つ『その向こう側に見えた景色に、俺は』 前編
背中から、二階堂レイラの声が聞こえた。あまりにそれははっきりと、俺の耳に届いてしまった。
……どうして、こんな所に?
理由は分からない。あまりに疲れ過ぎたため、俺に幻聴が聞こえているのかもしれない。
何が、大変なんだよ。大変なのは俺の方だよ。
「どした、レイラ」
とりあえず、返事をしてみた。
「もう、ジュン。こっち向いてくださいまし」
「悪いな。どうしてもって言うなら、お前が俺の視界まで入ってくれよ」
すると、透明な階段を登って、金髪碧眼の縦ロール娘が現れた。
……久しいな。
レイラはいつかの赤いドレスにハイビスカスの髪飾りをして、俺に微笑み掛けた。歩く度に階段が割れていく俺とは違い、レイラが階段を登る分には割れないらしい。
高そうなヒールなんか履いちゃって、まあ……。
「お父様が、わたくしとジュンのために新居を用意してくれましたわ!! 卒業したら、結婚しましょう!! ジュン!!」
満面の笑みで、俺の腕を掴むレイラ。その行動で、俺は確信を持った。
「ジュン、今すぐ新居を見に行きましょう。こっちじゃないですわよ」
――腕を掴まれた感覚が、ない。
「わりいな、レイラ。俺、好きな人が居るんだ」
「ジュン、何を言ってますの?」
「付き合ってるフリなんかしてて本気で好きになったんだったら悪いけど、心に決めた相手が居るからさ。君麻呂でも拾ってやってくれよ」
レイラは笑うでもなく、俺の目の前に立ちはだかり、首を傾げて言った。
――くそ。
目の前の二階堂レイラは、純粋な瞳をしていた。
「居ませんわ、ジュン。貴方の想い人は、この世に居ません」
やり口が汚いぜ、『ノーネーム』。
「わたくしでは、駄目ですの……? ジュン、わたくしを選んでくださいまし」
思わず、俺は俯いて笑ってしまった。
二階堂レイラ。
思えば、瑠璃がドラマの合宿をやると言い出さなければ、レイラと接触することもなかったよな。お嬢様で、タカビーで、ツンデレで……。やる事なす事滅茶苦茶なくせに、いつも一生懸命で。
背が高くてモデルみたいな体型で、見た目は良い方だと言うのに。その強烈過ぎるキャラクターのせいで、周りに友達が居なかった。
初めて逢った時は、恋の仕方も知らなかったな。
「ごめんな」
親父が一度、訳の分からない幻想空間で青木善仁もどきと俺を戦わせたのは、こういう引っ掛けを使ってくる事を予想していたからか。
これなら、親父のカオス空間の方がよっぽど振り回されるぜ。
「姉さんが、好きなんだ。姉さんを助けたい。……だから、一緒には行けないよ。レイラ」
レイラは、固まっていた。
だが、突如としてレイラの大きな瞳から涙が溢れた。
「……『恋人ごっこ』は、終わりですのね」
俺はレイラを避けて、階段の上を目指す。
レイラは俺の腕を引っ張って、どうにか止めようとしていた。
だが、感覚はない。そもそも、レイラはここに存在すらしていないのだ。
「ごめんな、レイラ」
「わたくし、ジュンの事が好きでしたわ。自分でも気付きませんでしたけど、はっきりとそう思いましたの」
「一緒には行けない」
レイラは言う。
「わたくしが強がって、『ごっこ』なんてしていなければ、こんなことには」
――つい、後ろを振り返ってしまいそうになった。
危ない。これは、『ノーネーム』の仕掛けた罠だ。
そうして、全てを無かったことにしようなんていうのは、今まで散々やられてきた手口じゃないか。
「関係ないよ、レイラ」
背中に居るかどうかも分からないレイラに、俺は言う。
「多分、何回繰り返しても、何世紀経っても、俺の気持ちは変わらないよ。決めていたんだ。始めから、決まっていたんだ。俺が選ばなければいけないひとのことは」
