つ『妹は協力者足りうるか』 後編
両脇で縛っていたツインテールのリボンを解き、杏月は口紅を塗った口元に指を――口紅? よく見ると、口紅が塗られている。メイクもさり気ないが、しっかりとしてあるし……掴まれた俺の右腕を見ると、爪には立派なマニキュアが。
控えめだが、下着の感覚はしっかりしている。決して胸が無いわけではない。
リボンを解くだけで、大人の女に早変わりというわけか……
何を真面目に考察しているんだ、俺は。
「揉んで!!」
「……は、はあ?」
「はやく!!」
言われるがままに、杏月の胸を揉んだ。瞬間、杏月は右腕を離し、再び首に手を回して引き寄せる。俺の顔に急接近し、そして。
唇を奪われた。
奪われただけじゃない。なんだこれは……キスが妙に上手い。いや。上手いか下手かなんて、俺には判断のしようも無いんだけど。
思わず、声が漏れた。
「――んむっ!?」
「んっ。……ちゅっ、ん、はあ……」
なんだか、頭がぼーっとしてきた。俺は今、杏月に一体何をされているんだろう。とにかく、思考力を奪う魔法のようなものが……
じゃない!! 外には今、青木さんが居るんだぞ!? お前は一体、何をしているんだ!!
「ちょっと、待て!! おまえ……」
「良いんだよ。もっと、やらしーことしよ?」
杏月は外の人間に聞こえる程度には大きな声で、はっきりとそう言った。外にいる青木さんから、驚愕に息を呑む音が聞こえる。
いつもの杏月の声じゃない。まるで大人びた、お姉さんの声で……こいつ、こんな声色も作ることができるのか。
ちょっと待てお前俺を二度と学園に通うことが出来ない人間にするつもりか!?
すっかり動きの止まった右腕に対し、杏月は不満そうな表情になった。……いや、だって。いくらなんでも、俺にどうしろと。
杏月は唇を尖らせ、スカートの中に手を入れた。そして――そんなもの見られるか!!
上を向いて視線を逸らすと、杏月は胸に誘っていた俺の右腕を今度は下に――うわっ。こ、これは……
「んああっ!! いい……健二!! 健二!!」
――――えっ?
「わっ。わっ、うわっ」
「ああん!! 入れて!! 健二、いれて――!!」
ああ、外の青木さんがすっかり怯えた声を出している。今にも消えそうな声で、直後、ドタドタと足音が聞こえた。
そういうことか。……別人を演じてしまえば良いと。
杏月は少し汗ばんだ額を拭うと、ふう、と溜め息を付いた。
「……行ったね」
扉を開けると、そう言う。杏月はずり下がっていた下着を戻して、うわっ。……ということは、今まで俺の右手が触れていたのは、ナマの……うわあ。考えただけでも恥ずかしい。
無し無し無し!! すぐに手洗い場に走ると、水て手を流した。
「……何で洗うのよー。失礼しちゃう」
「何がだよ……」
「あ、今度は先生来るかも」
仰天して、俺は廊下に飛び出した。誰にも悟られない速度を意識して、素早く男子トイレに入り、廊下の様子を見て――誰も居ない。
杏月はけたけたと笑っていた。
んのアマ、人の事をからかいやがって……。未だ、熱を持った顔が冷めない。心臓はバクバクと脈打ち、気を抜けば卒倒しそうだ。
……しかし、青木さんを追い返した機転の効き方については、杏月のお陰と言っても過言では……いや、そもそもこいつが女子トイレに入ると言い出さなければこんな事にはならなかったんだ、機転を効かせてくれなきゃ困る。
「相変わらずピュアだね。嬉しいよ、『お兄ちゃん』」
杏月は俺の手を握ると、可憐に笑った。……何なんだ、こいつは。俺の知ってる杏月じゃない。
……誰なんだ、こいつは。
「……そもそも、追い返すならあんな事しなくても、声だけで演技すりゃ良かったんじゃ」
「えー! 燃えないじゃん。リアリティが無いからダメー」
こ、こいつは……。
クソビッチはお前じゃないか……
「だ、第一、お前、まだ十七じゃないか。やめろよ、そういうの」
俺がそう言うと、杏月は目を丸くした。
「私、十八だよ?」
――へ?
……何だって?
……何?
