つ『疑惑は人を欺くものだろうか』 後編
俺は立ち止まり、考えた。これが一体誰のものであるかという事については、現状では分かる筈もないので置いておくとして。
誰がやったのか、だ。少なくとも、俺に対する何らかの敵意はある。そのように見て間違いは無いのでは、と考える。
既に扱いが『見境無い軟派野郎』になってしまっている周囲は、俺がついに壊れ始めたのかと思っているようだが。
断じてそんな事はない。
……ひとまず、コレを一体どうするのか、という問題の方が先決だろうか。
「……あれ? どうしたの、皆」
プリントを抱えて教室に戻って来た青木さんが、俺の周りの人集りに疑問を持ったようだった。教卓にプリントを置くと、俺の下に歩いて来る。
そして、俺の上で異様な存在感を放つそれについて、眉をひそめて胸の前で拳を作った。俺は顔を上げ、青木さんを見た。
「……どうしたの、それ?」
「分からん。来たら、置いてあった」
「だって、それ――……」
――ん?
青木さんは、その下着に見覚えがあるようだった。つい当人の名前を口にしそうになってしまったのだろう、慌てて口元を押さえると、緊張したのか、何やらモガモガとその状態で喋っていた。
ちょっと可愛い。
一息付いたのか、手を降ろして胸で呼吸をすると、俺に向き直った。
「悪質な悪戯だね。……私、返しておくよ」
「……あ、ああ」
俺の机から下着を回収すると、青木さんは俺の机の周りに居る生徒達に、手を振って合図した。
「あとで、私が先生に相談しておくから。気にしない、気にしない」
青木さんの台詞に反応して、一人、また一人、と群がっていた生徒達は個々の席に戻っていく。……良かった。青木さんの仲裁のお陰で、俺が犯人だと決め付けられはしなかったようだ。
今の俺の評価じゃ、何を言われてもおかしくはないからな……。シスコン野郎に変態の汚名が追加されることは、出来れば避けたい。
今更何がどう変わるわけでも無いという考え方もあるが。
さて、二限目までは合同の体育だ。着替えてグラウンドに出なければな。
◆
体育が終わり教室へと戻って来ると、昼休みだ。杏月が居るので姉さんは全力ダッシュでは来ないだろう。ということで、俺は手早く着替えると鞄を背負い、教室を出ようとした。
うーん、運動の後だからか、やたらと鞄が重く感じる。俺も疲れているな。
とは言え、窓の向こうには並木道を歩く姉さんの姿が見えた。……無遠慮に抱き付いて来たりはしないだろうが、なるべく早めに向かった方が良いか。
まあ姉さんも屋上で良いと言っていたので、大丈夫だろう。
今更ながら、初期の頃はわざわざ他の生徒に熱愛ぶりを見せ付けるためにあんな事をしていたのかと思うと、姉さんの害虫駆除スキルも大したものだと思う。
杏月に関しては、唯一の例外だったようだが。
「あ、穂苅君。お弁当?」
激しい運動を終えた後の青木さんが、タオルで汗を拭きながら教室に戻って来た。ポニーテールは運動によく似合う。今は体操服では無くなってしまったようだけど。
「おお。一緒に行く?」
「行く行く。ちょっと待って」
「純くん、お待たせ!」
いや姉さん、待ってないよ全然待ってない。
さっき並木道に居たよね? どうしてもうこんな所に居るんだ……? 姉さんの移動速度は既に分かり切っているが、毎度の事ながら驚いてしまう。
だが杏月を警戒してか、姉さんもいくらか大人な態度だ。……これ、家に帰ったら豹変するんだろうなあ。などと若干の不安を覚えつつ、俺は姉さんに目配せして屋上へと向かう。
一応、教室の中で屋上のワードを出すのはあまり良くないかもしれない。姉さんも意図を理解してか、頷いた。
教師も利用している以上、お叱りを受ける事はまず無いだろうが。何かあった時、この場で最も影響を受けるのは姉さんと青木さんだからな。
青木さんも弁当を持って戻って来る。俺は教室を出ようと、扉に手を掛けた――……
「失礼」
瞬間、今まさに俺が開こうとしていた扉が開き、外から男が顔を出した。誰だろう、このクラスの人間では無さそうだが。
