つ『最後のデートに2度目はあるか』 前編
「――好きです」
美濃部立花は俺に言い切ると、しゃくり上げるように喉を動かし、両手で握り拳を作って肩を強張らせた。
その姿に俺は緊張と言うよりは、驚きに目を丸くする。
「わっ、わっ、私、は、穂苅、純君のことが、好きです」
――なんとなく。
皆が皆、自分勝手な想いと決め付けによって行動しているのだから、それをコントロールする人物は存在すべきだ、なんて。
間辺慎太郎が言わんとしていた事を、よく考えもせずに鵜呑みにしていた。
言い負かされた気がしていたのかもしれない。あの場で杏月の行動を止めたのは俺で、杏月は今も怒りに燻っている筈で。
そうして、時間は止まった。
俺は呆然と考えている振りをする事で、考えるのを辞めていたんじゃないのか。
「……どうして、俺を?」
美濃部は、より一層表情を幼くさせた。そのあどけなさや初々しさを、どこか可愛らしいと感じている自分がいた。美濃部は深呼吸をすると、胸の辺りを撫でて気持ちを落ち着けているようだった。
「分からない。……でも、お姉さんと一緒にいるトコ見てて、なんとなく、いいなあ、って思って。お姉さん、穂苅君に我儘ばっかり言ってるような気がするのに、拒否はしないで、ちゃんと面倒見てるのが」
見る人によっては、そのようにも見えるらしい。人によってはシスコン呼ばわりされるのだから、千差万別だ。最も、大多数は後者なのだろうが。
美濃部は悔しそうに、虚空を睨んだ。
「知ってる、んだよね? 私が、間辺に連れて行かれること」
「……ああ、知ってる」
「もう、時間無くなっちゃったから。だから、最後に、言おうと思って」
俺は結局、どうしたいんだ?
ふと、そんな事が気になった。
いや、あるいは始めから分かっていた。
俺は自分に降り掛かった災厄から逃れるつもりで、動いていた。杏月はそんな俺に、協力してくれた。
だが、蓋を開けてみれば美濃部もまた、厄介な出来事に巻き込まれている事を知った。そして、美濃部を助けたいという気持ちがそこに加わった。
今、俺はどうしている?
まんまと間辺に言い負かされて、全てを投げ出している、という事になるんじゃないのか?
自分の無実も証明できず。
美濃部の無念も放り投げたままで。
「明日、学園、休もうと思って。……もし良かったら、遊びに行かない?」
杏月が持っている動画や音声を公開したらどうなる? もしかしたら噂になって、間辺の評判は多少悪くなるかもしれない。……だが、それまでだ。それと俺の事件を直接的に関係付ける事には成功していないし、何より俺・杏月と間辺慎太郎では学園の人間から受ける信用度が違い過ぎる。
それに間辺が美濃部を連れて逃げるつもりなのであれば、俺の問題を解決したからといって事態が収束する訳ではない。
噂が広まっても、学園を出てしまえば終わりに出来るのでは。
ならば、どうすれば美濃部立花をこの場所に繋ぎ留めたまま、俺も汚名を被ることなく学園に復帰できるか?
「俺は、構わないけど」
「……へへ。良かった」
――決まっている。答えなんて一つしかない。
やり直すことだ。
他の誰に出来なくとも、俺には出来る。六月十七日の朝に戻れば、もしかしたら間辺と例の釣り目の女がコンタクトしている瞬間を捉えられるかもしれない。
悪魔に魂を売り、時を戻して俺の失態を取り戻すしかない。
俺の目的のために、姉さんを意図的に暴走させる?
正気か?
