つ『その向こう側に見えた景色に、俺は』 後編
今、どの辺りに居るのだろう。
既に両足の感覚は痺れて無くなっている。瑠璃を支える両腕も限界を迎えていたが、一向に上へと辿り着ける様子がなかった。
……いや、それ以前に上を見ても、目指すべき場所さえ見当たらないのだ。
どこまでも続いていく空の上へと目線を上げた。
流石に、これだけ何の代わり映えもしないと凹むな。
「よー、穂苅」
……今度はお前か。
声は、俺の右側からした。俺は声の主の顔を見て、眉をひそめた。
「……なんで浮いてんの?」
「え、俺浮いてんの? マジか」
なんか、本人が驚いていた。
越後谷司。
相変わらずの黒いジャケットに黒いジーンズ、やたらとアンダーグラウンドな格好で、よく目立つ金髪が目に入る。身長も高めで、格好良い顔をしている。
越後谷は立ち上がると、自身の腰に手を当てて、俺を見た。
「ずっとお前の事を追い掛けていたけど、まさかこんな事になるなんてなあ」
何でちょっと面白そうなんだよ。
苦笑いを禁じ得ない。
「……ああ、俺も自分でびっくりだよ」
「結局お前、ベタ甘姉ちゃんの事が好きで、それで良いの?」
その言葉に嫌味はなく、純粋に疑問に思っているようだった。
俺は越後谷の表情を一瞥してから、その疑問を鼻で笑った。
「好きにしろよ。シスコンとでも何でも呼べばいい」
「んじゃ、瑠璃のことは?」
「残念ながら、瑠璃も『姉さん』だったもんで」
「ふーん」
出た、出た。その興味無さそうな顔。本人は別に悪気があってやっているようではないらしいけれど、酷く感じの悪い言い方。
なんか、こいつの事は理解するまでにえらく時間が掛かったよなあ。
色々な変化に鋭くて、面白い事が好きで、悪戯っぽい俺様野郎。そのくせ、抜け目がないから可愛気がない。
なんかここ最近は、立花に対して暴走していたが。
越後谷は何を言ってくるでもなく、呆然と俺の事を見ていた。
……見られていると、妙に気になるな。
「お前は、俺に後ろを向けって言わないの?」
「別に。どうせ向かないじゃん、お前」
全て見透かされていたらしい。
この妙な察しの良さのせいで、俺は色々な勘違いをしてきた。思えば間辺慎太郎の事件の時も、俺の鞄に立花のスカートを入れたのはもしかしてこいつなんじゃないか、などと一瞬気になったりもしたものだ。
まあ何の確証もなかったし実際も間違いだったので、その方向で考えなくて良かったけれども。
俺と瑠璃をくっつけようとしてくれたりとか、まあ裏で色々動いてくれていたけれども。
結局のところ、こいつが一体何を求めていたのかって、よく分からなかったなあ。
「そんなに俺の事、気になるか?」
越後谷はニヒルな笑みを浮かべて、足を組んで空中に座っていた。
俺は汗をかいて階段を登りながら、越後谷をじっと見詰めた。
「まあ、常に隣で見詰められたら、そりゃな」
「幼い頃の瑠璃ってさあ」
……また、唐突に訳の分からない話を。脈絡という単語の『み』の字もないぞ。
「馬鹿真面目でさあ、親の言う事聞いてばっかりでさあ。親父もクソ真面目で、もう、ほんとつまんねー奴でさあ」
俺の知らない、瑠璃の話。
面白くないとまでは言わないが、俺のそばにずっと姉さんが居たことを考えると、どうにも奇妙な話だ。だって二人はどちらも『同一人物』で、同じ魂なんだから。
二つに分けた以上、当然二つの人生があって然るべきなのだろうけど。
「も、ほんとつまんねー奴でさあ」
つまんねーって言い過ぎだろ。
「心ここに在らずっていうのか、魂抜けたみたいな感じだったんだよ。宇宙人みたいだった」
宇宙人はお前だろ。
「それが、高校に来て突然変わったんだよ。急に色々なことを自発的に頑張るようになって、どうにも、一目惚れをしたみたいだったんだよ。キラキラさせちゃってさあ、面白かったなあ、あれは」
「へー……」
どうして俺は、こんな場所でこんな話をされているんだろうか。これも、『ノーネーム』が俺の心を折りに来ているんだろうか。
本当、やんなっちゃうぜ。
俯いて、階段だけを見て歩いた。
「お前だよ、穂苅」
――――顔を、上げた。
「瑠璃がドラマだの何だの作るって言い出した後かな、商店街で姉ちゃんと歩いてるお前を見て、それからだったよ。あいつが変わったのは」
越後谷を見ると、越後谷はふう、と溜め息をついて、目を閉じて微笑んだ。
まるで、昔を懐かしんでいるようだった。
俺の背中で、息をしている。
信じられないほどに、愛おしいそれは。
「まあ、今の学園に入ったのは俺の影響っぽいけどな。瑠璃を追い掛けて、立花が真似した」
「……んじゃあ、お前はそれを見て、ドラマ制作に首突っ込んできたのかよ」
俺が問い掛けると、越後谷は再び不敵な笑みを浮かべて、言う。
「宇宙人である瑠璃が惚れた宇宙人の顔を、一目見たいと思ってな?」
……くそ。
やっぱりこいつ、性格悪いぞ。
「いやあ、予想以上だったよ、お前は。実の姉とベタベタいちゃいちゃしてて、瑠璃の事なんて気にも掛けない。ていうか、瑠璃も瑠璃だよな。どうして常に姉と一緒に居る男なんか好きになるんだか」
痛い!! 岩が痛い!! 言葉という名の岩雪崩が!!
