つ『信頼は時として証拠に優るか』 後編
――知っているんだ。
何の証拠も存在しない。自分が一切のボロを出していない事を。自然と、唇を固く結んでしまう。目の前に居る打算的な男に静かな怒りを覚えるまで、大した時間は掛からなかった。
美濃部は、お前と居ることを嫌がっていたじゃないか。
「……美濃部を、連れて行くのか」
「ああ、そんな事を知っているのか。それはもう、決定したよ。今週中には、僕と立花は手続きしてこの学園から離れる予定だ」
一体どんな手を使って、あの釣り目の女に忍び込ませたのか。時間は? タイミングは? 仮に失敗したとして、それがこの間辺慎太郎という男の差金だという証拠が無ければ、信頼関係の問題で俺の誤解は解けないだろう。
もしも仮に、失敗した時の事も含めた大金で釣っているのだとしたら、釣り目の女は口を割らない。
事後報酬なら、口を割らないメリットが生まれる。おそらく、そんな所だとは思うが……。
それが分かったからといって、どうすれば。
「美濃部の気持ちは?」
「快く承諾してくれたよ。君達とも縁を切るそうだ」
嘘を付け。
このDVDには、お前がまるで捻じ伏せるように、美濃部を説得している様子が映っている。とてもではないが、快い場面など一つとして存在しなかった。
この男は、平気でそんな事を言う。
美濃部が可哀想だ――……。少しそんな事を考えてしまったからか、俺は言った。
「……そんなんで海外に移動して、上手くやっていけると思うか? 美濃部の気持ちも理解してやれよ。本当に想い合っているなら、卒業してからでも遅くはないんじゃないか」
間辺は何も言わなかった。
本当は間辺自身に自分がやったことを証言させたかったのだが……、この様子だと、上手くは行かないだろうな。間辺は杏月のことを馬鹿にしながらも、しっかり様子を観察しているようだし……。あまり、決定的な事は口にしない。
それよりも俺は気が付くと、美濃部の今後について問題があると、考え方を変えていた。
俺自身の事より、美濃部の方が心配だ。俺が自宅謹慎を喰らう事や他の生徒から何かを言われる事より、美濃部がこの学園から離れていってしまう事の方が、ずっと困る。
そのためにでも、この間辺慎太郎という男を改心させたい。
「……君は、お姉さんや、あるいはそこの妹らしきものと、真面目に話し合う事で気持ちが繋がっていくと、本当にそう思うのか?」
確かに、まだ姉さんとも杏月とも、ちゃんとした事は話せていない。……でも、杏月は俺がまだ杏月を恋愛対象として見ることはできないということに、賛同してくれた。諦めるとは言わなかったが、それはまあこの際構わない。
ちゃんとその人間の事を見れば、相手がどうしたいのかも、自分がどうしたいのかも、共有できるはずだ。
「思うよ」
だから、俺はそう言った。
間辺は俯いて、何かを考えているようだった。少しの間、俺と杏月は間辺の反応を待っていた。
やがて、左手の中指で落ちた眼鏡を直すと、間辺は呟いた。
「……君は」
俺は、その言葉の続きを、待った。
「――――君は、本当に、馬鹿だな」
一瞬、何を言われたのか分からず、俺は目を見開いたまま、固まってしまった。
間辺は鷹のように鋭い目で、俺を見据えた。黒縁の眼鏡は光り、すらりとした間辺の表情をよりシャープにさせた。
その表情に、笑顔はない。
「話し合う事で本当にお互いの要望を解決できるのなら、論争などというものは存在しない。この世は欲望にまみれた上、それを解決する手段を持たずに不平不満ばかりを言うカスだらけだ。だからこそ、君のお姉さんも毎日誰の言うことも聞かず、尻尾を振る犬のように学園に来ているのではないかい?」
ようやく、先程自分が何を言われたのかを、俺は知った。
だが思考は全く付いて行かず、まるで何かが書かれたノートをひたすらに破り続ける行為の最中のように、真っ白になっていく。
我武者羅に何かをしている時のように。
叫んでいる時のように。
「だから君は流され続けているんだ。良いかい、人は自分の思い通りの事を考えたりはしない。ならば、どうやって自分のラインへ導くか? 小学生でも知っている」
間辺は、まるでそれが正しいと証明するかのような口振りで、俺に言う。
「――言う事を聞くまで、叱る事だよ」
腕を組み、俺に説教するかのように、間辺は言う。俺は両足に握り拳を乗せ、病院で致命的な病気であることを知らされる直前のような格好のまま、少しも動く事は出来なかった。
ぐちゃぐちゃとした何かが、胃の中で渦巻いた。
「君は今まで、教師や親の子育てを見て、何を学んできたんだい? 間違っていれば叱る、必要があれば叩く。人はそうやって、従順になるように出来ているんだ」
じゃあ、何か? 美濃部の希望は無視して、間辺や間辺の両親が言うように、海外に連れて行くのが彼女の『最善』だと?
