つ『異国。脱走者。ルビーの瞳』 前編
――――姉さん。
俺は息を呑んで、その美しい光景に魅入っていた。湖に腰まで浸かり、水浴びをしている前世の姉さんの姿は美しく、まるで月の女神がこの世に降臨したのではないかと思える程の美貌だった。
ローウェンも僅かに目を見開き、その美しさに見惚れる――……
くそが。俺の姉さんだぞ。……と思ったが、相手は俺なので何も言えなかった。
「――お姉さん」
その姿には、ケーキが最も衝撃を受けているようだったが。そう、まるで背中に翼でも生えているかのような――……不思議な感覚だ。そこにいるのは正真正銘、ただの人間なのに。不思議と人間ではないような気がしてくる。
ローウェンはじっとその様子を見詰めていた――……
「って、見詰めるなよ!! 水浴び中だろーが!!」
俺はローウェンに抵抗し、杏月を地面に降ろすと、ローウェンの目の前で手を振る……何で一人芝居してんだ、俺。
杏月が冷めたような瞳で、俺の事を見ていた。
「……純、気持ち悪い」
だって、こいつが姉さんの裸をじっと見てるから!
こいつって、まあ。俺なんだけどさ。
……死にたい。
ローウェンはごくりと生唾を飲み込んで、そして――剣の柄に手を掛けた。……何だ? 全然裸に興味を示さない、いや別に裸に興味を示して欲しい訳じゃないけど……何で俺、一人でこんな恥ずかしい事考えてるんだよ。
どちらかと言えば、殺気を放っているような――……
ローウェンは足音を立てずに裏に回り、そして――
「ちょっ!!」
「駄目、純!!」
湖に飛び込んで姉さんを庇おうとした俺を、杏月が差し押さえる。
――いけない、反射的に手が出そうになってしまった。こんな所で姉さんがローウェンに殺されるなら、恋愛になんか発展しないじゃないか、という突っ込みは後で頭の中に浮かんでくる事となった。
ローウェンは武装したまま湖に入り、後ろから姉さんに向かって、巨大な剣の切っ先を向けた。
「――――動くな。殺す」
それまで動いていた姉さんが、ぴくりと震えて表情を真っ青に染める。
……おいおい、何だよこの出会いは。俺、何を考えているんだ。別に姉さんは悪くない、あの木造の家で暮らしているだけの人間で……
……それ以上のことを俺はまだ知らないので、本当に姉さんが安全な存在なのか、分からないんだけど。
姉さんとフィリシアはタンドさんという人の家に住んでいるんだ。なのに、タンドさんは家に居る様子はなかった。中に入って確認したのだから間違いない。
ということは、姉さんとフィリシアはティシュティヤという名前のこの国にとって、有害な存在とも考えられる訳だ。
――――でも。
「ローウェン・クライン。ティシュティヤの騎士だ。――どうにもおかしいと思っていたが、貴様は異国の人間だな。……名を名乗れ」
「……手荒なことはいたしません。どうか、その剣をお下ろしください」
姉さんの答えは、答えになっていない。ローウェンはぎろりと姉さんを後ろから睨み付け、地獄の底から這い寄るような声音で言った。
「聞こえなかったのか。名を名乗れ……!!」
姉さんはただ、震えるばかりだ。
「……っご、ご覧の通り、私は奇術もなければ体術もない、丸腰の女にございます。どうか、どうか、その剣をお下ろしください」
湖に浸かった状態のまま静かに泣く姉さんに、ローウェンの剣の切っ先が揺らいだ。
「ティシュティヤに、祈りを……」
その言葉が、どうやらローウェンの心を動かしたようだった。
ローウェンはじっと、辺りを確認しているようだった。……姉さんの味方が近くに居るんじゃないかと、伺っているのか。そんな事をしなくても、今姉さんの味方として側にいるのはフィリシア一人だというのに。そのフィリシアだって、今ここに居るのかどうか。
溜め息を付いて、ローウェンはそっと、その剣の切っ先を姉さんから離していく。
「――本来は、ティシュティヤの剣は女を斬るために在る訳ではない。救われたな、娘」
がたがたと震えて、姉さんはローウェンを見る。
……あんまり、奇襲みたいな事はしない文化なのかな。この辺り全体が――そうでなければ、ここでローウェンが剣を下ろす事なんて考えられない。ただの一般兵なら兎も角、こいつは恐らく王下の中でもかなり腕の立つ騎士だ。
まあ、ある意味ではフェアとも取れるのかもしれないが。
……何でだろう。でも、この甘さ。どこか俺に似ている。
そういうものか。
「あ、ありがとう、ございます……」
「陸に上がるぞ。服を着ろ。……話はそれからだ」
ついに、ローウェンは剣を鞘に納めた。背後を警戒しながら、姉さんに背を向ける。
姉さんは震えながら頷いて、ローウェンの後に続いた。
湖から出るまでに、ローウェンには一瞬の隙もない。何かあれば剣を振るうことの出来るように辺りを警戒し、当然姉さんのことも――警戒しているようだった。
だが、振り返り際に初めて、姉さんの顔を真正面からローウェンが見詰める事になった。その表情が、ふと驚きに染まる。
その双眸は見開かれ、身体は硬直した。
「――待て。貴様――いや、貴女は、まさか」
信じられない、と言ったような声音だった。俺は二人の近くに駆け寄り、その様子を観察した。ローウェンは右手で姉さんの肩を掴み、左手で姉さんの頬に触れる。……何だ? 何を確認しているんだ。
……瞳?
