つ『真紅の薔薇は束縛する』 後編
ティシュティヤまで帰って来たローウェンは、憤りを感じている様子だった。ティナとフィリシアにローブを着せ、フードを被せて顔が見えないようにしてから王宮へと導く。王宮に入って行く一同を俺達は後ろから眺めながら、渋い顔をしていた。
……やはり、もうあの木造の家に住まわせる訳にはいかない。急だろうが何だろうが、一度ティシュティヤで匿う――少なくとも、ティシュティヤとアッケンブリードの戦争が終わるまでは。そう、判断したということだろう。
王座へと向かっているのだろう、ローウェンの足取りは重く、そして気迫を伴う。境界線を見に行った筈が、随分遅れて二人の人間を連れて来たローウェンを、近くに立っていた使用人が稀有な事だと言わんばかりの眼差しで見詰めた。
明らかに二人は、ローブ越しに怯えている。ローウェンは二人の顔を見ることもなく、ただ前を見据えたまま、言った。
「気負うな。大丈夫だ」
その表情には、笑顔もない。言いながら、ローウェンからも緊張が伝わってきた。
俺は背中に背負っていた杏月を下ろした。同時に、頭の上に乗っていたケーキがひらひらと羽根を動かして飛び始める。
赤い絨毯を歩き、階段を上がり、ローウェンは普段向かうことのない場所へと歩いて行く。ローウェンとリオルの生活している部屋の、更にその上――広い階段を上がると、ティシュティヤの街並みが一望できるほどの広いベランダとでも称せばいいのか、そのようなものが見える。そのベランダと赤い絨毯とを別ける円柱には、これまた綺麗な装飾が施されていた。
そして、その広い空間の中心にある、絨毯と同じ色の真っ赤な椅子。ローウェンはその椅子に座っている人物に向かい、膝をついて頭を下げた。
「ご苦労であった、ローウェン・クライン」
前にも見た、体格の良い男が微笑みを浮かべる。後ろにいる二人の事など、気にも留めていない様子だ。
ローウェンは頭を下げた態勢のまま、その理知的な瞳を閉じたままで、口を開いた。
「報告があります」
ローウェンが言うと、ティシュティヤ国王は頷いた。
「申してみよ」
「タンド・ウォルクス様という、ここより離れた境界線の近くに位置する隠れた家に、二人の『宝石族』を発見しました。彼女等はタンド・ウォルクスの慈愛を受け、その場所で生活していたようなのですが、この度、境界線を越えて来たアッケンブリードの軍に連行される途中でした」
「……ふむ。タンドの」
ティシュティヤ国王はローブにすっぽりと隠れた二人を見て、顎鬚を撫でながら頷いた。
「両手を縛られ、明らかに客人とは扱っていないその様子に、タンド・ウォルクス様の友人と聞き、一度ティシュティヤで保護する必要があると考え、ここへ連れて参りました」
「先の戦争で、『宝石族』は皆殺しにされたと聞いたが――生き残りが居たということで、間違いはないか?」
「左様でございます」
ローウェンは頷いた。ティシュティヤ国王はじっと、何かを考えている様子だった。ローウェンの話の真偽を正そうとしているのか、それとも――……
ティシュティヤ国王は椅子から立ち上がり、円柱の間を通り過ぎ、ベランダへと向かった。その向こう側で、一体何を考えているのだろうか。俺はティシュティヤ国王に近付き、様子を伺った。彼が見ているのは――あれは、例の木造の家があった辺りじゃないか?
「……タンドは君達に、なんと言っただろうか?」
問い掛けられたのはローウェンではなく、後ろのティナとフィリシアにだった。ローウェンは振り返って、二人のフードを外した。ティナのルビーの瞳、フィリシアのエメラルドの瞳が見えると、国王は少しだけ表情を緩めた。
「せ、戦神メビウスの理は、かって国王同士が互いの立場を守るために築いた、とても重要なものだと。それは、私にとってもティシュティヤにとっても、例外ではないはずだ、と」
「そうか」
それだけでは信じて貰えないと思ったのだろうか、フィリシアが口を開いた。
「彼は、私達を『仔羊に限りなく近い野兎』と呼び、親しまれました」
「ふはは。言葉遊びが好きな、タンドが考えそうな事だな」
ティシュティヤ国王は頷いて、腕を組んだ。だが、その表情には先程までのような、迷いの色は感じられない。
「あのタンドが言うのだから、私が拒む訳にはいかないな。――歓迎しよう。君達の行き先が決まるまで、この国で暮らすといい」
――すげえな。許可、出るんだ。ティシュティヤの端っこに住んでいたタンド・ウォルクスという人物は、この国王にとっては他に替えの効かない友人だったのかもしれない。
怯えていたティナとフィリシアの表情が、驚きに染まった。
「一つだけ、教えて欲しい。タンドは重病を背負っていた。伝染する病気ではなかったが、人気の多い所で死にたくはないと言っていた。彼は今、どうしているか……」
そうか。人付き合いを好まないのではなく、病気だったのか。もしかしたら、タンド・ウォルクスが生きていた時も、二人は食料を確保しにティシュティヤまで来ていたのかもしれないな。
「春の訪れと同時期ほどに、召されました。最期は、笑って」
「そうか」
たった一言、ティシュティヤ国王はそのように頷いて、
「それは、良かった」
そう、呟くように言った。
さて、こうして兎にも角にも、ティナとフィリシアはティシュティヤ国王から正式に、客人として迎えられた格好になった。
リオルが使おうとしていたローウェンの部屋の隣の空き部屋にティナとフィリシアは一時的に移動する事になり、次なる拠点が決まるまでは、この場所で暮らすという約束となった。
元より食料に困っていたティナとフィリシアにとっては願ってもない話だ。俺達にとっても、監視する対象が一つで良くなった事は、ちょっとだけ収穫である。
だが、アッケンブリード国王の不敵な笑みが妙に引っ掛かり、俺は手放しで喜べない状況となっていた。
ティシュティヤ国王とローウェンとの話が終わり、ローウェンが自分の部屋に戻る頃には、ティナとフィリシアも空き部屋へと、生活に必要なものを運び終えた頃だった。
「まあ、入ってくれ」
ローウェンはそう言って、自分の部屋にティナとフィリシアを招き入れた。部屋の中にはローウェン、ティナ、フィリシア、そして初めから部屋に居たリオル。
リオルがローウェンの部屋に居たことで、ローウェンはふと驚いて、リオルを見た。
「リオル?」
リオルはどことなく、不機嫌そうだ。……その怒りはローウェンに対して向けられているようだった。……何だ?
