つ『天国に続く階段の存在を信じますか?』 前編
呆気にとられたような顔をして、恭一郎は目を丸くした。ケーキや善仁さんもまた、俺と瑠璃を交互に見ていた。
シルク・ラシュタール・エレナは苦い顔をして、目を逸らした。
その一連のやり取りを、杏月が見ていた。
「……青木瑠璃? ……って、この、青木瑠璃?」
俺は頷いた。
真円に近い瑠璃の瞳孔が開き、まるで猫のような顔で瑠璃が俺の事を見詰める。猫ではなくとも、人間ではない、別の動物か何かのようだ。その瞳の奥に何を考えているのか、俺には分からない――……
でも、これもまた『姉さん』なんだ。
俺は瑠璃の髪を撫でると、言った。
「必ず、助け出す」
そう言って、微笑んでみせた。
瑠璃は一筋の涙を流して、頷いた。
「――まってる」
それきり、瑠璃は完全に意識を失ったかのように、その場に崩れ落ちた。
繋ぎ止められていたものが、無くなってしまったのだろう。
でも、きっとまだどこかに存在しているはずだ。瑠璃の身体は、まだ消えていないのだから。
恭一郎がふと、何かに気付いたかのような顔をして、呟いた。
「そうか。空いた身体に、入れない心……。空っぽになってしまったお姉ちゃんの正体は、青木瑠璃の身体に入れない、心」
そうだ。魂の入らない身体。その矛盾を覆すために、姉さんは青木瑠璃と分離した。その有り余る『徳』をもって、人間ではない身体を用意し、現世にもう一人、俺の前に現れた。
だから、現世に姉さんは『二人』。
姉さんの本来の目的は、『俺と子供を作ること』だった。
それを邪魔するために、シルク・ラシュタール・エレナは俺に『姉さん以外の彼女を選ぶ』という目的を課した。
現世に降りた姉さんが、瑠璃のことに気付く筈もない。記憶を失ったケーキも、また。
そして、俺の答えは――……
知らず、表情が引き締まるのを感じる。
俺は姉さんを選ばないつもりで、姉さんを選んでいたんだ。
なんと皮肉なことか、と思う。思えば姉さんが消えてしまったあの日、シルク・ラシュタール・エレナが呟いた一言は、俺と姉さんの二人に向けられた言葉だったのだ。
『いや。――お願い、シルク。まだ、終わりたくない』
『卒業までに、あなた以外の恋人を見付けること。……皮肉なものですね。こんな、結末になるなんて』
ああ、本当に。今の俺からすれば、本当にその通りだと思うよ。
姉さんの心を折ることが、姉さんの賭けを負けに導く行為なら。
『青木瑠璃』が『姉さん』だったとしても、関係ない。
子供を作らなければいけないのは、人間の身体を持たない姉さんの方だったんだから。
シルク・ラシュタール・エレナはどうにか縛られたままで身体を起こし、俺を睨み付けた。
「見たのですか……どうして? 天界の過去のことまで、貴方は見せたと言うのですか、穂苅恭一郎……」
恭一郎は目をぱちくりとさせて、間抜けに口を開いた。
「へ? ……僕は何もしてないよ?」
場の空気が、凍り付いた。
……あれ? 親父でないとすれば、一体誰が、あの出来事を俺に見せたと言うんだ……? 俺はてっきり、過去の世界から続いているものだと。
親父の能力で、見せられていたものかと思っていた。
恭一郎は腕を組んで、うーん、と唸る。やがて人差し指を立てて、さも『閃いた』とでも言わんばかりの顔になった。
「純くんがやったんじゃないかな?」
親父は俺を指差して、言った。シルク・ラシュタール・エレナはぽかんと口を開いて、直後に慌て出した。
「えっ? ……た、確かに『徳』が、急激に減っているような……」
徳? ……自分の身体を確認した。特に異変がある様子はないけれど――……
いや。普通、なんだ。今までのように、強力なパワーが出せる気配がない。
じゃあ、俺がやったのか。
どうしてそんな事ができたのか分からないけれど、体力は確実に無くなったような気がする。杏月を背負って山一つを軽々と越えられた時と違い、今の俺は人を背負って歩く事そのものが大変そうだ。
「まあ、可能性はゼロではないよ。見たい過去の『位置』さえ分かっていれば、それを見ることは難しくない。純くんは、時間の空間の境目を渡ってきたんだから」
「そんな事が、できるのですか……?」
