つ『時よ止まれ奏鳴曲は美しい』 後編
この、先は?
この先が見たい。死んでしまったティナは――姉さんは、この後一体、どんな選択をしたんだ?
――――教えてくれ。
全身が軋むように痛い。
だが、きっと、気のせいだろう。
風に煽られて身体が悲鳴を上げるよりも、きっとティナの方が痛いはずだ。
姉さんの、方が。
なおも視界は高く飛び上がり、やがて大気圏を通過する辺りから、現実とは思えない世界となった。目の前に広がるのは、緑色の空。
俺は、仰向けに倒れている。
身体を起こした。
肌寒くはない。だが、暖かくはなかった。温度という感覚があるのかどうかすら、怪しい。雲なのか地面なのか、白くもあやふやな何かが敷き詰められていて、はっきりと見ることは叶わない。
そこには無いものが、俺の隣を通り過ぎて行くのが分かる。
ぼんやりとした光のようでいて、あるいは音かもしれない、煙かもしれない何かの存在。
それらが行く路の向こう側へ、俺は首を向けた。
「……私の所に来たって、無駄ですよ」
「リスアール・セ=ボンデュに、現世の身体を空けて貰ったわ」
「なっ……!?」
何を言っているんだ、俺は。
光でも、音でも煙でもない。
俺は立ち上がり、その存在をはっきりと見た。
艶やかな、黒い髪。相反する、光るようなルビーの瞳。背中には翼を生やし、シルク・ラシュタール・エレナと真っ向から対立するのは。
俺の、よく知る人だった。
「……そんな事をしても、無駄ですよ。その身体に入れられる魂が、どこにも無いのですから」
姉さんは、真っ直ぐにシルク・ラシュタール・エレナの瞳を見詰めて、呟いた。
「お願い。協力して」
シルク・ラシュタール・エレナは、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「何を協力しろと言うのですか。貴女は既に、人には戻れません。秩序を守る立場になる人間が、『愛』などと言っていてはダメです。認められません」
だが、姉さんは臆さない。
――身体?
「ひとつ、考えがあるの」
そうか。
姉さんは、既に人間として存在することは出来ないレベルの『徳』を背負っていた。生まれ変わるにしても、その『徳』をどうにかしない限りは、現世に現れる事は出来なかった。
だけど、ケーキは姉さんのための『身体』を空けてしまったのか。
シルク・ラシュタール・エレナは、薄目を開けて姉さんを見た。
「……考え?」
「シルク。今、この身体になったから分かる――貴女は、ずっと私達のことを見守ってくれた。だから、お願いしたいの」
姉さんは、自身の胸に手を当てて、言った。
「――――私を、『二人』にして」
シルク・ラシュタール・エレナが、驚愕に目を見開いた。何を言っているのか分からないといった様子だったが――ふと、気付いたようだ。
「まさか、『魂』を二つに分ける、とでも言うつもりですか……?」
シルク・ラシュタール・エレナの問いに、姉さんは頷いた。
だって現世には、姉さんがいつか帰るための『身体』が、空いていなければいけなかった。
そうしなければ、俺と同時系列を生きる事はできなかった。
「現世にもう一人、『私』が居れば良いんでしょう。身体を持たない方の『私』は、『徳』を使い切ればいずれ、現世の身体を持つ『私』に吸い込まれる」
「そんな事をしたって、『徳』を使い果たす方法なんて――……」
子供。
シルク・ラシュタール・エレナの考えている事が、素直に分かる顔だった。姉さんは徐ろにそれに頷いて、シルク・ラシュタール・エレナに詰め寄った。
「リスアールが現世の身体を空けてくれて、本当に感謝してる」
「そんな――第一、貴女はどうやって『現世』とやらに行くつもりですか!?」
「この身体で、そのまま潜り込むわ」
「生まれた子供は、誰の子供ですか!!」
「私と、現世のローウェンの子供よ」
「もし失敗すれば、現世の半身は、貴女の消滅に合わせて消えるのですよ!? そうなれば、意識を持たない『生身の身体』ができます!!」
「その時は、おしまいね」
シルク・ラシュタール・エレナは頭を抱えて、首を振った。
