つ『姉妹の圧迫から逃れる事はできるか』 前編
六月十日。日曜日。
どうにか夜、何かのタガが外れた姉さんの猛攻から逃げているうちに、気が付くと眠ってしまっていたらしい。
結局あの後、シチューを理由に荒れた姉さんの攻撃を一時停止させた後、乱入されないように先に風呂に入れ、寝室へと向かった。
好き放題俺の色々な部分にキスの雨を降らせていた姉さんは、気が付くと眠っていた。これは目が覚めた時に危険だと判断した俺は、ソファーに毛布を敷いて、ソファーで眠った。
……筈なのだが。
「ん……すう……」
朝になってみると俺はベッドの上で、姉さんの抱き枕代わりになっていた。
……昨日、一体何があったんだろう。世にも恐ろしいので、考えるのはやめておこう。服を着ている所を見ると、そこまで酷い事はされていないのではないかと思えるが。
姉さんも服を着ているので、よもや一線を越えるようなことは無い……筈だ。
目覚ましを確認すると、既に七時を回っていた。今日の姉さんは、珍しく朝寝坊らしい。まあ日曜日なので、特に問題も無いといえばそうなのだが……。規則正しい姉さんにしては、珍しい光景ではある。
たまに、どうしても見ておきたい深夜の映画がどうのこうので寝坊する事はあるが、今回はそれにも当て嵌まらない。
唯一つ言えることは、
「ふへへ……へへ……純くん、大好き……」
この状態では、どうあっても俺は二度寝出来ないということだ。
なんだか、昨日から姉さんの様子がおかしい。
……まあ、いつもおかしいので、取り立てて何が特別にどうだ、ということは言えないのだが。
なんとなく、姉さんの発情っぷりに磨きが掛かっているような気がするのだ。
そうだ。五月二十日の事を思い出す。あの時は、俺の唇を奪う事が目標だった姉さん。俺がどうにかして切り抜けると、赤面して俺から離れ、動揺もしていた姉さん。
こんなに、四六時中発情していたような人だったかなあ……。うん、前からそんな人だったか……
あまり変わらないかもしれない。
「姉さん。姉さん、七時だよ」
小刻みに頬を叩くが、姉さんは一向に起きる様子がない。俺を強く抱き締めて離さない……眠っているのに、どこからこんな力が出てくるんだろうか。
……朝……は、抱き締められているとあまり具合がよろしくない。
まいったなあ。
お、腕が離れ……ああ、第二の攻撃が俺に。今度は顔から抱き締められ、俺は姉さんの胸に埋まった。
当然、足は再度絡められる。俺の腰周りをがっちりとホールドして離さない姉さんの奇襲に、俺は……
まずい。ちょっと、変な気分になってきた……
「姉さん! もう、起きないと」
……頑固だな。まだ起きないのか。姉さんはだらしない笑みを浮かべて、俺の頭に頬擦りをしていた。
それにしても、なんてえろい身体を……。いや、落ち着け。何も考えるな。無心だ。俺は無心。仙人のようになれば、火もまた涼しい……
「純くん。もっと、自分に素直になっていいのよ……」
わざとか? もしかして、起きているのか?
……ちょっと、これ以上は耐え難い。
俺は伸び上がり、姉さんの頬にキスをした。
「……もっと、左……」
「ねえ、あんた起きてるでしょ? 起きてるよね?」
「えへ」
姉さんが瞼を開き、舌を出した。……反省の色がない。俺を離す様子もなかった。
「ん――、日曜日だね、純くん」
――はっ。そうか。
言われて気付いた。今日、日曜日なんじゃないか。ということは、
「きょうは、いちにちー、ふたりきりー。……へへへ」
聞いているこちらまで照れてしまう程に幸福そうな笑みを浮かべて、姉さんが俺を抱き締めたまま布団の上を転がる。……朝だからなのか、俺も身体が言う事を聞かない。
呆けているうちに、姉さんが俺の変化に気付いた。仕方ないだろ、これはもう生理現象だって。
少し恥ずかしそうにするが、なお身体を押し付け――……うわっ。
「んんー。今日も元気だね?」
額にキスされた辺りで、ようやく身体が目を覚ます。姉さんは既に、俺の服を脱がせに掛かっていた。
いけない。姉さんも寝惚けていて、多分正常な判断が出来ていないのではないかと推測する。
まあ姉さんに正常な判断が出来ていることって、こと俺の事になるとあまり無い気はするが。
「姉さん、姉さん。朝ご飯、食べよう」
「はーい。純くん、脱ぎ脱ぎしましょうねー」
身体を起こすと、俺の寝間着に手を掛け、上に引き上げる姉さん。鼻歌を歌いながら、とても嬉しそうにしていた。
……これを邪魔するのも気が引けるが。そうも言ってられない。
「姉さん、自分で脱げるからっ」
「やー。お姉ちゃんは、純くんに触りたいです!」
……宣言されてしまった。とてつもなく恥ずかしい。
「それ以上、何もしないから。ね?」
姉さんは甘ったれな笑顔で、俺の承諾を求めた。……顔が熱いが、俺は頷いた。
昨日はほとんど、構ってあげられなかったから。無意味な言い訳を自分に。程なくして、白くしなやかな指が俺の寝間着を脱がせる。
わわっ。なんだコレ、予想以上に……かなり……
上半身が脱がされると、姉さんは俺の背中を見て、吐息を漏らした。
おもむろに、その顔を覗き込む。
……姉さんの顔が、真っ赤だ。
「純くん……」
姉さんの右手が、そっと俺の背中に触れる。感触を確かめるように、背中を撫でる。
羽のように、空気に混ざって触れては離れていく。
「わっ。……くすぐっ、たいよ」
姉さんの息が荒い。
今にも襲い掛かりそうな空気を、姉さんに感じる。
かといって、何もしないと約束された以上、逃げ出す訳には……。
何かが床に落ちる音がした。
視界に、姉さんの両腕が見えた。暗闇の中でも、その指がほっそりとしていて、かつ長い事が分かる。俺の胸板をそっと撫でる姉さんの両腕は真っ白で、何も着ていない。
背中に僅かな重みと、柔らかい胸の――……
えっ!? ちょっと待てって!!
