つ『妹は協力者足りうるか』 前編
穂苅杏月。俺とは一つ違いの妹、十七歳。海外留学をちょっとしてみたいという目的の為だけに、親に海外留学を頼み込んで承諾させるという偉業を成し遂げた。承諾した親父も親父だ。
近日戻って来るという話は入っていて、姉さんは奴から逃げるために俺を連れて家を出たのかもしれないという疑惑は、元からあった。
何を隠そう、とにかく姉さんと杏月は仲が悪い。俺には、そのように見える。姉さんは杏月から俺を遠ざけようとし、杏月は普段あまり話さない俺に話し掛けようとする。家ではいつも、そういう構図だった。
時は去ること一回目――三ヶ月の間、俺は杏月と会う事をしなかった。姉さんの機嫌が悪くなるのは目に見えて分かっていた事だし、俺も杏月に用事など無かったからだ。
だがよく考えてみれば、杏月がここに来るだけで、かなり様子は変わってくるのではないか。
杏月は唯一俺が昔から仲良くしている女性だ。杏月と何をしようと――いや、別に何もしないが――姉さんは文句をあまり言わないし、俺の状況を知りつつ周りにアプローチできる、言わばジョーカーのような存在だ。
――そう、俺は気付いたのだ。
そもそも、どうして家では姉さんは暴走しなかったのか。何故始めに時を戻されたのが、姉さんと家を出る五月二十日だったのか。それは暗に、五月二十日までは、姉さんが暴走するきっかけが作られなかったという理由にならないだろうか。
そして、その作られなかった理由とは、もしかしてもしかすると杏月が居たからなのではないか。
親が居ることで抑制されていた部分があったからなのかもしれないが。実家では家でベタベタする事は控えられていたが、引っ越ししてからの姉さんは、とにかくやりたい放題だからな……。
だが、『家族』というのは重要なキーワードだ。たぶん。きっと。
『ああ、いいよ母さん。別に杏月が遊びに来たからといって、どうという事もないし』
『そう……? それなら、そう伝えておくけど』
『ん、いいよいいよ。住むのはさすがに、姉さんに相談しないといけないかもしれないけど。杏月も挨拶くらい、したいでしょ』
俺はそう言って、電話を切ってしまったのだが。
五月二十二日、朝六時五分。一回目から考えると信じられない程に波瀾万丈な二十一日を乗り切って、俺は目覚めた。姉さんはやっぱり既に起きていて、広いベッドに俺は一人。
いざ時間が戻ってみると、俺ってよく三ヶ月も生きていたものだな、と思う。
知らないって凄い事だ。
起き上がってリビングに向かうと、姉さんはキッチンに居なかった。姿を探すと、廊下の向こうに後ろ姿が。
今日は服を着ているのか。……まあ、毎日裸にエプロン巻かれても困るしな。
「……姉さん?」
いつになく、姉さんは俺の言葉に反応しなかった。そこで、玄関口に現れた人間の存在を知る。
背伸びして姉さんの肩から顔を出すと、そこにはセミロングの茶髪を両脇で縛った、少し幼い印象のある女性が立っていた。短めだが、これもツインテールと言うのだろうか。俺の学園の制服を着ていて、胸に付けられたバッヂの色は二年生の色。
杏月だ。
扉を開いた状態のまま、姉さんは固まっているようだった。杏月は俺を見付けると、ぱあ、と花のような笑顔を浮かべた。
「お兄ちゃんだー!!」
可憐で初々しい、という表現がぴったりと当て嵌まるような雰囲気だった。熟練度の高い姉さんとはまた違った、純粋さやあどけなさを感じる。色気は無いが……妹に色気を求めてどうするというのか。
まあ杏月に関しては養子として親父が貰ってきた子供で、実は義理の娘だということが分かっているため、特に罪悪感を覚える必要はないのかもしれないが。
杏月は俺を見ると、特に何も気にしない様子で俺の胸に飛び込んだ。
姉さんと違って、安心できる身体だ。良かった。
「久しぶり、お兄ちゃん。一緒に学校行こう」
姉さんは口を三角にして、何も言えずに固まっている。……意図してやった事とはいえ、さすがにちょっと可哀想な気がしてきた。