「有り得ません!! そんな無茶苦茶が通じるわけ無いでしょう!? 第一、すぐにばれます!! 天界で協力する者が居ない限り、すぐにでも――……」
姉さんは、シルク・ラシュタール・エレナの頬を両手で包み込んだ。
慈愛に満ちた笑みで、シルク・ラシュタール・エレナを見た。
「お願い、シルク。彼を愛しているの」
シルク・ラシュタール・エレナは暫くの間、姉さんの希望を呑めずに気まずい顔をしていた。
だが、姉さんの気持ちがどうにも変わらないということを察したらしい。ふう、と溜め息をつくと、シルク・ラシュタール・エレナは眉根を寄せたままで、呟いた。
「私は、秩序を守る人間です。貴女は脱走した罪人、身体を空けたリスアールにも、罰を与えざるを得ません」
「……リスアールには、悪い事をしたわね」
姉さんがそう言うと、シルク・ラシュタール・エレナは微笑んだ。
「いいえ、ティナ。彼女は絶対に貴女を助けますよ。だって、彼女は」
その言葉を口にするべきか、どうするべきか、悩んでいるように感じられた。ふとした時間、姉さんは目を丸くしてシルク・ラシュタール・エレナを見ていた。
だが、ついに緩んでいた頬が覚悟に引き締まると、シルク・ラシュタール・エレナは理知的な笑みを浮かべて、言った。
「――『ヴェルニカ』なんですから」
そうか。……そう、だったか。
桃色の髪、透き通るような妖精の羽根、ユニコーンの角。生前のヴェルニカとは、似ても似つかない。
でも、どこか嬉しくなった。
死してなお、姿を変えて、見てくれていたのだ。
俺の、愛馬は。
シルク・ラシュタール・エレナは両手に光を纏い、姉さんの胸に手を突っ込んだ。血が流れる事もなく、姉さんは目を丸くする――……
程なくして、シルク・ラシュタール・エレナは姉さんの胸から、光の珠のようなものを取り出した。
ふと、姉さんに変化が訪れる。
「きゃっ……」
黒の髪から、茶色の髪へ。真紅の瞳から、赤銅の瞳へ。
漆黒の翼はなくなり、姉さんは見た目、ただの『ひと』になった。
勿論、ただの人間ではない。ここに居る以上、姉さんは人には成り得ない。
「これで、貴女はいかにも『現世』の人間。彼の来世は、二○○○年付近ですから――……これは、私が預かっておきます」
シルク・ラシュタール・エレナはそう言って、光の珠をどこかへ飛ばした。
――高く、高く、上がっていく。
そうして、どこへ行くのだろう。
いや、俺はその答えを知っている。
シルク・ラシュタール・エレナは真っ直ぐに地平線を指差した。どこまでも続くその道には、一見何もないように見えた。
「真っ直ぐに――どこまでもただ、真っ直ぐに進んでください。私が路を創ります」
「ありがとう、シルク。感謝してる」
「但し、その先を抜ければ私は、貴女の味方を出来ません。肝に銘じておいてください」
姉さんは、頷いた。
そうして、走って行く。
「――でも、時を戻せば『徳』は溜まり、結局は元の姿を取り戻す。……あまり現実的な戦いではないですよ、ティナ・ピリカ」
俺も、行かなきゃ。
◆
明るいと思われた空は走り出すとすぐに暗くなり、俺を不安にさせた。目の前に居る、ただ走り続ける姉さんを後ろから追い掛けて行く。
長い、長い時間だった。真っ暗になってからの道程は、驚く程遠い――……。敢えて遠回りをさせているようにすら、感じられた。
そうでもしなければ、気付かれたのかもしれない。
『ノーネーム』に。
走り行くたび、姉さんの背が縮んでいく。『現世』という表現がある以上、時間を逆行することは――有り得るか。ということは、姉さんは今、生まれる瞬間に還っているのかもしれない。
きっと、来世の俺が居る時間。それを、姉さんは『現世』と呼んだのだろう。
走り続ける姉さんを見て、俺はいつかの姉さんの言葉を思い返していた。
姉さんは、目を閉じていたから。
『――目を閉じてね。暗闇の中を、歩くの』
それは、姉さんが覚悟した日のことだ。
『真っ暗な闇の中で、私は一人なの。誰も居ないから、自分が一人であることも分からなくなっちゃう。そうするとね、すごく怖くなるんだ。まるで自分がこの世から居なくなってしまったみたいな気がして。ううん、ひょっとしたら、この宇宙のどこにも居なくなってしまったような』
