つ『俺はそれぞれの立場を理解しているか』 後編
帰り道のことだ。
「また明日も朝から迎えに行くね! 大好き、お兄ちゃん」
姉さんは、迎えに来なかった。
杏月の言葉を欠片も信じられなくなった俺は、貼り付けたような笑顔を杏月へと向けて、機械のように手を振った。杏月は媚びた笑顔で俺に手を振る。いや、勿論『媚びた笑顔』というのは俺の予想で、ただ杏月は自然な笑顔で俺達を見送っていただけかもしれないけれど。
姉さんを見て、一瞬その空気が強張った事を、俺は見逃す訳にはいかない。
嵐のような一日だった、と思う。もしもやり直す事になったら、俺はきっと杏月を避けて通るだろう。
疲れた。益のない呟きを頭の中にぽつりと思い付いて、口に出す事はせずに胸の奥に仕舞った。家の扉を開くと、俺はどっと押し寄せる疲労に、ゆっくりと肩を回しながら靴を脱ぎ、廊下を歩く。
特に何も考えず、ひとまずソファーに横になろうと、居間の扉を開いた。
「ああ……純くん。純くん」
瞬間、
中途半端に肩を回した体勢のまま、俺は固まった。
「大好き……ん……愛してる」
何、この状況。
タイトスカートはフローリングの床に無造作に放り投げてあり、ソファーの上の姉さんはワイシャツに下着。しかも、ワイシャツのボタンは留まっていない。
その状態で姉さんはソファーに横になって、……俺の写真に、頬ずりをしていた。
俺は眉根を寄せて白目を剥いたまま、ただそこに立っていた。
「……ふ……は……あ、純くん。おかえり」
その格好で頬を上気させながら、平然と俺に帰宅の挨拶を返して来る姉さん。俺はどう反応して良いのか……分かる訳がない。
とにかく、ここを去ろう。
俺は振り返り、姉さんに背を向けた。寝室にある学習机で本でも読んで――……
「純くん」
熱っぽい声で、名前を呼ばれる。
俺は立ち止まり、拳を強く握った。……いかん、考えないようにしていた事が、脳内から溢れ出す。振り返るな、死ぬぞ俺!! 駄目だって!!
でも、今日は杏月に振り回されて、姉さんも大変だったろうしな……
いや、それとこれとは話が別だろ。
「……が、我慢できなく、なってしまいました」
――つい、俺は振り返ってしまった。子猫のように寂しそうな瞳で見詰める姉さんは、ただでさえ若い見た目がさらに若く見えた。滑らかな肌が目に入る。
何か、得体の知れない衝動が俺の胸を掴んで離さない。
はだけたワイシャツの隙間から、胸元が見え――――
ずかずかと俺は歩き、姉さんの手を取った。
「……純くん、好き」
そもそも、似ていない姉からこんな風に誘惑されて、耐えられる男がこの世に何人居るというのだ。残念ながら、まだ経験もない俺には大した防御力はない。そんな所で、こんな痴態を見せ付けられて、普通我慢できるか。できないだろ。姉さんがやっていた事はこの際度外視するとして。
ほら、例えば仮に青木さんから迫られていたとしたら……馬鹿か俺。考えるな。
いや、でも、俺が姉さんに期待させるような事をしたら。きっとどこかでまずいルートに突入して、いずれ二人で心中して、
……あああああもおお!!
「キス、してえ。おねがい」
――俺は、
姉さんの、唇を奪った。
「ふむっ――!!」
――――右手で。
「……いくらなんでも、はしたないよ、姉さん」
「ふぁっふぇ……」
多分、今のは「だってぇ」と言ったんだろうな。
俺は姉さんの頭を撫でると、微笑んだ。すると姉さんは満足そうに頬を赤らめて、笑顔になった。
……なるほど。なんとなく、分かってきたぞ。今まではどうにかして話をはぐらかす事しか出来なかったけれど、つまり姉さんがこういった状態になる時は、……その、なんだ。つまり、愛に飢えている時なんだろう。
……頑張れ、俺の下半身。
「別に、杏月が来ても、今まで通りでいいよ。お昼、作って。一緒に食べよう」
――良いのか? 俺、自ら底なし沼に素潜りに行っているが、良いのか? 自問自答した。これ、いつか嵌って逃げる事が出来なくなったり、しないか?