これが戦略か、『ノーネーム』。確かに、これは効く……俺にとっては最高の戦術だろうな、ほんと!!
いや、こいつが性格悪いだけだよ!!
「後から来たブリっ子妹も、すげえ強烈なキャラクターだったよな。あれで機械オタクだぜ? 信じられるか? 三人揃ったら、お笑い芸人目指すべきだと思ったね」
もう……もう良いんじゃないですかね、越後谷さん。俺が悪かったよ。何したか分からないけど、そろそろ解放してくれよ。
「俺にとって、世の中は俺が起こした事だけが面白いんだと思ってたからさ。正直、嫉妬したよ」
……えっ?
「嫉妬?」
「俺は何しても、みんな笑うというよりは、迷惑がられる感じでさ。俺は一人で楽しんでた。お前等みんな面白いし、どうしてこんなに楽しそうにしているのかって、すげえ気になってたよ」
そういえば、初めて会った時の越後谷ってツンケンしているというのか、ぶっきら棒な感じだったよな。
そういう事だったのか……。
「まあ、結果的にはお前等の仲間に加わるみたいな形になって、感謝してるけどな」
越後谷は微笑んだ。……つい、俺も笑みを浮かべてしまう。
「馬鹿騒ぎできる友達って、あんま居なかったからさ」
そうか。
楽しかったなら、良かった。越後谷ってどうにもそういう世界とは無縁で、ただ目標のために一生懸命な男なのかと思っていたから。
途中から随分と砕けた態度になったことの意味を、ここで知るとはな。
「ま、精々頑張れ」
「……おー。一応、応援の言葉として受け取っとくよ」
「俺の趣味空間を守り切るように」
「……一応、応援の言葉として受け取っとくよ」
越後谷は空中に立ち上がり、毅然とした態度で笑った。
「気張れよ、穂苅。最後が一番、肝心だぞ」
いつ如何なる時も、弛まぬ努力を続け、そして更なる高みへと登っていく男、越後谷司。
その激励は、俺に活力を与えてくれたのかもしれない。
◆
霧散した越後谷の言葉を胸に、瑠璃の身体を背中に、まだ俺は先へと登っていく。
いい加減に足は棒のようで動かず、気力だけでどうにか持ち上げている。いや、少しでも意識すれば痛みを感じるから、気付かないように言い聞かせているだけだ。
俺は目に入る汗を振り払って、その先を見た。
相変わらず、上は見えない――……
駄目だ。そんなものを気にしていたら、すぐに音を上げる。
行かなきゃ。
そう思い、足を踏み出した瞬間だった。
足の裏に、一際深く階段の破片が刺さった。
「痛っ――!!」
堪らず、前向きに突っ伏した。
足の裏に刺さった破片を、どうにか手を使って引き抜いた。
「うわっと!!」
瞬間、瑠璃の両手を縛っていたタオルが解け、瑠璃を落としそうになる。
慌てて瑠璃の手を取った。
「あっ――――」
白いタオルが、階段の外へと風に流されていく。
左手で、どうにかそれを掴もうと手を伸ばした。
――虚しく左手は、空を掴んだ。
ひらひらと、どこか遠くへ飛ばされていくタオル。
それを見詰めて、俺は虚無感に襲われた。
「……あーあ」
どうやって登るんだよ、これ。お姫様抱っこなんて、今の俺には出来るはずもないし……
どうにか前屈みに、落ちないように背負うしかないか。
これだけ揺れても、瑠璃は目を覚ます気配もない。
あるわけがないのだ。
魂が、此処にはないのだから。
「……待ってろよ」
今、助ける。
必ず。
緩んだ両手は何の支えにもならなくなり、俺は瑠璃の両足を掴み、重い荷物を背負うように前屈みに、階段を登った。
すぐに腰は限界になり、二、三歩登った所でまた、転ぶ。
――くそっ。
どうやって登るんだよ、こんなの。
心なしか、段々と階段は高くなっているような気がする。それでいて、足を乗せた時の割れ方はより酷くなっているような。
いや、気のせいだ。疲れているから、そう感じるだけだ。
身体を起こして、踏ん張った。
「待ってろ」
また、転ぶ。
シャツは切り裂かれ、いつしか胸には血が滲んでいた。
足なんてもう、見たくもない。無残な光景だ。
……地獄。空へと登っていく、ここは地獄だ。なんて、矛盾した事を考えた。考えたって、意味も無いのに。
どうにかして――……、
「がっ!!」
また、転ぶ。
上まで――……、
「……はっ、……はっ、ぐっ!!」
また、転んだ。
――駄目だ。タオル無しじゃ、瑠璃の身体を支え切れない。たった一度でも手放したら、おしまいなんだ。
じゃあ、どうする。
くそ!!