ケーキがぽつりと、呟いた。恭一郎は微笑んで、頷く。
「勿論普通はできないけど。ほら、純くんはさっきまで、現世に固定されていなかった訳だし」
まあ、それはいい。
今は、姉さんを助ける事の方が優先だろう。
親父に目配せをした。
恭一郎はにっこりと笑って、肩をすくめた。
「純くん。言うべきは、僕じゃない。天界との行き来ができる人に、頼まないと」
……そうか。分かったよ。
俺はシルク・ラシュタール・エレナに向かい合った。何も言わず、彼女の拘束を解いていく。
ようやく縛りから解放されたシルク・ラシュタール・エレナは、俺の行動の意味が分からず困惑している様子だった。
勿論、何の意味もなく自由にした訳じゃない。
「神様――いや、シルク。教えてくれ。姉さんは今、どこに居るんだ」
シルク・ラシュタール・エレナは、躊躇いながらも言う。
「……おそらく、『秩序』の手前です。『ノーネーム』は、最後に青木瑠璃の存在をこの世から消す事で、調和を保とうとするはずです」
「じゃあ、そこに俺を連れて行ってくれ」
「そんなこと、できるわけが――」
俺は、シルク・ラシュタール・エレナの両手を包み込むように握った。
思えば、初めて出会った時は彼女に触れる事ができなかった。彼女はずっと、天界で俺と姉さんの存在を隠していたんだ。
それについては、感謝しなければならない。
「頼む」
困惑と言うのか、迷惑と言うのか。そのような顔をしていた。
やがてシルク・ラシュタール・エレナは目を閉じて、溜め息をついた。
「……本当によく似ていますよ、あなた方は」
俺は善仁さんに向き直った。全く事情が分からず、困っているといった具合だ。だが、それにしては落ち着いている。
親父の知り合いだしな。摩訶不思議な出来事は、経験済みっぽい感じだ。
「瑠璃のおじさん。ちょっと、借りて行きます。絶対に、連れて帰って来ますから」
「……あ、ああ。なんだかよく分からないが……後で説明して貰えるんだよな、恭一郎」
「まっかせー!」
このノリの軽さである。
俺は苦笑して、杏月に向かった。
杏月はいつも、見えない所で俺に協力してくれる。それは、過去からずっとそうだったらしい。不安そうに俺を見詰める眼差しに、俺は笑顔で応えた。
どんな時も、家族のようにそばに居てくれた。
「じゃ、ちょっと行ってくるからさ」
杏月は、俺を見た。
「……ちゃんと、戻ってくる、よね?」
根拠も確証もない。だから俺は、精一杯の笑顔と自信で杏月の問いに応える事にした。俺は頷くと、杏月の頭を撫でた。
「ごめん。使ってなかったマンションの部屋、綺麗にしといて貰えるかな。あと、みんなに連絡と」
言わなければいけないことは、決まっている。
「そしたら、今度は三人で、暮らそう」
もしも失敗したら、杏月は俺と姉さんのことを忘れてしまうのかもしれない。
いや、杏月だけじゃない。越後谷も、君麻呂も、レイラも。
――美濃部も。
それぞれの記憶から俺と姉さんの記憶が消え、『青木瑠璃』も消え、今までと同じような日常が始まるのかもしれない。
まあ、そんなことは考えなくていいのだ。
姉さんが俺を信じてくれたように、俺も姉さんを信じる。まだきっと、手段はあるはずだ、と。
必ず、元に戻してみせる。俺はそう覚悟して、青木瑠璃の身体を背負った。体温はしっかりと感じられるが、魂がここに無いことは、なんとなく分かった。
「何か縛れるものとか、無いかな」
杏月が慌てて、鞄からタオルを取り出した。そのタオルで瑠璃の両手を縛り、俺は瑠璃を背中に立ち上がる。。
意外と重い……人一人の身体を背負う事は、こんなにも大変だったのか。
瑠璃の身体は病院のベッドに居たせいで軽いのだろうが、それでも今の俺には重く感じられた。
「そんじゃ、行こうぜ。ケーキ」
「は、はいっ!!」
俺は相棒の名前を呼んだ。シルク・ラシュタール・エレナは何かを呟いている。両手が光っている所を見ると、いよいよ、これから向かう事が出来るのだろう。
やがて、魔法陣のようなものが床に現れた。シルク・ラシュタール・エレナはそれを確認してから、俺とケーキに向かう。
「……乗って、ください。行きましょう」
頷いて、魔法陣に乗った。俺と、ケーキと、シルク。
――親父は?
