つ『5月21日を乗り切る事はできるか』 前編
五月二十一日、月曜日。俺にとっては三回目。
普段通りに姉さんにこの上ない程密着され、学園へと登校してくる他の生徒の注目を浴びながら、並木道を歩く。
一回目と違い、二回目と三回目はいくつかの共通点を見出す事ができた。一回目は三ヶ月の時を過ごした後だったので、もしかしたら色々な事を忘れていたのかもしれない。
印象に残らない事ほど、記憶されずに消えていってしまうものだ。
だが何と言っても今日、俺は死ぬかもしれないのだ。そう考えると自然に頭は働いた。
前回の死を無駄にする訳にはいかない。
だが、ある意味では今のうちならば、何度死んでも五月二十日まで帰って来るということだ。取り返しの付かないフラグを立てて戻らなくなるよりは、という事も少し考えた。
しかしその考えは、すぐに捨て去る事にした。
あの痛みと衝撃を何度も繰り返したら、恋人がどうという問題ではなく、俺が壊れそうだったからだ。
別人と化した姉さんも、あまり見たくはないという事もある。
「ねえねえ……今日もシスコン男来たよ」
「うわー! きもーい」
……この会話を聞くことも、当然繰り返す事になる。俺は薄目を開けて、誰にも見えないように口の端を吊り上げた。良いんだ。俺がこうして姉さんに抱き付かれているうちは、俺は安全なんだから。
さて、俺が神様に問い掛けた質問のうち、返って来なかったものが一つある。
もしも姉さんが俺を諦めなかったら、その後は一体どうなってしまうのか、ということについてだ。ケーキの携帯電話にメールが届いたことで、それは一つの回答を得た。
『最後の質問ですが、今はお答えすることができません。でも何かあったら、いつでも相談してください』
話せない事情がある、ということらしい。……何れにしても、あまり良い事情では無さそうだ。
今後最も重要になるかもしれない質問が聞けなかったということは悔やまれる事だが、結局俺が恋人を見付けなければ、いつか姉さんの前世の記憶を引き摺り出して心中してしまうかもしれないので、俺は覚悟を決める事にした。
なんとかして、卒業までに相手を見付けなければならないということ。それは変わらないのだから。
「純くん、今日もいつも通り終わる?」
「ん、終わるよ。来てもいいよ」
姉さんは何気ない俺の一言に赤面して、少し驚いているようだった。俺が動揺していないからだろうか。二回目の俺は何を考えていただろう。……ああそうだ、周りの空気に少し凹んでいた。それが無いと、このような筋書きになるのか。
校門前まで辿り着くと、姉さんは俺と向かい合って――……この展開も、もう知っている。
俺は先手を打つ事にした。
「今日も、暫くお別れだね……」
「行ってらっしゃい。お昼、待ってるから」
姉さんは目を丸くして、瞬間、顔から火を吹いた。いつも自分が作るストーリーに俺を嵌め込むから、先回りされると弱いのかもしれない。これは良い情報だ。……死ななきゃ出来ない事だけど。
潤んだ瞳で、姉さんは俺を見ている。俺の腹に手を回すと――何故腰ではなく腹の辺りなのかと言えば、残念ながら身長はあまり変わらず、むしろ若干俺の方が低いからだ――唇を、奪われた。
「……わっ。ちょっと、見てあれ!!」「なになに? うわっ……」「今日もアツいねー」
やめろ女子生徒共、こっちを見るな指をさすな!!
……あれ、三回目のファーストキスがまたしても姉さんに……。結局、逃げることは出来ないんだろうか。
ま、いいや。諦めよう。既にもっと凄い事されているし。
こんな事を人前で堂々とされるから、近親相姦などと言われるのだ。
「すっごく、美味しいから……頑張って作ったからね」
「……う、うん」
苦笑しか出来ない。
「純くん!! もし本当に美味しかったら、私をおよめ」「あーもう二十分だあ!! もう教室に行かないと!! 姉さんもほら、会社遅刻しちゃうから!! ね!!」
校門前で何を言い出すんだこの姉は!! 無理矢理に会話をぶった切り、俺は姉さんから離れた。
あ、やばい。泣きそう。……もう、どうしろって言うんだよ。
――ええい、ままよ!!