目の前に居る美濃部の姿が幻想なのではないかと思える程に、俺は混乱していた。自分が死ねば良い、などという無理矢理な結論に達した事など、これまでの俺の人生には無かったことだ。
まるで道具のように、自分の身体と姉さんの気持ちを利用すること。
「最後に、思い出くらい欲しいなと思って」
両足を底なし沼に取られるような、複雑な想いに駆られた。
俺だって、無敵の超人じゃない。死ぬということは、単なるイベントの一つではない。そこにはグロテスクで、リアリティに溢れた現実が転がっている。
暴走した姉さんの怖さは、知っている。
後に堪らない吐き気を催すことも。
「純さん、それは駄目です!!」
ケーキが俺の意思を汲み取ったのか、念を押す。
そうだ。もしも俺が自ら姉さんを暴走させに行くのなら、それは事故ではない。自殺だ。神様の予定しているルールに反するかもしれない。
生き返る事が出来なければ、俺は最低最悪な人生を終えてそれまでだ。
俺は、ケーキの表情を確認した。
「……私、庇い切れません。どうにか、死なないで解決の方法を探すべきです」
あるのか?
無いだろう?
他の解決方法があるのなら、俺にそれを提示してくれよ。
起きてしまった出来事をチャラにして、美濃部の海外行きを取り消す方法。掻き消された証拠を炙り出す手段。
美濃部は精一杯の笑顔で、俺に笑い掛けた。
「ありがとう。じゃあ、明日ね」
俺は、混濁した意識の中で、曖昧に頷いた。
「……明日」
美濃部は笑顔で、マンションの階段へと走って行った。
俺と擦れ違う。
頬に、何か冷たいものが当たった。
美濃部の、涙だ。
俺はただ、その場に立ち尽くしていた。
月は雲に隠れ、星は見えなくなっていた。
「じゅ、純さん! も、もー……ちょっと待ってくださいね、今、確認して……」
ケーキの言葉を無視し、俺は今後の展開を考えていた。ケーキは胸元から携帯電話を取り出し、巨大化させると、それを操作し始めた。
空中に光が現れ、その眩しさに一瞬、瞼を手で覆う。
小さな爆発が起きた時のような音がして、いつか俺の前に現れた金髪の美女が姿を見せた。
その表情には、初めて出会った時のような『ユルさ』は感じられない。
「あ、神様!!」
「ちょっとー、それは、見過ごす訳には行きませんねー?」
――やはり、自らの意思でリセットするのはルール違反か。なんとなく、そんな気はしていた。元々、姉さんが暴走してもやり直す事が出来るように作られたルールだ。
俺が自らの意思でコントロールするための武器ではない。
シルク・ラシュタール・エレナとか言ったか。俺はそいつを真剣に見ると、詰め寄った。
真正直に行くべきか、誤魔化すべきか。
「そんな事考えても、駄目ですよー。私を始めとする神様は、意識していれば人の心の中を見ることができますからねー」
なるほど。逆に言えば、意識していなければ見ることも出来ないということだ。
「……か、可愛くないですねー? 最初のような初々しさはどこに行っちゃったんですか?」
「知ったことか」
どうせやり直すなら、今やり直すと言っているだけだ。言い換えれば、これは美濃部立花と付き合うために行動していると言う事も出来る。完全なルール違反には、ならない。
ついでに言うと、姉さんも暴走させる事が前提なんだ。俺が今、神様に時を戻してくれって頼んでいる訳じゃない。
「……詭弁ですねー。それでお姉さんが予定の時間までにおかしくならなかったら、どうするつもりなんですかー?」
俺は意識して、頭の中を真っ白にした。
神様は蔑んだような目で、俺を見た。神様は金色の輝くような長髪を白い指で弄りながら、ぶつぶつと何かに文句を言っている。
何か、不満があるようだ。
「シルク・ラシュタール・エレナ。あんたは、この展開をどう考える。これだけ未来が変わっているんだ、姉さんの事もある。どうせ、全ての未来を特定なんて出来ていないんだろ?」
