つ『穂苅恭一郎とは何者か』 後編
「で、純くんはどうしたいの?」
「……え?」
「もしも純くんが本当にお姉ちゃんと結ばれたいと思うなら、まあ、助けてあげない事もないけど」
親父が何を考えているのか、いつも俺にはさっぱり分からない。その考えは俺にとっては斜め上過ぎて、いつも突拍子もないものばかりで、常人の感覚とはかけ離れているものだ。
しかし、嘘を言った事はない。
――くそ。
姉さんは、我が家にとって絶対に避けて通る事の出来ない『親父』という壁を避けて通ろうとしたんだ。
あの唐突な家出の内側に、そんな事実があったなんて。
「実はね、明日の昼頃には、もう北京に行かないといけなくてね。あんまり猶予がないんだ」
もしかしたら、姉さんは親父が許してくれる筈がないと、家を飛び出す時に思っていたのかもしれない。
それでも許可だけは取らなければならないと、今、こうしてここに来ているのだろう。
どうして姉さんは、親父が許可しないと思ったんだ?
俺が、姉さんと家を出る事に反対だったからだ。
気付いていたのか。
そのまま杏月が帰って来れば、自分がどんどん遠ざかってしまうことに。
「純くんは、お姉ちゃんの強行手段、許す? 許さない?」
普通なら、迷わず『許す』と言う所だ。
でも、こいつは見抜いている。俺が生半可な気持ちで姉さんと同棲する道を選んだ時に、姉さんと俺は、奇妙な関係を続けたままになるということを。
それは、親父としても許せる所ではないのだろう。
「ずっと、鬱陶しいと思ってきたんじゃないの? お姉ちゃんのこと。引き剥がしてあげるよ?」
そりゃ、姉さんが離れてくれれば、いつかは俺にも彼女が出来て、神様との約束も果たせるだろうけど。
その前に俺、姉さんと心中する事になりそうだし――なんというか。そのやり方は、違うだろうと思う。
でも、半端な解答は求められていない。俺が答えられずに居ることを見抜いたのか、親父はふと笑って、俺の肩を叩いた。
「難しい事じゃない。僕は純くんの、本音が聞きたいんだ」
本音って、何だよ。
俺が姉さんをどう思っているのかって、そういう事なのか?
そりゃあ、恋愛対象としては見ていないよ。……でも、これから姉さんとの関係がどうなるかなんて、誰にも分からない。姉さんの告白を受け入れる気はないけど、姉さんに幸せにはなって欲しいと思ってる。
……そんな意見は、中途半端なのか?
親父はそれ以上何も言わず、俺の前から姿を消した。自分の部屋に戻るのだろう。
俺と姉さんにとっての、最善。
それって、本当に今、決めることなんだろうか。
……戻ろう。
結局のところ俺にとっては、どう転んでも何らかの問題は起きる。
姉さんと二人でバッドエンドに直行するのか、他の誰かと結ばれて姉さんを諦めさせるのかという状況だ。
それを考えると、親父の言っている事もまた、とてつもなく極端である事に気が付いた。
親父のやろうとしていることは、姉さんと俺の関係について結論も残さず、強制的に引き離すということだ。それはきっと、諦めさせるより遥かに重い負担となる。
常識的な話をするなら、仮にも自分の娘に対して縁を切るなどと軽々しく口にするのはおかしいが。
穂苅恭一郎の考えている事を先回りしなければ、答えは出ない。
そこで、だ。
冷静になって考えてみれば、昨夜の会話は少しおかしい。
あの親父が俺にそんな提案をしてきた。ということは、俺が何かを試されている可能性が高いという結論に達した。
本来は姉さんに事情を話せば済む事で、俺に姉さんの今後の問題について聞かせる必要はない。それは俺を戸惑わせ、結論を変えさせるだけの力を持った言葉だからだ。
ならば俺が言われているのは、中途半端な事をするな、ということ。ちゃんと自分の立ち位置を見極めて、流されているだけの状態にはなるなと言いたいのだろう。
……そんなこと、親父に言われなくても分かっているさ。
「起きた?」
朝になると、隣には姉さんがいる。
あまり、眠れなかったな。何だか、色々な事を考えてしまって――……
俺は起き上がろうとしたが、姉さんに阻まれてしまった。
「……姉さん?」
「ごめんね。……もう少し、このままで居させて」
親父から話された事が余程効いているのか、姉さんは寂しそうな顔をして俺の頭を撫でた。まあ、家を飛び出した姉さんの気持ちは分からなくもないといった所だが。
