つ『おかえりスイートガール』 前編
一月二日、午後三時。最寄り駅近くの踏切に到着して、辺りを調べていた。
特に何か、目新しいものを思い出す気配はなかった。昨日も遅くまでやっていたため、多少なりとも寝たとはいえ、疲労を感じる。
そもそも、思い出す事の出来ない記憶を掘り起こそうとしている。もしかしたら、俺に掛かる負担も大きいのだろうか。非常に肩が重い。
今更、そんな事を言っている場合ではないが――……。
「……どうですの、ジュン?」
レイラに問い掛けられて、俺は首を振った。
特に、何かを思い出す事はない。急行電車に轢かれたとあったが……もう一度轢かれれば、何かを思い出すだろうか。
そう考えてしまい、思わず苦笑した。
もう一度轢かれれば、少なくとも今の俺が生き返る事はないのだろう。
「ごめんな、レイラ。変な事に巻き込んじゃって」
「いえ、気にしていないですわ」
じっと踏切を見ていると、背中からレイラが俺に缶コーヒーを手渡した。
口に出せば問題が発生する可能性があるので、レイラには直接的に何も話していない。だがレイラは落ち着いた表情で微笑み、俺にアイコンタクトを送る。
「ジュンがこんなにも一生懸命にしている時に、文句を言う事もないでしょう?」
――本当に、助かる。
残念ながら杏月もレイラも昨日の出来事については忘れてしまったようだったが、だからといって協力してくれないかと言えば、そんな事はないということか。俺が覚えている限り、皆は俺に協力してくれるのかもしれない。
そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。
姉さんについて、まだ俺は明確な何かを思い出した訳ではない。それでも、家に居た時に背中から抱き締められたような、あの不思議な感覚は忘れる事がなかった。
暖かく、優しい。全てを信頼しているような、あの感覚は。
咄嗟に当たっているのかどうかも分からない姉さんの姿を俺に思い描かせたが、本当は一体誰だったのだろうか、なんて。
でも、確かに誰かに抱き締められたような気はしたんだ。
不意に、携帯電話が鳴った。コールの主は……杏月か。
「杏月?」
『純、まだマンションに居るの? お昼ごはんは?』
……しまった。すっかり忘れていた。
「あー……ごめん。今日はちょっと、食べられそうにない」
『うん。……それは、良いんだけどさ』
杏月は渋ったような声を出した。……もしかして、昨日の出来事について思い出し掛けているのだろうか。
隣に居るレイラはそのような雰囲気を見せないが――杏月なら。
もしも本当に実の姉が居るなら、姉さんと最も近い人間の一人だ。流石に、違和感を覚える筈では――……
『……まだ、瑠璃のこと、自分ひとりで抱えてるの?』
そう思って、
『あのさ……どうしようもないことは、どうしようもなかったんだよ。私、協力するからさ、あんまり一人で抱え込まないで』
苦笑した。
期待し過ぎ、というものだ。そもそも記憶が端から上書きされていくような、聞いたこともない世にも強引な――『ルール』とでも呼べば良いだろうか。或いは、それは『因果』とでも呼ぶべきか。
そのような空間の中で、独りでに失われた記憶を思い起こす事など、容易とは言えない。俺だって、あの消え掛かった携帯電話とビデオカメラに触れるまで、それを思い出す事は無かったのだから。
「……ああ、大丈夫。ありがとう」
『私も、行こうか?』
「いいよ、昨日連れ回し過ぎたし。今日はゆっくり、休んでくれれば」
しかし、そうすると尚更奇妙だな。
すぐに記憶が上書きされてしまうような時の中で、あの携帯電話とビデオカメラだけが、一日とはいえ残ってしまった原因。これだけ完璧に出来事を上書きして、繋がらない孤立した記憶を作り出す事が出来るなら、あんなものを残しておく理由がない。
考えても仕方が無い事ではあるけれど……。
『……ん。わかった』
杏月は何かを悟ったかのような声音で、通話を終了させた。
俺だけが、姉さんの存在を思い出そうとしている。だが、姉さんの存在を公に突き止めようとすれば、俺の周りの出来事は書き換えられ、混乱を招く事になる。さらに、また記憶を上書きされる可能性もある。
これは、孤独な戦いだ。
俺以外に誰一人として協力する人間の居ない、孤独な戦い。
ただ、名前を思い出すための――……
「純君?」