俺は、穂苅恭一郎を見た。この人は、一体どうして俺を助けてくれたんだろう。
そして、何者なんだろうか。
付いて来るのか? 俺は親父に目配せをしたが、恭一郎は笑顔のままで首を振った。
「ま、戦って来なよ。純くん」
どうやら、付いて来る訳ではないらしい。
来てくれたら、心強いという気持ちはあったけどな。
「前に、幻想世界で善仁と戦ったでしょ」
「はあ!? 恭一郎、お前何を――」
怒る善仁さんを、恭一郎は舌を出して制した。
……制したというか、挑発している感じだったが。
「覚えておいて欲しいんだ。あの時みたいに、『ノーネーム』との戦いでは身体でも『徳』でもなく、想いが強い事が大事。きっとぼくらの『ノーネーム』は、純くんの心を折りに掛かるだろう。どんな方法かは分からないけどね」
そういう経験が、あるのかな。
俺達の身体は、シルク・ラシュタール・エレナの影響によって、透明になっていく。
同時に、病室や親父の顔も、白くフェードアウトしていった。
「愛だよ、純くん。そして愛とは、不完全なものだ」
おどけた調子で、しかし真剣に、恭一郎は言う。
愛とは、不完全なもの。
それって、何か意味がある言葉なんだろうか。
最後に不敵な笑顔を残して、恭一郎の姿が消えた。
視界が暗転した。
ただ、真っ暗な闇がどこまでも続いている。
また、この場所に帰って来た。いや、初めて来たと言うべきか――……。前にこの場所に来たことがあるのは、姉さんの方。俺は今回、初めてこの暗闇を通り抜ける事になる。
俺の背中には、瑠璃が死んだように眠っている。息の音はするが、目を覚ます様子はない。
急に、とてつもない孤独感を覚えた。まるでこの世界に――いや、この宇宙に存在しなくなってしまうかのような。
いつかの姉さんと、同じだ。
「……ケーキ?」
俺は、相棒の名前を呼んだ。
しかし、返事は帰って来ない。
もしかしたら、この暗闇の中では声も聞こえないのだろうか。或いは、ケーキだけはどこか違う場所に飛ばされたとか――有り得る。俺を試すなら、俺に協力してくれる存在は極力減らそうと試みるはずだ。
例え、シルク・ラシュタール・エレナがその思いではなかったとしても。それより上に、『秩序』なるものがあるとしたなら。
ま、いいや。
どこかできっと、見守ってくれているはずだ。
よし――行こう。
俺は、第一歩を踏み出した。
「親父の癖が、伝染ったかな」
何故か、笑みを覚えてしまう。
どうしようもなく辛い時ほど、何故か笑顔になってしまうものだ。そうして、吹き飛ばそうとする――自分に降り掛かってくる災難や、苦難。そんなものには負けないという、強い想い。
いつか、親父もそのような体験をしたのだろうか。
ふと、そんな事が気になった。
だって、あの人はいつも、何かと笑っていたから。
腹立たしく思う事もあったけど、今になってその態度は、とても意味のあるモノなのだという事に気付いた。
それだけで、親父が抱えているモノの全てが見えなくなるからだ。
まるで大した事は抱えていないといったように、見えていたのだ。
それがどうしたことか。蓋を開けてみれば、あの人もまた『人間』かどうかすら、怪しいポジションに居る。
不思議なものだ。