「……お兄様は、無茶をしすぎですっ!! いくらお二人がティシュティヤの領土に住んでいて窮地に陥っていたからといって、単独で乗り込むなどどうかしています!!」
そうか。リオルもローウェンの身を案じてくれていたのか。……しかしこの美濃部立花は、現代の美濃部立花に比べると随分素直だな。
立花ならきっと、ここで「べっ、べっ、別に、純がどこで何をしていようと私には関係無いけど!」なんて言いそうだ。
ローウェンは微笑を浮かべ、リオルの頭を撫でた。
「帰って来た。問題も出ていない。……私は大丈夫だ」
「……次からは、私にも相談してください」
「ああ、そうするよ。……早速で何だが、こちら、ティナ・ピリカとフィリシア・ピリカ。瞳の色も髪の色も違うが、姉妹らしい。こちらはリオル・クライン、私の妹だ。仲良くしてやってくれ」
ティナとフィリシアは、順番にリオルに頭を下げた。リオルもぎこちない挙動で、二人に頭を下げる。
「改めて、リオル・クラインと申します。ティシュティヤに来たからには、ゆっくりしていってくださいね」
リオルは柔和な笑みを浮かべて、二人を受け入れる姿勢を見せた。ティナとフィリシアはリオルの寛大な態度が嬉しかったのか、表情を綻ばせた。
朝から出ていたとはいえ、随分と長いこと奮闘していた。そのためか、辺りは既にすっかり暗い。リオルはふと窓の外を眺めると、山の向こう側を見詰めていた。
「リオル? どうした」
ローウェンが気になったのか、リオルに声を掛けた。リオルは首を振って、ローウェンの質問に微笑で答えた。
……何を考えているんだろう。方角的には、アッケンブリードがある方だけど。或いは、言葉にもできない不審感のようなものだったのだろうか。
「お食事の用意が出来ています。私達も参りましょう」
◆
結局、その日はそれ以上、何が起きる事も無かった。ティナとフィリシアが入った事で空き部屋を追われた俺達は、広いローウェンの部屋でソファーに転がり、眠る事に決めた。
……いや、ソファーで眠るのは杏月だけで、俺は絨毯に直に毛布を敷いて眠るのだが。
「そんなに不満そうな顔しなくても、一緒に寝ても良いのよ?」
「せまいだろーが」
二人で並んで寝られるようなスペースはない。硬い絨毯の上で眠るのは厳しいかと思われたが、寝転がるとすぐに眠気は襲ってきた。……まあ、今日はあれだけ走り回ったからな。山を一つ以上も越えたし、そりゃあ眠くもなるといった所だろう。
ローウェンは天蓋ベッドに横になっていた。まだ眠っていないのか、寝息が聞こえてくる事はない――……しかし、大概タフな人だな、この人も。剣を振るったり、相当動き回っている筈なのだが。
ふと、ノックの音がした。
「誰だ?」
ローウェンは振り返りもせず、そう問い掛ける。……だが、暫く待っても外から返答はなかった。不思議に思ったローウェンは起き上がり、扉へと向かう。
杏月がすごい勢いで起き上がると、ソファーの背凭れから顔だけを出して、目を輝かせていた。
なんだ? この反応……
ローウェンは扉を開いた――……
「――――ティナ?」
うおお!?
