つ『姉さんの名前、覚えていますか』 前編
「ま、待ってよ!! まだ、この映像の方が『正しい』なんて、決まってないじゃない!!」
杏月が叫ぶように言った。確かに、この消えかけた映像が真実であるという証拠は、今のところ何処にもない。
だが、この映像を否定する根拠も、『俺達がそうだろうと思っている記憶を除いて』今のところ、何処にもないのだ。
そして、この映像が実際に起こった出来事だということに、俺はある種の確信を得ていた。
「杏月。一昨日の大晦日、年越し蕎麦、食べたか?」
「え? ……た、食べてない」
「じゃあ、何を食べた」
「……え?」
大晦日の出来事は、俺の中では既に曖昧だ。特に目立ったイベントも無かったから、ほとんどの記憶は抜け落ちている。
冬休みは特にする事もなく――なんて、寝惚けたような事を考えていた。だが、ほとんどの記憶が抜け落ちた二○一二年十二月三十一日について、俺は本当に『過ごした』と言えるのだろうか。
「お、覚えてないよ。そんなの……」
「大晦日、何をした? 俺は家にいたか? ……杏月は、何をして過ごした?」
杏月は何も言えなくなってしまい、俯いた。
そうなのだ。俺達は、過去のほとんどの記憶を事細かく思い出す事ができない。
まるでそれらの記憶は遠い過去のように曖昧で、重要な出来事だと思わせる数少ないシーンだけが、断片的に頭の中にある。
それが果たして、『覚えている』事なのか、『植え付けられた』事なのか。誰にも理解できる所ではないのではないだろうか。
俺達が当たり前のように持っているこの記憶を、真実だと確定させる証拠は何処にもない。俺達が勝手に、真実だという仮定を作っているだけだ。
今となっては寧ろ、疑わしいとすら感じる。
「……そんな。……本当に?」
「いや、分からない。まだ、分からないけど……。この映像の瑠璃は、記憶喪失になんか遭っていない。交通事故にも遭っていないみたいだ」
だとするなら俺は、元気そうにしている、この青木瑠璃を信じたい。
映像に残っていない、俺の左腕を引っ張った『何か』。その正体が、気になって仕方が無かった。
おそらくそれは、『姉さん』――……
咄嗟に携帯電話を手に取り、自宅に電話を掛けた。
『たらららったらーん! 穂苅DEATH』
コール音もなく、その電話は繋がる。
……親父の奴め。俺がここに来ていると、分かっていやがったな。
大方、俺の質問も予想済みという所だろうか。
「親父。親父は『俺に姉は居るか』と聞かれて、『少なくともこの世界には居ない』って、そう言ったよな」
『うん、言ったよー?』
間延びした声で、親父は言う。
これはカモフラージュだ。親父の常套手段。振り回されてはいけない。
いつも、一番大切な時に限ってふざける人間なのだ。
「――なら、別の世界には、居るんだな?」
数秒の間。携帯電話の裏側には杏月とレイラが張り込んでいて、俺と親父の会話を聞いている。ハンズフリーにする心の余裕は無かった。
『うん。居るかもね』
親父は、真面目な声音で、そう言った。
「どうしてなんだよ!? じゃあ、俺達は『この世界』を創り変えられたのか!? もしかして、親父が言ってた『ノーネーム』って奴も、小説の話じゃないんだな!?」
『落ち着いて、純くん。可能性の話だよ。もしもこの世界に存在しないモノだとするなら、どうしてそれを僕が知っていると思うんだい?』
……まあ、それは、確かに。
だけど、親父はいつも突拍子もないような事を言い出すし、本来は知り得ない事だって知っているじゃないか。
『僕だって、今ここにいるという『存在』そのものには、抗えないよ』
「……それは、そうか」
だから、ここにある過去の記憶は、徐々にその形を失っていくのだろうか。
『存在するもの』から、『存在しないもの』へと。
『でもね。もしも今、純くんの知っている筈の記憶が偽物なんだとしたら、それに気付いたとしたら、純くんは自分の力で思い出せる筈だよ』
――自分の、力で。
そうか。繋がらない記憶は、意識せずとも思い出す事ができない。何かをきっかけにして、何かを思い出す。ならば、その『きっかけ』を失った記憶というものは、取り出す事ができないという事になる。
でも俺は『姉さん』という存在について、『本当は居るのかもしれない』という仮定を得た。そうだとするなら、その仮定を元にして、記憶を引きずり出す事ができる、かもしれない――……?