でも、杏月が見ている以上は姉さんから手出しはされないのではないだろうか。
「……杏月? ……どうして、ここに?」
「あれ? もうすぐ帰って来るって話はお姉ちゃんにもいってたと思うけど。ふふー、ようやく美味しいお米が食べられるよ。お姉ちゃん、作って」
呆けて開いた口はそのまま、姉さんは俺を見た。……そんなに泣きそうな顔をするなよ。
杏月も姉さんの様子など知ったことではないといった様子だ。神経が太いというのか、鈍感というのか。杏月が間に入ってくれれば姉さんの誘惑が抑制されて、俺もいくらか動き易くなる。
……どうして、こんなにも罪悪感が。
「まあ、おかえり、杏月。留学はどうだった?」
「すっごかったよー!!」
「そうか。どんな所がすごかったんだ?」
「うーん……。すっごかったよ!!」
「……そかあ」
元気な事は良いことだ。中身はどうあれ。
俺の両親は元々そんなに子供を縛るタイプでは無かったというか、小学生なら万引きの一つはやって当然だなどとスーパーに抗議するようなタイプの親だったため、杏月もすくすくと自由に育った。
自由過ぎて、その奔放な性格が良い方向にも悪い方向にも極端に作用するのは難点だが。
姉さんは俺の手を握る。
「……純くん」
ごめんなさい。と、思わず謝ってしまいそうになった。
そもそも、一回目から姉さんは三ヶ月経っても家に一度も帰らなかった。お盆にすら戻らなかったから、杏月との再会も無かった。杏月が戻って来る事で、姉さんがこんな顔をするのか。
まあ、そりゃあ一回目も嫌がっていたけどさ……。仮にも家族なのに、そこまで酷い顔をしなくても良いのでは……。
「今日のお昼ご飯、まずかったらごめんね……」
珍しく、姉さんからネガティブな発言が漏れた。……余程、ダメージが大きいらしい。体裁上の話をするなら、杏月が戻って来たと分かった時点で、こちらから挨拶くらいしておくべきだと思うのだが。
……そもそも五月二十日に家を出て、五月二十一日に杏月が帰って来ている時点で、姉さんが何を意識していたのかは分かる所だったか。と、今更気付いた。
まあ、今日一日くらいは挨拶も兼ねて……
いや、そうじゃないんだ。情に絆されている場合じゃない。新しい彼女を作って姉さんに諦めて貰わないと、俺にも姉さんにも未来はないのだ。
杏月をどうにかして、俺の日常のネットワークに入れる。ここは大人しく、俺の作戦に乗ってもらおう。
登校途中も杏月が付き添う事で、姉さんは素直に隣を歩いた。二人だけで登校・出社していた時から姉さんはべったり抱き付いて来るようになっていたので、この光景はかなり久しぶりだ。
……代わりに杏月が俺の腕に巻き付いているが。
「お兄ちゃん、今日のお昼、一緒に食べよっ」
びくん、と姉さんが痙攣する。……まあ、無理もない。そういえば、一回目は杏月、俺の私生活に一度も出て来なかったな。家に来るかどうかは兎も角、学校では出会っていても良い筈なのに。一体、何をやっていたんだろう。
転校手続きした学校が違う? いや、あの段階で電話先の俺の返事によって行く学校が変わっていた、という事は無いだろう。
それに、杏月はこんなに幼かったか……? なんだか、随分様子が違うような。
「……まあ、いいけど。姉さんも一緒でいい?」
「うーん……」
そこは悩む所なのか。
姉さんが俺の袖を引く。見ると、一生懸命首を振っていた。一緒に食べたくない、という事だろうか。
こんなに姉さんが嫌がっている様子も、近日見たことがなかった。
並木道を歩き、校門前まで辿り着くと、姉さんと別れる。姉さんは特に俺に抱き付く事もなく、控えめに手を振った。
……背中が寂しい。
「それじゃ、純くん」
「う、うん。また昼に」
「い、いいよ昼は。杏月と食べてよ」
姉さん、大丈夫か? ……杏月作戦は失敗したのか? それさえも、よく分からないが……だが、この抑止力である。姉さんには悪いけれど、この間に別の彼女を見付ければ、暴走してバッドエンドも無くなるのではないだろうか。
うーむ……これで良いのか?
