二度目の交錯
(あの姿は……!)
街の雑踏の中、通りの向こうに見つけたその姿に、彼女は思わず立ち止まり、息を呑んだ。
向こうの男性も、それまで進めていた足をはたりと止め、通りの反対側にいる彼女のことをじっと、身動きもせず見つめている。
彼女の心臓は、今にも壊れてしまいそうなほどにバクバクと音を打ち、その伸縮を速めていた。
道行く人々は、立ち止まって見つめ合う二人の人間になど見向きもせず、ただ己の中に流れゆく時に身を任せるかのように、ある者は忙しなく、またある者はゆったりと、それぞれのペースで二人の横を、前を、後ろを、器用にすり抜けていく。
彼女はもちろん、そんな周りの人間の姿など、眼中にない。
(あぁ、まさかもう一度、会える日が来るなんて!)
大通りを隔てた向こうの彼のまた、同じようだった。
――いや、ただ単に、じっと見つめてくる彼女の射るような視線に、逆らえないだけなのかもしれない。
彼が自分と同じ気持ちを抱いているなどということは、彼女には信じがたいことだった。
(だって彼は、わたしを知らないはず)
それは彼女にとって、独りよがりな一方通行の認識であり……ひどく身勝手な、片思いでしかない。
(あなたは覚えていないでしょうけれど、わたしは今でもあの時のことを、はっきりと思い出せる)
彼を見つめる双眼に、微かな痛みと切なさが過ぎる。そのことすらきっと、向こうにいる彼には伝わらない。
彼女は目を逸らさぬまま、その場に立ち尽くした。彼もまた、身じろぎひとつせず、同じように彼女を見つめている。
けれどその内心はきっと、違うのだろう。彼女はそう、確信していた。
彼女は彼に視線を固定させたまま、運命のあの日に――彼と初めて出会った日に、想いを馳せた。
(そう、あれは忘れもしない。二年前の、春の日のこと)
◆◆◆
遡ること二年前、四月の初めごろ。
彼女は当時通っていた大学のサークル仲間と、花見に来ていた。
「やっぱりこの道の桜並木は、いつ来ても綺麗に咲いてるよね」
「ホント」
目的地である公園の近くにある並木道には、見事な薄紅色のアーケードが広がっている。もうこの街に住み始めて三年が経っていたから、いい加減見慣れてはいたものの、この神秘的とも取れる光景は、目にするたびに彼女を感動させ、見惚れさせた。
「大学生活も残り少ないんだし、今日はめいっぱい楽しんじゃおう!」
「たまにはリフレッシュしなくちゃね」
「そうそう。最近は就活とか卒論とか、気が滅入っちゃうことばっかなんだもん……」
「だよねぇ。たまにはサボったって、罰は当たんないって」
そんな風に話している仲間たちの声に相槌や笑みを返しながら、彼女はアーケードをひたすらに進んでいく。
道行く人々もまた、どこかで春を堪能しに行くのだろうか……。
まぁ、そんなことどうだっていいのだけれど。
すれ違っていく人や、自分たちを追い越し先に進んでいく人の群れを一瞥し、大した興味もなくフッと目を逸らしかけた時。
彼女は『その人』に出会った。
向こうもどこかのサークルで花見をする途中なのか、周りにいる人間のほとんどがつまみ・酒の入ったビニール袋や、弁当が入っているのであろう重箱のようなものを手にしている。『その人』もまた、片手にビニール袋を提げて歩いていた。
逸らしかけた視線は、まるで吸い寄せられるかのごとく『その人』の方へと向く。顔の辺りに目がいったとたん、二人の視線は絡み合うように交錯した。
本当に、時間が止まったようだった。現に彼女の中を流れていた時間は、その動きをぱったりと止めてしまっている。
「――か、明日香!」
サークル仲間の呼ぶ声で、彼女はハッと我に返る。それでようやく、彼女は自分がその歩みを――また、それまで仲間内で流れていたはずの時間をも――止めてしまっていたことに気が付いた。
視線を戻すと、仲間の一人が心配そうに彼女の顔を見ていた。
「どしたの、ボーっとしちゃって。誰か知り合いでもいたの?」
「……ううん。何でも、ないよ」
眉を下げる仲間に向け、彼女は曖昧に笑ってみせた。
『その人』は確かに、彼女にとって全く面識のない人だった。誰か懐かしい人だったわけでも、そういった人に面差しが似ていたわけでもない。
ならば、どうして……視線を、逸らせなかったのだろう?