俺はもう一度姉さんに近付き、唇――はさすがに恥ずかしいので、頬に――キスをした。
泣き出す事はしなかった代わりに、姉さんは頬を抑えて火を吹きっ放しの頭から湯気を立ち昇らせ、その場にずるずると崩れ落ちた。
「うわ」「げっ」「わお……!!」
……女子生徒様方、頼むからリアルな反応をしないでください。と言うより、立ち止まってないでさっさと教室に入ってください。 姉さんに殺されるまでもなく、俺が羞恥心で死んでしまいます。
俺は姉さんに背を向け、ポケットに手を突っ込んで早々にその場を立ち去る事にした。
「……王子様……」
貴女は昨日、もっと危険な事を俺にしていたでしょう。どうして頬にキスくらいで卒倒しているんですか。二十一にもなって白馬の王子様を夢見る事もしないでください。あと、白馬の王子様はそんなに身長低くないですから。
心の中でぶつぶつとツッコミを入れながら、俺は学園の中へと入って行く。姉さんもとぼとぼと、会社に向かったようだ。
……そんなに凄いこと、してしまっただろうか……。既に感覚が麻痺してしまっている。
下駄箱で靴を履き替えると、俺は背を丸めて教室へと向かった。
「穂苅君!」
……ん? 今回は別にきょろきょろと辺りを見回していた訳でもないのに。俺が振り返ると、予想通りの人物が走って来た。今日もポニーテールか。しかし、似合うなあ。
最早、俺の中で青木さんのポジションは綺麗な姉さん、である。
職員室から取ってきたのだろう、大量のプリントを両手に抱えていた。
「青木さん」
俺が声を掛けると、青木瑠璃は目を白黒させて、俺を見ていた。何だろう……?
「……ありがと」
「え? 何が?」
「前は委員長って呼んでたでしょ。あれちょっと、堅苦しかったんだ」
――しまった!!
そうか。俺が委員長の事を青木さんと呼び始めたのは、二回目の出来事じゃないか。五月二十日まで帰って来たということは、その間の出来事は当然青木さんも覚えていない訳であって――……
なんてことだ。ついうっかり出来事に無いことを喋ってしまったら、何が起こるか。
……少し、気を付けるようにしよう。
「……委員長」
「なんで――!?」
「いや、ごめんごめん。ちょっと呼んでみたくなっちゃって。それ、手伝うよ」
「あっ。……ありがと」
青木さんは笑った。俺も釣られて笑う。どうにも、違和感を覚えるやり取りだった。この学園に入って、青木さんと話した回数は数える程しか無いのに。
俺は青木さんのプリントを半分持ち、教室へと向かった。どうせ前回もやった事だし、大した手間ではない。
廊下を歩く途中、青木さんは俺に言った。
「……お姉さんと、ラブラブだったね、さっき。ちょっと見てて、こっちまで恥ずかしくなってきちゃったよ」
――見られていたのか。
そうか。そうだったか。なんということだろう。青木さんは少し頬を染めて、俺に微笑み掛けた。
「あっ、あの、青木さん、あれはね」
「いいの!! 大丈夫だよ、私……ある程度は、理解してるつもりだから」
――開いた口が塞がらない。
何を言っているんだ、この娘は。
確かに、俺から姉さんにキスしたのは、初めてだったけど。いつもはどうにか言葉で解決しようと、していたかもしれないけれど。でも、あれが一番姉さんを泣かせずに納得させる事が出来ると思い、行動したのだ。
どうして、まるで『俺達が』ラブラブみたいなことを。
青木さんは、ぎこちない笑みで俺に笑い掛けた。
「――愛し合っているなら、有りだと思う。……差別しないよ、私」
青木さ――ん!!
こんなシナリオだったら、二回目の方がまだ良かったんじゃないだろうか。もしかして、ここで距離が離れることで三ヶ月後のカラオケパーティーも……
いや、それはまずい!! どうにかして、俺は恋人を見付けないといけないのに!!
助け舟を出してくれたのは、今のところ青木さんだけなんだ。彼女にヒかれてしまったら、今後の俺の人生が、
「あ、青木さん、ちょっと」
「職員室に、追加のプリント残してるんだ。ちょっと行ってくるね」
「――だ、だったら、俺も」
「へーきへーき!! ちょっと、ラブラブっぷりに当てられちゃって。頭冷やしてくる。それじゃねっ!」
あ――――……
青木さんは顔をぱたぱたと左手で仰ぎながら、再び階段の下へと走って行った。
まずいぞ……。この展開は、まずい……。
◆
授業を受けている最中も、俺はずっと深刻なこの状況について考えていた。当然二回目のように、青木さんが授業に集中しない俺に向かって物を投げる事もない。
つまり、それが何を意味するか、お分かりだろうか。
俺と青木さんの距離は、二回目と比べて遥かに遠い位置関係となってしまったのだ。
しかも、俺が死ななければこの展開をやり直す事は出来ない。
どうする……? 始めからやり直すか……?
