つ『姉さんから逃げる方法はあるか』 前編
姉さんは完璧だ。
髪の毛は爽やかさ重視で肩甲骨まであるストレートヘアを亜麻色に染めていて、清潔感がある。
派手すぎないメイクも、ちょっと若い雰囲気の童顔もいい。
会社からも人気で、交際希望者は結構居るらしい。
スポーツはバドミントンをずっとやっていて、激しく動く事にも慣れている。今でも日々の鍛錬は欠かさないし、二週間に一度は短大のサークルにOB兼講師として教えに行っている。
仕事もいい。大手企業の事務職で、ただのOLには出来ない仕事をいくつもやっている。まだ二十一とは思えないほどの仕事ぶりで、いくつも賞を貰っているらしい。
料理も得意だ。姉さんが作る晩飯はいつも最高級。外で食べるよりも美味いと遊びに来た誰もが言う。そのために遊びに来る男も居るくらいだ。
茶道もできるし、袴の着付けもできる。柔道の大会で優勝した事もある。短大では経営学部を卒業していて、金にも強い。
コンピュータも得意だ。プログラミング言語だかなんだか言うものを使って、なんとかっていうネットの機械? を複数管理していたこともある。
O型の天秤座。身長は約百六十五センチ。体重は五十キロ。
スリーサイズは上から九十、五十九、八十八のEカップ。
とにかく姉さんは良い女だ。姉さんを狙っている全野郎共に、俺が太鼓判を押してもいい。
……俺のことを、狂信的なまでに好きじゃなければ。
なんで俺、こんな事を殺されてから考えているんだろう。
そんな姉さんが、こんな歳になっても処女な理由。彼氏が居ない理由はもちろん、何故か俺のことを好きだからだ。
本当に、何故なのかはさっぱり分からない。とにかく姉さんは俺が好きだ。自惚れではなく、本気で好きだ。
あまりに好かれすぎて、さっき殺された。
「……あーあ」
……思えば、俺は姉さんに監視されていただけの人生だった。
結局、人生で一度も彼女が出来ることはなかった。空の上へと昇りながら、そんな事を考えた。悔いが残るなあ……。ああでも、この世に留まって幽霊になるのは嫌だ。それは避けたい。
仕方ないが、諦めよう。次の人生があるのかどうか分からないけれど、その時に考えればいいじゃない。
初めは、冗談を言っているのかと思った。でも姉さんは本気で俺のことを愛してしまったらしく、ある時から強烈なアピールをしてくるようになった。
昼休みになると全力疾走して(息は上がっていない爽やかスマイルで)俺の所に来て、わざわざ他の学生に見せ付けるために弁当を一緒に食べる。
そして、全力疾走で会社に帰るのだ。
俺の学園から会社まで一キロくらいはあったと思うのだが、昼休みが始まって十分以内には確実に教室に現れる。
おかげで誰とも仲良くなれず、「シスコン」「姉ヲタ」「近親相姦」などという不名誉な称号を与えられ、今に至る。
「まあ、死んじゃったからいいか」
細かいことをぐちぐち考えていても仕方ない。姉さんの最後の一刺しをもって、俺も次の人生に向かうことができるよ。
空へと登って行くと、大気圏を通過した辺りから現実とは思えない世界になった。綺羅びやかな得体の知れないものに包まれ、俺は眩しくて目を閉じる。
目を閉じるという概念があるのかどうかも分からないが、反射的にそうした。
「……純さん」
どうせなら、姉さんと両思いになってシスコン道を……いや、それはないな。その後の人生で何回殺されるか分かったもんじゃない。
昔は姉さんも、ただ優しくて世話好きなだけの良い姉だったのに。それがどうして、こうなってしまったのか。
「純さん!!」
目を開いた。すると、そこは天国――……
――じゃない。すぐに起き上がって、周りを見回した。
あれ? ここはどこ?