整えた黒髪に黒縁の眼鏡を掛けた、いかにも優等生な雰囲気の男は、俺を見下ろすと険しい顔になった。……何だ? 感じ悪いな。
こんなに細身の男でも、俺の方が背が低いのか。悲しいな。
「おっと、失礼した。君は穂苅、純君かな?」
何だか分からないが、妙に腹の立つ喋り方だった。何だろう、この人を小馬鹿にした態度は。
――だが俺は間辺の後ろにいる面子を見て、眉をひそめた。
「……そうですけど、俺に何か用すか?」
「僕は、C組の学級委員長。間辺慎太郎だ」
「はあ……」
間辺と言うらしい男は俺に自己紹介をすると、中指で眼鏡を直した。間辺の後ろには、二名の女生徒の姿が見える。
うち一人は知らない、釣り目の女。
……問題は、何故その後ろに美濃部立花の姿があるのか、ということだ。既に合同体育は終わったというのに美濃部は未だ体操着の姿で、気を落として俯いていた。
間辺は鋭い眼光で俺を射抜くように見詰め、教室に入って来た。その様子に異様な剣幕を感じ、俺は冷や汗を流して後ろへと下がる。
既に弁当を広げ始めたクラスメイトの面々は、何が起きたのかと俺達を見ていた。
「時に、穂苅純君。君に聞きたい事が」
「お、おう? なんだよ」
「昨今、体育の時間を狙って、女生徒の服を盗む事件が相次いでいるようだが――……、知っているかい?」
俺の、机の上にあった下着のことか。相次いでいるのか、その事件。俺は今朝、初めて知ったが。
「知らなかったけど、朝、俺の机に変なもんが置いてあったよ」
「なるほど。実は、先程の体育で制服のスカートを盗まれた女生徒が――、今、ここに居るのだけどね」
間辺は美濃部の背中を叩いた。美濃部が前に出て、俺を見詰める。その視線には、困惑と焦燥の色を見て取る事ができる。
――あれ? もしかして……もしかしなくても、これ、俺が疑われているのか?
「美濃部。大丈夫か?」
美濃部は力なく頷いた。……これは、この間辺とかいう男に俺と事件との関わりを言及される展開だろうか。確かに今朝、俺の机の上には下着が置いてあったが。あれは美濃部の物だったのかもしれない――……むしろ、それは俺が被害者だと言っているようなものだと、一目で分かるだろうに。
本当に盗む気なら、間違っても自分の机の上には置かないだろ。
「僕も気になって調べていたんだが――、僕のクラスから、ある証言者が現れてね」
証言者?
もう一人の釣り目の女が、俺の前に立った。俺を見ると、申し訳無さそうに苦笑した。
「ごめんね。『今朝渡す予定だった下着』の件だけど、やっぱりこういうの、良くないと思って。つい、机の上に置いて逃げちゃったんだ」
――はあ?
「待てって。何の話だよ」
「え? 美濃部さんが好きだから、ちょっとやらしい事したかったんだよね? お金も出すって、言ってた」
何だ、それは。そんな意味不明な嘘、……本当、何なんだ。
「と、言うことらしいんだが。穂苅純君、君に心当たりはあるかな?」
間辺は相変わらず、きつい眼差しで俺を見ていた。その目には、多少なりとも怒りが見て取れる。
……いや、ちょっと待てって。学級委員長? 調査? 証言者? ……そんなもん、一体どこから湧いて出て来やがったんだ?
混乱した思考が付いて行かない。ふと姉さんを見ると、事態の様子を見守るべく、腕を汲んで俺と間辺を見ていた。青木さんは、不安そうな顔で俺を。
あれは、どうして俺が疑われているんだっていう、そういう不安の表情、なんだよな? ……間違っても、まさか俺が犯人、の不安では、ないよな?
ぐちゃぐちゃと、まとまらない思考は渦を巻いた。
「……ねえよ。……あるわけ、ないだろ」
「では勿論、君の鞄には今、変な物は入っていないと思って良いかな?」
――重い、鞄。
変な感じは、した。鞄を肩に背負った時に、不思議な重みを感じたような。来る時にはなかった、重量のような。
弁当は姉さんが持って来るので、俺の鞄には普段、大したものは入っていない。
だからって、わざわざ中を開けて確認なんか、しないだろ?
