つ『真紅の薔薇は束縛する』 前編
ただ、ローウェンは走っていた。
俺は再び杏月を背負い、ケーキを頭の上に乗せて山道を走る。朝方の山道はまだ冷えていて、走るごとに冷たい空気が顔を刺激する。
ローウェンは一体どうしてしまったのか、ただ何かに突き動かされるように走り続けていた。道中たったの一言も言葉を発さず、誰の静止を受ける間もなく――……。一直線に走っているその道筋から、当然のようにティナとフィリシアのいる、山の間にある家へと向かっている事が分かる。
当たり前だ。他にどこに向かう必要があるというのか。
ローウェンは間違いなく、ティナとフィリシアの身を案じて動いていた。
「純、大丈夫? ずっと背負ってばかりじゃ、辛くない? 私、降りて走っても――……」
背中で杏月が、そのように言う。俺は苦笑して、首を振った。
「あのスピードに付いて行くのは、かなり厳しいと思うぞ」
何しろローウェンは彼の愛馬、ヴェルニカに乗っているのだ。常人が追い付ける道理はなく、俺も半ば本気で走っている。……しかし、山道を走り慣れた馬というものは怖いな。あんまり見たこともない。
ヴェルニカの後ろを飛び跳ねるようにして走る俺は、見える人がもしも居ればかなり異様な状態だったのだろうけど。
「……そうね」
だが、背負って走るのはかなり体力を消耗する。
杏月が降りて走る場合はティナとフィリシアの家までは見失っても構わないという方向だろうが……もしもティナとフィリシアが家に居なかった場合を考えると、ローウェンがいつまでその家に居るか、ティシュティヤに戻るかどうかも分からない。
……甘えるのはやめよう。ここは俺が走る。
ローウェンは走り、一気に山の麓まで駆け下りる。その様子を後ろから追い掛け、ローウェンは山々の間を走り始めた。山を越えた事で既に辺り一面は山に囲まれており、ティシュティヤの姿を確認することはできない。
ここまで来れば、もう――見えてきた。木造の古びた家、ティナとフィリシアの住処だ。ローウェンはその家の近くまで、ヴェルニカを走らせる。
そうして――……ヴェルニカから降りた。
「ありがとう、ヴェルニカ」
ヴェルニカは主人の言葉に嬉しそうに鼻を鳴らして、その場に立ち止まった。俺もローウェンに追い付く……
さ、流石に限界だ……。重ねて言うが、山道だぞ。どんだけ速いんだよ、この馬……
ローウェンはヴェルニカから離れ、その家をノックした。
「……ローウェン・クラインだ。昨夜の事で、少し相談がある。扉を開けて欲しい」
ローウェンはそう伝えるが、中から人が出て来る様子はない。……もしかして、アッケンブリードの連中に捕らえられたか……? その後のティナとフィリシアの話を聞く限りでは、大いに有り得る話だ。
何と言っても、二人はアッケンブリードで奴隷をしていたのだからな。
ローウェンはごくりと唾を飲んで、ドアノブに手を掛けた。
ギイ、と静かに音がして、扉が――開いた。
ローウェンの瞳が見開かれる。
「ティナ!!」
大きな音を立てて、勢い良く扉を開くローウェン。だが家の中は暗闇に包まれていて、明かりも灯っていない。小さな家の中に、人が隠れられる場所などそうはない。ローウェンは右を確認し、左を確認し……
「フィリシア!!」
叫ぶが、この場所に人が居ない事は明白だ。同時に、彼女らが蓄えていた筈の食料もまた――どこかに、消えて無くなっていた。
「もう、出て行ったのか? それとも――」
ローウェンは慎重に、辺りの様子を探る。特に部屋に目立つものは見当たらないが……俺と杏月も家に入り、家の状態を確認した。
不意に、ローウェンが何かに気付いた様子で動きを止めた。まるで生きている鼠を捕らえるかのような動きで、慎重にゆっくりと、その対象物に近付いた。
……木造の床に、何か光を反射するものが転がっている。何だ……? ローウェンの近くに寄って、俺はそれを確認した。
ボタン……? でも、これはティナのものではないぞ。金色に輝くボタンなど、目立つ事が嫌いなティナやフィリシアは付けていなかった。
そのボタンには、中央によく分からない紋章が刻まれている。見難いが、薔薇……か?
