つ『不審な人影は事故の闇に呑まれるか』 後編
不意に部屋の鍵が開く音がして、君麻呂は扉を見た。いつの間にか視聴覚室の扉は開いていて、君麻呂はそれを開閉して確かめる。
再度俺の顔を見た時には、狐に化かされた時のような顔をしていた。
「あれ? 穂苅、今……」
君麻呂の言葉に反応できず、俺は首を傾げる。ケーキも慎重に様子を伺っていたが、君麻呂は胡乱な表情で悩んだ後、
「……気のせいか」
そう、言った。
どうやら、ケーキが見えたのは一瞬の出来事だったようだ。ケーキはほっと胸を撫で下ろし、俺の背中に隠れた。
君麻呂は視聴覚室から出て、廊下を確認する。
「……誰か開けてくれたんかな」
特に、足音はしなかった気がするが。君麻呂は幻覚か何かだと思う事にしたのかどうなのか、特に気にしていない様子で俺に向き直った。
「んじゃ、ちょっくら瑠璃ちゃんのトコに行ってくるわ!!」
謎の敬礼を残し、君麻呂は走って去って行った。……いや、俺も青木さんの所に行くんだけどな。
改めて廊下に出ると、誰も居なくなっていた。先生が開けたのなら、一言何かあっても良いと思うのだが――そもそも、何のために開けたんだ? 視聴覚室に入るのが目的でなかったのなら、俺達が中に入ると知って扉を開けるはず。
……不気味だ。
俺は振り返り、背中で怯えるケーキを見た。君麻呂が行ったので先程よりは落ち着いているようだが、どことなく不安そうな様子だった。
「……何だったんでしょう、今の」
その時、視聴覚室の中から光が漏れた。俺は今一度視聴覚室に戻り、扉を閉める。
神様こと、シルク・ラシュタール・エレナが現れたからだ。
「五分は、誰も来ません。制限時間は五分ですねー」
のんびりとした口調で、神様はそう言う。ケーキが慌てて、神様の下に寄った。神様はケーキのうなじを指で撫でながら、穏やかに微笑んでいる。
……今の鍵は、神様が開けたのか。
「神様っ。……神様あ」
「はいはい、怖かったですねー。もう大丈夫ですよー」
やはり、ケーキにとっては一般の――俺以外の人間に姿を見られる事は、恐ろしい事なのだろうか。
それはそうか。人に発見されるということは、ケーキがそこに居ると知らせてしまうということ。俺のように事情を知らない者なら、所構わず言いふらしてケーキの姿を一般に『見える』ものにするということも可能なはずだ。
――ならば、何故葉加瀬君麻呂に、ケーキの姿が見えてしまったのか。
「神様、聞きたい事がある」
「今の現象ですよねー。そのために参りましたー」
神様は指で円を描くように、くるくると動かした。
「稀に、天界に近い人間にはケーキのような、神の使いが見えてしまう事がありますー。彼は、その人物だったようですねー」
「天界に……近い?」
俺は眉をひそめて、神様の言葉の意味を反芻する。
天界に近いということは――勿論、人間界からは遠いということで。それすなわち、
死が近い、とイコール……なのか?
「葉加瀬君麻呂は、天界に近いのか?」
「あるいはー、彼にとって親しい誰かー……人が死ぬ時、周りの人にも極稀に、天界へと続く道が見える事がありますー。ご存知あるかどうかは、分かりませんがー」
……ごくごく稀に、そんな話を聞いたことがあるかも……しれない。ならば、葉加瀬にとても近い人間に死の危機が迫っている、ということか……?
