つ『王国裁判』 前編
どこからか、馬が走って来る音が聞こえる。その日の朝は澄んでいたが、謎の騒音によって目が覚めた。
ソファーで眠る杏月はまだ目覚めていないようで、静かだ。天蓋ベッドに眠っていたローウェンが、俺と同じように騒音によって目を覚ましたらしい。
……眠かった筈の俺は、何故か一睡もできていない。
横になっていれば身体は休まるが、頭はなおも動き続けていた。何か、一つの解答のようなものが、繋がりそうで繋がらない。
ローウェンの言っていた言葉が俺にとって、とても大きな意味であったことは疑いようもない。
『何度同じ状況に立たされても、私は貴女を選ぶだろう』
人として人生というものを消化する中で、幾度と無く俺は姉さんを探し求めていたのかもしれない。
発生した矛盾点を解消できず、俺は何度もおかしな現実に頭を悩ませた。
青木瑠璃とは、一体何だったのか。
俺は長い苦悩の果てに、姉さん以外の人間を選ぶという一つの『可能性』に対して、『青木瑠璃』という解答を見出したつもりでいた。彼女ならば、全てを任せられると思っていた。
姉さんが人ではない存在だとするなら、青木瑠璃は間違いなく人だった。
青木善仁という父親のもとに生まれ、人として育った。
……何か、不思議な感じがしていた。
姉さんと青木瑠璃には、奇妙な因果関係があるのだ。
「何の音だ?」
隣で眠っていたティナが、同じように目を覚ます。
まだ寝惚けているティナの頭を撫でてローウェンはベッドから出ると、新しい肌着を取り出し、着た。ティナは昨日着ていたものを身に纏う。
廊下の向こうが騒がしい。ドタドタと構わずに走る音に、あまり尋常ではない事態が起きている事が分かった。ローウェンは身支度をし、外用の服装になる。
直後、バタン、と大きな音がして、扉が開いた。
「――――お兄様!!」
廊下から焦燥に満ちた瞳で息を荒げ、リオルが顔を出した。今まさに走って来たといった様子で、肩で息をしていた。
その衝撃に、杏月が目を覚ます。
「ん……純……? どうしたの……?」
「起きろ、杏月。……緊急事態かもしれない」
「え?」
杏月はすぐに目を覚まして、起き上がった。ローウェンは怪訝な表情で、リオルを一瞥する。
「何事だ」
リオルは叫ぶように、言った。
「――カイン・アッケンブリード三世が、護衛を引き連れて王宮まで来ています!!」
◆
ローウェン、ティナとフィリシア、リオル、そして俺達が到着する頃には、既に王宮の広間は険悪な空気に満ち満ちていた。ティシュティヤ国王は険相な眼差しで頬から一筋の汗を垂らし、アッケンブリード国王は邪悪な表情の内側に、ほくそ笑むような感情を感じ取る事が出来た。
何だ、このモノモノしい雰囲気は……? ティシュティヤ国王は王座からローウェンを見ると、喉を鳴らした。
その行動に、ローウェンが頭に疑問符を浮かべる。
「……どういう、ことだ。我々が戦神メビウスの理に反しているとは」
「ああ、反している。アッケンブリードはこの事を許す訳にはいかないな。なあ、ローウェン・クライン!」
ティシュティヤ国王の言葉に、アッケンブリード国王は演技だと分かる怒り口調で、ローウェンを下から見詰めた。ローウェンはティシュティヤ国王に向かって走る。リオル、ティナとフィリシアもまた、それに続いた。
アッケンブリード国王は背後の兵士達を制すると、単身で王宮の階段を登って行った。
「さて、昨日の出来事だが――……我々は、ティシュティヤに逃げ込んだ『我々の奴隷』を捕らえるため、ティシュティヤの領土に侵入した。境界線の近くに居た警備兵が驚いて我々の事を報告しに来ただろう、その件については詫びよう」
まるで事件の真相を暴いた名探偵さながらの態度で、アッケンブリード国王はティシュティヤ国王、そしてローウェンに無機質な言葉を浴びせた。その語り口調に、ローウェンが怪訝な表情でアッケンブリード国王を見詰める。
「だが我々は逃げ込んだ奴隷を捕まえに来ただけであって、決してティシュティヤとの決戦において何らかの姑息な手段を取ろうとした訳ではない事を、理解して欲しい。それが証拠に、我々は境界線の近くで奴隷を発見してから、すぐに引き返している」
