つ『父親とは偉大であるか』 後編
「まあ、座り給えよ」
何故か、親父が胡座をかいて偉そうにしていた。振り回されるな。そう、自分に言い聞かせる。
無駄に苛立たせたり疲弊させたりしながら、人の感情をコントロールするのが親父の常套手段だ。親だからといって、あまり舐めない方がいい。
何度この人を甘く見て痛い目を見たか。知らずの内に、俺も顎を引いていた。
杏月は黙って親父の隣に。俺と姉さんは、向かい側に座った。
懐かしい座布団に座ると、親父は手を合わせて喜んだ。
「はい、全員・集合ー! お母さんお母さん、ケーキ出して!」
「はいはい」
母さんは立ち上がり、台所に消えて……戻って来ると、何故かその両手にはホールケーキがあった。
わざわざ買ったのか。杏月がぶすっとした顔で、腕を組んでそれを見ている。
「ローソク! 火ーつけて、火ー」
「はいはい」
誕生日でもないのに、何故かホールケーキに蝋燭を立てるお袋。火が点くと、親父はずい、と俺に両手を差し出した。
「……何?」
「消して、火。ふうっ! って」
「なんで」
「我が家は穂苅純を中心に廻っている!!」
「廻ってねえよ。というか」
言い終わる前に、親父はホールケーキの火を消した。
思わず、俺は親父を殴りたくなって立ち上がった。
「……純くん。落ち着いて」
姉さんは苦笑いをして、俺の袖を引いている。
あー、くそっ。どうしてこう、何でもない動作の一つ一つで人を苛立たせる事が出来るんだ。ある意味これも才能だな。
「はい、かんぱ――お母さん!? シャンパンがないよ、お母さん!!」
「え、それは買ってないですよ? お父さん」
「むう、これは誤算だったな……じゃあ、代わりに紅茶を!」
「ちょっと待ってくださいね」
これは黙っておくのが吉だろうか。
紅茶が入ってお袋が戻って来る頃には、姉さんと杏月もいくらかこの場に対して慣れを感じ始めているようだった。
「それじゃあ、今日という出会いにカンパーイ!」
「合コンか!!」
……俺が慣れない。
「いやあ、しかしお姉ちゃんも、家を出るとはよくやったねえ。パパびっくりだわ」
「そのことなんだけど、お父さん」
話を切り出した姉さんに、親父はウインクして人差し指を振った。
「そんなに焦っちゃダーメだよ」
くそ、また親父のペースか。
結局、明日は日曜日で特に俺も姉さんも問題がないということで、俺達は実家で一日を過ごす事になった。小説家やら起業家やらをやっている親父は普段忙しいのだが、今日は休みにしているようだった。
相変わらずの広い家。幼い頃は家の中を探検するだけで一日遊ぶ事が出来たこの敷地内で、俺と姉さんがどう過ごしてきたのかを、俺はもう覚えていない。
久しぶりに帰った二階の自分の部屋で、夜を過ごす。俺はベッドにごろ寝して、久方ぶりに電源を入れたゲームをやっていた。
「なんだか、久しぶりですねえ。この家も」
ケーキがそんな事を言っているが、お前はそこまでこの家に思い入れも歴史も無かったような気がするのだが。
時刻は二十二時を回った所で、夕飯も食べ終えた。今日はもう寝るだけという所で、俺は実に一ヶ月振りに、一人で寝るということを経験するらしい。
何しろ、姉さんの誘惑に一生懸命抗う必要がないのだ。これは、俺にとっては素晴らしいことだ。
この一ヶ月、本当に毎日が大変だった。一度も手を出さなかった俺に、自分自身で賛辞を述べたい。
「純さん、これからどうするんです?」
ふと、ケーキがそんな事を言った。
「んー? 何がー?」
「美濃部さん、結局何も進展ありませんけど」
「んー。……そうだなー」
「まさか、杏月さんと結ばれる事は無いんですよね?」
……ケーキも一応、俺のことを心配して言ってくれているのだろう。そもそもお前が天界だかどこかで間違いさえしなければ、こんな事にはならなかったのに。
しかし、俺が恋人を作ることで姉さんに諦めさせるというのも、妙な話だよな。まるで、姉さんを絶望に落とさないと神様にも手出しができないと言っているかのような。
いや、正にそうなのか。姉さんは神の使いになる予定だった、と言っていた。
でもそうすると、何だか頭の中に引っ掛かるものがあるのだ。
俺はゲームの電源を切り、立ち上がった。
そろそろ、風呂に入りたい。
「……なあ、ケーキ。そもそも、俺と姉さんは今世で結ばれる予定、だったんだろ?」
「私は、そのように認識していましたが……どうしたんですか?」
家にも露天風呂が欲しかったという親父の希望で、何故か我が家には露天風呂が設置されている。まるで旅館のようだが、これはこれで悪くないと思っている。
……風呂までの道のりが遠くなければ。
俺は二階の階段を降り、風呂場へと歩き出した。
なんか、変だ。ケーキと神様の言っている事には、変な矛盾がある気がするのだ。