「昨日の話、聞いた」
俺は姉さんに、そう話した。姉さんは俺が夜中のうちに親父に事情を聞いた事に驚きを覚えているようだったが、ふとその表情は暗くなった。
「……うん」
さて、どうしようか。
親父が筋の通った見解を求めているのは一目瞭然だ。ただ攫われたので一緒に住みます、とはならないだろう。
俺がちゃんとした意志を持って、姉さんと一緒に住む、と言わなければならない。
一緒に住まないとすれば、話は早い。俺が嫌がっているという意思表示さえすれば、親父は姉さんと俺を引き離すと話した。
そうして、姉さんは二度とこの家に帰ることも出来ず、途方に暮れるだろう。
「私、勝手に一人で突っ走っちゃってたかな。……純くんは、迷惑だった?」
まったく迷惑で無かったかと言えば、それは勿論嘘になる。
一回目の五月二十日、姉さんと二人暮らしをすると決まった時に、俺の人生は二度と姉さんから離れられないのだと、軽い絶望を覚えた。
俺は、俺にべったりな姉さんの事を嫌がっていたんじゃないのか。
だとしたら、親父の言う通り――……
「俺も、姉さんに迷惑を掛けたよ」
俺は姉さんの手を離し、起き上がった。
結論を、出そう。
「行こう、姉さん」
◆
朝食を食べ終わる頃には、親父は既に忙しくしていた。何度も電話を掛けながら、お袋にネクタイを結んで貰っている。
何の話をしているのだろう。とにかく忙しい人だから、また俺には予想もつかない話なのかもしれない。
悔しいが、俺はこの、常に冗談ばかり言っているような男の息子である。
それだけは、何があろうとも変わらない。
親父は電話を終えると、俺の視線に気付いた。
「おお! おはよ、純くん」
「おはよう、親父」
「そろそろ、出るけど」
――ケジメは、付けなければな。
「親父、話したい事がある」
「待っていたよ息子よ! 良かった、家出たら多分聞けないからねー」
姉さんが俺の後ろで、俺の袖を掴む手に力を込めた。
杏月は既に身支度を済ませて、俺の様子を腕を組んで伺っている。
親父は笑っているが、あまり冗談を言うような顔には見えない。こんな時ばっかり真面目になりやがって。
本当、よく分かってる。
「俺は、姉さんの事を恋人だとは、思ってない。そういう事実もない」
お袋は何か、考え込んでいるような気がした。……まあ、それはそうだろう。どうして俺も実の姉との関係についてこんな事を親父に話しているのか、全く理解できないよ。
はっきりとそう言ったからか、姉さんは俺の腕を離した。
親父は表情を一切変えずに、スーツ姿で俺を見ている。童顔とのギャップのせいで和装よりいくらか若く見えるが、その風貌に一切の油断も隙もない。
「――わかったよ。それで?」
「でも、姉さんと一緒に暮らす」
俺は姉さんと死ぬ運命を変えたいから彼女を作るのであって、姉さんを悲しませたい訳じゃないからな。
お袋は少し、驚いたような顔をしていた。杏月は腕を組んだまま、溜め息を付いた。
親父は、まるで俺の台詞が始めから分かっていたかのように、にやりと笑った。
「一緒に暮らす事は、お姉ちゃんが勝手に決めたって聞いたけど?」
俺も、一回目とはその感想をかなり変えていた。姉さんは狂信的に俺のことを好きで、どういう訳か愛してしまっていて、それは姉さんの様子がおかしいのだとばかり思っていた。
でも本来は結ばれる相手だった、なんて言われてしまうと、嫌でもそれを意識してしまう。
前世の、姉さんを好きだった俺。
どういう訳か、いつかの俺が姉さんを束縛しているような気持ちになってくるのだ。
「そりゃ、最初はそうだったよ。でも、今はそれでも良いかなって、思ってる。少なくとも嫌ではない」
俺は彼女を作る。姉さんは俺の呪縛から逃れて、家族として平和に暮らす。姉さんくらいのスペックになれば、言い寄ってくる男なんていくらでも居るんだろうし。
多分、それが最善ではないだろうか。
「良いだろ、社会経験として子供だけで暮らす、みたいなのがあっても。いつかは出て行くかもしれないけど、親父に何か言われる筋合いはねーよ」
「……へえ?」
どうしてそんなに、面白そうにしているのだろうか。
「今は、そういう答えでも、良いだろ」
全て片付いたら、俺の方から姉さんの家を出て行くさ。言外にそう付け加えるような気持ちで、俺は言ってやった。
親父はにっこりと微笑んで、言った。