そのひとの事を想うと、笑みが溢れる。
「姉さんが好きなんだ」
その言葉は、どのくらい届いたのだろうか。
俺にはレイラがそこにいる感覚がないし、存在しているかどうかも分からない。実際、『ノーネーム』の策略だったのか、俺のネガティブな感情が生み出した幻覚だったのか、それさえも定かではない。
でも、俺はレイラにありのままの気持ちを伝える事にした。
「……分かりましたわ」
再び、レイラが俺の前に現れた。
「それが、ジュンの本当の気持ちですのね」
今度のレイラは涙していたが、笑顔だった。
それが本当に二階堂レイラその人だったのかどうかは、俺には分からない。
でも、過去にだってそんな事は何度もあった。
何度過去を繰り返しても、幻想世界の中だったとしても、きっとどこかには届いているのだ。
ただ、それは『存在していなかった』、その程度の事なのだと思うようになった。
俺は微笑んで、頷いた。
「じゃあ、諦めるしかありませんわね」
「まー、気が向いたら君麻呂の面倒でも見てやってくれると助かるよ」
レイラは涙を拭くと、微笑んだ。
「仕方ありませんわね。まあ? キミマロごときがわたくしに付いて来られるのであれば? それでも構いませんけど」
誰に向かって挑発してんだよ。
レイラは、凛とした態度で、無い胸を張って言った。
「ジュン、どんな時でも、臆さず、顎を引いて、前を見るのですわ。それが勝者の態度だと、お父様が言っていましたの」
霧のように、レイラは消えた。俺は何事も無かったかのように、階段を登っていく。
……勝者の態度、ね。
レイラのお陰で、かえって気が紛れたかもしれない。たった一人で孤独のまま、この階段を登ることは、体力よりも精神的に厳しいものがあった。
せめて、誰か話し掛けてくれる人が居れば。
レイラが消えた瞬間、俺はその間に登っていた疲れをどっと感じて、身動きを取ることが出来なくなる。
そのまま、階段の上に倒れ込んだ。
俺の身体から流れる赤い血が、透明な階段を汚していく。
既に、何を登っているのかどうかもはっきりとしない。
足が、上がらない。
目を閉じた――……
「ほらあ!! そこをなんとかするのが、友ォ!! だろォ!?」
――思わず、ニヤけてしまった。
お前は呼んでねえよ、君麻呂。
「どうした純、俺ちゃんが居なくて寂しかったか?」
起き上がる。軋む身体を、悲鳴を上げる身体をどうにか揺さぶり起こして、再び、歩き出す。
地獄とも思える階段を、また一歩、踏み締めた。
「何しに来たんだよ、君麻呂。ここはお前如きが来る場所じゃねーよ」
茶色の髪に、前髪の一部だけが青い。ロックバンドかヴィジュアル系を失敗したみたいな髪型をしているのに、下は普通のボタンシャツとジーンズ。
葉加瀬君麻呂。
八重歯が目立つ。俺の目の前に現れた君麻呂は、腕を組んで仁王立ちをしていた。
まったくこいつは、いつも自信満々で、でもいつだって自信がなくて。弱虫のくせに、強がって。
「純が呼べば、俺ちゃんはどこにだって現れるんだぜ。なにせ、ヒーローだからよ」
「そうかい」
「そんな事より、後ろを見てみろよ。最高の眺めだぜ」
そういう訳にも行かないんだよ。
応える代わりに、俺は態度で示した。無視をすると、君麻呂が多少不機嫌になって言った。
「なあ、どんなに頑張ったって、人はいつか死んじまうんだぜ?」
思わぬ言葉に、俺は唇を真一文字に結んで、顎を引いた。
「お前、よく頑張ったよ。もういいじゃんか」
君麻呂の妹は、そうだったな。重い病気に掛かっていた。
どう頑張ったところで、君麻呂や俺に救えるようなものではなかった。それを考えると、君麻呂には少しだけ悪かったとも思う。
だって、あの場で最も春子ちゃんに干渉できたのは、俺だったのだから。
