つ『5月21日を乗り切る事はできるか』 後編
放課後になると、俺は人知れず緊張していた。前回、このタイミングで面倒な奴等に絡まれ、青木さんに助けられ、姉さんを待たせた結果、姉さんは暴走した。
流石に、同じ事の繰り返しは避けなければならない。永遠に五月二十日の呪縛から逃れられないのは、俺としても嫌だ。
あの、ハイエースを止めて俺の部屋に入って来た姉さんの嬉しそうな顔を見る度、俺は溜め息が出るのだ。
チャイムが鳴るまで、後三分。窓から校門前を確認した。既に姉さんは校門前に待機している。こちらがまだ授業中だということを知っているからか、メールは来ない。
青木さんは兎も角として、姉さんの存在を羨む男子生徒に絡まれるのは避けたい。俺は教室を出るためのタイミングを伺っていた。
――痛っ。
頭に消しゴムの当たる音がして、俺は振り返った。沈黙に意思を感じさせる瞳でこちらを睨んでいるのは――青木さん?
ふと、二回目の事を思い出す。俺の記憶が確かなら、あの時も同じ事をされたような……
――違う。あの時は、昼休み前の事だった。
くそ。今度は屋上に逃げられず、教室で姉さんに捕まり、二人は出会ってしまった。そのせいで、またシナリオが変わっているということか。
本当に、何が起こるか分からないな……
チャイムが鳴った。俺はすぐに立ち上がり、鞄を背負った。
「じゃあ、今日はこれで終わり――」
元よりホームルームの終了文句など、聞いている暇はない。誰よりも早く教室を出て、廊下へと向かう。前回、今日の夜に死んでしまったのだ。今日一日はなんとしても、安泰で締め括らなければ。
階段を二段飛ばしで駆け下り、俺は下駄箱へ――……
「穂苅君!!」
俺は振り返り、声の主を探した。階段の上に息を切らして立っているのは……青木さん?
何か用事があるのだろうか? そう思い掛けて――……
「お姉さんにばかり目を向けるのも良いけど、友達くらいは、作っても、いいんじゃない……?」
――思い出した。
一回目。二ヶ月経って、青木さんが初めて声を掛けてきた日のこと。そうだ、あの時は教室に俺の忘れ物を届けに来た姉さんが、何のお構いもなしにベタベタして、教室の温度を奪っていた。
青木さんは、それを見ていた。それをきっかけに、俺と姉さんの関係性に気付いたんだ。
そして、俺はカラオケパーティーに参加する事になる。
たった今と、全く同じ台詞で。
『お姉さんにばかり目を向けるのも良いけど、友達くらいは作ってもいいんじゃないかな』
『……まあ、機会があれば、って感じかな。俺もあまり、周りから良い顔されてないの知ってるし』
『きっと、楽しいよ。一回くらい、参加してみようよ』
『そう、だね。皆が良ければ、誘ってよ』
『――うん! 絶対、来てよ!』
そうか。青木さんが声を掛けてくるタイミングは、俺が姉さんの事を嫌がっていると気付いた時ではなかったんだ。
姉さんが俺の周りを囲って、外の世界に目を向けられないようにしていると気付いた時だったのか。
……なるほどね。二回目に話し掛けてきたのは俺が挙動不審だったからだとして、むしろラブラブに見えている方が青木さんとしては心配、ということだ。
どうして俺なんかにそこまで……良い人だな、青木さん。
「あのね! 今度、私の友達と四人で、カラオケに行こうよ!」
――やっぱり、カラオケか。
でも、前回はカラオケパーティーだった。そうだ、八月の夏休み終わりに皆で集まってやろう、という話だった。今回は、夏休みという名目はない。
……四人か。
前回は、姉さんに黙っていた。遊びに行く、とだけ伝えて。
『もちろん、男の子だけなんでしょ?』
笑顔でそう言い放った姉さんの、なんと恐ろしかったことか。思わず俺は頷いてしまったのだ。
その後、ハンカチの匂いに気付かれるとは知らずに――……。
あの娘にも、会えるのかな。……しかし、一歩間違えればこれは、大惨事を招く事になるぞ。
青木さんは息を切らしたまま階段を降りようとして、うわっ。
「きゃあ!」
足を滑らせた青木さんが落下してくる。俺は慌ててその身体を受け止めるため、両手を広げた。俺の胸に青木さんが飛び込んでくる。
勢いに負けて、俺は青木さんを抱き留めたまま尻餅をついてしまった。後頭部を軽く打って、一瞬だけ意識が飛ぶ。
