縁切りのカミサマ
縁切り神社、というのが京都だかどこだかにある、というのを数年前になんとなく読んだ、作者の名前も忘れた短編小説に書いてあった。本の内容を忘れてしまった後でも、その神社の存在がずっと頭の片隅のどこかに残っていたのだろう。きっと。何でも、その神社に祈願すれば縁を切ってもらえるらしい。「自分と誰か」でも勿論いいけど、圧倒的に多いのは「○○君と○○さんと別れさせてください」というものだそうだ。
寒いビル街を、首をすくめるようにして歩きながらふとそれが頭の中に浮かんできた。本当に突然。あ、そういえば、そういう神社があるはずだ。
冷たい強い風が吹いていて、きちんとブローした髪が巻き上げられて厄介だった。薄いストッキングにスカートのみの足は冷たかったし。握り締めていた携帯電話を鞄に放り投げ入れて、私は駅を目指した。かかってくる予定だった電話は結局かかってこなかったから。
家に帰ってインターネットで「縁切り」「神社」「京都」と検索をかけたら、すぐにそれは見つかった。本も、実際にあるというその神社も。
京都への女性の一人旅は、最近「おひとりさま」ブームで増えているらしい。大丈夫ですよ、一人旅でも安全ですよ。旅行カウンターの私よりも数歳若そうな茶色い髪の女の子が、面白みのないにこやかな笑顔でそう言いながら、長いラメのついた爪先で、コンピューターを叩いて新幹線のチケットとホテルを手配してくれた。「最近は、パワースポットとかでも有名ですし。良い運、掴んできてくださいね」軽い口調に少しイラっとした。関係ない人のこんなどうでもいい一言にイラっとする自分は相当に余裕がない。
帰宅途中に、携帯電話が震えてメールの着信を告げる。携帯電話を開いたら「昨日はごめん」のメールは「彼」から。言い訳の書き連ねられたメール。仕事が立て込んでいたとか。携帯電話の充電が切れていた、とか。
以前はすぐに返ってきたメールが最近はめっきり遅い。翌日、とか翌々日とかに、謝罪の言葉と共に入っている。それだけならば、別に、お互い慣れてきたから不精になってきたのかな、で済むんだけれど。私は、彼は、半ば義務のように定期的に会うから。食事したり、映画に行ったり、買い物したりするから。一緒に居る時間の態度やちょっとした様子や仕草で、気づいてしまう。彼の心がいまここになくなっている事。離れて行き始めている事。
そして、下手に私も彼も、同じ会社なものだから、気づいてしまう。彼の視線が最近、私の同僚を追っている事を。私の側に座っている同僚を、私ではなくその同僚を、見詰めている事が多い事を。
京都駅は近代的だなぁ、と思う。街がこんなに古いのに、京都に来た人が一番最初に見るであろう駅がこんなに近代的なのはなんだかちぐはぐな気がした。主に生八橋等を売っているお土産屋の並びをさっと通り抜けて、駅前のホテルにとりあえず荷物を置いて、特に観光に行く気分でもなかったのでさっさとその目当ての神社に向かう事にした。
冬の京都はとても寒い。確か夏はひたすらうだるように暑いと聞いたことがある。どちらにしても不便な話だ。それなのに、昔の偉い人たちはここに都を築いたのだから、どこかに良い所はあるのだろうけれど。体に沁み込むような寒さに対抗すべく、ロングダウンと手袋と、分厚いタイツとジーパンとブーツとで武装した私は、がつがつコンクリートを蹴りながら道を歩いた。
私の同僚は、最近「彼」と仲が良い。二人で遊びに行った、という噂さえ私の耳に届いている。「友達だよ?」同僚は罪のない笑顔でそう笑う。んなわけねーだろ! とキレられない私は、そうなんだあ、と曖昧な笑顔で納得のフリ。彼は言う。「ちょっと相談にのってただけだよ?」なんであんたに彼女の相談にのってあげる義理があるの? と、怒れないのは何故だろう? そんなにがつがつしてみっともない? 恥ずかしい? 確かにそれもそうだけど、もっと奥の方で私は恐がっている。
そんな余裕のない態度見せて、愛想つかされて、嫌われたらどうすんの?
先に惚れたのは私だ。メールアドレスを聞いたのも私。デートに最初に誘ったのも私だし。「付き合おう」って言ったのは辛うじて彼だけど、私が言わせるように仕向けた自覚はある。
彼に最初から、好かれている自信は、あんまりない。それでも、やっぱり「彼氏」だし。付き合ってるんだし。きっと私の事好きなんだよ。……って、自分に言い聞かせてたのに。
今でも、言い聞かせてるのに。それでも。
イルミネーション輝くビル街で、寒い中、スカートと薄いストッキングとハイヒールで携帯電話を握り締めて待ちぼうけた私と、その時どこかに一緒にいたのであろう彼と同僚の事を考えると。……。
縁切り神社、は一見普通の神社のようだった。
なんとなく、禍々しいものを想像していた私は少し胸をなでおろして、社務所で絵馬を買ってからそれを記入して、絵馬掛けに向かった。同僚と彼の縁が切れますように。
噂どおり、絵馬掛けにはたくさん、怨念のこもった願い事が書いてあった。興味本位でいくつか読んでいるうち、だんだん吐き気がしてきた。読むたびに、苦いものが胸の中に込み上げてくる。
私、なにやってるんだろう……?
強い風がひと吹きして、かたかたかたと絵馬を揺らして去って行った。その音は、絵馬を読み続けた私を我に返らせた。
私は、きびすを返して台に戻ると、マジックで自分の絵馬の中の同僚の名前を塗りつぶす。そして、その代わりに自分の名前を書き入れた。自分がこんな風にまでなってしまうような感情にはもう、ケリをつけたい。切実に。おねがいします。本当に、お願いします。
私と彼の縁が、もう切れてしまいますように。
もういい加減私が、彼を諦められますように。
神社の鳥居をくぐって道に出ると、なんだか肩の荷が下りたような感じがした。ふらふらと歩いていると、誰かにぶつかってしまった。あ、すいません、と言って去ろうとした相手はぎょっとしたような顔で私の顔を見て足を止めた。
「え? もしかして、俺のせいで……?」
恐る恐るの疑問系。んなアホな。ちょっと肩がぶつかったくらいでこんなになってたらたまんない。
こんなに、だらだら涙垂れ流してたら、たまんないよ。
言いたかったのに、嗚咽で声が出なかった。どころか、人に話しかけられたせいでタガが緩んだのか、更に涙は酷くなる。
見知らぬ人、ごめんなさい。そう思いながら、私はその場でしゃがみこんで泣き出した。見知らぬ人が、おろおろするのにも構わず……。