「おいアッケンブリード国王、貴様は境界線侵入の件について、『うっかり』侵入してしまったと――――」
ローウェンが反論すると、アッケンブリード国王は般若のような顔になって、ローウェンを見詰めた。……変だが、あまり迫力はなかった。
「根拠の無い暴言は謹んでくれないか、ローウェン・クライン。ただでさえ貴様は、最早この戦神メビウスの理において反逆者なのだから」
その言葉にローウェンは逆上し、眉を吊り上げた。
「何を貴様は――――!!」
「下がれ、ローウェン」
ティシュティヤ国王に言われ、仕方なくローウェンはティシュティヤ国王の後ろに下がった。その様子をアッケンブリード国王はにんまりと笑って、話を続ける。
「だが、その後のことだ。我々はそこの二人、アッケンブリードの奴隷を国に連れて帰る途中で、ローウェン・クラインに襲われたのだ。――見ろ、この鮮やかに斬り裂かれた手綱を。馬車を引いていた兵士が二人、負傷した。一人は腕を落とす重症だ。おい、こっちへ来い」
アッケンブリード国王の言葉に、入口近くで固まっていた兵士達が道を開け、奥から男が一人、顔を出した。武装はしておらず、布の服を着ている。アッケンブリード国王の言う通り、右腕はない。
だけど、ローウェンは兵士に攻撃なんてしていない。ローウェンの眉が、ぴくぴくと動いた。
「――貴様、まさか濡れ衣を」
「これをどう思う、ティシュティヤ国王よ!? ローウェン・クラインは剣を持ち、アッケンブリードの領土に侵入し、あまつさえ兵士を攻撃したのだ!! そして、我が国の貴重な奴隷を奪って行った。これが戦神メビウスの理に反逆しないとするなら、我々の協定は一体何だったのだ!?」
ローウェンは剣を抜き、アッケンブリード国王に激昂した。
「黙れ外道!! 根拠の無い暴言はどちらが発している、私がアッケンブリードに対して決戦前に攻撃などするか!! 偽装工作など、恥を知れ!!」
ローウェンの恐ろしい様子に、アッケンブリード国王は両手を上げて数歩、引き下がった。……随分と怯えているようだ。チキンめ。
だが、ティシュティヤ国王がローウェンを制する。どうして、とティシュティヤ国王を疑問の眼差しで見詰めるローウェンに、アッケンブリード国王はほくそ笑んだ。
……ああ、腹が立つ。
「とにかく。そこの『反逆者』ローウェン・クラインに何を吹き込まれたか知らんが、そこの二人はれっきとした我が国の奴隷なのだ。証拠を見せよう。……おい、やれ」
「はっ!」
またも入り口付近から別の兵士が出てきて王宮の階段を上がり、ついにはティナとフィリシアの所まで辿り着いた。
「おい、貴様何を……」
ローウェンの静止も聞かず、ティナが腕を引かれ、アッケンブリード国王の下まで連れて来られる。アッケンブリード国王はティナに背を向けさせ、短刀を取り出し、その場でティナの服に刃を入れた。
ビリ、と不快な音が聞こえてくる。ティナは固く目を閉じて、苦痛に耐えている様子だった。
ティナの真っ白な素肌と共に、右腕に刻まれた刻印が露わになる――……
周囲は騒然とした。
「ティシュティヤ国王よ。残念ながらこの男は我が国の奴隷をアッケンブリードから不法に連れ込んだ、犯罪人なのだ」
ローウェンが絶句し、ティナは今にも泣きそうな、潤んだ瞳でローウェンを見た。ティシュティヤ国王も渋い顔をしている――……アッケンブリード国王だけが、邪悪な笑みを浮かべていた。
――嵌められた。
咄嗟に、誰もがそう理解しただろう。俺だって、この状況になればアッケンブリード国王が果たして今まで何を考えていたのか、その真相を把握する事は容易だ。
「さて……どうしようか、ティシュティヤ国王。この男を放置するなら、私は近隣の国々に『ティシュティヤは戦神メビウスの理に反した、危険な国家である』と報じない訳にも行かないのだが――……」
「……茶番だ」
ローウェンはぼそり、と呟いた。刹那、その理知的な瞳を怒りの衝動に任せて見開き、野獣の咆哮にも似た轟音で、アッケンブリード国王に詰め寄った。
「茶番だ――――!!」