「今海外に行くことが、立花にとっての『幸せ』なんだよ」
――認めない。
そんなもの、断じて認めたくない。
だが、間辺の言っている事を咎める手段が俺には無かった。正しくはないと信じたいが妙に説得力があり、反論する術が無くなってしまっていた。
杏月は絶句していたようだったが、歯を食い縛ると、間辺を獰猛な瞳で見詰めた。
「あんた、最低……!! 人の意見を尊重するっていう意思がないの!? クズ!! カス!!」
「意味を持たない批判に価値はないな。君も学習能力がない。理由は今、説明しただろう」
杏月は立ち上がると、親指を下に向けて、叫んだ。
「この腐れイ○ポ野郎!! 根暗なクソムッツリに人をどうこうする資格なんかねえよ!! 帰ってママのミルクでも飲んでろ!!」
あまりの口汚さに、周囲の客がぎょっとして杏月を見た。ウエイトレスが慌てて走って来て、杏月に声を掛ける。
「……あ、あの、周囲のお客様の迷惑になりますので」
「あア!?」
ライオンも裸足で逃げ出すような剣幕に、ウエイトレスは顔を青くして、トレイを抱えたままお辞儀をして逃げて行った。
とんでもない事になっていたが、それでも俺は固まっていた。間辺も心なしか、若干焦っているようだった。
「……と、とにかく。穂苅、君の管理不届きだ。そこの頭の悪いチンパンジーをちゃんと躾けておきたまえ」
「ハア!? やんのかコラ!! ぶち殺すぞてめえ!!」
間辺は席を立ち、眼鏡の位置を直した。杏月は今にも間辺に殴り掛かりそうだったが、俺が何も言わないのでそれだけは抑えているようだった。
俺を一瞥すると、間辺は言う。
「君も男なら、誰かを主従関係に置く能力くらい身に付けるんだ。そうしなければ、人の上には立てないよ。穂苅純君」
そのまま、店を出て行った。
学園に、戻るのだろうか。杏月はギリギリと歯を鳴らし、俺の手を引いた。
「純!! 行こう!!」
「……い、行くって、どこに?」
「決まってんでしょ!? あいつボコしに!!」
「おい杏月、目的変わってんぞ。……それに、あんまり暴力沙汰にはしたくない」
「何言ってんの!? あんなクズに言いたい放題言われて、悔しくないの!?」
俺は、何も言わずに俯いた。杏月は苛々と携帯電話を弄りながら、前髪をかきあげた。
「……まあ、いいや。信用を下げるような音声は取れたし、これをバラまいて」
「杏月。もう、やめよう」
「純!!」
俺だって、姉さんをどうにか自分のラインに沿わせるように、動いている。
俺も、同じかもしれない。
「……純」
その様子を見て杏月は察したのか、自身の気持ちを落ち着けたようだった。
――だって、思ってしまったんだ。
行動こそ違えど、俺と間辺の間に差はないのかもしれない、なんて。
◆
「純くん、ただいまあ――!!」
姉さんは帰って来ると、居間の扉を開けた。俺はソファーに寝転がって目を隠した状態のまま、ぼんやりと意味もない事を考えていた。
美濃部の俯いた顔と、間辺の何の迷いもない、確信を持った表情。その二つがぐるぐると頭の中を円転し、憂鬱な俺の心情に油を注ぐ。
意気揚々と帰って来た姉さんだったが、俺の様子を確認すると一転して冷静になり、俺のそばに歩いて来た。
「……大丈夫? 純くん。今日は一日、家に居たの?」
そこまで話して、ふと何かに気が付いたかのように部屋の中を見回した。
「なんか、杏月のニオイがする……」
化け物か。
「昼間、来て。……そんで、真犯人、見付けた」
それでも俺が明るくない表情で居ることを、察しての事だろう。姉さんは仰向けに寝転がっている俺の胸を、その白い指ですっと撫でた。
温かい指だった。
俺だって姉さんに諦めて貰うために、必死になって彼女を探している。
そんな事をせずに、姉さんが何でも俺の言う事を聞くように躾け続けていれば、暴走する事も無かったのだろうか。
「……姉さん。相手が本当に望む事をしてやりたいって思うのは、間違いなのかな」
違う。俺は、相手が本当に望む事なんて考えていない。
だったら俺は、姉さんと付き合っていなければいけない。
俺だって、自分勝手に色々やってるじゃないか。今更、人のためにどうだとか、考える資格はないのかもしれない。