「うん、いいよー」
軽い返事だ。でも、聞き流すような台詞でもない気がした。親父は真っ直ぐに姉さんに向かって歩いて行き、姉さんの頭を撫でた。
その耳に、口元を寄せる。
「良かったね、お姉ちゃん。これはもしかして、もしかするかもしれないよ?」
距離が近かったので、親父が何を言ったのか明確に聞き取る事ができた。
俺は初めて姉さんの方を振り返った。姉さんは何が起こったのか分からないといった顔で、目を丸くしていた。
親父とも、目を合わせてはいない。
「ごめんね。仕方なくてね」
ふと、親父はそんな事を言った。
何の意味があってそんな事を言っているのか、俺にはさっぱり理解できない。
だが、それきり親父は何の説明もなしに、姉さんから離れた。きっと、その言葉についての説明など、する気は無いのだろう。
そうして、杏月を見て言う。
「アンちゃん、行くよ」
「……へ?」
「空港まで、付いて来て」
言うと、親父は部屋を出た。最後に俺に振り返り、謎の決めポーズと共に別れの台詞を口にした。
「グッドラック・マイ・サン! マイ・ドーター! 純くん、また帰って来たら近況教えてね!」
……あー。
謎が多過ぎて、もう深追いするのも面倒になってきた。
親父はそのまま、家を出て行った。次に帰って来るのはいつになることやら。遅れて杏月が、
「……ちょ、ちょっと!」
親父の後を追い掛けて、部屋を出た。
……ふー。
いまいちはっきりとしないやり取りだったが、どうにか親父の満足する答えを出せたのだろうか。親父が何を考えているのかさっぱり分からず躊躇したけれど、ひとまずは現状維持ができそうだ。
俺は俺で、俺だけが抱えている問題がある。できれば、今は姉さんの家で生活したいという思いもあるのだ。
そうしないと俺、死ぬし。
「ということで、これからもよろしくね、姉さ――」
俺はぎょっとして、眉をひそめた。
姉さんが泣いていた。
……マジ泣きだった。
「ちょっ、えっ!? どうしたの!? 何があったの!?」
透き通るような瞳の奥から次々と溢れてくる涙に、挙動不審にならざるを得ない俺。姉さんは遅れて、ようやく俺の言葉に気付いて目を合わせ、それから意味も分からず首を振った。
頭を抱き締められ、静かに、姉さんは涙を零した。
どうすることも出来ず、俺は姉さんにされるがままになっていた。
お袋は一息ついて、台所に向かったようだ。
「……姉さん」
「ありがとっ。……ありがとっ」
別に礼を言われるようなことは、何もしていない。お袋も気を利かせて居なくなったので、俺は決めていた台詞を言う事にした。
「姉さん、悪いんだけど……俺、姉さんと恋人同士には、なれないと思う。別の彼女も、出来るかもしれない」
色々な事情はある。
俺自身の気持ちにも、整理は付いていないということ。
未来の事情から、姉さんを選べないということ。
「それでもいいよ。私は、純くんと長く一緒にいたい。ずっと、純くんのそばにいたいの」
分かっていたのか。
姉さんの中でも、俺に対する身の置き方をどうするかということが、変化していたりするのかな。
あるいは、何度も繰り返す事によって――……それはないか。
「死ぬ時は、ぜったい、一緒だから」
ふと、思った。
姉さんって、死ぬことに妙に拘るよな。一体、それはどうしてなんだろう。やっぱり、前世の何かが関係しているんだろうか。
次に神様とやらに会った時に、聞けそうなら聞いてみるか。
何にしても、これで一旦は落ち着いた。問題が解決した訳ではないけれど、親父の許可を貰ったので、実家についてはこれで大丈夫だろう。
杏月を連れ出した所を見ると、何かを話しているんだろうし。
親父が考えている事は、一つも俺には教えて貰えていないけどな……。苦笑が隠せない。
ふと、携帯電話が鳴った。……なんだ? 知らない電話番号からだ。迷ったが、コールは続くので電話を取ることにした。
「……はい、穂苅です」
『越後谷だ。七日でいいか?』
越後谷か。……電話番号、聞いたのか。どうしてこんなタイミングで。
「……何が?」
『会う日』
「……ああ。それは、別に構わないけど。何するんだよ」
『ちょっと、個人的に聞きたいことがある』
越後谷はそれきり、すぐに電話を切った。……なんだよ、聞きたい事って。時間はどうするんだ。せめて、簡単な事情くらい話してくれても……
……変な奴だ。