『口に出して説明することが難しいんだ。純くん、一度しか言わないからよく聞いて』
親父は、間を置いて言った。
『お姉ちゃんの名前は、何だった?』
――――えっ?
湧き出た確信が、一瞬にして海の藻屑になったかのように、消え去った。今立っている場所さえ定かでは無いように、俺はどうしたら良いのか分からず、固まってしまう。
『姉さん』の、名前。
『もしも思い出せたら、『お姉ちゃん』は、居たという事に、できるかもしれない』
――名前?
『名前を呼ぶことで、お互いを確認できる。『ノーネーム』から『お姉ちゃん』を引きずり出すには、名前が必要なんだ。残念ながら、僕にも純くんの感付いている『過去』の正体は、今の所は突き止められない。それができるのは、おそらく――純くんだけなんだよ』
おい。待てよ。
なんだよ、名前って。
消え掛かっている携帯電話を操作し、『姉さん』の名前を探した。
――どこにも、ない。
『名前が分かったら、僕に教えて』
そう言って、電話は切られた。
記憶の渦に手を突っ込んで、かき回す。――名前? 名前なんて、……そんなもの。
思い出せるわけ、無いじゃないか。
あれこれ動いているうちに、日の出は近くなっていた。杏月が部屋のカーテンを開いて、空を確認する。真っ暗な空の地平線がほんの少しだけ明るさを帯び、これから太陽が昇る事を俺達に教えていた。
名前――名前か。
思い出す事ができるだろうか。今の俺が持っている情報は、おそらく海に旅行に行ったであろう事と、九月までの死亡記録のみだ。
あるいは、この場所を回る事で。
「純。今日はもう休んで、明日に備えよう」
「……ああ、そうだな」
「表に黒子がいますわ。お二人共、家まで送ります」
俺は、首を振った。
「俺は、ここに居るよ」
杏月が心配そうに俺を見詰めて、立ち上がった。もう少しだけ、この映像を確認しておきたい。もしかしたら、これよりも先に何かが撮影されているかもしれない。
学園祭で公演する予定だったドラマの、その先に、何かが。
「……じゃあ、私は帰るね」
「おう」
「あんまり、無理しないで」
「おう」
「純」
顔を上げると、杏月は俺に微笑んで手を振った。
「また、明日」
俺も、手を振り返す。
少なくとも、レイラと杏月がこの情報を共有している。この世界がおかしいと思っているのは、俺一人じゃない。
それが、俺にほんの少しの自信と、確かな勇気を与えた。
◆
何度も繰り返し確認して分かった事は、どうやら『姉さん』は、レイラの別荘に付いて来ていた可能性がある、ということだ。
音が消えてしまっていたので拾うことが出来なかったが、何度も繰り返し見ているうちに、俺の口元の動きがそれらしい発言をしていた事に気付いた。
映像の中では、『姉さん』に関わる事だけが、まるで上から塗り潰されたかのように消えている。
それは、今この場に『姉さん』の存在が居なくなったせいだとも考えられる。
ドラマはほとんどが撮影されていて、俺はその情報から、この映像が夏から九月の終わりに掛けて撮影されたものだということに気付いた。
ちょうど初期の紅葉と思われる季節感を確認することが出来た事と、ドラマの撮り始めは蝉の音がしていたという事実から、範囲はそのように推測した。
学園の中で撮影されたものも多く、俺は撮影された教室のカレンダーから、月日を獲得する事にも成功した。
そのカレンダーは文字が潰れて読み辛かったが、二○一二年のものだった。
「――はっ!」
俺は目を覚まし、飛び起きた。
――いけない。眠ってしまったのか。
一月二日、水曜日。俺は居間を見回し、時計を確認する。
良かった。まだ、朝の七時だ。そこまで眠り倒していた訳でも無さそうだ。
今日も一日、空けている。ドラマで撮影した場所を順番に確認していけば、何かヒントを手に入れる事が出来るだろうか。
……いや。