――分からないよ。
姉さんは穏やかに笑って、俺に言った。
「純くんは、本当に皆が幸せになれる方法を、ずっと、探しているんだもんね」
そうだろうか。
俺は、勝手な気持ちで行動してはいないだろうか。
それは、間辺慎太郎と何一つ変わらないのでは無いだろうか。
「大丈夫だよ。お姉ちゃん、純くんのことは信じてるからね」
過去に何度も、そう言われた。
自分が生き残るためにどうにかしなければいけないと、ずっと思ってきたけれど。それは、もしかしたら姉さんの未来の幸せも考えていたのかもしれない。考えていたとしたら良いな、なんて。
自分自身の事なのに、少し悩んでしまった。
どうして、この人は何かあると、様子がおかしくなってしまうんだろう。
姉さんは、心の内側に何を抱えているんだろうか。
そんな事が、少し気になった。
「姉さん、俺――」
ふと、インターフォンが鳴った。誰だろう、こんな時間に? 姉さんが立ち上がり、廊下へと歩いて行く。
「はい、穂苅です」
そんな声が聞こえて、誰かの声がぼそぼそと聞こえると、姉さんは俺の所に戻って来た。
姉さんは言った。
「純くん、美濃部さん。……青木さんの、ドラマの関係の人だっけ?」
俺はすぐにソファーから立ち上がり、姉さんに向き直る。そうか、姉さんが美濃部と出会う展開はリセットされてしまったから、姉さんの中ではまだ美濃部はちゃんと話した人物ではないんだっけ。
そんな事を考えながら、
「分かった。ちょっと、出る」
姉さんは至って普通の顔で頷いた。……やはり、俺が他の女の子と話す事で暴走する訳ではないようだと、少し思った。
居間から廊下へ出て、俺は玄関へ。既に相手が誰かは分かっているので、俺はそのまま玄関扉を開く。ウエーブの掛かったオレンジ色の髪が見え、直後に美濃部の顔が視界に入って来た。
その様子は、いつものように焦りの色を見せていたが。それ以上に、何か特別なものを感じた。
それは、何だろうか。
「……美濃部さん?」
「あっ、あっ、あ――の、瑠璃に聞いたら、穂苅君の家はここだって、聞いて」
「ああ、そうなんだ。どうしたの?」
「ちょっと、いい?」
何だろうか。俺は頷いて、サンダルを履いて外へ出た。美濃部は俺の手を――引いて、真っ直ぐに階段を目指した。美濃部はそのまま階段を降り――……ない。上へと駆け上がった。
「美濃部さん? ……何で、上?」
美濃部は答えない。どんどんと階段を駆け上がるうち、俺は息が切れてきた。美濃部もぜえぜえと呼吸をしながら――元々、そんなに運動神経は良くない方だったから。それでも、立ち止まらずに一気に駆け上がった。
マンションの屋上には、まるで公園のようにベンチがあり、人が休めるようになっている。美濃部は屋上まで上がると、その場で立ち止まった。
月が綺麗だ。だが、雲に隠れている。間もなく、雨が降り出しそうな予感がした。
美濃部は俺の手を離して、屋上の端へと走った。
「……美濃部?」
俺はつい、美濃部に声を掛けた。敬称を付け忘れている事にも気付かないほど、美濃部は異常な様子だった。
そして美濃部は振り返り、俺を見る。
大きな瞳に、大粒の涙を溜めていた。その光景に、俺はいつかの記憶を蘇らせてしまった。
『ど、ど、ど、ど、どう、どうせ、わた、私の、事なんて、眼中にもないんでしょ』
それは、三回目の出来事。あの時間は戻ってしまい、美濃部がそれを知る事はない。
でも、何故か、
どうしても、あの日と重ねてしまった。
そして、つい考えてしまう。
――また、俺はこの娘を泣かせてしまったのか、と。
「どっ、どっ、ど――うしても、話さないと、い、い、いけない、事があって」
月は、雲に隠れる。どこからか訪れる湿った風が、俺と美濃部の髪を揺らした。美濃部は今にも俯きそうな様子だったが、どうにか自分自身を押さえ込んでいるのだろう。俺の瞳を、真っ直ぐに見ていた。
その意思に、強さを感じる。
そして、それと同じ程の危うさ。儚さのようなものを、感じた。
「うん。聞くよ」
美濃部は瞳に涙を見せたまま。睨むように俺を見詰めると、言った。
「――好きです」