「誰だよ。いつ?」
俺がそう聞くと、神様は少し不機嫌な顔になって言った。
「私がそれを、関係のない貴方に教えられる筈も無いでしょう?」
……確かに、それもそうか。誰がいつ死ぬかと言うことが分かってしまえば、それを助ける事も、運命を変えることもできてしまう可能性がある。
俺の意思で、人の人生をコントロールすることができてしまう。それを天界が許すはずもないだろう。
でも、気になるなあ。
「ケーキ、貴女は今、本来天界が人間界に干渉できる任務の範囲を越えたお仕事をしています。今後見える事はないと思いますが、あの葉加瀬という子には、見えないように気を使ってあげてくださいねー」
「は、はいっ。分かりました、神様っ!」
神様はケーキを俺の肩に乗せた。俺に背を向けると、その純白の翼がよく見える。
とても綺麗だと、思った。
「ジュン。時を戻す事で運命が変わることを、あなたは意識してはいけません」
何かを注意するように、神様は言う。
「例えば都合の悪い展開を変えるために、無理に時を戻すようなことは、してはいけません」
その言葉遣いには、若干の違和感があった。まるで、これから俺がそれを企むような、それを予知しているかのような台詞、喋り方だった。
そして、誰かにそれを言わされているような、そんなニュアンスがあった。
どうしてだろうか。
「美濃部という子の場合は、たまたまです。たまたま、時が戻った。良いですね」
「……あ、ああ」
「よろしいっ」
神様は振り返り、満面の笑みで俺に向かってくる。両手を広げ、俺を抱き締めた。
前と同じように、感覚はない。これもまた、幻影のようなものだ。神様によって塞がれた視界が、やがて神様自身が透明になっていくことで再び機能を取り戻す。
嫌な予感がしてしまうことを、抑えられない台詞だった。
青木さんの姿が見付からず、ぐるぐると学園を回っているうちに、いつしか時間は過ぎてしまった。電話で連絡を取ろうとしたが繋がらなかったため、俺は教室で待っていた。だが部活をやっていた人間も終わってしまい、いつしか下校時刻になっていた。
仕方なしに学園を出ると、学園の門の裏側に、青木さんの姿を発見する。今までどこで何をしていたのか、君麻呂と会ったのかは分からなかったが、青木さんの視線があらぬ所を見ていたので、余程苦労したのだと推測した。
「おーい、青木さん」
「あ、穂苅君!!」
まるで救いの手が差し伸べられたのかといった具合で、青木さんが俺の下に駆け寄ってきた。豊満な胸が揺れ――いや、ポニーテールが。ポニーテールが揺れていた。
青木さんは申し訳無さそうに、俺に両手を合わせて頭を下げた。
「ご、ごめんっ。電話、出られなくて」
「それは良いけど……どうしたの?」
「……葉加瀬、君、に……ファミレスに、拉致られまして」
……あー。
それは、お疲れ様としか言えない。本当によく頑張ったな、青木さん。どこかやつれたようにすら見えるその見た目に、俺は心の中で合掌した。
「……そ、それで、あいつは?」
青木さんは、並木道の向こう側に流し目を送った。……なんだ? 俺は並木道の向こう、青木さんの視線の先を確認――……
――あ。
「……穂苅」
そこには、君麻呂と――その前で腕を組んでいる、越後谷司の姿が。
君麻呂はやたらと挑戦的な眼差しで顔を越後谷に近付け、目を見開いて面白い顔をしていた。……本当に、顔の筋肉がよく動く奴だな。
対する越後谷は、顔を引き攣らせて俺を見ている。
「……これが、お前の答えか」
……面目次第もございません。
「おお、友よ!! たった今、瑠璃ちゃんにドラマの参加権を貰ったぜ!!」
押し通したのか。視聴覚室を出た後にすぐ出会ったとしたら、それは長い時間、青木さんと話していた事になるが……。青木さんは俺の胸に頭を預けて、意気消沈していた。可哀想に……
君麻呂が越後谷の下顎を下衆な顔で撫でる。
あ、殴られた。めげずに立ち上がり、勝ち誇った顔で言った。
「エチゴヤァ……。てめえのドヤ顔も今日限りで終わりだ。同じドラマで俺ちゃんの本当の力、見せてやっかんな……!!」
越後谷は君麻呂の言葉を完全に無視し、近寄る俺と青木さんに言った。
「よく分かったよ。やはり、お前と瑠璃に人材探しは無理だ」
「いや、俺は別にこいつを呼んだ訳じゃないから。何故か教室の前に腕組んで立ってて、絡まれただけだから」
越後谷は溜め息を付いた。君麻呂は……そう、例えるならひょっとこみたいな顔をして、越後谷の頬を突付いていた。
「オウ!? オウオウオウ!? ぁんだあ、ビビってんのかコラ!! 演技の王子様ァ!?」
……あ、また殴られた。しかし、頑丈な奴だな。結構まともなパンチを受けているのに、全く日和らない。君麻呂は意外とタフだった。
「友よ!! 純もなんか言ってやれよ、この男に!!」
「……何を言えと」
猫背でポケットに手を突っ込み、奇妙な顔で俺の発言を待つ君麻呂。……俺は仕方なく、君麻呂と越後谷の間に入った。青木さんが慌てて、俺と越後谷側に避難する。
最早、青木さんにとって葉加瀬君麻呂は危険人物と化していた。
俺は越後谷に言った。
「……なんか、すまん」
「オイ友よゥ!!」