……わりと痛い。
「純くん!!」
あらぬ所から声が掛かった。……って、姉さん!? 下駄箱前で靴を脱いで、そのままこちらに走って来る。
待ち切れず、様子を見に来たといった所だろうか。
青木さんは素早く立ち上がると、不安そうな顔で俺を見た。
「ご、ごめんなさい!! 大丈夫!?」
「……まあ、なんとか……」
この状況はあんまり良くないな……俺は寝転がったまま、姉さんの様子を伺った。姉さんは俺の手を引くと、抱きかかえて起き上がらせる。
姉さんが尋常ではない程に慌てている。……どうしたら良いんだろう。フォローが必要か? それにしたって、なんて言えば……
「……だ、大丈夫!? ……純くん、びっくりした……」
なんて大袈裟な。姉さんは俺の頭を抱き、必死で後頭部を撫でている。抱かれているので表情を確認する事は出来ないが、声に涙が混じっているのが分かった。
まいったなあ……
「大丈夫だよ。ちょっと、転んだだけで……」
そう言ったが、姉さんは聞く耳を持たない。そんな態度じゃあ、青木さんに余計な罪悪感を与えてしまうじゃないか。ただの事故なんだから――……
「……ひっく、……うっ……純くん、しっかりしてっ……」
あれ? ……なんか、姉さんの様子、変じゃないか? いくらなんでも、泣き過ぎでは……
俺は転んだだけだぞ……?
姉さんは俺を抱いたまま、動かない。……胸に顔が埋まっているせいで、何が起こっているのか分からない。今、どういう状況なんだろう。俺は何をすれば。
「……あ、あの。……ごめん、なさい。わざとでは、無いんです」
「――二度と純くんに近付かないで」
姉さんはおそらく、青木さんを睨んでいるのだろう。ただ階段から落ちただけなのに、そこまで言わなくても……。過剰に心配し過ぎて、子供を隔離しようとする母親のような態度になっていた。
それにしたって、こんなのはあまりに……
姉さんは俺の頭を離すと、ゆらりと立ち上がった。瞬間、その態度に異様なものを感じて、俺の意識が覚醒する。
――まずい。
姉さんの反応は遅れていたが、確かに感じた。姉さんから青木さんへの、恐怖を覚える程の殺気を。
このまま姉さんを野放しにしたら、また暴走してしまうのではないか、という予想をさせた。
これは、姉さんのトラウマだ。きっと。いや、絶対。間違いない。
そして、その殺気の矛先が青木さんに向いているのが何よりもまずい。
な、なんとかしなきゃ……
「あなた、誰なの……?」
「――えっ?」
――――えっ?
「よくも純くんを傷付けるような事、してくれたわね……。百倍にしてやる……。中身が飛び出るまで殴って、べちゃべちゃにしてやる……」
姉さんは青木さんに向かっていく。ぞわぞわと、悪寒が込み上げてきた。青木さんは何が起こっているのか分からないようで――当たり前だ――姉さんから離れるように、後ろへ一歩、二歩、と後退った。
頭を回転させるんだ。今、姉さんは何と言った? 既に顔見知りの筈の青木さんに向かって、貴女は誰って聞いたんだ。
――もしかして姉さんの暴走って、姉さん自身にもコントロール出来ていないんじゃないか? 悪霊に取り憑かれたみたいなもので、もしかして、だとするなら、どうすればいい?
俺は立ち上がると、二人の様子を確認。姉さんは鞄に手を入れて、何かを取り出す気だ。青木さんは姉さんの変貌に衝撃と恐怖を覚えているようで、言葉もなく震えている。
呆けている暇はない。なんとか、しなきゃ――!!
「ゴキブリの触覚だけ抜くみたいに、全身の骨だけ抜いていつまで痛がる事ができるか、試してみようかなあ……。ふふ、ちょっと面白そう……」
「姉さん!!」
俺は姉さんに後ろから抱き付き、姉さんの両手を覆うように抱き締め、そして――――!!
――胸を、揉んだ。
「あっ」
艶かしい声が漏れる。俺の咄嗟の行動に、青木さんが口を開けて固まっている。……当たり前だ。とてもではないが、この状況でやるような事ではない。
だが、やるような事なのだ。
姉さんは俺から責めると受け身に回り、どうしようもない程に慌てる事は知っている。俺が姉さんに対抗出来るとしたら、唯一その要素だけだ。
とにかく、なんでもいい。姉さんが正気に戻れば何でも!!
