つ『美濃部立花は恋人になれるか』 後編
美濃部は乱暴に鞄を掴むと、席から離れた。一直線に、出入口へと向かっていく。――もう、忘れない。やたらと拒絶反応を示していたのは、俺が姉さんや杏月と一緒に居たからではない。
正確には、姉さんや杏月にまるで恋人のように、ずっと寄り添われていたからだ。
「りっちゃん!!」
青木さんが美濃部を呼ぶが、美濃部は反応しなかった。ドリンクバーを頼んでいるのに金を置いていかないとか、そんな些細なことはさて置いて。俺は立ち上がろうとする青木さんに制止を掛けると、ハンカチをポケットに仕舞った。
美濃部はファミリーレストランから出た。自動扉が閉まる。
「俺が追い掛ける。みんなはここにいて」
「……へえ」
越後谷が珍しく、俺を見直したかのような反応をした。越後谷の態度は何かと癪に障るが、今はそんな事に腹を立てている場合じゃない。俺は走り、ファミリーレストランを出た。
既に、近くに美濃部は居ない。余程早足で歩いているか――店を出てから、走った可能性もあるな。どうせ駅に向かうしか帰る道は無いのだから、ある程度コースは絞られるか。
俺は美濃部を追い掛けるため、辺りを見ながら走った。
休日、五月末、都内と条件が揃えば、流石に夕方過ぎと言えども人は多い。全く見付からない美濃部の姿に、俺は少し焦っていた。
目立つオレンジ色の髪の毛も、少女趣味なファッションも、この人混みの中では霞んでしまう。似たような人間など、山のように居る。
焦るな。……まだ、そんなに遠くは無いはずだ。
「ケーキ、悪いけど手伝ってくれ!」
俺はケーキに目配せをして、合図した。
――なんだ?
ケーキの表情が、暗い。暗いのか? どちらかと言うと、調子が悪そうな――……。
「……わ、分かりましたっ!」
気のせいだろうか?
いつも脳天気な顔をしている筈のケーキが、いつになく険しい表情をしているように見えたのは。だが、ケーキは俺に敬礼をすると、すぐに上へと飛び上がって、人混みの中を探した。
――気のせいか。
駅へと向かって、俺は走る。ケーキが頭上から、俺のサポートをしてくれる。道中何度か通行人にぶつかりそうになりながらも、俺は走った。
そして、前方にあるものに目が留まる。
「――――いた」
走っているのにその動きは遅く、歩道橋の階段を一生懸命上がっている美濃部立花の姿を発見した。後姿にも、その空気が軽いものではない事が分かる。歩道橋から降りて来る人が美濃部を擦れ違い際に一目、見ていく。
俺は美濃部の後を追った。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、あっという間に美濃部に追い付く。姉さんみたいに超人ならば兎も角、美濃部のような華奢な女の子なら、俺の足でも十分に追い付く事ができる。
「おい、美濃部!!」
敬称を付け忘れたのは、俺が焦っていたからだと思う。
逃げようとする美濃部の左腕を、俺は捕まえて――……
そして、気付いた。
その、オレンジ髪の向こう側に見える大きな瞳から、大粒の涙がひとつ。左腕を捕まえて、振り返らせた俺の右腕に当たった。
「――みの、べ」
美濃部は俺を睨む。――どうして、親の敵のような目で俺を見るのか。思い出してしまった俺には、その理由が分かってしまった。
一回目と、三回目の差。俺が美濃部立花に、何をしたのかを。
「ど、ど、ど、ど、どう、どうせ、わた、私の、事なんて、眼中にもないんでしょ」
――吃音症。
美濃部立花が慌てた時など、精神的に余裕が無くなった時に発生する現象。おそらく、幼少期は常にこの状態だったのだろう、と予想させる。
ずっと走っていたのだろう、肩で息をしながら、涙交じりの声で美濃部が言う。ビルの隙間から沈みかけた太陽が顔を出し、美濃部を夕暮れの紅で照らした。
腫れぼったい目で、美濃部は俺を睨む。
「……落ち着いて、美濃部、さん。こう見えても、俺は困ってるんだ」
「る、る、る、瑠璃に任せたのが、わた、私の最大の間違いだったのよ」
――ああ。この感じ、思い出す。美濃部は吃音症のためか人見知りで、あまり人と話をしない。一回目の記憶はもう殆ど無くなってしまっていたけれど、美濃部はうんと近付かないと、内側でフラストレーションを溜め込む癖があった。
今も、そうなのだろう。今日一日、姉さんや杏月に付き纏われている様子を見て、美濃部はずっとやり場のない怒りを感じていたのかもしれない。
そりゃあ、美濃部の立場からすれば、自分の好きな人が知らない誰かとイチャイチャしているようなものだ。
人知れずやっているならさておき、わざわざグループの社交場で行われたとあってはたまったものではないだろう。
――でも、まだ美濃部から、俺は告白されていない。
あまり、滅多なことは言えないぞ。どうする。
「とにかく、落ち着いて。戻ろう。このままじゃ、ただ俺は嫌われただけだ。俺、美濃部が何考えているのか、ちゃんと知りたいよ」
かあ、と美濃部の顔が赤く染まったのは、夕日のせいではないだろう。ダークブラウンのつぶらな瞳が足元で走る自動車のクラクションの音に合わせて、ふわりと揺れた。美濃部立花の動揺を俺に悟らせるかのように。
俺は、美濃部の心が安定を取り戻したような気がして、少し安堵した。
――だが、その瞳は俺の事を見ていなくて、
あれ?