俺は、その経験を知っている。
過去、ローウェンもまた同じように、地下に閉じ込められていた。食べ物も与えられず、身動きも取ることが出来ないまま、永久の時間を過ごす事になるかと思われた。
俺を救ってくれた人間が、たったひとり。
『そんな時にね、胸に手を当てて、信じるの。私はここにいるよ、あなたはどこにいますか? 会いたい、きっと会える、って』
これほどに、勇気と覚悟を持った女性が俺の前に現れなければ。
俺は、一人だったかもしれない。
『本当はどうして欲しいのか、言葉じゃ分からない時もあるんだよ。どこかですれ違ったり、衝突、したり――……だから目を閉じて、考えてみて。どうしたら、幸せになれるか』
その言葉に、いつかの瑠璃の言葉が重なった。
『穂苅君は、穂苅君が好きな人を、選んでね。自分に嘘だけは、付かないでね。素直でいてね』
今だから、言える。
俺は、姉さんが好きだ。
このひとのことを、忘れない。生涯を掛けて、愛したいと思う。
姉さんを――――
ついに、子供になった姉さんが、俺の視界から消えた。
ここから先、走り続ければどこに出るのかなんて、俺にも分かる。
姉さんの名前は、ティナ・ピリカ。
でもそれは、現世の姉さんの名前じゃない。俺は、姉さんの名前を伝えないといけない。
それが、鍵だ。
親父に、『ノーネーム』まで続く扉を開けさせるための。
暗闇が――――晴れた。
「純!!」
「おかえり、純くん」
初めに気付いたのは、柔らかい手のひらの感触。
俺は、まるで長い夢から目を覚ますようにして、現世に帰って来た。
丸椅子に座り、瑠璃のベッドに凭れ掛かっていた。杏月は俺の手を握っていて、親父はいつになく真剣な様子で、俺の事を見ていた。
どこからか、クラシックが聞こえてくる。見れば、部屋の中で善仁さんが曲を流していた。こうして見ると、この人もどこかティシュティヤ国王に似ている。俺にとっては、縁遠い人という印象は抜けないが。
ケーキも人間ほどのサイズのまま。シルク・ラシュタール・エレナも、相変わらず縛られたままだ。
いや、もしかしたら本当に、長い夢だったのか?
「どのくらい、時間は経ってる?」
「一時間くらいかな」
「……そか」
まあ、前回よりはかなり、良心的かな。
ここまでは、単なる前世の記憶。前回は、もう訳が分からない幻想世界だったからな。
そう、それこそ本当に、夢のような――……
いや。
夢のような戦いは、これから始まるんだ。
立ち上がり、親父の方を向いた。改めて見ると、この穂苅恭一郎という存在は、少しも俺と似ていない。俺はこの人の特徴を、何も受け継がずに育ったのではないかと思えるくらいだ。
……いや。
穂苅恭一郎という存在そのものが、あまり人には見えない。
「良い顔になったね、純くん」
「親父、迷惑掛けてごめん」
「良いよー。迷惑を掛けられるのが、親の仕事さ」
恭一郎は満足そうに、頬を緩めた。
「んー、愛だねえ」
今この場所に、姉さんは居ない。青木瑠璃が、透き通るような瞳で俺のことをじっと見ていた。
いや、透き通っていた。水のように透明で、触れようとすれば溶けてなくなってしまう、その程度のものでしかなかった。
今の、青木瑠璃という存在は。
「親父、分かったよ」
恭一郎は、頷いた。
「それじゃあ、聞かせて貰えるかな」
今。限りない前世の記憶をこの目にして、なおも姉さんとの生活に関する記憶は、俺の中から消えていた。
たった一時間の間に、俺の現世の記憶というものは、すっかり上書きされてしまったらしい。
親父やシルク・ラシュタール・エレナがここに居ても起こっているということは、それだけ『ノーネーム』の干渉力が強い事も意味している。
もしくは、最後の足掻きとでも呼ぼうか。
だが、不器用だ。
その『上書き』は既に不完全なものにしかならず、俺の中から本当に『姉さん』に関する存在そのものを消し去る事はできない。
だって、気付いてしまったから。
「青木瑠璃だ」
慎重に、幾らかの緊張を感じながらも、ひとつひとつ、その言葉を口にした。
「姉さんの名前は――『青木瑠璃』だ」