姉さんは『その姿のまま』、ソファーから身を乗り出して『俺の下半身に』抱き付いた。
思わず、身体が硬直して痙攣する。
姉さんは、……その、なんだ、そのまま頬擦り……って、どうやら感極まっているらしい。
「純くん!! 大好き!! 愛してる!!」
頼むからそこじゃなく、顔見て言ってくれ。……あっ、ちょっと、頬を擦り付けないで。ほんと駄目だって! やめて!
ええちょっと待って!! 良いだろこれで、もう十分だろ!? これ以上、俺を虐めるのはもうやめてくれ!!
「あー!! 俺ー、カレーが食べたいなあっ!!」
力の限り叫ぶと、初めて姉さんが俺の言葉に反応し、顔を上げた。俺は涙混じりに浅い呼吸をしながら、姉さんに向かって笑う。精一杯の、引き攣った笑顔で。
姉さんは俺の覚悟を受け取ったのか――すう、と顔の赤みが引き、立ち上がり、下着を戻してシャツを直した。放られてあったタイトスカートを履くと、髪の毛を手櫛で正す。
「どんなカレー?」
暫くは、戻って来ない方が良いだろう。ちょっと、今の俺は気が気じゃない。
「……あー……えっと、すっげえ本場な感じの、まともなスパイスが入ってる、カレーがいい」
「インドカレーね?」
「……ああ、うん、そうだね。チキンが入ってるやつがいいな」
姉さんは凛々しい顔で俺の頬にキスすると、居間の扉を開いて、振り返り際に人差し指と中指を立てて俺に合図した。
「七時までには。全部、買って来るから」
「あ、ああ。別に、そこまで急がなくても、大丈夫だよ」
「愛する人が空腹に飢えているのに、放っておくことなんて出来ないわ」
そりゃまあ、そうかもしれませんけど。
「――愛は、速度よ!!」
体現するかのような言葉を俺に告げて、姉さんは風のように家を出て行った。
ああ、なんて格好良い姉さんなんだろう。
姉さんがあのように言った以上、本当に午後七時までに全てのスパイスを揃えて戻って来るのだろう。……良いのか? 煮込むカレーだったら、時間を掛けないと美味しくはならないんじゃ。
まあ、姉さんなら何か、超人的な調理法で美味しいカレーを作るのかもしれない。
……俺は、ソファーに倒れ込んだ。
ソファーの下から、小さな役立たずことケーキが現れた。
「……おーまーえー」
「ごっ、ごめんなさいあはは!! わざとじゃないんです!!」
「……まあ、もういいけど」
さっきまで、このソファーで姉さんが……。うう、しんどい……。
よく耐えた。俺。よく耐えたが、後が悲惨だ。姉さんが残していった傷跡が疼いて、熱を持っている。火照った身体のやり所が見付からない。
今日、ずっとこんな気持ちだったのかな。
年中発情しているというのも、如何なものかと思うが。……これが永遠に続いているんだとしたら、それは絶望的だ。
少しだけ、気持ちが理解出来た気がした。
姉さんの立場を、俺も理解しなければ。問題は解決には向かわないよなあ。
「……ケーキ、ちょっと部屋、出てて」
「え? ……ああ、はい」
時計を確認した。午後六時を回った所だ。ケーキはふわりと飛んで、部屋の扉を開いて出て行く。意外と力があるな。
扉が閉まった。
……はー。
部活でも始めようかな。ああ、ちょうど青木さんがドラマ制作に誘ってくれているんだっけ。阿呆なほど熱中すれば、少しは俺も楽になるだろうか。
テレビを付けると、流行りの恋愛ドラマのようなものが流れていた。オフィスで眼鏡を掛けた男性が眼鏡を外し、姉さんに似た雰囲気の女性に迫っている。……いや、姉さんよりも柔らかい印象だが。
