つ『穂苅恭一郎とは何者か』 前編
文字通りに、杏月による危険で甘い誘惑を受けて気を失った俺は、ぞわりと背筋に冷たい感覚を覚え、目を覚ました。
目の前に広がるのは、柔らかい質感。俺は何かを抱いているようだった。
視線を上に、顔を上げた。
……姉さんか。
ほっと一息、俺は再び目を閉じた。どうやら俺は救出されたようで、和室に敷かれた布団の中に、姉さんと二人で居るらしい。姉さんは和服――浴衣だろうか。浴衣を身に纏っているようで、初めに視界に飛び込んできたのは姉さんの胸の谷間だったようだ。
俺、どうしたんだっけ。……ああそうだ、杏月と風呂に入って、のぼせて。今更ながら、どうやら気を失っていたらしいという現実を実感した。
どうやら俺も浴衣を着せられているらしい。姉さんは眠っているようで、すう、と静かな呼吸の音が聞こえてくる。
どこからか、虫の音がする。少なくとも、雨は降っていないようだ。
ふー。
……いや、ふー、じゃないよ。
俺は姉さんを起こさないように布団から出る。結局、姉さんと親父による話し合いはどうなったんだ? くそ。何も聞けなかったぞ。
でもまあ、俺が姉さんと一緒にいるということは、おそらく杏月は今頃反省している頃だろうか。
この部屋には時計がない。屋敷は広すぎて、使われていない部屋などいくつもあるのだ。携帯電話くらい持っていれば良かったが……風呂で倒れたんじゃ、勿論そんなものは持っていない。
一度、廊下に出るか。
「じゅ……くん……」
げっ。気付かれた? 目を覚ましてしまったのだろうか。
俺は振り返り、姉さんの顔を見ようとした。……暗がりで、よく見えない。仕方なく、見える位置まで姉さんに近付いた。
――姉さんは、目を閉じている。
ただの寝言か。
……ん? なんだろう。何だか、姉さんの顔に何か、あとが残っている。
目尻の辺り――……
「……んん……んっ……」
姉さんは顰め面をして、悪夢にうなされているようだ。俺は姉さんの様子を確認して、姉さんと親父の間でどのような会話のやり取りが行われたのか、つい解答もない事を考えてしまった。
おそらく、俺を連れ出すのは無理だったのだろう。もしくは、親父に相当怒られたか。
何にしても、杏月の勝ちという訳だろうか。聞いてみるまで分かる事ではないが。
泣いたのだろうか。そっと、姉さんの頬を右手で撫でた。
辛そうな顔をしていた姉さんの表情が、少し和らいだ。
何を言われたんだろう。
起きた時に俺が居ないと焦るだろうから、少し様子を確認したらここに戻ろう。
廊下に出た。
「……あ、純さん!」
廊下に出ると、庭を飛んでいたケーキに遭遇した。空は晴れていて、月明かりに照らされる池の周りを妖精のようなケーキが飛んでいる様は、それは幻想的だ。
ケーキはふよふよと飛びながら、俺の近くに来る。
「お前、こんな所で何してるんだ?」
「えへ。純さんのお家があまりに広いので、ちょっと探検してました」
……そりゃ、呑気なことで。
「純、もう、大丈夫なの?」
ぎょっとして、俺は廊下の先を見た。
あ、杏月。どうしてこんな所に居るんだよ。杏月は膝を抱えて部屋に背中を付けるように座り、廊下の隅で庭を眺めていたようだ。
出てすぐ庭のケーキに目が行ったので、気付かなかった。会話しているのを、聞かれてしまった。……どうしよう、何か言い訳は。
「私がここに居るって分かるなんて、すごいね。純は」
ん? どういう事だ?