「……あっ、……純くん、ちょっと、待っ……」
「大丈夫だって、言ってるだろ……? 正気に戻れっ……!!」
俺は精一杯の覚悟で、姉さんに迫った。青木さんの目の前で姉さんの胸を揉みしだき、悶える姉さんの首筋に唇を這わせる。
「……わっ。……うわっ」
青木さんが顔を真っ赤にして、動揺していた。
……当たり前だ。
それでも、俺は続ける。どうにか、この一件を無かった事にしなければ……!!
「……は、あっ!! ……やめて純くん、変な気持ちになっちゃうっ……!!」
させようとしているんだ。止めてなるものか。もしもショックを受けたせいで姉さんの意識が逆転したのなら、もう一度ショックを与え直してやる……!!
今度は姉さんの前に回り、唇を奪った。既に姉さんはとろとろに溶けた瞳で、俺の行為を受け入れる。
……青木さんとは目を合わせないようにした。
「今のは、事故だから。……分かった? 青木さんは悪くない」
抱き締めたまま、俺は姉さんに言った。……姉さんの身体が熱い。俺まで変な気持ちになりそうだ。
ふと見ると、背後で青木さんが両手で頬を覆って目を逸らしている。
……何で、クラスメイトの、しかも唯一俺が会話できそうな人物の目の前で、姉さんとのラブシーンなど見せ付けなければならないのか。
「……ふぁい……」
姉さんから、肯定とも否定とも取れない返事があった。
「――ああああああたし、さっ、先に帰るねっ!? じゃあね!? またね穂苅君!! お姉さん!! ばいばい!!」
「えっ!? 青木さ、ちょっ、待っ!!」
返事も待たず、青木さんに逃げられてしまった。
やり直せないかな、やっぱ……
◆
「純さーん、元気出してくださいよー」
ケーキが俺の回りを飛んでいる。俺はソファーにうつ伏せに倒れ、意気消沈していた。
……見せてしまった。俺から、姉さんに迫っている様を。青木さんに。……おそらくクラスで一番俺のことを理解してくれる可能性のある、青木さんに。
きっと、当分話し掛けてはくれないんだろうな……。
姉さんは今、風呂に入った所だ。「そうだよねっ。事故、だよねっ。後で青木さんに、謝っておかないとねっ」などと俺に話した挙句、続きを始めようとしたので俺は制止した。
すっかり上機嫌で、晩飯も気合いが入っていた。……入り過ぎている程に。風呂の時間がいつもより長いのは、きっと俺の気のせいではない。
今夜はきっと、大変なんだろう……。疲れたという口実でどうにか迫る姉さんから逃げて寝た振りをするのが最善で、その後姉さんが一人でしているのを至近距離で聞いて悶々とする羽目になるんだ。
「……なあ、ケーキ」
「はいっ、何でしょう!? 私にできることがあれば!!」
「自殺しても……時間、戻るのかな……」
「純さ――ん!!」
……何で、俺ばかりがこんな目に。
しかし、途中で止まって良かった。あのままエスカレートしていたら、もうあんな方法では止まらなかったかもしれない。実際、一回目も二回目も、俺は為す術もなく殺されている訳で。
何か、暴走を始める予兆のようなモノがあるのかもしれないな。
それにしたって、今後青木さんにどんな顔をして会えば良いのか……。
電話だ。
俺は立ち上がり、リビングへと向かった。
「はい、穂苅です」
『あ、純? 母さんだけど』
――母さん? こんな時間に、電話か?
そう思ったが、ふとある事を思い出した。五月二十一日の夜と言えば、杏月が家に戻って来る日じゃないか。
二回目は夜が更ける前に殺されてしまったからな。
丁度この頃、海外留学から帰って来て、俺の高校に転校するかどうかという時期だ。
『実はね、杏月の事なんだけど』
「ああ、今、帰って来てるんだっけ?」
『あれ? お母さん、そんな事話したっけ?』
だから、知る筈のない知識で話をするのは駄目だって。
「……あー、話した、気がする」
『そっか。まあ、そうよね。話してなければ知ってるわけ無いものね』
実は話していなくても、知っている可能性はあるんだけどね。
要件は何だったかな……
『実は杏月、お姉ちゃんとお兄ちゃんが二人暮らししてるって聞くなり、そっちに行きたいって言い出して。一応、お姉ちゃんにも確認取って欲しいんだけど……』
そうか。杏月がこっちに来る、という話だったか。一回目は当然のように姉さんが嫌がって、それきり杏月と会わずに終わってしまったんだよな、確か。
……待てよ。