庭を眺めながら、屋敷の廊下を歩いた。
考えても、あまり的を得た解は出て来なかった。だけど、どうしても心の中に引っ掛かるものがあって、俺はあまり気分が良くなかった。
「……純さん?」
ケーキが見兼ねて、俺の様子を伺った。俺は目を閉じ、風呂場の扉を開いた。
「いや、何でもない」
「……どうしたんです?」
「言葉に出来なかった。そのうち、また聞くよ」
「……はあ」
どうせ、ケーキに聞いたって分からない可能性はあるけどな。
手早く身体を洗って、俺は風呂に浸かった。
……ふー。
風呂に浸かって身体の力を抜くと、全身から疲れが抜けていくような気がする。
しかし、親父と杏月の間にも何かがあるようだったな。あの件は、結局どうなったのだろう。まだ何も先に進んではいないのか。
ふと、杏月が姉さんに言っていた言葉が頭の中に蘇ってきた。
『……どうして私がパパに選ばれたのか、知らない訳じゃないでしょ? いい加減、純の恋人ぶるの、止めて欲しいんだけど。迷惑』
あれは、どういう意味だったのだろう。……いや、本当は答えなんて出ているんだけど。
もしも親父が意図して杏月を俺の恋人という立場に置くため、養子として育てて来たのなら、俺は親父に物申さなければならない。
人の気持ちを差し置いて、幼少の頃から俺を好きになるように仕向けたっていう事じゃないか。それは、俺としてはあまり許せる事ではない。
他に何か、理由があるのならと思わないでもないけれど――……
「……それでも、杏月は俺にとっては妹、なんだよな」
「杏月さんですか?」
俺はケーキに頷いた。ケーキはふわりと微笑んで、俺の言葉に賛同した。
「私も、そう思います。二人はまるで――前世から仲の良いキョウダイだったかのような、あるいは魂の繋がった仲間だったかのような、そんな雰囲気がありますから」
ケーキはよく分かっている。
滅茶苦茶な奴だと未だに思っているが、俺の意見はそうなんだよな。あまり、俺は恋愛対象として見たことはない。今後、見ることが出来るかどうかも。
杏月がどう考えているのか知らないが。
「ところでお前、身体洗わないのかよ」
ケーキは頬を膨らませて、俺に背を向けた。
「……嫌です。後で一人で入ります」
なんだ。姉さんが風呂場に乱入してきた時のこと、まだ気にしていたのか。あれは不可抗力だったんだって。
「え? ちゃんと洗ったよー」
――ん?
なんか、あらぬ所からあらぬ声が聞こえた。
俺はその方向を振り返って――……
「ぐはっ」
思わず、吹き出した。
スレンダーな体型に、低めの背。杏月は髪をまとめながら、俺の隣に座った。苦い顔というか、絶句して固まっている俺と目を合わせると、両頬に指を当ててポーズを取った。かわいこぶりっ子のつもりか。
「んー、良い湯だねー」
「何してんだよ、お前」
「いろじかけ?」
「何で疑問形なんだよ」
杏月は俺に寄り添うと――何故この広い風呂でわざわざ俺に密着する必要があるのだ。理由は分かり切っているが。
密着されると、体温が一度ほど上がる気がするから不思議だ。親族の裸なのに、頭に血が上る俺も俺だが。
でも杏月は、姉さんみたいな痴女的な誘惑とはまた違う、計算された誘惑をしてくるから質が悪い。
「あんまり、まだ純に私の魅力を伝え切れてないかなあ、と思って。今ならあいつも居ないし」
「……姉さん? そういえば、姉さんは?」
「今頃、奥の部屋でパパと話してるんじゃないかな」
しまった。既にその話は始まっていたのか。姉さんも俺に何の相談もなく始めるんだから……いや、もしかしたら親父が呼び出したのかもしれないけれど。
仕方ない、すぐに俺も向かって、事の成り行きを見守らなければ――……
俺は浴槽から出ようとした。
「わぷっ!」
右足を捕まれ、転びそうになる俺。
見ると、杏月が俺の右足に抱き付いていた。
「……あの、杏月さん?」
「別に、二人に任せておけば良いじゃん。ちょっと、話しようよ」
「特に話す事なんか無いだろ……」
「い・い・か・ら!」
仕方なく、浴槽に戻る。姉さんの発情にも困ったものだが、杏月の誘惑もかわすのにすごく労力を消費するんだよなあ……。
と思っていたが、杏月は俺の肩に頭を預けたまま、特に何をすることもなく空を見ていた。
「……杏月?」
「ううん。ちょっと、このままで居させて」
急に感傷的になって、どうしたんだろう。いや、俺が気付かなかっただけで、風呂場で遭遇してからずっとこうなのだろうか。
並んで座ると左腕を杏月の両腕に奪われてしまったが、それきりだった。何だか気まずくなってしまい、俺はただ時が流れるに任せた。
「いいなあ。あいつばっかり、純と一緒にいて」
――ふと、そんな事を言われた。
もしかして、ほんの少しでも、寂しいなどと思ってくれたりしたんだろうか?