いや、何を言っているんだ。姉さんを暴走させて自殺しに行くだと? 正気の沙汰とは思えない。
そうだ。もしもこれが仮にゲームだとするなら、五機残っている赤髭の親父が四機になるようなもの、かもしれない。ライフの存在がもしもあるとしたら、無駄に死んでしまうことは避けたい。
まだ、その辺の仕組みについてはよく分かっていないのだから。
どうにかして、この状態のままでも青木さんと近付くしかない。……それも、姉さんから離れて。
なんということだろう。既に絶望的ではないか。
昼休みを告げる、チャイムが鳴った。
青木さんが協力者にならないのだとすれば、誰か協力が必要かもしれない、よなあ。俺一人で姉さんに勝てるとはとても思えないし、あの異常な素早さと嗅覚からどうやって逃れたら良いのかも、未だに結論は出ていない。
……はあ。
教室の扉が勢い良く開いた。大きな音がして、俺は顔を向ける。
「純くん!!」
――あっ
――――あああああ!!
昼前チャイムダッシュに失敗した俺の下へ、何も考えずに姉さんは飛び込んできた。受け止める以外に術を持たない俺は、緩み切った亜麻色の髪の女性にそのまま頭を抱かれる。
そのまま、すごいスピードで頬擦りをされた。ああ、なんか良い匂いがする。いつもの香水か。
「純くん。純くんふああっ……だいすき。んー、チューして」
二回目に誰も居ない屋上で行われた事が、教室で再現される……
……悪夢だ。
「うわー……」
「ちょっと私達、教室から出て行った方が良いんじゃ……」
やめて皆。購買に向かおうとしないで。広げた弁当を仕舞わないで。
不可抗力なんだよおお!!
「ねえ、そっとしておいてあげようよ。……そんなにあからさまに避けたら、失礼だよ」
青木さん。……フォロー、ありがとう。でも、そっとしておいて発言はちょっと悲しい。……それから、俺の方を見ないようにする事をやめて欲しい。
……俺は悲しい。
確かに異常なのは最早いつもの事だ、と着席する者も居れば、こんなピンク色の教室で飯なんか食ってらんねー、と教室を出る者もいた。姉さんは……俺の事になると本当に周りが見えなくなるようで、尻尾を振っている。
尻尾の種類はシベリアン・ハスキーかな……この責め要素と受け要素の複雑な組み合わせが、なんとも言えない。
……あれ? そうか。この展開なら、俺は姉さんにこんな事が言えるかもしれない。
「……姉さん。ちょっと。青木さんがフォローしてくれたよ。ちゃんとお礼言って」
姉さんは気付いて立ち上がり、青木さんを探した。立ち上がって生徒に声を掛けていた青木さんに目が留まり、青木さんは苦笑して姉さんに控えめに手を振った。
姉さんは――……ワイシャツを正し、青木さんに向かって歩いて行く。輝く亜麻色の髪は滑らかに揺れ、流れるような動作で姉さんは懐から名刺を――
「ごめんなさい。うちの弟が、少し迷惑を掛けたみたいで」
迷惑を掛けたのは!! お前だ!!
「あ、いえ。初めまして、青木……瑠璃と申します」
「こんにちは、青木さん。……ところで、察するにあなたは学級委員長かしら?」
「え? ……はい、まあ……」
姉さんは青木さんの両手を包むように握ると、じっと瞳を見詰めていた。唐突な行動に、青木さんが挙動不審になっていた。
こうして見ると、姉妹のようにも見えなくはない。……姉妹か。
そういえば、妹はどうしているかな。何か大切なことを忘れているような……。
「純くんと一緒に、教室でお弁当が食べたいの。……いつも屋上に逃げちゃうから、ちょっとフォローしてくれない?」
今、何を青木さんに言ったのだろうか。聞こえなかったなあ、ハハッ。
青木さんは目を瞬かせて、姉さんの注文に答える。
「……ええ、先生方が許可しているなら、私から何か言う事は無いですけど」
「良いと、思う? 良いよね? 愛し合っていれば、お弁当ぐらい一緒に食べるよね!?」
頼むから、変な同意を求めないで欲しい。
「……はあ、まあ」
「本当!? 聞いた!? 純くん!!」
どうしてガッツポーズを俺に見せ付けているんだろう、あの人は。……俺、嬉しくないよ。ちっとも嬉しくない。
これから毎日、姉さんが教室に来るのか……? 目も当てられない……
あ、でも暴走する事なく青木さんと姉さんの間に関係が生まれたから、これは進歩と言っても良いのだろうか。
……うーん、でもこれで青木さんは益々遠い存在になるから、それを考えるとお世辞にも解決に向かっているとは……言えない。
まだ誕生日から数えて一日目なのに、もう長い時間が経ってしまったかのような錯覚に陥る。ただでさえ三ヶ月と二日を俺はやり直しているから、それが原因なのかもしれないが。
あーあ。