呼び掛けられて、俺は振り返った。レイラも声の主に反応する。
小柄なオレンジ髪の少女が頭に真っ赤なリボンを結び、緑色のエプロンを付けて、そこに立っていた。今しがたコンビニから出てきたようで、その左手にはコンビニ袋が握られている。
「立花」
その緑のエプロンには、チューリップの刺繍がされていた。その様子から、花屋のような雰囲気が感じられる。
「……バイト中?」
「う、うん。おつかい頼まれて、出て……二人は、何してるの?」
俺が答える前に、レイラが胸を張って言った。
「デートですわ!」
瞬間、立花の表情が固まり、何故か立花の周囲に吹雪が見えた。気がした。
俺は手を振って、慌ててそれに補足する。
「違う。ちょっと回りたい所があって、協力して貰ってるんだ」
「……ま、いいけど。私には関係ないし」
全く、何故レイラはわざわざ、波風を立てるようなことを。
と思ったが、レイラがそう言ったことで場の雰囲気が誤魔化され、立花がそれ以上追求してくる事は無くなっていた。
ふとレイラを見ると、ぱっちりとした蒼い瞳でウインクをされた。
……なんで俺の周りって、どいつもこいつも策士ばかりなんだ。
「あんまり浮気してると、瑠璃に言いつけちゃうんだから」
「はは。そりゃ、勘弁願いたいな」
俺は何気なく、ポケットに手を突っ込んで、立花に聞いた。
「バイト、変えたのか?」
「え? バイト? ……私、ずっとこの近くのお花屋さんでアルバイトしてるよ?」
「えっ? だって、前はレストランでウエイトレスをやってただろ? 瑠璃と一緒に」
立花は唇に人差し指を当てて、小首を傾げた。
「……いつの話?」
「え、そりゃあ……」
あれ?
……無い。俺、一度も立花のウエイトレス姿を見たことなんか、無いぞ。
「あれ? ごめん、勘違いだったかも」
「そりゃ、やってないからねえ……」
いや。待て。落ち着け。……多分これはきっと、重要なことだ。
俺は、見ていないはずの立花のウエイトレス姿を、どこで確認した?
今現在の記憶と結び付ける必要はない。そうすれば、出来事は霞んでしまう。……きっと、きっとあったはずだ。俺が立花のウエイトレス姿を見た瞬間が。
レストランのテーブルが頭の中に浮かび上がった。……四名席だ。そう、杏月がいた。そこには杏月が居て、
その隣には――……
「レイラ、またちょっと、車を出して貰えるか?」
「え? ……ええ、構いませんけど」
頭の中に思い描かれたビジョンを、大切に。俺はすぐに、踵を返して歩き出した。
俺はそのレストランの場所を知っていなければならない。……そうだ。あの場所には瑠璃もいた。働いていた。
ということは――……
「立花、瑠璃が前に働いていたレストランの名前、思い出せるか?」
「え? ……レストランで、働いていたの?」
……駄目か。他に、知っていそうな人間といえば――……
俺は携帯電話を取り出し、越後谷司に電話を掛けた。数回のコールの後、それは繋がった。
相談すれば俺がやろうとしている事を悟られそうで、あまり声は掛けたくなかったが――この際、仕方が無いだろう。
『穂苅か?』
「急に電話してすまん、越後谷。唐突なんだけど、ちょっと聞きたい事があって。今、大丈夫か?」
……なんか、ガチャガチャという音が聞こえる。電話越しにも、その場所が何かの騒音で煩い場所だということが分かった。
『問題ない』
越後谷は何の気無しに、しれっとそう言い放った。直後に、『You Win』の掛け声が――って、ゲームセンターかよ。
「瑠璃がアルバイトしていた店のこと、知ってるか?」
『ああ、あの時給安い割に仕事量は多いレストランか?』
……そうなのか。流石というのか、詳しいな。
「そうなんだ。実は、そこに行ってみたくて」
『おう、良いぜ。ちょうどキリの良い数字だから』
キリの良い数字……? 何だろう。何かのゲームをやっているんだろうか。ガタンと音がして……どうやら、移動しているらしい。程なくして、大通りに出たような、車の走る音が聞こえてきた。
『今……の駅前に居るんだが。来て貰えるか?』
「おお、ありがと。……何してたんだよ」
『問題ない』
遠くから、誰のものとも分からない声が聞こえてきた。……五十連勝……まだゲームが続いてる? 連勝ってことは、格闘ゲームか何かだろうか。
『お前にやるよ。良かったな、五十連勝だぜ』
電話しながら、対戦してたのか? ……片手で?