尋常では無い程に震え、怒るローウェンに対し、アッケンブリード国王は怯えながらもローウェンを汚いものでも見るかと言ったような態度で見上げた。
その表情が、更にローウェンの怒りを加速させる。
「許さんぞ、アッケンブリード三世!! こんな、こんなふざけた茶番など……!!」
「私は証拠を提出した。貴様にあるのか、ローウェン・クライン」
「なっ……!!」
「私には、貴様が我が国に不法に侵入し、奴隷を持ち帰ったという動かぬ証拠がある。貴様に弁解の術があるのか、ローウェン?」
ローウェンは拳を固め、今にもアッケンブリードに殴り掛かりそうな勢いだった――――だが、殴る訳にはいかない。この場でローウェンが殴れば、ティシュティヤ国王まで被害が及び兼ねない。
そして、ローウェンに『濡れ衣を覆すための証拠』は、持ち合わせていなかった。
「なっ……何より、この者達は『宝石族』ではないか!! アッケンブリードに『宝石族』が奴隷として使われるなど、聞いた事がないぞ!!」
「あァ。この二人は『宝石族』ではないんだ。勘違いしたかな?」
「そんな世迷い言が通じるとでも――……」
「何として、『宝石族』だと言うのか。その件について、証拠はあるのか? よもや、瞳の色が珍しいからという理由ではないだろうな」
刻まれた刻印が跡付けだという証拠も、傷付いた兵士がローウェンの手によるものではないという証拠も、ここにはない。
そうなってしまえば、先に喚いたものの勝ちだ。最も、国同士のモラルを大切にしている筈のティシュティヤ周辺で、それを捨て去る国があればだが――……
「まあ、『瞳の色が違う事など、よくあること』だろう。ティシュティヤはたまたま同じかもしれないが――なあ、ローウェン?」
最悪なことに、ローウェンの他にティナとフィリシアを助けに行った者は居ない。つまり、ローウェンがその場で何をしていたのか、誰も説明ができないのだ。
戯言にも似た発言を覆せない事に、ローウェンは打ち震えた。
「もういい。無様な肌を見せ付けるな、奴隷」
吐き捨てるように、アッケンブリード国王はティナに言った。ティナはすぐに、ローウェンの背後に隠れる。
「さて、ティシュティヤ国王。本来ならば、何も言わず『戦神メビウスの理』を無視した貴国を放置する訳にはいかないが――私も、ティシュティヤの事は嫌いではない。正当な戦争のもと、我が国の一部としたいのだ――ここは、互いの理に適った方法で裁きを行い、事無きを得ようではないか」
ティシュティヤ国王は、ぴくりと眉を動かした。
「理に適った方法、だと……?」
「そうだ。このローウェン・クラインは、ティシュティヤの意志に背き、我々に手を出した。――ならば、罪もこの男、ローウェン・クライン一人が被るべきである。ということで、ローウェン・クライン一人をアッケンブリードの法で裁かせて頂こう。今回の件は、それで帳消しにする事を約束しよう」
ティシュティヤ国王は、ローウェンを見る。
なんという提案だろうか。アッケンブリード国王は今、国の優秀な騎士一人と、国全体を天秤に掛けろと言っているのだ。どちらも選ばないという選択はなく、放っておけばティシュティヤはその近隣の国とやらから、一斉に目を付けられる事になるのだろう。
ローウェンの目が泳いでいる。ティシュティヤ国王の選択は明らかだ――でも、もしかしたら。国全体で、一人の騎士を庇うか。
「決戦前だからな。神聖な戦いを前にして、くだらん不正で爪弾きになどしたくないのだよ。ティシュティヤ」
――――これは、罠だ。
どちらに転んでも、どうしようもなく、ティシュティヤは破滅に追い込まれる。
きっと、その事はローウェンにも分かっていたのだろう。
ローウェンは怒りに震えていたが――――だが、気付いた。
「…………なさいっ……」
ティナがローウェンの後ろで震えていた。
ついうっかり聞き逃してしまうような、本当に小さな声が、ローウェンの背中から聞こえた。
「ローウェン、ごめんなさいっ……!!」
その言葉が、ローウェンの心の中の何かを――意志のようなものを、変えたのかもしれない。
ローウェンの全身から満ち溢れていた、殺意が消えた。