……ああ、杏月に言ったと勘違いされたのか。
助かった……
ここは、なんとか会話を繋げよう。
「罪悪感感じてるかな、と思って」
「……ほんと、ごめん」
意外にも、結構反省しているらしい。驚いた、杏月がこんなにも萎れている所など、戻って来てから見ていない。なんとなく、姉さんに発見されて怒られただとか、そのようなやり取りがあったのだろうと推測した。
屈んで杏月の頭を撫でると、少しだけ杏月の表情が緩んだ。
「ま、それはいいよ。大丈夫だから、もう寝なよ」
「……ん。ありがと。そうする」
杏月が立ち上がるのに合わせて、俺も立ち上がった。ひとまず、親父に事情を聞かなければならないしな。
親父の部屋は……えっと、どこだっけ。ただでさえ帰って来ない上に広い屋敷だから、よく分からないぞ……
「ねえ」
ふと、杏月に呼び止められた。俺が振り返ると、杏月は何やら、言い辛い事を言おうとしているかのような雰囲気でいた。
「……あのさ」
「うん?」
「……ちょっと、焦ってる」
「何が?」
煮え切らない空気が、続いた。杏月はふと、俺に近付いた。一足飛びに杏月が迫って来て、ふと気が付くと、俺は、
唇を奪われていた。
「んっ……!?」
押し付けるような、荒っぽいキス。それ以外には何もしない代わりに、杏月は微動だにしない。それは相手の思考を奪うと言うよりは、お互いの意思を確認するかのような。
あるいは、自分の気持ちを伝えるためであるかのような――……そのような感覚を、俺に覚えさせた。
唇を離すと、杏月の荒い息遣いが聞こえた。暗がりでも見える杏月の上気した頬に見惚れる。
「なんで、純に先越されちゃったかなあ」
「……な、何言ってるのか、全然、分からねえよ」
「間辺のこと。私が先に発見していれば、純を脅迫できたのに」
――あ。
そうか。去る六月十九日をやり直したということは、杏月がDVDを使って俺に揺すりを掛けてきた記録も上書きされたということだ。
杏月に迫られ、俺が今はまだ家族で居たいと弁明した出来事も、無かった事になってしまった。
例え揺すられたとしても、俺は首を縦には振らなかったけれど。
どうしよう。
もう一度、杏月に伝えてしまおうか。俺が今、杏月と付き合うつもりは無いということを。
俺は杏月の両肩を、そっと掴んだ。
「ねえ。あいつの事、好きなの?」
――ふと、杏月がそう問い掛ける。
姉さん?
姉さんだって、俺にとっては杏月と同じだ。家族でこそあれ、恋人の対象として見る気はない。……無かった、はずだ。今だって、そのつもりがないからこそ俺はどうにかこうにか、姉さんの誘惑を振り払ってきた。
杏月は、不安そうな眼差しで俺を見ている。
「……俺にとっては、姉さんも、杏月も、同じ家族だよ」
結局のところ、そう言う事に決めた。
前回と同じように杏月に迫られていたら、俺は杏月の申し出をはっきりと断っただろう。でも、今の杏月は揺すりを掛ける手段を失い、姉さんとの立場でもあまり有利とは言えず、ついに六月三十日を迎えてしまった。
その頼りない表情に、ぼかさずはっきりとした意思を伝える事は難しい。押せば崩れてしまう、吹けば飛んでしまうような、そんな危うさを感じた。
杏月は納得していないようだったが、曖昧に頷いた。
「……ん」
この様子を見ていると、もしかして決着は付いていないのだろうか。
どのような状況であれ、俺が実家に帰る事になっていれば、もう少し杏月の態度は明るかったのではないかと思われる。杏月は俺に手を振ると、おやすみ、と小さく呟いて、廊下の影に消えた。
うーむ。何だか、分からなくなってきたな。
とりあえず、親父の部屋に向かうか。
「なんだか、元気ありませんね、杏月さん」
ケーキが人差し指に手を当てて、寝惚けたような事を言った。
「……お前は今この状況をどう考えているんだ?」
「どうって、どう……ですか?」
「……いや、もういい」
ケーキって。……ケーキってさあ。
何故かこいつを見ていると、神の使いってあんまり大したこと無いんじゃないかと思えてくる。……やれやれだ。
俺はひとまず、廊下を歩き出した。
「ケーキって、神の使いとして働いていた時はどうだったんだよ」
「どう、ですか?」
「働きぶりとか」
「……えへへ、実は私、たいへんな落ちこぼれでして」
知ってたよ。
「実は、今回の件がうまくいかなかったら、次は私、天界を追い出されて人として生まれ変わるんです。また、徳がゼロの状態からスタートになってしまいます」
「徳? ……って?」
「あ、神の使いというのはですね……むぐ、これは言ってはいけないのでした」
なんだよ。肝心な所で、それはまた話せないようだった。人間の俺には、天界の内部事情を知らせる訳にはいかないということか。