君麻呂のツッコミも無視して、俺は越後谷に謝る。姉さんと杏月が参加すれば、これでメンバーは足りているという事になるのだが。それにしても、関わってきた人材が悪すぎる。
でも、きっと青木さんも許可するしかなかったんだろうなあ……。
「……いいよ。別に、もう慣れてるし」
片手で頭を押さえながら困ったように言う越後谷は、やっぱり俳優養成ゼミ? では、君麻呂に苦労させられているんだろうなあと思う。
「とにかくなァ!! てめえがチヤホヤされてんのもコレで終わりだからなァ!! 覚悟しとけやオラ!!」
中指を突き立てて言う君麻呂に、越後谷は至って真面目な顔で、
「言っとくけどな、葉加瀬。お前のそれ、キャラ作りとしては失敗してるから」
「ゲフゥッ!?」
パンチより余程効いたらしい。腹に言葉が刺さったのか、君麻呂は腹を抑えて後退した。
「面白くもなんともないから」
「……や、やめろォ!! そういう事を言うなァ!!」
越後谷に手を伸ばして、叫ぶ君麻呂。……どうでもいいが、通行人の注目をあんまり浴びないで欲しい。越後谷は見下すように君麻呂に近付き、君麻呂には全く感じられなかった威圧感を漂わせて、君麻呂に少し怒った。
「お前が演技をどれだけナメてるのか知らんが、邪魔したら――殺すからな」
……おお。
越後谷って、こんな顔もするのか。ただのすました毒舌家じゃなかったんだな。
君麻呂は蹲り、ピクピクと震えていた。越後谷はその様子に少し嘲笑すると、鼻を鳴らして君麻呂から離れる。
「……んっとに、馬鹿な奴」
ふと今までとは違う言葉に、俺はつい越後谷の顔を見てしまった。その言葉にはただの嘲笑ではなく、どこか優しげな意味合いが含まれているような気がしたからだ。
君麻呂の事を気遣っているような――そんな気がした。
「それじゃ、穂苅。明日、よろしくな」
「……あ、ああ」
越後谷は踵を返して、クールにその場を去っていく。青木さんが慌てて、越後谷の後を追った。
「え、越後谷!! 待ってよ!! ……ごめん穂苅君、またね!!」
慌てて俺に手を振り、青木さんは越後谷の後を追い掛けた。……そういえば、幼馴染だと言っていたな。家が近いとか、そんな所なのだろう。
……俺も帰り道、そっちなんだけど。
ま、いいか。せっかく久しぶりに一人になった事だし、買い物でもして帰ろう。
俺は地面にゴミのように転がっている、君麻呂を見た。
「おう、純……。見ろよ、あいつマジ有り得なくね……? 俺様の事を気にも掛けないとか、マジ国外追放モノの犯罪者じゃね……」
いや、完全に全てが自業自得だろ。
「……じゃあな、君麻呂。気を付けて帰れよ」
「友ォ――!!」
突然起き上がり、俺の肩を掴んだ君麻呂。ぎょっとして、俺は思わず身体を引いた。
君麻呂はボロボロと涙を流しながら、鼻の穴を広げて歯を食いしばっていた。
「初めて名前で呼んでくれたな!! 初めて記念にたい焼き奢って!!」
……なんというか、
「嫌だ」
変な奴が一人混ざって、これから慌ただしくなりそうだなあ……。
◆
七月七日、土曜日。俺は越後谷に言われた通りに、都心の待ち合わせ場所で一人、越後谷を待っていた。
結局、越後谷は今日の内容について一切触れることはなく、事情も分からないままに当日を迎えた。一体何を話したいのか俺は気になっていたのだが、話すと言われているのにわざわざ自分から聞きに行くのもどうなのかと思ってしまったのだ。
クラスも違うので、越後谷と接触する機会はまだ、そこまで多くない。これからドラマの撮影を始めるに当たり、機会は増えていくだろうが。
越後谷が俳優養成ゼミに通っているというのも、君麻呂に言われて初めて知った事だった。今日は、色々な事を聞いてみたいと思ったのだが――……。
「……なあ、ケーキ」
「何でしょう、純さん」
「今、何時?」
「十五時、二十分ですね」
来ねえ――――!!
どうして来ないんだ、越後谷司!! お前が呼んだ筈じゃ無かったのか!? 既に待ち合わせ時刻から二十分が過ぎていた。いい加減小腹も空いたし、遅れるんだったらメールの一通くらい、くれれば良いのに。
十五時待ち合わせというのも、半端な時間で気になってはいたのだが。
「……どうしよう。一度、電話してみようか」
「電話番号、分かるんですか?」
「一回電話掛かってきたからね。知ってるんだ」
俺は携帯電話で、越後谷の番号にコールした。
……出ない。
まいったなあ。何か事情があって、遅れているんだろうか。あんまり待ち合わせ時間に遅れるタイプとも思えないし……。
十六時になっても来なかったら、諦めて帰ろうかな。
「……あれ?」
と思っていたら、電話が鳴った。越後谷かな……青木さん?
俺はその着信を確認して、何故か、
「……純さん? どうしたんですか?」
固まってしまった。
なんか、ざわざわする。胃の奥で、小さな虫が蠢いているかのような、嫌な感覚。
俺は喉を鳴らして、着信を受ける。
「……穂苅です」
「穂苅君!!」
電話に出た青木さんの声は、涙に濡れていた。
「――越後谷が!!」
すう、と雑踏の音が遠のいた。青木さんから発される言葉に、俺は予感を確信に変えたかのような激しい感情に突き動かされ、
目を見開いた。