俺の背後を見ている。
ふと、俺に対する目つきがまた悪くなった。
「純くんっ!!」
瞬間、言葉に出来ない程の絶望を感じた。
――姉さん。
今だけは、放って置いて欲しかった。
美濃部は俺を睨みつけ、歯を食いしばった。俺の右手に縛られた左腕を激しく振り動かし、どうにか俺の束縛から逃れようとした。
せっかく、どうにかなりそうだったのに。
「ほ、ほ、ほ、ほら、だ、大好きなお姉ちゃんが来たよ!! い、い、い、行けば、い、いいじゃない!!」
姉さんは事情が飲み込めないようで、俺と美濃部に手を出す事はなかった。俺はどうにか、美濃部を落ち着かせようともがいていた。
――とにかく、ここで嫌われる訳にはいかないんだ。
姉さん以外に俺のことを好きになってくれるとしたら、多分美濃部くらいしか居ないんだから。
くそ。どうして俺、杏月と姉さんの介入を避けなかった。
そうだ。先に杏月の参加を避ければ、こんな事にはならなかったじゃないか。
姉さんにもどうにか、言い訳が立ったかもしれない。
あくまで四人でのカラオケにしてしまえば、美濃部と良い感じになっていたかもしれないのに。
すべて、後の祭だ――……。
「美濃部、俺、美濃部とまだちゃんと話してないんだ」
こんな所で、
「知らない!! わ、わた、私は、シ、シスコンとなんか、話したく、ないもん!!」
――終わる、訳には。
美濃部は俺を精一杯に睨み付け、こぼれる涙を隠そうともせずに俺に、
右手を、振り被って、
「――ほっといてよ!!」
その平手は、俺の頬を打って――
――――ない。
俺は目を閉じて歯を食いしばり、美濃部の平手打ちを堪えようとしていた。――だが、いつまで経ってもその鈍い衝撃は頬に訪れる事はない。
固く閉じていた瞼を、恐る恐る開いた。
「大層お行儀が悪いようね。野良猫は野良猫らしく、泥まみれになって裏路地でも歩いていなさい」
全身が総毛立つような、世にも恐ろしい声を聞いた。
気が付くと、姉さんは美濃部の右腕を掴み、美濃部をじっと見ていた。視線を合わせていない俺でさえも、そのぞっとするほどに生気のない瞳に異様な嫌悪感を覚えた。
美濃部は何が起こったのか分からないようで、涙を浮かべたまま、姉さんに顔を向けた。
「――え?」
――やばい。
俺の中で、得体の知れない焦燥感――いや、分かっている。姉さんが今どのような状態でいるのか、何度も経験した俺には、流石に分かった。
俺はそっと、美濃部の左腕を離した。すると美濃部は姉さんから離れるように、後退った。姉さんは振り上げた美濃部の右腕を離さない。
「ねえ、何したの? ……今あなた、純くんに何をしようとしたの? 口に出して言ってみなさいよ。二度とその小さな口から日本語が出て来ないように、上の歯と下の歯を一本ずつ頭が見えなくなるまでヤスリで磨いてあげるわ」
「――っ!?」
貼り付けた笑顔のせいで、姉さんの心情が見えない。美濃部は意味も分からず震えていた。
どうする!? どうすれば!? ――そうか、青木さんの前で姉さんがおかしくなった時の事を思い出せ。
あ、あれをやるのか……? 今、この状況で?
でも、やるしか――
「ねえ。あなたがやりたかったのは、こういう事でしょう?」
姉さんは、美濃部の右手を離した。目にも留まらぬ速度で、姉さんは美濃部の腹を殴――――!?