既に片足以上突っ込んでしまっている気がするが、それについてはどう考えているのだろう。
最終的には、俺の記憶も消されるかもしれないよな――……なんて。天界の記憶が消されて、ケーキの事も思い出せなくなるのかもしれない。
そう考えると、今のうちに目の前の神の使いこと妖精とも、それなりに仲良くしておきたい気もする。
俺は、隣で飛び回るケーキの事を見た。
……廊下の柱に頭をぶつけていた。
「ま、前を見ていませんでした……」
……ケーキってさあ。
「おや、純くん、こんな時間に夜道を散歩かい?」
噂をすればなんとやら。親父は庭を下駄で散歩していた。黙っていても何故か挑発的に見えてしまう笑顔と、グレーの甚平が特徴的だった。
「親父」
ちょうど近くに靴箱があったので――誰のものとも分からない草履を手にして、俺は庭に出た。どうしてこんな所に靴箱が……沢山入っている所を見ると、おそらくこれは庭を移動するために設置してあるのだろう。
廊下の先には、庭を遮るように道が続いていて――なるほどね。この先は、確か『離れ』に続いている。大方、わざわざ靴を持って来るのが面倒だということで設置されるようになったのだろう。
屋根があるのだから、ここも掃除すればそれで済むだろうに。
「何してんの?」
「ちょっと、小説の続きを考えていてね。つい、こんな時間さ」
「……そういや、今何時?」
「夜中の二時だね」
どうやら、俺はとんでもない時間に目を覚ましてしまったらしい。親父はまるで俳句を読むかのように、月明かりの中、池に向かい合って紙とペンを構えている。
まだ、その紙は白紙だが。もしかしたら、メモのようなものがされていくのかもしれない。
親父は難しい顔をして、目を閉じていた。
「月明かりにまぐわう二つのシタイ……。時に激しく、時にそれは愛欲に溺れ、いつしか二人を遠い彼岸へと誘っていた……」
「って官能小説かよ!!」
「いや、ミステリだよ」
「そっちのシタイかよ!! 怖いわ!!」
……いけない、また親父のペースだ。確認しなければならない事があるというのに。
親父は俺の事を――今度は間違いなく、嘲笑の意味での笑顔だ。ニヤついてやがる。本当、腹の立つ親父だな。
「やーだー。もしかして、今のフレーズを聞いていけない想像しちゃったの? まったく思春期はタイヘンねー」
「……親父。俺はずっとアンタとは仲良くなれそうにないと思っていたんだが、訂正するよ。お前、大嫌いだ」
「嫌だわ反抗期!?」
「あんまりふざけてると本気でぶちますよ!?」
ふと、親父は真面目な顔になった。このテンションの切り替わりに、いつも俺は付いて行けない。一頻り自分のペースに巻き込んだ後で、自分の意見に巻き込むように話をするのだ。
良いか悪いかはさておいて、そのやり方はとても賢いと思う。親父がここまでの資産家になったのも、そういう理由なのだろうか。
「お姉ちゃんも、いけない事を考えてしまったからね。ちょっと、お灸を据えさせて貰ったよ」
月明かりに浮かぶ親父――穂苅恭一郎の目が、鋭くなる。
獲物を食い殺すような殺気を放っていて、俺はつい萎縮してしまった。何年も一緒に暮らしてきた人間の筈なのに、ふと見せる威圧感は常人のそれとはかけ離れている。
ごくりと喉を鳴らすと、親父は満足したのか、にっこりと笑った。
「……なんて、言ったんだよ」
「純くんの意思を確認もしないで、勝手に家を飛び出してしまったのなら、ね。その行動力はとても良いことだけど、放置する訳にはいかないね」
答えに、なっていない。
あの姉さんですら、親父には勝てない。親父が何か強い事を言えば、姉さんは従うしか無くなる筈だ。ならば、この男は一体何を言ったのか。
「それで、なんて言ったんだよ」
「何も、おかしな事は言っていないよ。僕はただ――」
親父は、言った。
「もしも純くんにその気もないのに、純くんの私生活を奪うような事があるなら、家を追い出すと言った」
その話し方が、目が、ぞわりと、俺の背筋を凍らせた。
「どう、する、つもり、だ」
「んー、お姉ちゃんは身体能力はすごいし、売ろうかな。海外に」
姉さんの涙の理由が、分かったような気がした。
――間違いない。こいつは、嘘を言っていない。
「本気だよ?」
やると言ったら、本当にやる。そういう男だ。親父は相変わらず、一番高い所から俺達を見下ろしている。
「アンちゃんには、純くんと結婚する権利がある。でも、お姉ちゃんにはそれがない。その『事実』を覆す事の難しさ、もう純くんくらいの年齢になれば、分かるよね」
だから、下らない思い付きで家を飛び出した姉さんが、俺の気持ちを確認していなかったとするなら。もう姉さんは、穂苅の子として不要だと、そう言いたいのだろうか。
冷や汗が下顎を伝い、嫌な感覚を残して地面に落ちた。
――敵わない。
そう、思った。