「ばいばーい、おねーちゃん」
……杏月も、どこか不気味だ。姉さんが居なくなるなり、俺の手を引いて学園を歩く。普段姉さんとしか行動していない俺が妹と歩いていると知るや、周りの生徒達も驚いて俺の様子を見ていた。
どうしてこんなにも監視が厳しいのか、分からないが。
「学校案内してよ、お兄ちゃん」
杏月は言う。俺は曖昧に頷いて、杏月に従った――……
「……杏月? ……ちょっと、ここには入れないって!!」
「良いから入って!!」
そして、この顛末である。
示された場所は、女子トイレ。杏月は素早く個室の扉を開けて俺を押し込むと、扉を閉めた。
何を考えているのだろう。こんな場所で、誰かに見付かったらどうすれば……
「説明して」
「……え?」
杏月は打って変わって、怖い顔をしている。先程までの胡散臭い小動物っぽさはどこにもない。
真剣な瞳で、俺を見ていた。
「説明するって、何を?」
「あいつと純が一緒に暮らし始めた理由」
純、って。さっきまで『お兄ちゃん』って呼んでたじゃないか。姉さんのことも、『あいつ』って……。
意外な剣幕に俺は動揺し、目を逸らした。
「……理由って言われても。姉さんがしたかったから、そうなっただけだよ」
「純の意思は?」
「俺の意思?」
「それでいいの?」
……何を確認したいのか、俺には全く予想も付かない。杏月は個室内で俺に迫り、両手を壁に押し付けていた。
いや……これ、逆だろ。普通は。既に状況はあまり普通ではないが。
「良いかどうかは分からないけど、まあ……良いんじゃないか」
「……ふーん。そっかあ。なるほどねー」
何かを確認して納得したかのような顔をした。瞬間、杏月は笑顔になって、俺に抱き付いた。
控えめだが、発展途上な胸が俺の腹に当たる。杏月も背が低い。
「良かった! 純が、近親相姦に目覚めた訳じゃないんだね!」
「……はあ……?」
「私、ついにあのクソビッチが私の純に手を出したのかなーって、ちょっと思ってたんだあ。純もそれで納得なら、まあもうそれでいっかー、なんて思ってたんだけど」
……待て。誰の?
誰の純?
「散々言ってたんだけどね。純は別にあんたの事なんて好きじゃないから、何を誘惑しても無駄だって。でも二人で家を出るなんて話になってたから、もしかして上手く行っちゃったのかなー、なんて」
俺は固まっていた。
――誰だ、これは? 本当に俺の知る、穂苅杏月なのか?
知らない。こんなにも意地の悪い笑顔を見せる女の子は、俺は知らない。もっとこう、小動物的で、少しアホで、何かというと俺の後ろを付いて来ていた。そういうタイプだった筈だ。
間違っても、姉さんの事をクソビッチなんて呼ぶような人間では……
「良かった! 純が相変わらずただ、振り回されてただけで」
「ちょっと! ちょっとちょっと、ストップ」
杏月は俺の制止など聞かず、首に腕を回した。背伸びするような形で、俺にキスをせがむ。
一体何が起こっているんだ……? 海外留学の間に、こいつに何があった……!
いや、元からなのか? 俺が知らなかっただけ? 水面下では、姉さんと杏月による対決がずっと行われていたのか……?
「別に家に来てもいいって、言ったよね? だったら、あの泥棒猫から純を取り返しても、良いってことだよね?」
「だからお前は一体何を言って――」
――その時。
「……穂苅君?」
俺はここが何をする場所で、今が始業五分前で、俺はどのくらいのボリュームで喋っていたのかに、
「――そこに、いるの?」
――――気付いた。
全身の血流が二倍の速度で流れ出したのではないかと思える程に緊張し、瞳孔が開く。杏月は外の人物の声色を確認し、どうするか手段を考えているようだった。
まだ杏月には外の人物が一体誰なのかなど、当然分からないだろう。
だが、俺には分かる。この状況で、俺の事を特定して声を掛けてくる人物なんて一人しか居ない。
この学校に入ってからというもの、俺には友達がほぼ居ないからな。
「……穂苅君、だよね?」
先日の姉さんとのやり取りといい、既に青木さんには凄まじい光景を見せてしまっている。
もう、これ以上汚点を重ねる訳には……。
いや、でももう声を掛けられてしまっている。俺がここに居ることは明白だ。……どうする? どうやって、この場を無かったことにすればいい?
……ああもう!!
「誰?」
「……クラスメイトだ。見付かったら、やばい」
俺は小声で杏月に耳打ちをした。
杏月は不気味に笑うと、俺の右腕を掴み――自身の、胸へと誘った。