うつ伏せに階段へと、額を打ち付けた。
額から血が流れる。
ぼろぼろと、涙が階段に落ちた。
もう、限界だ。心も、身体も。
――――本当に?
誰かの声がして、俺は身体を起こした。
ざあ、と視界が反転した。
その光景に、俺は目を見開いた。
セピア色の空間が、俺を包み込んだ。夕暮れの太陽は、なおも俺の顔を照らしている。俺は膝を突いたまま、その幻想的な光景に魅入っていた。
展望、タワー?
辺りに人はいない。まるで既に営業を終えてしまった後のように空っぽで、俺はエレベーターの手前で身動きが取れずにいた。
大きな窓の向こうには、遠目に小さく見える街並みが。沈む太陽に照らされて、影になっていた。
――――いや。一人、いる。
その小さな背中は、何故か大きく見えた。
長いオレンジの髪は、夕暮れの太陽に照らされて、輝きを増していた。
すう、と彼女は、振り返った。
それは、神様や神の使いと同じように、光り輝いているように見えた。
少なくとも、俺には。
「――――ごめん」
反射的に、そう呟いていた。
窓から差し込む夕日に背を向けて、逆光に隠れた桃色の唇が、僅かに微笑う。
俺は、彼女を利用していた。
時を戻せば記憶は消えるからと、何度も自分に言い聞かせ、彼女を利用していた。
本当の彼女を見るわけでもなく、俺は彼女を利用していた。
利用していたんだ。
だって、それしか手段はないと思っていたんだ。
「ごめん、立花!!」
涙は頬をつたい、傷だらけの膝に染みていく。
彼女は――美濃部立花は、微笑んだままだ。
喋っては、くれないのか?
本当は、何を考えてる。
あんなやり取りじゃ、本当は満足なんてしていないだろ?
悔しかったんじゃないのか。
怒りを感じたんじゃないのか。
本当は、殴って欲しかった。
力の限り殴って、罵倒して、蔑んで欲しかったんだ。
『俺が謝った十月十四日の日曜日は、もしかしたら親父の創った偽物の十月十四日だったかもしれないんだ』。
「謝ったって、許して貰えないって分かってる!! でも、あんなもんじゃ済まなかった!! もっと、謝りたかった!!」
立花は微笑んだままで、俺に近付いた。
『時を戻す』ということを、ひとつのギミックのように考えて。
俺は、弄んだんだ、彼女を。
悔やんでも、悔やみきれない。
「ごめん、立花――――!!」
――――『が』?
唇が動いている。
いや、『あ』か? それとも、『か』か?
声が聞こえない。
立花はそっと、自身の頭の上に手をやった。
可愛らしい、フリルのついたスカート。少女趣味と言えば聞こえは悪いが、ぬいぐるみの付いた、如何にも女の子らしい、カラフルなバッグ。
白い指が、頭の上で『それ』を、解いて取り外す。
涙が止まらない。何かが吹っ切れてしまったのか、それとも疲れが極まって、何かのネジが外れてしまったのか。
白い指が、今度は取り外した『それ』を、瑠璃の手首に。
……が、……が、
おいおい。
こんな所でも、吃るのかよ。
柔らかく、しかししっかりとした強度を保って、立花の『それ』が、瑠璃の両手を固定する。
――赤いリボン。
立花の、チャームポイント。
結び終えると、立花は立ち上がった。
夕暮れに反射する、オレンジの髪。すっきりとした笑顔で、しかし目尻に涙を浮かべて。俺から二、三歩飛び跳ねるように離れ、俺に笑顔を向ける。
最後の一言は、声なんて聞こえなくても、はっきりと分かった。
がんばれ。
――――シスコン。