「……あー、そっかあ。私、パパの『離れ』で育ったし学校も違ったから、ずっと勘違いしてたのかな? あんまりそういう話、出なかったもんねえ。今まで」
杏月は楽しそうに笑う。俺は頭の中が混乱して、ニワトリとひよこが鳴き声を上げながらぐるぐると回転していた。杏月は俺の目の前まで擦り寄ると、俺の胸を人差し指で撫でる。
くすぐったさに、思わず声を出してしまいそうになった。
「私の誕生日、五月二十一日。『一年』じゃないよ、『一日』違いの妹。だから、今は三年生。ね?」
「う、嘘だ。だって、そのバッヂは二年の……」
「え? ……ああ」
杏月はポケットから三年生のバッヂを取り出すと、悪戯っぽく笑って舌を出した。
「間違えちゃった。てへ」
わざとか。俺が一年違いの妹だと勘違いしていることをずっと知っていて、こいつは黙っていたのか。すっかりその気になっていたから、親父にも特に確認しなかったけど……。ってことは、同世代じゃないか。
……言葉もない。
確かに、杏月とは姉さんが防御していた事もあって、あまり接点が多くは無かったが。……それでも、俺は杏月が一つ下の妹だと今まで信じて……、あの『お兄ちゃん』と俺を呼ぶ天使の存在を、今まで信じていたのに。
「ねえ。……十八になったから、お兄ちゃんとシたくて、戻って来たんだよ?」
違う!! 俺の求めている天使は、こういうのじゃない!! もっと純朴で、清純で、素直で、
……とにかく、こんな天使は求めてないんだああ!!
分かっているのに、顔が熱くなってしまう。……俺、馬鹿。
「あっはっは!! 純、かわいー」
「からかうなよ!!」
「あ! 授業始まっちゃうよ。行こう」
杏月が腕時計を確認している間に、予鈴が鳴った。げ、あと五分でホームルームじゃないか……。まだ学校なんて、どこにも案内してないぞ。
と思ったら、杏月は何を迷うこともなく教室へと向かう。俺とは別方向だ、違うクラスなのか……。呆然と立ち尽くしている俺を一瞥すると、杏月は茶目っ気たっぷりの笑顔でウインクした。
「――もう、昨日先生に案内して貰ってたから。お昼休みにまた来るね、おにーちゃん!」
俺の妹、天使は……いや、妹ですらなかった。妹だけど、タメで。
俺の。俺の知っている、穂苅杏月は。お兄ちゃんっ子で、自由奔放で、何にでも興味を持つ女の子で、俺の後ろを付いて来るようなタイプの女の子で、そして、そして……。
一回目、杏月は俺の前に現れなかった。それは海外留学に行っている間に、既に姉さんと俺が結ばれたと勘違いしていたからだ。愛の巣にあえて首を突っ込む程、俺の事が好きって訳では、やっぱり無いはずで――詰まるところ、アレだ。俺は杏月にとっての所有物、玩具みたいなもの、なのかもしれなくて。
もしかしたら、今までも、俺が気付かなかっただけで、ずっと。
あれ。涙が……
とぼとぼと教室に戻ると、既にほとんどの生徒は着席していた。二分前、ギリギリセーフだ。一応、何事も無かったかのように青木さんに挨拶しておく必要はあるか。昨日の事もあるし……。
青木さんは、肩を怒らせて。怒っているんだろうか。
「おはよ、青木さん」
「わひゃっ!? ええ!? はいっ!! おはようございますっ!!」
……正面を見ると、多少目元は潤んでいて、それ以上に顔から湯気を出していた。
「……大丈夫?」
「だだだ大丈夫知らない見てない私は何も見てないっ!! 気のせい!! ごめんね!! 何言ってるか、ちっとも分かんないよねっ!! ちょっと、びっくりしちゃっただけだから!! うん大丈夫!!」
……いや、分かるけどね。
俺は泣きたいよ。
それとなく時間が過ぎて昼休み前頃になると、俺は屋上ダッシュの準備を始めた。青木さんはまだ熱が抜けないようで、五月末だというのにぱたぱたと下敷きで顔を仰いでいる。大変申し訳無く思う一方で、アレが俺だと気付かれなくて、本当に良かったと思う。
チャイム五分前。今日も姉さんは来るんだろうか。朝はどことなく、余所余所しい態度だったが。杏月の事が姉さんにとっても衝撃的だったということは身を持って、本当に良く分かった。もしも姉さんの前では昔からあのような態度だったのだとすれば、それは確かに嫌がるのも頷ける。俺だって嫌だ。
そしてその好意が所有物としての意味で俺に向けられているのだとすれば、それは由々しき事態である。
まだ、杏月は俺が屋上に行くことを知らない。昼飯、一緒に食べようなどと言っていたが……
とにかく姉さんと、杏月の件について話さなければ。
……あれ。面倒事を回避するために杏月の介入を許可した筈なのに、更に面倒な事になっている……。何故だ……
チャイムが、鳴った。
俺は立ち上がり、すかさず屋上へダッシュする。
「あ、穂苅君――」
誰かに呼ばれた気がしたが、気にせずに走った。廊下を全力ダッシュし、階段を駆け上がる。
屋上の扉を開くと、俺は屋上から様子を確認する。少し早かったか――……? いや、いつもならこの時間に姉さんは来るはず……。
来ない。
まさか、本当に来ないのか? 少し、焦りも感じた。
今日の朝、杏月が来てからというもの、信じられない程に俺は姉さんと話していない。今姉さんがどんな事を考えているのかくらいは、確認しておかないと。
殺される危険があるのかどうかも、暴走する予兆も確認出来ないじゃないか。
「……来ませんね、お姉さん」
ケーキが呟いた。俺は目を凝らし、並木道の方を見詰める。姉さんと違って、こっちは普通の視力しか持っていないんだ。あの驚異的なスピードがなければ、姉さんを特定する事など出来ない。
ふと、携帯電話が鳴った。姉さんだ。
「もしもし、姉さん?」
『……あ、純くん? ……今、大丈夫?』
――今、大丈夫、だと!?