杏月はずっと海外に出ていたし、戻って来たら俺と姉さんが居ない、という状況になっていた。杏月の立場からすると、確かにそれは寂しい事なのかもしれない。
途方もなく明るい……もとい、捻くれた性格なので、あまり表面上の反応からは中身の事が分からずに居たが。
「俺は、どこにも行かんよ」
「……ん。そうだよね」
杏月は俺の耳元に唇を近付けた。何か言われるのかと思い、俺は杏月に顔を寄せた。
「……あむっ」
「うおあ!?」
耳朶を甘咬みされて、びっくりして顔を離す。
見ると、杏月が蕩けた瞳で俺を見ていた。その妖艶な表情に心臓が跳ね上がり、俺は一瞬でもこの状況に対する危機感を覚えていなかった事に恐怖した。
「……あ、杏月?」
「ねー、今、わりと良い感じじゃない?」
「いやいやいやそんなことはないよ」
「忘れてるとは言わせないけど、私達、今、すっぽんぽんだからね?」
――すっぽんぽん。
なんという、身も蓋もない言葉だろうか。その言葉の語感だけで、意味まで理解できるから不思議だ。
杏月は俺の首筋にキスをして――駄目だ、全然展開に付いて行けていない。風呂場だからなのか、頭が呆けて考えることを拒否していた。
「ね、純。あんまり身体が言うこと、効かなくなってきたんじゃない?」
「……え?」
「お風呂の温度、ちょっとだけ上げておいたんだ。適温やや上くらいだから、自分が長く浸かり過ぎてる事に気付かなかったでしょ?」
……なんか今、すごい事を言われた気がするんだが。
なんだろう、目の前の杏月がすごく良い女に見えてきた。
「純さん!! うまいことコントロールされちゃってますよ!! 純さーん!!」
ケーキの呼び掛けにも、反応しない。そうかあ、のぼせてるんだコレ。すごく喉が渇いて、頭がクラクラする。杏月は悪戯っぽく笑って、俺に身を乗り出した。
「――ね。キス、しよ」
そのまま、ついばむように、キス。杏月は俺の首に腕を回した。
あれ、これ、やばい。
「んふー……良い感じ」
気付かなかった。杏月が俺に罠を張っている事になんて。いや、それ以上に、既に動く気力を失った俺は好き放題に体温が上がっていた。
杏月の声に、エコーが掛かっているように聞こえる。
ぼんやりと、杏月の向こう側に別の人影が見えた。それは俺を心配し、覗き込むようにしている。
その姿が、今の杏月と重なった。
「……あ、あれ? 純? 大丈夫?」
「あんま、大丈夫じゃ、ないかも」
俺の異変に気が付いたのか、杏月が慌てて俺の身体を抱き、浴槽の外へと向かおうとした。
「ご、ごめん!! すぐ水飲もうね」
姉さんでも、杏月でもない。なら、誰――……?
黒い。黒い翼も見える。頭の上に浮かんだ、光を発しない天使の輪も。神様の姿をそのまま黒くしたかのような。
すうと、気が遠くなった。今日一日、移動してきた疲れもあったのかもしれない。
焦る杏月を横目に、どこかで大きな物音がしたような気がした。だけど、それは俺の意識の遥か向こう側で起こっている出来事のような気がして。
そこで、俺の意識は途切れた。