「どうして、弁当を外で食べるのに鞄を背負う必要があるのか、教えて欲しいな。中に変なものが入っているんじゃないのか?」
――それはっ、
俺が鞄を置いて出ると、姉さんやら誰やらに嫉妬した連中が俺の鞄を勝手に触る可能性があるからであって、
絶対に、
何かを盗んだからじゃ、
「穂苅純君。大変申し訳無いが、君の鞄を見せてくれないか。学級委員長として、放ってはおけないんだ」
間辺は正当な理由で、俺の鞄の閲覧を希望する。
周囲のクラスメイトは、食い入るように俺を見ている。逃げる訳には、いかない。
俺は鞄を教室の床に降ろし、開いた。
瞬間、教室は驚愕に時を止めた。
――何なんだ、これ。
まるで示し合わせたかのような、分かり切った展開。
誰が仕組んだ。
一体、誰が仕組みやがったんだ。
「――――濡れ衣だ!!」
俺は叫んだ。犯人の所在を突き止めたからか、間辺の顔にはいくらか安堵の色が見える。教室は俺への避難と教師陣を呼ぶ声にざわめき、激しく人が出入りする。
姉さんは、じっと何かを考えているようだった。青木さんは、蒼白になって俺を見詰めている。
美濃部は――……、今、何を考えているんだろう。俯いた顔の奥は、影になってしまって見えない。
間辺は俺に近付き、俺の鞄からスカートを抜き取った。
「はい、美濃部さん」
美濃部はスカートを手に、力なく頷いた。
間辺は腕を組み、上から俺を見下ろした。
「このことは、生活指導の先生方に一度話を通させてもらう」
「……はあ? ……ふざけんな。俺がやったっていう、証拠がない」
「確かに、証拠はない。だが証人が居て、現物がある」
……なんだ、それ。
唯一の有効な証言者が居るから、現状で一番怪しいのは俺だって言いたいのか。
間辺は俺に制裁を下すかの如く、蔑んだ目で俺を見ている。クラスメイト達も、また。青木さんは絶句してしまい、何も言えなくなっているようだ。
真犯人は俺を盾にして、何かをした。
――確かに、俺を捕まえるのが一番、手っ取り早いだろうさ。
だけど。
「火の無い所に煙は立たない。観念しろ、穂苅」
金目のものが別に盗まれているか、または俺の存在を嫌がる連中。
そんな奴――
……数が多過ぎて、特定できない。
どいつもこいつも、俺がついにイカれたのかと思っているかのような、腐った眼をしている。
――ははっ。笑えてくるぜ。
俺は、立ち上がった。
「なあ! 俺のことを犯人に仕立てたのは、俺に悪い噂があって、単に都合が良かったからだって、どうして気付かないんだ!?」
間辺は冷静に、俺の激昂に対処する。
「先生を、早く。暴れ出しそうだ」
――ちくしょう。
「青木さん!! 俺がそんな事する筈ないって、言ってやってくれよ!!」
青木さんは、何も言わない。事態に付いて行けず、混乱しているといったような様子だ。
今だけでいい、根拠なんか無くても良いから、俺の味方をして欲しかった。
「美濃部!! 心当たり、ないか!? 自分が服を盗まれるような相手に!!」
美濃部は黙って、首を横に振る。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
「する訳無いだろ!! どうして俺が、美濃部の服を盗む必要があるんだ!! 絶対に、他の誰か――」
「純くん」
ふわりと、俺の視界を覆う何かがあった。盲目になっていた俺はたったそれだけで、見事に言葉を失った。
――姉さん?
姉さんだって、俺がやったなんて思ってないんだろ? もしも俺が盗みを働いたと思っているなら、そんな顔、しないだろ?
なあ。殺してくれよ。
姉さんが殺してくれれば、俺は元に戻れる。
今日一日をもう一度やり直して、犯人を捕まえる事ができるのに。
「お姉ちゃんは、純くんがやったなんて思ってないわ。純くんを信じてる」
――そんなに、
優しい顔をしないでくれよ。
「でも、純くんの無実を証明するものは、ここには何もないわ」
頼むよ。
「だから、今は甘んじて、この場を受け入れましょう」
受け入れて、どうなる?
俺が怒られるだけで済めばいい。でも、この事件を放置しておいたら、きっと俺は美濃部と距離を近付ける事は難しくなる。
もしかしたら下着泥棒、もしかしたら服泥棒、などというレッテルを貼られている状態では。
学校ではより監視が厳しくなり、もしかしたら青木さんとの接点を継続することも難しくなるかもしれない。
学園祭で公開するドラマだって――……
「ね?」
――――嫌だ。
俺は、俺の両肩に乗せられている、姉さんの両手を掴んだ。
固く食い縛った顎から、まるで血が漏れ出しているかのような気分だった。屈辱に、身体が震える。
なんで。なんで。なんで。
「――とっ、とにかく、着替えに行こう! りっちゃん!」
青木さんが我に返ったかのように手を叩き、美濃部の手を引いた。
そりゃあ、どうすることも出来なければ、そうするしかない。青木さんは美濃部の手を引く瞬間、俺を一瞥した。
その目線は俺のことを一瞬見て行っただけなのに、何故だか謝罪されているかのような、そんな気がした。
大柄な男の先生が教室に現れ、俺と姉さんの前に出る。名前をなんと言っただろう。これでも、今までは生徒指導室に呼ばれる事なんて無かったから。
「穂苅、話は聞いたが」
俺は答えない。
「……とにかく、生徒指導室に来い」
手を引かれ、教室を出る。
廊下に、見覚えのある顔が立っていた。何故かその表情には、疑問の色が見える。
越後谷司が、俺の事を厳然とした態度で見詰めていた。