「ね、姉さん。約束が違う」
「……ご、ごめん。ごめんね? これだけ、だから」
……どうやら、触っているうちに我慢できなくなってしまったらしい。姉さんの細い腹が、俺の背中に密着した。
以前風呂場で経験したことを彷彿とさせる何かがあった。
「……純くん、なんだか、おかしいの」
あなたはいつもおかしい。
それにしたって、何だか様子が変だな。いつもなら、俺を責めることに抵抗なんか感じていない筈なのに。
俺の胸を目視して指でなぞりながら、姉さんは悩ましい肢体を、俺に押し付ける。
「純くんが居ないと、おかしいの。寂しくなったり、苛々したり。思わず、純くんが帰って来たら殺したくなっちゃう」
――――なにをいっているんですか。
え? おかしいよね? 今の文脈、絶対におかしいよね? 一体、「思わず」から前後の台詞の間で何があったの?
姉さんの中で、一体どんなやり取りが行われたらそういう結論になったの?
「私のものにしたい。――ずっと、永遠に、二人はいっしょ――そんな、変な気持ちになっちゃう」
……あー。そういうこと。
あれか。ホルマリン漬けにして、一生愛してますみたいな、そんな感じか。
姉さんが暴走ではなく、愛を持って俺を殺すようになったら、俺は永遠に殺される体験を繰り返す……ってことだよな。
いやいやいやいや。
熱を持っていた身体は急速に冷え、俺はあまり冗談を言っているようには見えない姉さんに、かくかくと顎を揺らしながら返事をした。
「……べ、別に、ど、どこにも、行かないよ」
「うん。信じてる」
猫のように擦り寄ってくる姉さんに、俺は。
人知れず、背筋が寒くなった。
とにかく、朝の姉さんを宥める事には成功した訳だが。
せっかくの日曜日なんだし、本当は美濃部立花と接触を図りたい。でも姉さんは俺にべったりとくっついているので、そういう訳にも行かない。
姉さんの作ったスクランブルエッグを食べながら、俺は脱出の方法を探した。電話番号は青木さんに聞けば、越後谷の分も含めて教えてくれるだろう。
だとするならば、どうやって姉さんから逃げるかだ。
杏月を呼ぶというのも作戦の一つかもしれないが、杏月はきっと引っ掻き回すだけで、ロクな事にはならないだろうし――……
そんな時、インターフォンが鳴った。俺は立ち上がろうとしたが、姉さんが素早く俺の行動を制止した。
「私が行ってくるから」
……なんで、何かを覚悟したような雰囲気なんだ?