もう一度ちらりと『その人』の方に目をやってみるが、彼はもうこちらを見ていなかった。彼女と同じように、不審に思った周りの仲間から咎められたのだろう。仲間と思しき一人に肩を組まれ、あちこちから揶揄するような声を掛けられている。
「三原、お前何ぼんやりしてたんだよ」
「もしかして、さっきすれ違った子たちの中に、お目当てがいたとか?」
「えー、コイツそういうの興味ないと思ってたのに、意外だなぁ」
渦中の彼は少し頬を染めて、必死そうに否定していた。
「そんなんじゃないって――……」
柔らかなテノールの、心地よい響き。
その姿も声もだんだん遠ざかっていくものの、『その人』の名前らしきものと何気ない声を偶然にも耳にすることができて、彼女は嬉しくなった。そのことに、自然と頬が緩む。
「明日香、どうしたの。ニヤニヤしちゃって」
「ちょっとぉ、気持ち悪いわよ」
「気持ち悪いって何気に失礼だよ! ホントに、何でもないってば」
こちらもこちらで、仲間たちから受ける追求を必死に否定しながら、止まっていた足をどんどん先へと進めていく。
何事もなかったかのように、二つのグループは――二人の男女はすれ違い、反対方向へと歩みを進めていった。
そして、結局彼女が『その人』に会ったのは、その一度きりだった。
◆◆◆
(あれからずっと、忘れられなかった。偶然を願って、あなたの姿を何度も探した。顔の判別も難しいほどに、短い間だったけれど……あなたはあの日のことなど、きっと少しも覚えていないだろうけれど。それでも……それでも、わたしは)
わたしはずっと、あなたのことが。
あの日のことを思い出せば思い出すほど、彼女の中でどうしようもなく甘くて切ない想いが溢れ出して、止めようとしても止められなくなる。
(もう二度と、会えないと思っていたのに)
これは、神様のくれたたった一度きりのチャンスだと、彼女は思った。
今この時を逃してしまったら、もしかしたら本当に、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、居てもたってもいられなくなって……。
気づけば、あの時のように――彼の方へと引き寄せられていくかのように、彼女は走り出していた。
彼はその場から動かなかった。まるで彼女が来るのを待っているかのように、走って近づいてくる彼女から目を逸らそうともしない。
彼女がどんどん彼に近づき、とうとう彼の目の前にその姿を現しても、彼はそこから離れていこうとしなかった。
彼女は初めて間近に見た彼の姿を前に、息を弾ませていた。走ったせいだけではない呼吸の乱れと鼓動の速さが、彼女の緊張に拍車をかける。
「あっ、あの……!」
心の準備もできていないまま、感情が先走るままに、気づけば彼女は言葉を口にしていた。
彼がどんな顔をしているのか、確かめるのが怖かった。きっと不思議そうな、訳が分からないというような目で、彼女を見下ろしているのだろう。
頭の整理など、できていない。彼にこれから何を言おうとしているのかすら、自分でもわからないほどだった。
それでも彼女は、何とか絞り出すように、必死に言葉を紡ぐ。
「二年前、わたしはあなたにお会いしました。ほんの一瞬に近いぐらいの短い時間だったけど、目が合ったんです。そ、それで……わたし、多分その時、あなたに一目惚れしちゃって。あ、あなたはきっと、もうお忘れだろうと思います……っていうか、こんなこといちいち覚えてるわたしの方が、むしろ異常っていうか、気持ち悪い、ですよね。で、でも……やっぱり、偶然にもこうやってもう一回あなたに会えたから。きっともう二度と会うことなんてないだろうから、これを機に……伝え、たくて」
じわり、と彼女の目に涙がにじむ。こみあげてくるものに耐えるように、彼女はギュッと固く目を瞑った。
すぅ、と小さく息を吸い、彼女は彼の顔をまともに見ないまま、うつむきながらほぼ叫ぶように、この二年間ずっと伝えたくて、聞いてほしくてたまらなかった心情を吐露する。
「あなたは、わたしを知らない。でも……わたしはずっと、あなたを知っていました。この二年間ずっと……わたしは片時も、あなたを忘れたことなんてなかった。わたしは、あなたのことがずっと、好き……だったんです」
言い終えて、彼女はようやく落ち着いたように、ふぅ……と深い息をついた。力が抜けたと同時に、これから受けるのであろう仕打ちが怖くて、彼女の身体はがたがたと震えだす。