時を戻したって、何も得られなかったかもしれない。でも、何度も時を戻していれば、そのうち解決策が出てきたのかもしれない。
弱みがあるんだ。
「なあ、春子にはそんなに必死にならなかったじゃんかよ!!」
例えば、姉さんが同じ立場だったら。俺は、どうしていただろうか。
――答えなんて、決まっている。
「君麻呂。春子ちゃんは、笑ってたじゃないか」
ただ、前を見据えて言った。
「姉さんは、泣いてたんだ」
思えば、葉加瀬春子には葉加瀬君麻呂が居てくれたお陰で、人生を豊かに全うできたような気がする。
じゃあ、姉さんに俺は何をしてやれたのか。
俺は君麻呂のように、人を笑わせる事に一生懸命になったり、能力がなくても頑張ろうなんて、思っていなかったかもしれない。
目標までの道程が見えなければ、そもそも見向きもしてこなかった。
姉さんに初めて殺された時、諦め半分だったんだ。
「もう、泣き顔を見たくない」
いつだって、俺は『時を戻す』能力を過信していた。
そのからくりが無ければ、きっと一度も成功なんかしていなかった。
そんなものがなくても我武者羅に頑張る事のできる葉加瀬君麻呂のことを、俺は尊敬する。
俺が時を戻さなければ、そんなものがなくても君麻呂は一生懸命に、春子ちゃんの事を想って頑張っていたはずだ。
「それだけなんだ」
君麻呂は、驚いたような顔をして。
「――そっか。なら、仕方ねえな」
そして、笑った。
「ああ、仕方ない」
「純!! 今はお前がヒーローだからよ!! 俺様の秘密兵器を持っていけ!!」
君麻呂は両手で頬を押さえ、目玉を飛び出さんばかりに大きく目を開けて、唇を突き出した。
「『世界一面白い顔』!!」
――くっ。
俺は思わず、吹き出す事を避けられなかった。
お前、もうチャンピオンでもヒーローでも、なんでもいいよ。俺が認める。
もしかしたら、こいつのキモ面白い顔も見納めになるかもしれないからな。よく見ておこう。
君麻呂は顔を元に戻すと、両手を組んで頭の後ろにやった。
「笑っていろよ、純」
「え?」
「どんな時でも、笑っていろよ、純。相手が泣いてたらよ、それよりも強い風で笑い飛ばせば笑顔になんだよ」
そうか。
それは、一理あるかもしれないな。
「行って来いよ。もし失敗したら、俺ちゃんが一緒に地獄に行ってやんよ」
「はは。……そりゃ、心強い」
どれだけ足から血が流れようとも。
たったそれだけで、俺は一瞬でも痛みを忘れる事ができた。
そうだ。
俺、君麻呂に聞かなければいけないことがあったんだった。
「なあ、君麻呂」
「あん?」
「『アヤメ』の花言葉って、何だか知ってるか?」
いつだったか、記憶の消え掛かった携帯電話に記述されていた。あれを書いたのは、一体誰だったのだろうか。
姉さんと二人で暮らし始めた時か。
――思い出す。
戻ってきた時は、一体何年の何月何日になっていることやら。
「五月の花か。俺の一番好きな花言葉だぜ、それ」
ふと、顔を上げた。
君麻呂は少しだけ得意気に、アヤメの花を俺に見せた。
五月に咲く、瑠璃色の花。もしかしたら、俺の誕生日と掛けていたんだろうか。
「信じる者の幸福」
――――そうか。
その言葉を書いたのは、きっと。
敢えて口には出さないが、彼女は待っていたのだろう。
俺がいつか、本気で姉さんを助けに行く瞬間を。
ずっと、俺の事を信じてくれているんだ。
なら、もしかして一番上で、俺の事を待っていたり――……
分からないけれど、行かなければ。
俺は、彼女の気持ちに答えなければならない。
「そっか。ありがとな、君麻呂」
そう言うと、君麻呂はレイラと同じように、霧になって霧散した。
「頑張れよ、純」
――最後に、そんな言葉を残して。