見慣れた青い掛け布団のベッドに、壁に吊るされたサッカーボール。クローゼットの中には服と漫画と、秘蔵のそっち系の本が詰まっている。
それと、学習机――……。
引っ越す前の俺の部屋じゃないか。
どうして、こんな所に。
「気が付かれましたか、純さん」
俺の目の前に、妙に小さな女の子が現れた。
小さいなんてレベルじゃない。その身体は俺の右手を広げると、親指から小指までの幅におさまる長さだった。思わず実際に広げてサイズを確かめてしまった。
ぶんぶんと俺の周りを飛び回っている。妖精のような羽を生やし、エルフのように尖った耳と桃色の髪。額にはユニコーンのような角が生えていて、極めつけは純白の、古代ローマ人が来ているトーガのような逸品。
見た目は、妖精か天使といった様子だ。
「……あんた、誰? いや、誰っていうか何……か?」
「初めまして。私は神の使いで、ケーキといいます。純さん、落ち着いて聞いてください」
程なくして、家の外に車が止まる音がする。時刻、昼の十三時。どうやら日曜日のようだ。ベッドから起き上がって二階の窓から外を眺めると、銀色のハイエースから姉さんが登場した。俺を見るとデレデレに緩んだ顔になって、可愛らしく手を振っている。
どうやら、ここは本当に俺の実家だ。……いやまて、どうして殺されたら実家に帰って来ているんだ?
……もしかして、これは夢? 頬をつねった。うん、痛い。夢じゃない。
なら、前の方が夢か? あの生々しく血が噴き出る感覚と、身体が冷たくなっていく感覚は夢だった、という感じはしないが……
そもそも、今は何年の何月何日なんだ。
「あの、純さん」
「ちょっと待ってくれ。今忙しい」
目の前で飛び回る幻覚に気を取られている場合じゃないんだ。いそいそと学習机の上に置いてあるカレンダーを見ると、二○一二年の五月を指していた。ちょっと待て。結構前のカレンダーだぞこれは。
そうだ、確か目覚まし時計にカレンダーが表示されていたはずだ。今度はベッドの枕元に置いてある、目覚まし時計を確認する。
五月、二十日。
――俺の誕生日じゃないか。
「純さん。今は、三ヶ月前の純さんの誕生日です」
幻覚は意味の分からない事を言う。まるで三ヶ月前の誕生日に突如として帰って来たみたいじゃないか。過去へのタイムスリップなんて、現代科学では解明されて無いというのだ。映画のネタやドッキリとしちゃ古過ぎる。
それが本当なら、あの日の事はよく覚えている。姉さんが俺を自分の鳥籠に押し込んだ日の事だからな。確かに銀色のハイエースに乗っていて、一直線に二階の俺の部屋を開けると、こう叫ぶのだ。「純くん、二人だけの世界にヘウィゴーだよ!!」と。
扉が勢い良く開いた。
「純くん、二人だけの世界にヘウィゴーだよ!!」
――――あれえ。
そうか、もしかしたら俺は今、夢を見ているのかもしれない。死んだ後だったか死ぬ瞬間だったか、人は色濃い記憶を次から次へとまるで実際に体験したかの如く思い出すという。これはすなわち、そういう状態なのかもしれない。
姉さんは歓喜のオーラを全身に纏い、野獣のような獰猛さで俺に飛び掛かった。
この展開も知ってるぞ。次は、「はああ……純くんの匂い。くんかくんか」だ。
「はああ……純くんの匂い。くんかくんか」
相変わらず、気持ちの悪い姉である。
俺は豊満な胸に抱き締められたまま、顰め面で答える。
「……どうしたの?」
過去の回想というのは、こんなにもリアルだったのか。まあ、リアルだという話はよく聞くしな……。しかし、死んでまでこんな事を思い出すとは、俺も相当な苦労人だったのだな。
俺、可哀想に。
姉さんは「あっ……!!」だの「ふああ……」だのといった妙に現実味のある艶かしい声を漏らしていたが、やがてはあはあと息を荒らげて言う。
……台詞を、姉さんと同時に合わせて喋ってやろうかと思った。
「今日から、毎日らぶらぶだよ」
へー、そうですか。俺の意見はいずこ。
姉さんは俺をお姫様抱っこで持ち上げると、まるで大切な荷物を運んでいるように素早く、そして慎重に移動する。扉は開けっ放しのまま、二階の廊下へ出て階段を降りていく。確か当時の俺は力の限り抵抗して、姉さんを泣かせてしまった。
