているかもしれない、なんて、どうしてそう思ったのだろうか。
神様や君麻呂が思わせぶりな事を言うからだ。
「……青木さん、大丈夫?」
青木さんは呼吸を持ち直すと、乱れた髪を整えた。額に浮かんでいた汗を、ハンカチで拭う。
だが、ハンカチを持つ手が震えていた。
「大丈夫? 落ち着いて、何があったのか話して」
「……う、うん。大丈夫。……怖かった」
俺は、青木さんの台詞に思わず喉を鳴らした。
「越後谷の予定で、今日は夕方から穂苅君と会うって聞いてたから。もしかして、時間あるのかと、思って」
「うん、それは大丈夫。越後谷と一緒に居たの?」
「……そう、一緒に打ち合わせ、やってて。台本のことで話せるの、越後谷だけだから」
そうか。十五時に待ち合わせをしたのは、青木さんとそれまで打ち合わせる予定だったからなのか。越後谷も忙しいスケジュールを立てる――俺は土曜日で姉さんも落ち着いていたので、昼まで寝ていたというのに。
青木さんの青ざめた顔に、思わず手を重ねた。青木さんは俺の手を撫でながら、意味もなく何度も頷く。
……本当に、事件があったんだ。
「で、その越後谷は?」
「……うん。穂苅君、一緒に来てくれない?」
俺は頷く以外にない。何処へ行くのかも知らされず、青木さんは歩き出した。……待て待て、そっちに駅はないぞ。
まだ、動揺しているようだ。
青木さんを止めて、俺は姉さんにコールをする。呼び出し音もなく電話は繋がり、姉さんの幸せそうな声が聞こえた。
「もしもし純くん!? お姉ちゃんに何の用――」
「姉さん、ごめん。事件だ。すぐ来てもらえない? 足が欲しい」
「分かった。どこ?」
話が早くて助かる。
姉さんに状況を伝えると、姉さんは鬼の形相でマイカーを運転して現れた。俺は助手席に、青木さんは後部座席に座る。青木さんは姉さんに行き先を告げて、姉さんはマイカーをかっ飛ばして目的地へと向かった。
青木さんに連れられたのは、都内の総合病院だった。いよいよ嫌な予感が的中してしまった俺は、詳細を知るために神妙な面持ちで病院へと入った。
「……こっち」
青木さんは俺と姉さんに声を掛けて、病院を歩く。リノリウムの床に鳴り響く足音が雑音で聞こえない程度には、病院が騒がしい。……土曜日とはいえ、何か普通ではない事態が起こっているような……。
歩くたび、青木さんの手が震えているのが分かった。エレベーターを上がると、病室が並んでいる。ここは、入院をする時に入るような場所ではないだろうか。
集中治療室の扉を目にすると、向かい合うように立った。
――まさか、中に居るのだろうか。
その前で、祈るように青木さんは両手を合わせた。暫くそのままで、青木さんは目を開くと、儚い笑顔で俺と姉さんに笑い掛ける。
「……家族じゃないから、入れないんだけどね」
そうか。集中治療室だもんな。姉さんが青木さんの肩を叩いて、頭を撫でた。
「越後谷くんの家族は?」
「事故現場に駆け付けて。その後は、救急車で一緒に」
「とりあえず、下に降りましょう。何があったのか、ちゃんと知りたいの」
青木さんは頷いた。
◆
「通り魔にね、襲われたの。赤信号を中型のワゴンが突っ込んできて、越後谷がはねられて」
事件の詳細は、こうだ。
青木さんと越後谷は、二人の最寄り駅の近くで台本についての話をする。十四時頃、台本の話が終わり、ファミリーレストランを出る。その足で俺の所へと向かおうとした越後谷は、赤信号の横断歩道で通り魔にはねられる。
ワゴンの攻撃に対象は決まっておらず無差別だったようだが、先に歩いていたのは青木さんの方だった。越後谷は車が突っ込んでくる事に気付き、青木さんを突き飛ばし、庇ってはねられた、ということだった。
「私がもっと注意して歩いていれば、こんなことにはならなかったのに……」
「青木さんのせいじゃないよ。天災みたいなモンなんだし、自分を責めないで」
青木さんはすっかり自分に非を感じて、縮こまってしまっていた。そんな大規模な事件、一回目にあったっけ。
……もしかしたら、あったかもしれない。ニュースなんてあまり見ないけど、怖いねえ、なんて話をしていた気はする。
今更ながら、神様が言っていた言葉の意味を理解した。