「……あの、あまり、見詰めないで、ください」
姉さんは気まずそうに、顔を背けた。……ローウェンはじっと、瞳を見ている。何だ? 姉さんの赤い瞳がそんなに珍しいのか――そういえば、ティシュティヤの内部では赤い瞳って、見なかったな。
この世界にも、瞳の色によるなんとやらみたいなものがあるのだろうか。
濡れた頬に触れ、目元をなぞるようにローウェンは親指で姉さんの顔を撫でた。
「西の方には、ルビーやサファイアのように透き通った、宝石のような瞳を持つ人間が居るという……我々は、その人間のことを『宝石族』と――」
姉さんは、俯きがちな顔を初めて見上げ、ローウェンと目を合わせた。湖に、艶やかな黒髪から雫が滴り落ちる。静寂に満ちた森の中で、水の流れる音だけが辺りに響いている。
「遠い昔に絶滅したと聞いた。……貴女は、ここより遥か西から、遥々、ここへ?」
姉さんは胡乱な表情で、首を振った。ローウェンは少しだけ落胆したようで、肩を落とした。
「……聞かせて欲しい。貴女は間違いなく、ティシュティヤの人間ではない。ティシュティヤの人間は、皆黄金色の髪に蒼い瞳を持つ。どうして異国の――それも絶滅した筈の種族である貴女が、ティシュティヤの領土に住んでいるのか」
何だ? 随分態度が変わったな。……そうか、絶滅した種族ってことは、ここに遭難してきた可能性もあるからか。実際、まだ姉さんはティシュティヤに何の危害も加えていない訳だし――それがアッケンブリードだったか、敵国の人間でないとするなら。
姉さんはローウェンの顔に殺気が感じられない事を確認したからか、今度は目を合わせて、口を開いた。
「タンド・ウォルクスという、ご老人に目を掛けて頂き……」
「貴女の名前は?」
はっきりと、姉さんはタンドという男の名前を口にした。確か、王国の友人――とあらば、ローウェンも手荒な事をする訳にはいくまい。それどころか、ローウェンは身に着けていたマントを外し、姉さんの身体を包んだ。
姉さんは頼りなく、しかし明瞭な声音で――……
「ティナ・ピリカと、申します」
そう、言った。その言葉は俺の胸の内にすとんと落ちてきて、じわりと浸透するように広がった。
「――ティナ・ピリカ」
ある、仮説を立てた。
姉さんには、名前はなかった。それは単に無かったのではなく、現代から考えると有り得ない、まるで外国人のような名前だったため、公開されなかった、という事なのではないか。
姉さんに、黒い翼が生えた時のことを思い出す。まるで外殻を破るようにして、中から現れた姉さん。もしも姉さんが現代の『人間の身体』を持っていなかったとしたら。それは、現代には存在しなかった人――
――つまり、過去の人。
前世の名前。
「分かった。一度、話を聞こう。貴女の住処まで案内して頂けるか」
ティナは徐ろに頷いて、湖から出た――……。
◆
木造の家までは、そこから幾らもなく到着した。山奥の割にアクセスの良い場所だと、ティナは言っていた。俺達もひっそりと、木造の家にお邪魔した。
辺りは薄暗く、ひっそりとしている。ティナが部屋のランタンに火を点けると、どんよりと暗い室内に僅かな明かりが灯った。
俺は背中の杏月を確認した。……流石に、眠ってしまっている。ここ数日は疲れただろう。俺は杏月をベッドに寝かせると、何かの間違いで彼等が杏月に触れないよう、その近くに座った。
「フィリシア、ごめんなさい。ちょっと起きて貰える?」
「ん……」
同じように、ベッドで眠っていたフィリシアが目を覚ます。ローウェンの姿を確認すると、勢い良く飛び跳ねるようにして起き上がった。
「なっ……!?」
「落ち着いて、フィリシア。話の通じる人よ」