まあ、これはただの回想なので無理に抵抗することもないだろう。
階段を降りると、エプロン姿の母さんと遭遇。ここからはシナリオ通りではないので、姉さんが何を言うのかは分からなくなった。
「……本当に、行くのね」
やけに凛々しい顔で、姉さんは母さんに敬礼。
「今日から純くんの嫁になります!」
なれねえよ、目を覚ませ。
どうしてこんな記憶を思い出しているのだろうか。今も昔も辛いだけの記憶なのに。もう少し、良かった事を思い出して欲しいものだ。良かった事……ないか。
家の扉を開き、姉さんは鼻歌を歌いながら俺をハイエースの助手席に乗せる。ガチャリとシートベルトを閉めると、今度は荷物を取りに戻った。
今のうちに逃げてしまおうか。俺はシートベルトを外そうと、手を伸ばした。
――外れない。
さっきの『ガチャリ』という音は、どうやら鍵の音だったらしい。
なんと用意周到な事だろう。元より、俺は『連れて行く』のではなく、『捕獲する』つもりだったらしい。
俺はため息を付いて、シートにもたれ掛かった。
不安そうに、幻覚は俺の目の前で羽を動かしながら上下に揺れている。
「純さん」
「なんだよ幻覚」
「幻覚ではありません。ケーキです」
何を言っているのやら。
まあ、次の記憶に移り変わるまで話くらいは聞いてやるか。
「……なんだよ、ケーキ」
「純さんは、三ヶ月前の純さんの十八歳の誕生日に戻って来ています。本当は天国に行く予定だったのですが、……あの、私の手違いでこんなことになってしまったので、その……『やり直し』を命じられまして」
耳をほじりながら話を聞いた。超常現象ブームなのか、俺の頭の中は。何でもアリだな、記憶の中の出来事とやらは。
お陰で、さっき刺された胸に痛みを感じないよ。もしかしたらもう、肉体を離れているからなのかもしれないが。
「ああ? やりなおし?」
「今日から卒業するまで、純さんは『何回死んでも、死にません』」
随分なテーマを掲げるものだな、俺よ。余程、この人生に未練があったと見える。
そうだよな。眉目秀麗、成績優秀な姉さんが血の繋がった実の姉で、何故か姉に好かれ、彼女もできなかった俺。特に優秀な姉の恩恵を受ける訳でもなく、全ての成績が普通な俺。
姉さんよりも身長の低い俺。喧嘩も弱い俺。百六十二センチなんて、高校三年じゃ笑い話にもなりゃしない。
これがアニメやゲームの世界ならば可愛いなどと持て囃されているかもしれないが、実際のところチビ・ハゲ・デブは恋愛対象にはならない事が多い。
世の中結局、どこまで行っても見た目である。
「これから高校を卒業するまでに、誰でも良いです。『彼女』を作ってください。そうしたら、神様がお姉さんの呪縛を解いてくれます」
だから、それが出来なくて困っていたんじゃないか。
やれやれ。俺の未練にも困ったものだ。いい加減、天国に到着して欲しいが――もしかして地獄か? いや、それは無いだろう。お天道様に顔向けできない事など、した事ない筈だぞ。
ドカドカとハイエースに荷物が積まれると――台車を押して、一気に持ってきたのか。相変わらずの超人パワーだ。この見た目で下手な肉体労働者よりも力が出るのだから、恐れ入る。
「お待たせ、純くん」
待ってない。
運転席に座ってエンジンを掛けると、姉さんは俺を見て、だらしなく笑った。……駄目だ、目元が完全に緩んでいる。でも、不思議と事故を起こさないんだよなあ。
当時は不思議だったものだ。
「……えへへー」
今日の姉さんは動き易さ重視なのか、タンクトップにホットパンツ。微妙にへそが見えている所も妙に性欲を煽る。……これが実の姉じゃなかったら、俺も満更ではなかっただろうに。
……どうせ記憶の中での回想なのだから、少し悪戯をしても良いんじゃないだろうか。
俺は、姉さんのほっぺたを突付いた。
「……あっ、ちょっ……こら!」
人差し指を掴まれ、怒られた。やや頬を赤くして、姉さんは俺を睨む。
だが、すぐに表情が緩むと、ぼんやりと熱病に冒されたような顔で俺を――俺の人差し指を見た。
そして――――