瞬間、美濃部の身体が宙に浮いた。
俺は、絶句した。
「姉さん!!」
最早、俺の言葉など姉さんには届いていない。
姉さんは訳も分からず倒れた美濃部に向かい、歩いて行く。
「――か、はっ」
美濃部が蒼白になって、歩道橋の上に転がる。腹を抑えて悶え苦しんだ。姉さんは薄気味悪い笑みを浮かべながら、美濃部の腹を、
蹴った。
鈍器で肉体を殴った時のような、どす黒く重たい音が歩道橋に響く。何事かと、数名の通行人が姉さんを見ては、驚愕に目を見開いている。
何度も、蹴る。
「ねえ。あなたが純くんにやりたかったのは、こういう事でしょう? 辛いでしょう? 痛いでしょう?」
「あがっ……ああっ!! あっぐ、あっ……!!」
蹴られる度、美濃部から悲痛な声が漏れた。思わず目を閉じてしまいたくなるような声。「やめて」を叫ぶ暇もなく、姉さんは美濃部の腹から胸へと足を移動させ、本気で蹴っていた。
――や、やばい。美濃部が、死んでしまう。
その足が、やがて頭に向かって――……
「まだ喋るの? 随分元気ね。生命力ばかり高いなんて、本当に蟲みたい。気持ち悪い」
頭を、蹴った。どこか血管を切ったようで、美濃部の頭から血が流れ出す。
美濃部は、何も喋らなくなった。
気が付くと、俺は姉さんに向かって駆け出していた。
「姉さん!! やめろ!!」
俺は姉さんの肩を強く掴み、こちらに向き直らせた。
――刹那、
「どうして、こんなゴミを庇うの?」
振り返った姉さんの冷たい笑顔に、身体が凍り付いた。
――ああ。駄目だ、これ。
完全に、目がどこか遠くに逝っている。俺の気のせいだろうか、姉さんの眼の色は真っ赤に染まっているように見えた。
「純くん? もしかして、また虚言を吐かされているの? 大丈夫よ。姉さんには、本当の事を話しても良いの。苦しいって、言って良いのよ」
姉さんが何を言っているのか、俺にはまったく理解する事が出来ない。だが姉さんは柔和な笑顔を浮かべ――それでも、光を失ったどす黒い瞳で――俺の、首を掴んだ。
歩道橋の柵を背中に、そのまま首を掴んで持ち上げられた。
息が詰まり、俺は姉さんの両手を掴んだ状態のまま、苦痛に悶えた。
どうにか呼吸をしようと、身体が勝手に足掻く。
「ぐ、うっ……」
ケーキが俺のそばで、同じように苦しみ悶えていた。
視界は霞み、姉さんを掴んでいる俺自身の両手の感覚が無くなり、思考が真っ白になる。
「――そう。やっぱり、お姉ちゃんには話してくれないのね」
持ち上げられた身体が、バランスを崩して後ろに崩れた。姉さんは俺の首を掴んだ状態のまま、柵に足を掛けて身を乗り出す。
万力と表現するのが一番正しいと思えるような、人並み外れた力に押さえ付けられ、俺はそのまま――……
「大丈夫。お姉ちゃんは、純くんを裏切らないからね」
姉さんは、笑った。
歩道橋の下では、速度を上げた自動車がいくつも走っている。
俺と姉さんは、そのまま歩道橋から落ちた。
頭から落ち、硬いアスファルトがぐんぐんと視界に迫ってくる。
最後に、首の骨が折れる、鈍い音がした。
◆
全身に不快な汗を感じて、俺は目を覚ました。
枕元では、目覚まし時計がけたたましい音を鳴り響かせている。部屋は暗いが、カーテン越しには太陽の光も見えた。
日付を確認する。
――五月、二十四日。
俺は起き上がり、寝間着のシャツを脱いだ。
それはじっとりと、生暖かく湿っている。
見ると、ケーキは床に倒れていた。
眠っている……のだろうか。
気持ち悪い。吐き気が胃の奥から込み上げてきた。
俺は寝室から出て、一目散に洗面台へと走る。
「あ、純くん。おは――」
洗面台に辿り着くと、すぐに限界が訪れた。
中身の無い胃から、酸だけを吐き出した。
「――純くん!?」
姉さんが俺の元に駆け寄り、俺の背中を擦っていた。
こんな事を、あと何回繰り返すんだろう。
何も知らず、不安そうな瞳で俺を見詰めている姉さん。
気が動転して目も合わせられず、俺は。
ここまでの読了ありがとうございます。第一章はここまでとなります。
登場人物も増え、メインメンバーは揃ったかな、という状態です。
好きなヒロインが一人でも居たら嬉しいですね。
稚拙ながら、飽きない所までお付き合い頂ければ幸甚です。