つ『姉さんから逃げる方法はあるか』 後編
「あむっ」
――――いかん、喰われる!!
反射的に手を引くと、じゅるり、とヨダレを啜って姉さんは俺に迫ってきた。
ごめん、やっぱり悪戯をしようというのはナシ、止めだ。この姉は異常、人間じゃない。どうかしている。何をされるか分かったもんじゃない。
「……ね、姉さん。落ち着いて」
「ごめん、純くん……私、もう我慢できない」
蕩けた瞳が俺を狙っている。マシュマロのように柔らかい唇が今にも俺に吸い付きそうな距離へと迫って来ていて、俺は鍵の付いたシートベルトに捕まったまま逃げる事ができない。やばい。
細い指がサイドブレーキを越えて助手席のシートに辿り着き、身を乗り出すとタンクトップから下着がちょっと見えた。
どうする俺。自分で招いた事とはいえ、エスカレートし過ぎだ。そんなものは望んでいない。それ以前に早く夢から覚めてくれよただの回想だろ!!
俺は両手でガードを作るが、姉さんは俺の腕を優しく握ると、そっと避け――――
「姉さん!! 早く移動しないと、駐禁取られるよ!!」
ふと、姉さんは泣きそうな瞳で俺を見た。まずい、フォローもしなければ。どうする。何を言えばいい。
苦し紛れに思い付いた一言は、既に胃を駆け上がり、喉元のすぐそこまで出て来てしまっていた。
「――家に、着けば。二人きりだから」
何言ってんだ、俺。
何言ったんだ、俺。
家に着いたら襲ってくださいと言っているようなもんじゃないか。
姉さんは目を丸くして、直後、沸騰したヤカンも裸足で逃げ出すほどに顔を赤らめ、そして、
「……うんっ」
満面の笑みで、頷いた。
俺は多分、姉の頬と足して二で割ったら正常な人間になると思えるくらいには、青い顔をしていただろうと思う。
◆
十五時を回る頃には俺と姉さんは、かの忌々しい二LDKのマンションへと到着していた。姉さんは絶好調といった様子で、俺の暗雲立ち込める気持ちの事なんて知ったことではないと言わんばかりに、軽くステップを踏みながらハイエースから降りる。
ちっとも回想が終わる気配などない。それどころか、このまま三ヶ月間をやり直しそうな勢いだ。
どうしよう。さっきあんな事を言わなければ。いや、そもそも悪戯をしなければ。
姉さんは常にフェロモン全壊で、何故か俺の前では発情しっ放しなのだ。一体いつからそうなってしまったのか分からないが、俺への執着心はガムテープよりも粘着力が強い。
まいった。これからどうやって逃げれば良いのか、皆目見当がつかない。
「着いたよ、純くんっ」
この清純で純朴な笑顔が、俺を刺したのだ。またあれを繰り返すのは嫌だな。
……さて、どうしたものか。俺は小声で呟いた。
「……おい、幻想」
「幻想じゃないですってば……」
「俺がどうにか、一人になる手段はないか」
「ええ、一人になる手段……? ……トイレとか」
――付いて来かねない。確かこの頃の姉さんは頭がおかしいほどに浮かれていて、肌見放さぬ抱き枕のように俺を扱っていた。
いや、待てよ。
「……ちょっと、姉さん」
「どうしたの純くん!! お姉さんに何の用!?」
笑顔が眩し過ぎて見えない。
苦笑いを浮かべて、俺は言った。
「……あの、……ちょっと、トイレに」
俺が言うと、姉さんは途端に頬を赤く染めて、もじもじと両膝を擦り合わせた。……これが姉でなければ、可愛く思えたかもしれない。でも、残念ながら実の姉には何も感じない。
……少し、賢者にでもなったような気分である。
「あ、うん……。分かりました……」
何やらぶつぶつと呟きながら、シートベルトの鍵を取り出す。特注で取り付けたのだろうか。事故を起こした時にシートベルトが簡単に外れなかったら、それはそれでまずいような気がするのだが。
よし、これでハイエースを降りて、もう一言……
ハイエースから降りるなり、姉さんは覚悟を決めた様子で俺に向き直った。
「あ、あの!! 私、純くんのだったら」
「あ――!! ごめんそうだ引越し祝いの食べ物を買い損ねたんだちょっと近場のスーパーまで買って来るから先に荷物下ろしちゃって!!」
――――誰かこの変態を止めてくれ!!