ローウェンと同じように、ティナも今日はティシュティヤの寝具と思わしきものを着ている。ワンピースタイプと言えば良いのか、それでもゆったりとして隙の多い服であり――言うなれば、ティナというか姉さんのプロポーションの良さが相まって、なんとも表現し難い艶やかさを醸し出していた。
ティナは頬を真っ赤に染めて、部屋の中を指差した。
「……は、入っても?」
ローウェンも流石に、動揺を隠せないらしい。
「い、良いが……どうした?」
すかさず携帯電話を取り出して、カメラを構える杏月――俺は杏月を殴った。
「痛い!! 何すんのよ!!」
「どうしてお前はそういうことを――」
ティナが部屋の中に入る。ローウェンは扉を閉めた――――
「本日は、本当にどうも、ありがとうございました」
俺達は動きを止め、二人に見入った。
「いや、良いよ。しかし、申し訳なかった。まさかアッケンブリードの連中があの場所に現れるとも思わず……」
「それはローウェン様のせいではないですし、私は気にしていませんから」
ティナは窓際に向かい、歩いた。窓から漏れる月明かりは部屋の中を淡く照らし、ティナの背後に影を作っている。ティナは窓の外に広がる星空を見詰めた。
そういえばあまり気にしていなかったけれど、現代日本で見られるような星座はどこにもないんだよな。北斗七星とか、カシオペアとか。
不思議なものだ。
「――私は、助けて下さったタンド様――そしてローウェン様のことを、本当に感謝しています」
ティナは右腕を掴み、握り締めるようにして言った。少しだけ悲痛な表情――感情が、溢れ出てきている事が分かった。
すうと、ローウェンの目元が細くなった。
「話してくれないか、戦争のこと。話せる範囲で、良いから」
ティナは頷きもせず、また首を振る事もなく――ただ時間に流されていくように、徐ろに口を開いた。
「紋章もない、見たこともない服装の人達が、ある時押し寄せて来たのです。連中は弓を使い、私達の国に矢の嵐を浴びせました。見えもしない所からやられていった私達は、知らず狙撃された国王を始めとし、一網打尽に……。私達二人は命からがら逃げ、今では他の仲間がどうなったのかも分かりません」
ローウェンはティナに近付き、その肩に手を添えた。ティナは肩に置かれたローウェンの手に触れ、安らぎを覚えたかのような表情になった。
「それから私は、アッケンブリードの人達に一度、捕らえられました。暫く、奴隷としてそのまま……。これを、見てください」
ティナはそう言って、服を脱いだ。うおお、という杏月の言葉はとりあえず無視しておく。
悩ましい肢体の右腕に、痛々しい火傷の痕があった。赤黒く焦げたその火傷は、アッケンブリードの紋章の形をしていた。
その様子に、ローウェンの瞳が見開かれた。
「ティナ、これは――――」
「朝方、アッケンブリードの者に捕らえられた時に、焼き付けられたものです。二度と逃げ出さぬよう、嘲笑の意味を込めて――本来、私達に逃げ場はなかった」
「アッケンブリード国王、何かあるとは思っていたが……。奴隷など、吐き気がする……!!」
ティナの美しい肌に押し付けられた刻印に、ローウェンは怒りに打ち震えた。ティナは潤んだ瞳でローウェンを見詰め、月明かりを背後にローウェンと目を合わせた。
ローウェンが、その美しい裸体に息を呑んだ。
「願わくば、私達をローウェン様の下で、使っては頂けませんか――何でも、します。私達には、行き場などない。助けて下さった恩人に恩を返す事が、私達の使命ではないかと思うのです」
ティナは、ローウェンの胸に身体を預けた。
その時、ローウェンがどのような事を考えていたのか。それは、俺達には分からない。だが、先程まで冗談を交えて一喜一憂していた杏月が急に黙り込んだということは、そのやり取りには重要な意味があったのではないかと、そのように思えた。
ローウェンはそっと、ティナの肩に触れる。柔らかく、美しい肌に。
そうして、身を離した。
「下で使うなどと、やめてくれ、ティナ」
「ローウェン様。しかし……」
「『様』もいらない。貴女達は客人だ。そして、これからは家族のようなもの。私達は出会う運命にあった――初めて貴女を見た時、葛藤したんだ。こんなにも美しい女性に、何故私は剣を向けなければならないのかと。普段ならばそんな事を考えたりしない、それは貴女だったからだ」
ローウェンの凛々しい瞳が、ティナの慈愛に満ちた瞳に近付く。
それは抱き締められる程に近く、淡い。よく熟れた果実を採集する瞬間のように情熱的で、だが瑠璃色に透き通る湖のように冷静だった。
「ずっと、貴女を探していた。ティナ、貴女でなければ駄目なんだ」
そのやり取りにただ、見入っていた。
「理屈も裏打ちも、歴史もいらない。初めて見た瞬間から、貴女に惹かれていた。貴女と私の距離が、どれだけ絶望的に離れていても構わない」
「ローウェン……」
「何度同じ状況に立たされても、私は貴女を探し、そして選ぶだろう」
吸い込まれるように、それは。
「ティナ。私は貴女に、恋をしている」
長い間、俺が姉さんに対して考えていた事に、ある一つの『確かな解答』のようなものを与えられた気がして。
ローウェンとティナはその日、接吻を交わした。
その時俺が何故か嫉妬を感じていた事もまた、確かな事実の一つだったのだろう。