姉さんは勇み足で廊下に消え、俺はダージリンティーを飲みながら、ぼんやりとそれを待った。
そうか、友達と約束があると言って、家を出るというのはどうだろう。友達って、誰かと聞かれる、よなあ。ここは青木さんに一つ、協力して貰って……
「けっこうです!!」
扉が強く閉まる、おっかない音がした。
俺は思わず、廊下を見る。姉さんは長い亜麻色の髪を左手で撫でると、戻って来た。
どことなく、不機嫌になった気がする。
「……なに? 新聞の勧誘かなんか?」
「まあ、そんなトコ」
……何度もインターフォンが鳴った。うるせーなあ……。新聞の勧誘にしちゃ、随分とマナーの無い。
いや、これ新聞の勧誘じゃないだろ、どう考えても。仕方なく俺が席を立とうとした時、
「純くん!!」
「……はい?」
「私が、行くから」
段々と、扉の向こう側に居るのが誰なのか、分かってきた。
俺が呼ぶまでもなく、奴は現れたという所だろうか。杏月なら、俺を姉さんから引き剥がず事も出来るだろうが……。後が大変なんだよなあ。
引き剥がした後の杏月をどうするのか、今度は考えないといけない。よもや杏月、青木さん、美濃部の三人で会う訳にもいかないし。
そんな状況になったら、今度は俺がどうして良いのか分からなくなってしまうよ。
「お引取りください!!」
扉が強く閉まる、おっかない音がした。
インターフォンが連打される。杏月も俺に本性を見せたからなのか、三人の時は遠慮が無くなってきたな。
……これ、俺が出ないと収拾が付かないんじゃ。
姉さんが憔悴した顔で戻って来た。
「……出ようか? 杏月でしょ?」
「やだ!! やだやだ!! 今日、せっかくの二人きりなのに!!」
姉さんが俺の手を握って、子犬のような表情で俺を見た。
うっ……。可愛い顔しやがって……。なんか、譲歩したくなってくるじゃないか。
……たまには、姉さんと一日居ても良いかな、とか考えてしまうじゃないか。
そう言って毎週休日は姉さんと行動しているのも、どうなんだろうと思うのだが。
「杏月に邪魔されたくないよ」
まあ杏月がクソビッチだということは、とうに実証済みな訳だしな。
……ここは一つ、協力してやるか。俺は立ち上がると、姉さんの頭を撫でた。
「大丈夫。任せて。今日は帰って貰うよ」
姉さんが俺を見て、ほう、と恍惚とした表情になった。……可愛いな。
いや、だから俺も情に流され過ぎだって。姉さんを好きになったら、危ないのは俺の未来だけじゃないんだぞ。
姉さんの未来も、問題になってくるんだ。魂単位で、来世にも響くのだから。
今世は良い姉で居て貰わなければ困るのだ。
……そのためにも、今日は二人で過ごすか。
俺は廊下に向かった。名人級の速度で乱射されるインターフォンを前に、俺は少し苛ついて扉を開いた。
「――杏月。おま」「よっしゃ純ゲット――!!」
瞬間、扉を開けた右腕を捕まえて外へと引っ張り出された。
今日の杏月はセミロングの髪をすらりと下ろしていて、ぱっちりとしたメイクに真紅のマニキュア。これでもかというほど丈の短いホットパンツと、革のジャケットが目に痛い。
……ただのギャルだ。間違いない。俺がそう命名する。
「今日は、ずいぶん、遠慮がないな」
「え? だって学園でもないし、るりりんもドラマメンバーも居ないし、遠慮する必要なくない?」
杏月はそう言うと意地悪な笑みを浮かべて、肩まである自身の髪に触れた。
「――意外と分かんないんだよ、こうすると」
……まあ、予想も付かないだろうな。声は違うし、見た目も想像とは全く違うだろうし、心なしか顔まで違うように見える。
これが学園で俺のことを「お兄ちゃん」などと言って甘えてくる妹の真の姿だとは……。
人生、本当に何が起こるか分からないものだよ。
「純くん!!」
姉さんが扉を開けて、俺の名を呼んだ。相当慌てているようで、姉さんは杏月を指差して、モニョモニョと口を動かしている。
「んなっ、なな、なんで純くんの前でそのモードなのよ――!!」
そのモード、って。
まあ、姉さんはこの杏月を見慣れていたんだろうけど。
「もう、こないだ見せちゃったんだ。だから、もういいかなって。あ、学園では今まで通りするからね、『お兄ちゃん』!」
俺は杏月の笑顔に目を合わせられず、苦笑した。頬が引き攣る。
本当、何なんだこいつは。一体誰なんだ。見れば見るほど、俺の知っている穂苅杏月の姿ではないよ。
姉さんがずかずかと俺達に詰め寄り、俺の左腕を掴んだ。
杏月は俺の右腕を掴んでいる。……ちょっと、力み過ぎだ。
「ねえ『お兄ちゃん』、見たい映画があるんだ、今日。一緒に映画館行こう? その後、最近できたアイスクリーム屋さんでアイス食べるの。せっかく梅雨なのに晴れてるんだし、一杯遊ぼうよ」
「いや、でも、六月にアイスはちょっと……」
姉さんも負けじと俺の左腕を引いてくる。
千切れる。千切れるから。
「そうだよねっ!! 純くんは私と、お買い物して、ちょっと高めのレストランでお昼食べて、抹茶専門の喫茶店に入って、一日私といちゃらぶするんだよねっ!!」
「いや……いちゃらぶはちょっと……」
杏月が歯軋りをしながら、姉さんを睨んだ。姉さんは涙交じりに杏月を睨み返す。
……これ、どっちも俺のキョウダイなんだぜ。信じられるか。
「……血が繋がってるのにいちゃらぶとか、キモいんですけどー!」
「愛があれば、血筋は関係ありません!! 杏月こそ、コギャルみたいな格好で純くんを誘惑するのはやめて!!」
……なにこれ。
「とりあえずさあ……。腕、痛いから……。離してくんないかな……」