神様は、痛いところを突かれたと言ったような表情になった。
俺は何度もやり直す事で、今生きている未来の位置を変えている。これだけやり直せば、最早何が正しい未来だったのかなど分からない。逆に言えばそれは、神様が勝手に俺達の未来を操作している、とも言える。同時に、神様にも制御できない部分が人間界にはあるってことだ。
俺という、唯一時間の巻き戻りに記憶を残す者によって。元を返せばそれはそもそも、ルール違反ではないのだろうか。
「……と俺は思うんだが、どうなんだ」
「ぐー……確かに本来は、天界が勝手に人間界の未来を決める事や干渉することはご法度になっていますけども……」
神様は頬を膨らませて、言った。グラビアアイドルみたいな体型と顔をしている癖に、言動や行動はいちいち子供っぽい。
「でも、駄目ですっ。私が許しても、他の神様は許してくれません」
……あんたの他にも神様がいるのか。天界の縦社会も大変だな。ケーキみたいな使いっ走りから、政治家ポジションの奴も居るんだろうか。
それでも、神様は茶目っ気たっぷりのウインクをすると、口元に指を当てた。
「まあでもそう思っているなら、多分大丈夫じゃないかと思います。明日のデート、目一杯楽しんでくださいね? 間違っても、休んじゃ駄目ですよ」
……なんだ? それは、どういう意味だろうか。
神様は俺の顔を両手で挟むと、額にキスをした。感触は無いから、やはりこれは前回と同じように、ただの映像なのだろう。
何も言わず、流し目を送るような顔で俺を見た。
「……お察しの通りかもしれませんが、私は今、天界に居ます。滅多なことは言えません」
いつもの間延びした喋り方ではなく、急にそれは真面目になったかのような、はっきりとした口調だった。小声だが、聞き取り辛くもない。
神様は俺と額を合わせて、目を閉じる。それは一体、どういう意味だっただろうか。
「ですが何度も死ぬ事で、確実に魂の許容量は越えていきます。死ぬ事は、ノーリスクではありません」
死ぬ事は、ノーリスクではない。
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「タイルズ・リッケルドゥイン・ブラックオニキス・ティアードメサイア・ラッツ・リチャード・レオナルド・ローウェン・ジュン。……それを、忘れないで」
そう言うと、神様はすう、と半透明になり、やがて夜の闇に紛れて消えてしまった。
……今のは、俺の名前?
『ローウェン』だけ、どこかで聞いたことがある。……そうだ、姉さんの夢の中で。俺もまた、それだけの前世を繰り返して生きてきた、ということなのだろうか。
まだ、分かる事よりは分からない事の方が、多い。だが、今の神様の言葉は信用しても良いのではないか。俺は、直感的にそう考えていた。
◆
六月二十日、水曜日。俺は学園も無いのに六時五分きっかりに起きると、すぐに着替えた。
キッチンでは姉さんが、亜麻色の髪を後ろで一つに束ねて、フライパンを振っている。俺はそれを横目に洗面台へ向かうと、顔を洗って外出の支度を整えた。
姉さんが急に活動的になった俺に、目を丸くしていた。
「……純くん? おはよー」
「おはよう。何作ってるの?」
「へへ、今日の朝ごはんは素敵野菜の春炒めだよ」
……なんだ、素敵野菜って。聞いたこともないが。まあ、察するに旬の野菜を使った炒め物なのだろう。俺が食卓に座ると、姉さんはフライパンの中身を皿に盛り付け、俺に出した。野菜中心のヘルシーな香りが食欲をそそる。
一応、ちゃんと言っておかないとな。姉さんは俺の心情など分からずにエプロンを外し、俺の視線に気が付くと疑問符を浮かべて微笑んだ。
「今日、美濃部と二人で会ってくる」
瞬間、姉さんの表情が少し曇る。これは、予想していたことだ。
「……あれ? でも、今日って普通に」
「平日だよ。でも、二人で会う。どこかは分からないけど、デートしてくる」