そういえば、ラクダのドキュメンタリーはついに見ることなく終えてしまった。
今日か明日辺りに死んで、二十一日まで時が戻ったら。何度も同じ番組が見られるようになるな。あまり意味ないけど。
ああ、テレビの向こう側で男女はキスしている。
……なんか、先程の姉さんの様子を思い出してしまう。
時計を再度確認。姉さんはまだ戻って来ないだろう。……変な気分になってきた。人はそれを、むらむらしてきたと言う。
俺はそっと、腹の下へと手を――……
電話が鳴った。
――慌てて、手を引っ込める。
待て待て待て、姉さんをオカズに一人でとか、何を考えているんだ俺は。仕方ないだろ、あんな光景を見せられたら……。
ぐつぐつと煮えたぎる気持ちが頭の中を駆け巡って、収拾が付かない所まで来てしまっている。
落ち着け。まず、頭を冷やさないと。
俺はテレビを消して、立ち上がった。
携帯電話を確認すると、青木さんからの着信だった。今日、連絡先を交換したのだった。初めて家族以外と連絡先を交換した。こうして着信が来ると、ちょっと感動だった。
「はい、穂苅です」
『あ、穂苅君? 青木です。今日は、どうも』
……悔やまれる事しかしていないが。
青木さんは特に気にしていないようなので、俺も気にするのはやめよう。
「こちらこそありがとう、どうしたの?」
『実はね、話してた四人でカラオケする件なんだけど、次の土曜日にしようかな、って』
カレンダーを確認した。今日は火曜日。もうちょっと先だな。
「良いよ、大丈夫」
『本当? 良かった。一応私も入れて、男と女二名ずつって感じなんだけど、お姉さんに言った方がいい?』
まるで、姉さんが俺の保護者のようだ。俺は小学生か何かだろうか。……しかし、昨日のアレを見せてしまうと、もう青木さんの事を笑うわけにもいかない。
話さなければ、暴走する可能性もあるんだからな。
「……ドラマのメンバーでしょ? 今日報告してることもあるし、大丈夫だよ」
『うん、わかった。ありがとう。また明日、学園でね』
通話は終了した。俺は携帯電話をポケットに突っ込んで、再びソファーに座った。
テレビを付けると、先程の恋愛ドラマがまだ続いている。
何の変哲もないドラマのような、普通の恋愛だったら。姉さんからあんな風にアプローチされたら、俺は嬉しいんだろうな。
『嫌いですか? 好きですか? どちらかで答えてください』
残念ながら、これは簡単に回答を出して、終わりにできるような内容じゃない。
……ちょっとだけ、憂鬱になってきた。
「ただいまー」
姉さんが帰って来た。……まだ、六時半じゃないか。本当に、どこで食材揃えて来ているんだろう。
俺を見ると、顔を赤らめて俯いた。……なんだ?
「おかえりー?」
「……材料、買って……来たから」
「どうしたの?」
「ううん、ちょっと、変になってた……みたい。ごめんね」
良かった、正気に戻ったのか。それは何よりだ。
やれやれ。やっぱり、年中発情している訳では無いんだな。一時はどうなる事かと思ったけど、青木さんも姉さんと仲良くなって、着実に物事は先へと進んでいるんだろうか。
俺の生殺し状態も、どうにかなる方向に進んでいるって事だな。
姉さんは俺に向かってガッツポーズをすると、言った。
「やっぱり、初めてはベッドがいいもんね!」
「姉さん。それ違う。論点違うよ」
……やれやれ。