「――アッケンブリード」
ローウェンは再び、大きく目を見開いた。
そうか。その紋章のようなものは、アッケンブリードの物だったのか。……ということは、少なくともアッケンブリードの連中はここまで辿り着いていた、ということだ。ローウェンの顔色が見る見るうちに悪くなった。
ボタンは、部屋の中で見付かった。ということは連中はもう、ティナとフィリシアに手を掛けているかもしれない――……
ローウェンは振り返り、ヴェルニカの下へと走った。
「ヴェルニカ!!」
ヒヒン、とヴェルニカが応答した。ローウェンは素早くヴェルニカの背中に跨がり、ヴェルニカの美しい毛を撫でた。
「――すまない、もう少しだけ走って貰えるか」
ローウェンは固く剣を握り締め、そして――走り出した。ティシュティヤとは違う、更なる山の向こうへ。
きっとあの方向は、アッケンブリードの拠点がある方角なのだろう。
「ねえ、純! これ!!」
杏月が何か見付けて来たようだ。俺は杏月の手に持っている、それを確認した――……
ローウェンの、マントだ。破けて、ボロボロになっている。
――なんてことだ。一体この場所で何があったのか、手に取るように分かるじゃないか。
俺は杏月に手招きをした。
なんとかバテないように、気力で踏ん張るしかないが――
「――ローウェンの後を追おう!!」
◆
山道はやがてその傾斜を少しずつ緩めていき、森を抜けると、急に見晴らしの良い場所に辿り着いた。
山の中にあったティシュティヤとは違い、開けた場所に広がる街並み。中央に構える、金色のど派手とも言うべき巨大な城は、ティシュティヤのものと比べるととても品が悪く感じられる。
ローウェンの後ろで杏月を背負い、草原を駆け抜ける。その様子を確認して、俺は――……
「――――居た」
手前を同じようにアッケンブリードに向かい走る集団に、ローウェンの眼光が鋭くなった。馬車を引く二頭の馬。それらを操作する馬と同じ数の人間は銀色の兜を被り、城と同じようによく光る鎧に身を固めている。
ローウェンは剣を握り、ヴェルニカと共に速度を上げた。……まだ上がるのかよ。こんなに思い通りに操作出来るんだったら、車も要らないかもしれないよな。
まあ、どうでもいいことだが――……
馬車の中に居る人物を、ローウェンは確認したようだった。随分と眼が良いんだな。俺にはさっぱり分からないが……この確信を持った行動。あの中には、ティナとフィリシアが居るのだろう。
「奇襲を掛けられた、風前の灯である種族を捕らえようなどと――愚か者め!!」
ついに、馬車を操作している二人がローウェンの姿を確認した。どうにかして、アッケンブリードまで逃げたい所だろう。だが――ローウェンの方が、速い。
ぐんぐんとヴェルニカは馬車と距離を縮め、ついにその綱に向かって剣を振るった。豪快な一振りは誰も傷付ける事なく、馬と車両を二つに別つ。そのまま車両は減速し、二頭の馬とその上に跨る兵士は立ち止まり、ローウェンと対峙した。
「我が名、ローウェン・クラインと申す!! 戦神メビウスの理に背きしあの事件を前にして、残る子羊を手に掛けようとは何たる冒涜!! 貴様等それでも騎士か!!」
雷のように、ローウェンが猛る。名前が有名なのか、二人の兵士はローウェンの言葉に怖気付いたようだった。ローウェンは二人が襲い掛かってくる事を警戒しながら、背中に車両が隠れるよう、ヴェルニカを動かした。
中から顔を出したのは――本当に、ティナとフィリシアだ!! すごいな、ローウェン……
「と、とても前世の純とは思えない……」
余計なお世話だ。
「ローウェン様!!」
ティナが叫ぶ。ローウェンはティナを一瞥すると、前方を警戒しながら二人に背中を示した。……乗れってことか、ヴェルニカに。
二人の兵士は小声で何やら話をしている。……ここでローウェンと戦うか、という相談だろうか。先程の動きを見ていて、この二人がローウェンに敵うとは正直、思えないが……
ティナもフィリシアも、両手を縛られている。その様子にローウェンは舌打ちをして、寄ってきた二人の縄を剣で斬り解いた。
ヴェルニカに跨ったティナが、ローウェンに小声で耳打ちした。
「ローウェン様、どうして……」
「今は何も言わなくていい。とにかく、ここから逃げよう」
遅れて、フィリシアもティナの更に後ろへ跨る。それを確認して、ローウェンは二人から後退した。
逃げるタイミングを伺っているのか。アッケンブリード内部から、人が現れる様子はない――いや、待て。誰か近付いて来る。馬にも乗っていない、戦う意思はないのか――……
「ローウェン・クライン」
中年男性だ。既に白髪の混じった銀色の髪を左右に分けて、その髪も顎鬚も、丁寧に整えられている。鼠色のジャケットに赤いネクタイ、緑色のズボン。胸には黄金色の……あれ、ティナとフィリシアの山小屋で見つけた紋章じゃないか。
その姿を確認して、ローウェンが驚きに目を見開いた。
「アッケンブリード国王……」
えっ!? こいつが国王!?