姉さんは俺の事情を察したのか、眉をひそめて俺を見ていた。昨日の夜、美濃部が俺の家に現れた事の意味を理解してのことだろう。
「彼女、海外に行くらしい。最後に一度、デートしようって、さ」
姉さんは頷いた。
やっぱり、姉さんが如何にして暴走するのかという問題については、何度か経験した俺でも分からない事だ。こうして美濃部の事を相談しても、姉さんはちゃんと事情を理解してくれる。
かと思えば、青木さんがハンカチを返しに来ただけで暴走したり、分からない事も多い。
まあ、今はそんな事はどうでも良いのだが。
「……分かった。気を付けてね」
姉さんは微笑を浮かべ、俺を見送る。良かった、姉さんが普通で。
その後は特に何もなく朝食を食べ終え、俺はすぐに立ち上がり、支度をすると鞄を背負った。姉さんも会社に行くので、食器を片付けて準備する。
俺は姉さんに軽く手を振ると、玄関扉に手を掛け――……
むにゅ、と背中に何かが当たった。
「……あの。姉さん?」
「やっぱやだ!!」
……いや、やっぱやだ、って言われても。
姉さんは俺の腰にしがみついたまま、離れようとしない。俺は仕方なく、後ろを振り返った。
「……姉さん。美濃部はもう、学園に居られなくなっちゃうんだよ。最後くらい、会ってあげたいじゃない」
「分かってるけど、でも……」
何が不満なのか――は、よく分かっているが。姉さんは自分が我儘を言っていることを理解しているのだろう、叱られた仔犬のような瞳で俺を見た。
毎度、少し低い位置から上目遣いに潤んだ瞳で見詰めるのは、反則だと思う。姉さんの方が背が高いから、身を屈めなければこうはならないのに。
「絶対、付き合うとかじゃないんだよね?」
「違うよ」
「色仕掛けなんかも、ないのね?」
「ある訳ない」
「でも、告白はされたんでしょ?」
それを言われると、ちょっと痛いが……。
だけど、俺だって言う時は、言わなきゃ。
「だから、思い出作りがしたいって。いいじゃないか」
姉さんは、口を尖らせて――だが、俺の腕を離した。
まさか、これで暴走とか……まあ、無いか。特に、姉さんにおかしな様子は見られない。やっぱり、単に他の女性と会ったから暴走するという訳ではなさそうだ。
なら、何かというのは現段階ではまだ分からないけれど……それでも、『女性と出会う』がタブーでないことは、俺にとって救いの一つとなっている。
「……わかった」
姉さんは俯くと、じわり、と目尻に涙を見せた。
ああ、もう。
「ね、別に付き合うとかじゃないから。美濃部もそれは分かっていて、最後のデートっていう話だからさ」
姉さんの機嫌が回復する見込みはない……もう、このまま行ってしまうか? いや、でも後に気持ちの悪いわだかまりが残ったら、嫌だな。
今日暴走するかどうかも結局の所、まだ分からない事だし……。暴走してしまえばそれはそれだけど、しなかったら後には最悪の展開が……
……まあ、それなら暴走してくれればそれでもいいということで、譲歩しておくべきなのか。
「姉さん。好きだよ」
家族として、と言外に付け加えておいた。姉さんは少しだけ機嫌を直したようで、目尻の涙を拭った。
「……うん」
そうして俺は、姉さんと別れる。
『暴走するならそれはそれで良い』なんて、気が付けばゲームみたいな感覚で、俺は自分の生死について考えるようになっていた。
死ぬことはノーリスクではないと、神様は言っていた。だが、そのリスクについて俺は説明を受けていないという事と、今この状況を打開するためには結局の所死ぬしかないのではないか、という二つの可能性から、俺は自分が死ぬ未来を思い描いて、むしろ期待してしまっている。
魂の許容量などと言われても、正直ピンと来ない。
喉元過ぎればなんとやらと言うのか、俺は文字通り自分が死ぬという苦しみについて、甘く考えているのかもしれない。
そして――……
「穂苅君!」