『ジュン。時を戻す事で運命が変わることを、あなたは意識してはいけません』
――あれは、そういう意味だったのか。
七月七日の今日、俺が越後谷と会うことになったのは、ドラマの企画が俺に伝わったのが一回目よりも早かったからだ。時期が早まったカラオケで俺と出会わなければ、越後谷は今日、青木さんと台本の打ち合わせをしていなかったのかもしれない。
一回目の当時はまだ越後谷と出会っていないけれど、越後谷に何かあれば、青木さんの態度の変化から流石に気付くはずだ。
……ならば、俺が越後谷司の運命を変えた、という事でもある。
『例えば都合の悪い展開を変えるために、無理に時を戻すようなことは、してはいけません』
念を、押された。
神様はこうなる事を知っていて、あの時俺にあんな事を言ったんだ。
ふざけるな。時が戻ったことで越後谷に悲劇があったなら、責任の一端は俺にもあるじゃないか。
通り魔事件の現場と時間。俺に知識があれば。もう少し、一回目の出来事に注視していなければいけなかったのか――……いや、時が戻る前の俺にそんな事をする意味も理由もない。俺の世間に対する認識の甘さは悔やまれる所だが、こればっかりはどうしようもない。
神様から直々に言われたという事はやはり、美濃部の一件で天界の俺に対する行動も、目に余るようになってきたのだろうか。
……頭を抱える思いだ。
「もし、もし越後谷に何かあったら私、どうしたら良いか……」
「青木さん、越後谷の容体はどうなの?」
「……まだ、意識が戻ってないって。戻らない可能性もやっぱり、あるって。越後谷のおじさんとおばさんは私のせいじゃないって言ってくれたけど、私、やっぱり……」
悲痛な声音で、青木さんは言う。姉さんが険しい顔をして、青木さんを慰めていた。
「私がその場に居合わせていればそんな奴、車のドアごと蹴り飛ばしてワゴンから降ろしてやるのに……」
姉さんなら、多分普通にやってのけるんだろうな……。
事件から、長く見積もって三時間程度。まだ意識が戻らないというのも、かなり心配だ。俺は震える青木さんの背中を撫でる。
越後谷は俺と二人で会って、一体何を話そうとしたんだろう。越後谷の事だから無愛想なだけなのかもしれないが、何か重要なことを話そうとしているような気がしていた。
そうでなければ、わざわざ俺と二人きりで会う理由もないと思ったのだ。
こんな、七夕の日に。居るのかどうか分からないが、彼女とも会わずに――……
――あ。
「……美濃部は? 美濃部は、この状況を知っているの?」
ふと、そんな事が気になった。
青木さんは首を振った。今日が事件の当日だから、まだ二十四時間と経っていない。まだ話は伝わらないか。
「まだ、話してない」
――少し、救われたような気持ちになった。
今のところ確実に姉さんを暴走させる為の手段と言えば、美濃部とデートする事だけだ。もしもの事があった場合に、美濃部のテンションが下がっていると二人で会うきっかけを作り辛い。
なんて、咄嗟に考えてしまう自分が嫌になった。
「俺から話すから。青木さんは、少し黙っておいて欲しい」
「そう……? ドラマの制作やってるのは私だし、私から話した方が……」
人を騙すようで、あまりこんな事は言いたくないが。
「青木さん、まだ気持ちが動転してるでしょ。心配しないで。周りの人には、俺からちゃんと話すからさ」
俺は口実を作った。美濃部の状況を変えないため、時を戻すため、俺と美濃部が二人で会うためのきっかけになる口実を。
少しだけ、神様の目を逃れ、隠れて物事を進めているようで、もやもやと嫌な気分になった。
だが、この台詞程度なら、まだ問題にはならないはずだ。
「……うん、分かった。……優しいね、穂苅君」
何しろ、この問題を綺麗さっぱり芯から無かったことにする事が出来るのは俺だけだからな。
ちらりと、俺は姉さんを見た。姉さんは俺のことを、どこか疑問視するような、疑うような目で見ていた。
越後谷は、何事も無く目を覚ますかもしれない。
後遺症が残るかもしれない。
もしかしたら――……
予想をしたら、キリがないんだ。今は、一命を取り留めただけでも良かったと思うべきだ。
「帰ろう、青木さん。越後谷が目を覚ましたら、きっと青木さんには連絡が行くよ」