「一体どういうつもりかな? ティシュティヤの騎士よ。そこの二人をどうするつもりだ? ……ああ、失礼。どうするなどと、聞くまでも無かったな」
ローウェンが斬り掛かって来ない事を知っているからか、随分と余裕だが……それにしても、目付きが悪いな。話し方もなんか苛々する。
腰に携えた剣を握ったまま、ローウェンはアッケンブリード国王と向き合った。
「アッケンブリードも堕ちたものだな。戦神メビウスの理は、古くからこの一帯に伝わる教え。その教えに背き、不平等な戦の下、居場所を失ったのが彼女等『宝石族』。我々は行き場の無い彼女等を保護する立場ではないのか」
「んー? ……ああ、保護するつもりだったのだよ。それを君が横から出しゃばったのではないか?」
「ほう。ティシュティヤの領土に無断で侵入した挙句、両手を縛り連行した――アッケンブリードではこれを、『保護』と申すか」
ローウェンの言葉に、アッケンブリード国王は大声で笑った。……何だろうか、このローウェンを舐め切った態度。まるでローウェンがここに現れる事を知っていたかのようで、気味が悪いな。
「領土線の確認をしようとしていたところ、うっかり侵入してしまったんだ。決戦前にすまない、ティシュティヤの祈りに掛けてまあ、許してくれ」
明らかな、挑発の態度。ローウェンは憤慨極まる表情でアッケンブリード国王を見下ろし、目を見開いた。
「――気安くティシュティヤの祈りを口にするな」
うおお、すごい気迫だ。アッケンブリード国王の近くにいた二人の兵士が怯えて後退する程度には――……だが、アッケンブリード国王は両手を上げて降参のポーズを取り、嘲笑しただけだった。肝が座ってるな。おおよそ武器と思われるものは持っていないが……
「分かった、分かった。その二人は君に任せるとしよう。どこか人気の無い場所にでも連れて行ってやってくれ」
「まるで、誠実の意が感じられないな。貴様の父は国王として有能だったが、子育てには疎かったらしい――なあ、三世」
この男、初代ではないのか。……まあ、明らかに参謀っぽいしな……ローウェンも頭に血が上っているのか、かなり厳しい言葉を口にしている。だが、依然としてアッケンブリード国王は薄笑いを浮かべたままだ。
ローウェンは溜め息を付いて、アッケンブリード国王に背中を向けた。その上で、吐き捨てるように言う。
「……まあいい。戦神メビウスの理に従い、貴様の軍を叩き潰すとしよう――貴様が挑んだ戦だ。悪く思うな」
「ま、精々愉しませてくれ」
……本当に、挑発の上手い奴だな。ローウェンは舌打ちをして、しかしこれ以上の会話は無駄だと悟ったのか、走り去った。
うーん、どうにもこのアッケンブリード国王……の三世とかいう立場の男、一筋縄ではいかないようだぞ。脇に居た二人の兵士が国王に近付き、小声で言った。
「良いんですか、国王。ティシュティヤの祈りを安易に口に出す事だけは、避けた方が……」
「気負うな、カス共。全てはこのカイン・アッケンブリード三世の思うとおりに進んでおる。お前達は黙って私の言う通りにしていればよい」
「はあ……」
「――思わぬ収穫だった。まさか、ローウェン・クラインが引っ掛かるとはな」
ふと、俺の服の袖が強く握り締められた。見ると、杏月が親の仇でも見付けたかといったような顔で、アッケンブリード国王を見ていた。
アッケンブリード国王は兵士に背を向けて――城に戻るのかな。去り際にちらりと兵士を一瞥すると、言った。
「しかも、どうやらあの様子、娘のどちらかに恋をしているとみた――おい、予定通りに焼いただろうな」
「は、はいっ!! 二人のどちらにも、手は打ってあります!!」
「ご苦労」
焼いた? ……って、何の事だ……?
しかし、仲間にもこんな態度なのかよ。何だか、随分とティシュティヤとは雰囲気が違うな。殺伐としているというか。
「……やっぱ俺、先代の国王の方が良かったわ」
「あ、俺も」
ほら、こんなこと言われてるし。
何にしても、ティナとフィリシアは無事助けられたみたいだな。俺達もティシュティヤに戻るとするか。また杏月を背負ってあの山道はくたびれるが、まあ仕方ない。俺は杏月に声を掛けようと、振り返って……
……あれ? いねえ……
「と――う!!」
えっ!?
俺は振り返った。
「ぎょえ――!!」
……ぎょえー、って。
どうやら、アッケンブリード国王が盛大に前に吹っ飛んだらしい。受け身も取れずに突っ伏し、そして額に青筋を浮かべて起き上がった。アッケンブリード三世が見ている先には、片足を宙に浮かせた体勢のまま、したり顔の杏月が……
って何してんだ――!? 背中を蹴ったのか!?
「おい!! 何をしたクズ共が!!」
「えっ……何もしてませんよ」
「この位置からじゃ何も出来ませんって……」
二人の兵士も困っている。アッケンブリード国王は顔を真っ赤にして、服を払った。……ずっこけたと思ってるんだろうし、兵士達にも思われている事だろうが……
あ、兵士が国王から見えない位置で笑ってる。
「気をつけろ!!」
なんだか良く分からない怒りを発して、国王が戻って行く。って、本当に何してるんだよ!! ケーキは……ああ、なんか絶句して固まってる。
俺は杏月に駆け寄った。
「おい、杏月……」
杏月は腕を組んで、アッケンブリード国王を指差した。
「顔が気に入らない!!」
いや、気持ちはまあ分からなくも無いけどさ。今のハプニング程度じゃ、歴史も変わらないだろうけど……それにしたって。まあ、なんというか、
……良くやった。
何故か心の中で、杏月を褒めてしまう俺だった。