化け物か……
通話を切ると、俺はすぐにコインパーキングに戻る。越後谷の居る場所までは、いくらも掛からないだろう。
「あっ、あ、あの、純君」
ふと、立花に呼び止められて振り返った。立花は不安そうな――あるいは真偽を推し量るような表情で、胸の前で両手を握った。
「あの、もしかして、今やってることって……」
流石に、これが瑠璃の記憶に関係している調査だということに、気付かれてしまっただろう。アルバイトの話を出してしまったし、俺が次に向かう場所についても、立花に伝わってしまった。
もしかしたら、立花に全てを話せば、記憶を失うまでは協力してくれるかもしれない。
「……ま、終わったら話すよ」
だが、俺はそう言ってはぐらかす事にした。
もしも俺達の記憶が改ざん――あるいは上書きされているのだとしたら、これ以上立花や周りの人間の記憶を、支離滅裂な内容にしたくはないという気持ちがあった。上書きに上書きを重ねるほど、記憶はやがて曖昧になり――もしかしたら、それは人の人生を左右してしまう事にも成り兼ねないだろう、と思えたから。
今、俺がそうであるように。
◆
越後谷の指定した駅に行くと、何故か君麻呂も隣に居た。二人は会っていたのか。というか、正月からゲーセンなんか開いてるんだな。びっくりだ。
まあ、休む人は多いだろうし、開いていれば遊びに来る客は多いのかもしれない。
至って普通な越後谷とは対照的に、君麻呂は魚が死んだ時のような目をしていた。
「……なあ……聞いてくれヨ……純ちゃんよお」
「な、なんだ。どした」
君麻呂がキモ面白い顔で、唇をめくるように動かしながら言った。……何それ。どうやったら唇ってそんな風に動くの。
「にぃじゅうごれんぱいもしちゃっちまっちゃよぉぉぉ!!」
何を言っているのかさっぱり分からん。
あ、二十五連敗と言ったのか。
まあ、あれか。さっきのがゲームセンターなんだとしたら、越後谷は間違いなく勝っていた筈で、向かい側に座っていたのがもしも君麻呂だったとしたなら――……
……そうか。さっき、五十連勝がどうのとか言ってたよな。君麻呂一人で、半分も負けたのか。
「気にするな。たかだか千二百五十円の負けだ。パチンコにでも行ってみろ、その十倍は楽に負けられる」
「あのなァ!! こりゃギャンブルじゃねーんだよ!! 己の知恵と勇気を絞り合う戦争なんだよォ!!」
「……すまん。どうやら俺は、お前とは違う場所に居たらしい」
若干引き気味に、越後谷が言う。……というか、そこまでやったんなら、一回くらい勝たせてやっても良いんじゃ……
まあ、それはないか。越後谷のことだし。
「俺、あれは結構自信あったのにー!! 一番できるゲームだったのにー!!」
「心配するな。相手が悪かっただけだ」
「上等だコラァ!! リアルファイトに移行すんぞオラァ!!」
「――はっ。俺に、勝てるとでも?」
なんでゲームの世界から飛び出してんだよ!!
「二人共。今はあなた達の『馬鹿で』『下品な』言い争いを見ている場合ではないのですけど」
今度はキレ気味に、レイラが冷えた瞳で二人を見下ろした。……怖いな。
越後谷は両手を上げて降参のポーズを取り、君麻呂はレイラに怯え、掴んでいた越後谷の胸倉から腕を離す。
……あれ? 気が付けば、越後谷とレイラの主従関係って変わってしまったのか?
「と、とにかくだな。越後谷、案内して欲しいんだけどさ」
「おお、そうだな。下らない事に時間を使ってしまってすまない。こっちだ」
「くだらなッ――!?」
越後谷の物言いに絶句する君麻呂。
そう言って、踵を返して君麻呂から離れる越後谷。その後ろ姿を眺めながら、君麻呂が全力で涙を流していた。
「あいつが……暇だから付き合えって言うから……付き合ってやったのに……」
「……ま、まあ、元気出せよ」
弄りやすいからな、君麻呂。多分越後谷も、お前のこと結構好きなんだと思うぞ。玩具として……いや、友人として。