矢継ぎ早にまくし立てると、俺は姉さんに背を向けて全力ダッシュ。少し涙が出てきた。
だが、これが姉だ。
悪名高い(俺の中では)、穂苅純の姉である。
俺の隣をケーキと名乗る幻想が付いて来る。ハイエースに荷物が積んである以上、これで姉は俺の言う事を聞くしかあるまい。ほんの少しの間――三十分以内には戻って来ないと、姉さんは空になったハイエースをコインパーキングに止めて俺を探しに来るだろう。
その類稀なる嗅覚と直感で、俺の居場所などすぐに当てられてしまうに違いない。
ぞっとして、思わず鳥肌が立った。
前は一緒に荷物を下ろして、一緒に引越し祝いを買いに行った。メニューも覚えている。姉さんの十八番であるミネストローネと、当時姉さんの新作だった魚介のテリーヌ、それから最高級の鶏肉を取り寄せたローストチキン。鶏肉は買って既に届いている、それ以外だ。
本場のシェフも顔負けなほどうまい。これは本当に間違いない。
おかげでメニューを覚えていて、助かったぜ……
スーパーの場所も覚えていたので、俺は真っ直ぐにスーパーに到着した。
「あの、どうすればこの世界が現実だって、信じてもらえますか」
段々、幻想ことケーキの声音が悲痛なものになってきた。……どうすれば、かあ。そう言われてもなあ。
むしろ夢か幻想じゃないなら、なんだと言いたい。
この世界が死後の世界でないという証明? ……うーむ、それはどうにも難しい。死後の世界なんて、想像もできない世界なんだし……
「……ケーキはどうして、ここに来たんだ?」
聞くとケーキは俯いて、両手の人差し指をつんつんと突付き合わせた。
「はい……。実は私、魂の仕分け人なのですが」
「仕分け人?」
郵便局みたいな単語が出て来た。つい気になって俺はスーパーの前で立ち往生して、ケーキの話を聞いてしまった。
「はい。……あ、私の姿は他の人には見えないので……」
……そうか。もしこれが本当に生の現実なら、俺は変人になってしまう。念の為にスーパーの裏手に回ると、ケーキも付いて来た。
「それで?」
「前世では、純さんとお姉さんはお互い愛する人同士だったんです。ところが、前世では戦争の相手という関係柄、添い遂げる事ができなかったんです。純さんは、他の女性を好きになってしまって。お姉さんは、独り身のまま……」
なんだか、妙に説得力のある説明が出て来たぞ。……妙に姉さんが俺のことを好きなのも、よく暴走するのも。
「……それで?」
「当然今回も、別々の家族の子供として生まれる予定だったんです。今度こそ、二人を引き合わせようと。私も神様から言われていたので、意識して近付けようと……」
「…………それで?」
ケーキは言った。
「…………近付け過ぎまして」
――――知ったことか!!
不意に、携帯電話が鳴る。……姉さんからだ。俺の携帯電話には姉さんの番号しか入っていない。両親の番号すら入っていないんだから、大したものだ。
俺はその着信に出るべきか迷ったが、最終的には時間を稼ぐために電話に出た。
「あ、もしもし純くん? こっち、終わったけど――」
「ああうん、ごめん! ちょっと時間掛かってるから、待っててくれる?」
「うん、私も手伝うよ」
手伝って貰ったらまずいのだ。何か、何か言い訳を探さなければ。
「ああ、姉さんが気にするような事じゃないから。待っててよ」
「私が行きたいの! ねー純くん、一緒にお買い物させて」
少しだけ、良心が痛い。いや、この姉に良心など無用だ。気を許せば瞬く間にエスカレートするのだから。
「心配すんなよ、すぐ戻るって」
「――うん? 純くん、今どこのスーパーにいるの? 私、そこまで行くよ? ……いいよね?」
――やばい。疑問符が混じりだしたら、姉さんが俺を疑い始める可能性有りだ。
姉さんが全力ダッシュしたら、ここまでどのくらい掛かる? 一分か? 二分か?
まだ、話は終わってない。今来られたら、困る。
今回は本当に何でも無いのだから、焦る必要はない。心臓よ落ち着け。変な声を出したら疑われるぞ!!
「い、いやあ。姉さんも運転続きだし、疲れたでしょ。俺も買い物くらい一人で出来るから。安心して待っててくれよ」
「……」
――や、やばいか? ……やばいのか?
俺は――――
「……うん、わかった。へへ、純くんは頼りになるなあ」
――助かった!!
俺は電話を切って、スーパーの外壁にもたれ掛かり、ため息を付いた。
……確かに、この身を削るような緊迫感も、姉さんの様子も、空の青も、現実世界そのままだ。
三ヶ月後、俺は初めて彼女を作って、デートして姉さんに殺される。
にわかには信じ難いが……
「――それで?」
俺が聞くと、ケーキは覚束ない口調でおずおずと話し始めた。
「あ、あの、純さんは前世でも別の女性を選んでいるので、そこまで執着はしないです。お姉さんが純さんのことを異様なまでに好きなのは、前世の経験が関係しています。だから、……だから」
「……で?」
「今から数えて、約一年後――純さんが高校を卒業するまでは、お姉さんが、その……嫉妬心に燃えて、……その、してしまっても、純さんは生き返ります。今回は三ヶ月前でしたが、これからは二、三日前に戻ります」
……いらん気遣い、しやがって。
そんなもんくれるくらいなら、俺は次の人生を幸せなものにしたいよ。
「純さんに相手が見付かれば、神様が気を利かせてくれることになっているので、お姉さんも別の相手を探してくれます。……だから、卒業するまでにどうにか、お相手を見付けてください。そうすれば、来世がありますから」
あまりの倦怠感に、俺は左手で瞼を覆った。
なんだ、そりゃあ。死んでも生き返るってか。その間に、新しい彼女を見付けろと。悪いが姉さんは成績優秀の上、異常に冴えた五感と第六感を持っていて、ハンカチ一つで俺の周りに寄ってきた女を判別出来るほど鋭いんだぞ。
どうやって、相手を探せと……
「……ちなみに、失敗したら?」
「私の首が飛んで、私の管轄の方々は別の使いに任され、当分は生き返らなくなります」
「お前はどこまで俺を――!!」
「ひゃあっ!! ごめんなさいごめんなさい!! 本当にごめんなさい!! その、出来る限りの事はしますので!!」
ため息を付くと、口から魂が出て行きそうだ。
姉さん、ごめん。
今日から俺、貴女と俺のために、別の彼女探すわ。