青木さんは力なく頷いた。俺は青木さんの手を引き、タクシー乗り場まで連れて行く。
この状況で青木さんまで事故に遭ったら、流石に俺も焦らざるを得ない。
「姉さん、青木さんのタクシー代、出してもらってもいい?」
姉さんは勿論と言わんばかりの早さで頷いた。青木さんが慌てて、俺と姉さんに手を振る。
「い、いや、私は大丈夫で――……」
姉さんは青木さんの手を握り、微笑んだ。
「心配しないで。こんな時くらい、社会人を頼ってよ」
本当に、姉さんは頼りになる。冷静で居る時の姉さんは、限りなくパーフェクトだ。
日々の生活費に困る青木さんにとって、タクシー代を払うのは結構大変なはずだ。学生生活を送りながら一人暮らしをする事の厳しさは、想像だけでもそれなりに把握できる。
青木さんは少しだけ困ったような顔をして、それでも表情を緩めた。
色々、今は胸が詰まるような想いなのだろう。
「……ごめんなさい。今度、きっと返します」
「返す代わりに、ちょっとでも元気になってよ」
姉さんは青木さんにフォローを入れた。青木さんはやられたといった様子で笑い、俺と姉さんに手を振り、タクシーに乗って去って行く。
俺と姉さんは、その様子を見詰めていた。ふと、姉さんが言う。
「純くん?」
「どうしたの?」
「……まさかとは思うけど、自分のせいだと思ってる?」
俺は姉さんの言葉に返事をせず、姉さんの車に向かった。姉さんは俺の後を追いかける。
百パーセント自分のせいだとは、思っていないよ。
でも越後谷が事故に巻き込まれたことについては、ある程度の原因を背負っていると思う。
越後谷が事故に巻き込まれなかった未来を一度、俺は見ているから。
不意に、姉さんが後ろから俺を抱き締めた。
「……姉さん?」
聞き返すが、返事はない。駐車場へと続く道の途中、誰も立ち止まりはしないような人気のない場所で――姉さんはただ、後ろから俺の肩に顎を乗せた。
その表情は、俺の位置からは見えない。
「なんだか、越後谷くんが死んだらどうしようって、ちょっと思っちゃった」
越後谷の事についてか。それは、俺も結構焦っている。何事も無く目覚めてくれれば、これ以上の事はないのだが。
こんな道筋を辿ってしまった事については、俺も申し訳なく思っている。
七月七日にしなければ良かった、なんて。起きてしまわなければ分からない事ばかり、頭に浮かぶんだ。
「――夢を見たの」
姉さんは、ぽつりとそう呟いた。
「……どんな?」
「純くんを私が何度も殺しちゃう夢」
俺は何も言えなくなって、立ち尽くした。あまりの驚きに、思考がまだ付いて行かない。
それは、もしかして。
もしかしたら。
「何か、頭の中で見えなくなっている部分があって。それに触れると、私は私でなくなってしまうの。純くんがある時、それに触れるの」
――『過去』に、あった、ことだ。
「私にそんな部分はないって信じてるけど、その夢があまりにリアルで、少し怖くなったの。私はどうしてか、純くんと一緒に死なないといけない気がして、それを行動に移すの。……く、首を締めたり、包丁で刺したり、するの」
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
巻き戻った時間の記憶を、微かに残している――?
姉さんだけなのか?
もしかしたら、姉さんだけなのかもしれない。でも、そうではない可能性も、やっぱりあるんだよな。
あの携帯電話に残したメモが、時間を巻き戻っても消えなかったように。
通過して巻き戻った時間は、誰のものだ?
俺に記憶が残っているのに、それは本当に全て綺麗さっぱり、『無かったこと』になっているのか?
そんな筈はない。時間が巻き戻ったということは、記憶を消している誰かが居るはずだ。
あるいは、それは天界に。
「本当は、死にたくないよ。ひとは、みんな、死にたくない。生きていたい。でも、離れ離れになっちゃうくらいなら、一緒に死にたい気持ちがある。別々に死んじゃったらきっと、それはすごく――」
――悲しいことだ。
姉さんはその言葉を最後まで喋らなかったが、きっとその後にはそう言いたかったのだろうと、俺は予想していた。