驚いて息を荒げるフィリシアに近付き、ローウェンはフィリシアの顔をじっと見詰めた。緑色のつぶらな瞳が、不安気に頼りなく、左右に揺れる。
「――エメラルドか」
その色合いにもまた、ローウェンは驚いているようだった。ティナは頷いて、食卓として使われているテーブルの椅子に腰掛ける。食卓と言っても、ただの木の台でテーブルクロスも掛かっていない。
ローウェンはそのテーブルの中央に、今まで山道を歩くために使っていたランタンを置いた。ようやく剣を、近くの床に下ろす。
「ローウェン・クラインだ」
「……フィリシア・ピリカです。……あの、貴方は確か」
「そう、ティシュティヤの騎士だ。以前、アッケンブリードに向かう最中にこの場所を発見し、一度扉を叩いた事がある」
ローウェンは部屋の中を見回し、眉をひそめた。
「……タンド・ウォルクスは、居ないようだな」
その名前が出たからか、フィリシアは顔を俯かせた。ローウェンは部屋の様子を確認しながら、ティナの向かい側に腰掛ける。
ティナは無機質な表情のまま、首を振った。
「既に、お亡くなりに。少し前のことです」
「どうにも、人付き合いを好まぬ人間だったようだな。私の所にも話は来ていなかった」
「王様と個人的に関わりがあると、仰っていました」
タンドさんという人は、ティシュティヤの中でもあまり有名ではない人なのか。フィリシアと城下町の人々の間でよく話題になっていたのは、単にフィリシアがタンドさんと関わりが深い人物とだけ話していたから、ということらしいな。
「『宝石族』は今、散り散りになっているのか?」
「『宝石族』という名称は、私は存じ上げておりませんが……私達は確かに、西の生まれです。戦争で負け、今では同じ国の人間がどこに住んでいるのかも分かりません」
ローウェンは深く頷いた。
「聞いている。戦神メビウスの理に背き、誓いを立てずに奇襲を掛けられたらしいな」
ああ、やっぱりあるんだ、そういうの。お互いフェアに、みたいなやつだよな。きっと。その話があちこちに回っているから、ローウェンも彼女等に対して手厚い態度なのかもしれない。
「行く当ても無かった所をタンド様に助けて頂き、私達はここに住まうことになりました。初めのうちは身を隠していましたが、タンド様もすぐに身を悪くしてしまい、それきり……」
「それで、ティシュティヤの紋章を貴女達が持っているのか」
ローウェンは複雑な表情になった。二人の言葉を信じるべきなのかどうなのか、悩んでいるのかもしれない。そりゃそうだろう、この状況だったら例えタンドさんが殺されていたとしても、同じように発言する事ができる。
まあ、タンドさん自身が謎の多い人物みたいだから、ローウェンにはどうしようもないかもしれないが……。
「分かった。心優しいタンド・ウォルクスに免じて、この場は見逃そう。だがティシュティヤの領土に居ることは、例えタンドという人物が認めたとしても王と面識が無いのであれば、我々は認められない。ここからは立ち去って貰う事になる」
「――はい」
分かっていたのか、ティナも抵抗しなかった。ローウェンはその落胆した様子を見て気まずそうにしながらも、目を閉じて椅子から立ち上がる。
「ティシュティヤの紋章を、返してくれ」
「……フィリシア」
フィリシアは懐に持っていたティシュティヤの紋章を取り出し、ローウェンに渡した。ローウェンはそれを受け取り、ランタンと剣を担ぐ。
……おいおい、これで終わりか? これで二人がローウェンの下から居なくなったら、もう出会う事は無いんじゃないか。
特に何も起こる事なく……
「近日中に、ここから立ち去ってくれ。今回の件については、私も見なかった事にしよう。……ティシュティヤの祈りにかけて」
「……ありがとう、ございます」