最後と思われるシーンの手前まで、録画されているものは全て確認したが、『姉さん』は登場しなかった。瑠璃が元気そうにしている所は確認する事ができたけれど――……。それを考えると、死亡記録には『姉さん』が間違いなく登場しているので、それから先に確認するべきなのかもしれない。
とにかく、忘れないうちにもう一度確認――……
「……あっ」
ビデオカメラが、……ない。
鞄も、ケーブルも、綺麗さっぱり無くなっていた。消え掛かっていたから、時間が経つとまずいとは思っていたけれど――……
そうか。日の出と同時に消えてしまったか。
二つ重ねておいたはずの携帯電話も、一つになっている。その様子を見て、俺はある一つの確信を得た。
俺達の記憶している二○一二年の十二月三十一日は、存在しない。
おそらく一月一日、年明けとして、この世界は創り変えられてしまったんだ。その段階では、まだ俺達の細部の記憶までを事細かに創り変えるには至らず、当時のものがそのまま残っていたのかもしれない。
だから、俺の知らない携帯電話はもう一つ、この世界に存在した。
同時に、新しく創り変えられた世界に合わせるため、古い記憶は抹消されていった。だから、『姉さん』の存在を中心として、それらは徐々に世界から『無くなって』行ったのではないか。
「はっ。……とんでもない仮定だな」
作り話と言ってしまえばそれまでの、本当に頼りのない仮定だ。最早、俺が記憶を取り戻すきっかけとした携帯電話もビデオカメラも、ここにはもう無いのだから。
でも、これはチャンスだ。俺が思い出す事で、創り変えられた世界を取り戻す事ができる。そこに『矛盾』が発生すれば、世界の変化に対して抵抗する事だって、可能かもしれない。
そう、人から人へ、伝達することによって。
とにかく、杏月に電話だ。今日の段取りを決めなくちゃ。
杏月に電話を掛ける。
「……まだ寝てんのかな」
昨日は遅かったから、無理もない。
暫くのコールの後、電話は繋がった。
『……はい、純?』
電話の向こうから、眠そうな声が聞こえてくる。俺は思わず苦笑してしまった。
「杏月、おはよう。大丈夫か?」
『……ん、まだ眠い。……昨日、遅かったから』
「仕方ないだろ、昨日のことは」
『そうだね。……ふああ、でもなんか、すごい眠いよー』
「とにかく、今日の事なんだけど」
俺は何気なく、そう切り出そうとして――
『ああ、うん。ってことは、携帯電話、見付からなかったの?』
――――固まった。
「……え?」
『もー、夜中に言い出すんだもん。明日で良いじゃんって言ったのにさー』
杏月は、何を、言っているんだ?
「……は? ……え? 何、なんの話?」
『え、何? 寝惚けてんの? 九月の学園祭前に、瑠璃の家に携帯電話を忘れたって言ってたじゃん。電池も切れてて、繋がらないって』
……いや、待て。思考がまとまらない。
何が起こっているのか分からず、俺は目を白黒させた。部屋の中は、ビデオカメラと携帯電話が消えているという事を除いては、何も変わらない。
俺は今まで、ここで『姉さん』についての、死亡記録を、
見ていたはずで。
「……いや。だって昨日、初詣行っただろ。その時に電話もしただろ」
『だから、失くなっちゃったからって回線契約切って、新しいのにしたじゃん。でも、るりりんの記憶を取り戻すために、もう一回携帯電話を見てみようって言い出したんじゃん』
――記憶が。
「んな訳ないだろ!? 昨日は、……昨日は……」
『何キレてんの……? ポケットにあるでしょ? 電話』
ポケット――……?
俺は初めて、自身のジーンズのポケットを確認した。
――その膨らみに、愕然とした。
「……そ、そうだっけ?」
苦し紛れに、苦笑した。
『やだ、もーやめてよー。昨日から付き合わされて、こっちは疲れてるんだからさー』
記憶が、創り変えられたのか?
確かに、俺はそんな事を言ったかもしれない。言っただろうか。……なんで、
なんで、つい三時間前の記憶が朧げになっているんだ。俺はどうにかなってしまったのか?