姉さんも大概、ダメージ受け過ぎだろう……。
「……良いよ。お昼は?」
『……あ。えっとね、作った……んだけどね、行ったら、迷惑かなー、と……』
「何で迷惑なの?」
『だって……久しぶりに、杏月と、会ってるし……』
まるで、自分の彼氏を友達に取られたかのようなこの発言。身内の中の会話とは思えない。思わず苦笑してしまう事を抑えられず、俺は表情を緩めた。
おや、と思い並木道の方を見る。肩を落として歩いて来るのは、小さくて良く分からないが、もしかしたら姉さんではないだろうか。俺は遠目にも分かるように、大袈裟に手を振った。
「今、屋上に居る。ちょっと話したい事もあるから、上がってきてよ」
『……うん』
姉さんは俺の行動に気が付いたようで、顔を上げた。グラウンドに差し掛かる頃には、俺もその姿をはっきりと確認する事が出来た。
「別に、杏月と何かあるとか、そういうことはないからさ。小遣いも持ってないから、俺の昼は姉さんに掛かってるでしょ?」
もしかして、泣いてるのか? 歩いて来る姉さんは、袖で目元を拭っているように見えた。気のせいだろうか。
だが直後に、姉さんからとても嬉しそうな声で、返事が帰って来た。
『……うんっ!』
控えめな姉さんというのも、悪くはないものだな。と少しだけ考えて、俺は一体何を考えているんだろう、なんて思う。
ケーキは、前世で俺と姉さんは結ばれる予定だったと言った。最終的には俺は別の嫁を見付けたらしいが――……もしかしたら、俺の中にも姉さんを好きな感情が、少しはあるんだろうか。
……いやいや、家族として、身内として、だ。恋人として好きなんて、アブノーマルな関係を求めている訳ではない。
姉さんの世間体的にも、あまり良くはないだろうし。
「純くん!! お待たせ!!」
……だから、速いよ。姉さんは小走りで俺の前に立つと、左手に持った弁当籠を控えめに俺の前に差し出した。
屋上の扉が閉まる。
「あんまり、美味しく出来なかったかも、しれないけど……」
姉さんは上目遣いに俺を見詰める。瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。
いや待てやめろ跳ね上がってない全然跳ね上がってないから!!
そう、ついさっきまで反復横跳びをしていたんだ。それでちょっと、息が上がっているだけなのさ。
ケーキが俺のことを、訝しげな目で見ている。いや、そんな事はないって。
「だ、大丈夫。多分美味しいよ。食べよう」
「……へへ。純くんは優しいなあ」
胸に甘える猫のような姉さんに、俺の脈拍は留まるところなど知るかと言わんばかりに上がっていく。姉さんは四六時中発情しているからこそ、回避する手段も思い付く訳であってだな。こういう純粋な態度を取られると、どうして良いのか分からないのだ。
……でも、姉さんの病んだ暴走を回避するためには、どうしても別の彼女を作らなければいけないのだが。
屋上の扉が閉まった。
――その光景に、何故か既視感を覚えた。
「さあ、お昼にしましょう!」
姉さんはレジャーシートを広げて、重箱を開いていった。それとなく閉まった屋上の扉が、俺は少し気になってしまった。
何故だろうか、と考えて、思い出す。そうだ、二回目に屋上で姉さんと昼を食べた時。屋上の扉が、二回閉まったのだ。姉さんが扉を開けっ放しにしていて、それとなく扉が風によって閉まるということは、まだある事かもしれない。
だが、間違っても二回閉まる事はない。誰かが扉を開いて、閉めなければ。
「純くん?」
俺は入口付近まで歩いて、扉を開いた。
そこには、黒髪をポニーテールにした、少し清楚な雰囲気の女性が――……
「青木さん?」