彼がこれから話し始める合図――すぅ、と息を吸うかすかな音が、頭上から聞こえてくる。
まるで叱られるのを待つ子供のような気持で、彼女は身を竦ませた。
あの日聞いたのと同じ、柔らかなテノールの声で、彼は言葉を紡いだ。
「顔を上げて」
びくびくと、恐れるように彼女が顔を上げる。
訳が分からないというような、訝しげな顔をしているだろうという、そんな彼女の予想は見事に外れて……彼はただ、穏やかに笑んでいた。
その優しい声、そして表情に、彼女はまるで寒い場所にいるかのように強張っていた自分の身体が、不思議とほぐれていくのを感じた。
おそらく今の自分は、ひどく滑稽で、間抜けな表情をしていることだろう……と、彼女はぼんやりと思った。
少し笑って、彼は彼女の目を真正面から見つめた。その瞳があまりに真剣で、彼女の心臓は再びドキリと高鳴る。
身体の芯に染み入るような優しい声と穏やかな表情で、彼は噛みしめるように、その言葉を――彼女の言葉に対する答えとも取れる、その言葉を口にした。
「忘れなど、しませんよ」
全く予想もしていなかった答えに、彼女はこれでもかというほどに大きく目を見開いた。何か口にしようと唇を開きかけるが、震えてしまって声にならない。めいっぱい見開かれた目から、一粒の涙がポロリと零れ落ちた。
彼はズボンのポケットからハンカチを取り出すと、彼女の頬に伝った一筋の涙を拭った。微笑みを絶やさぬまま、同じ調子で続ける。
「二年前、桜並木の下で目が合ったあの時……俺も多分、あなたに一目惚れしました。あれからずっと、ほんの一瞬のことだったのに……この二年間、ずっと、あの時のことが頭から離れなくて。目を逸らそうとしても逸らせなくて。そんなこと初めてで。またどうしても、あなたに会いたくなって……さっき道の向こうであなたを見た時は、本当に運命だと思いました。見つめながら、あなたも俺と同じ気持ちでいてくれたらいいのにな、こっちに近づいて来てくれたらいいのになって念じていたら……本当に、来てくれた」
彼もまた、彼女と同じことを想っていたのだ。
この事実に、彼女の涙腺はまた緩んだ。今度はおそらく、嬉し泣きだ。
「っ……こんな、なんて……奇跡なんですか。わたし……こんなに幸せなことが、他にあるんでしょうか」
何を言っているのか、自分でもわからない。それでも彼女は泣きながら、ずっと抑えていたはずの想いを溢れさせた。
「好き、です……あなたが、好きです。三原、さん」
彼女があの日一度だけ聞いた、彼の名前を初めて口にすると、彼は少しだけ目を見開いたあと、心から幸福そうに、屈託なく笑った。
「そういえば、あの時友人が呼んでいた……俺の名前、覚えていてくれたんですね」
先程までの落ち着いた雰囲気とは打って変わった、その子供のような無邪気な笑みに、彼女の心は甘く締め付けられた。
あぁ……何度言っても、足りない。わたしはやっぱり、彼のことが……。
彼は笑みを絶やさぬまま、嬉しそうな声色で、はっきりと告げた。
「俺も好きです、明日香さん」
今度は彼女が再び、目を見開く番だった。
彼女はずっと、その柔らかなテノールの声で自分の名前を呼んでもらえることを想像していた。あの時呼びかける際、友人が口にした自分の名前を、覚えていてくれたら……それは、どれだけ素敵なことだろうと。
あの時のこと自体を、きっと彼は覚えていないだろう。そう、思い込んでいたのに……。
顔を覆って泣く彼女の頭を、繊細な手がふわりと撫でた。そのまま、ぐいっと抱き寄せられる。
彼のぬくもりに身体を包まれながら、彼女はまるで天国にでもいるようなふわふわとした気持ちで、幸福をかみしめるように、そっと目を閉じた。
…なんだこれ。
とりあえず突発的に書いてみたくなったので、書いてみた感じです。
色々お見苦しい点が多いと思いますが、ホントにそれは作者の力不足でございます、すみませんでした(土下座)
実はこのお話、ある文学作品を下敷きにして書いたものなのです。
その文学作品とは、私が尊敬してやまない泉鏡花氏の短編『外科室』。
小石川植物園で偶然すれ違い、視線が交錯し合っただけで恋に落ちてしまった男女が、九年の時を経て、医者と患者(伯爵夫人)として再会する…という感じのストーリーです。
作中の「あなたは、わたしを知らない」「忘れなど、しませんよ」というセリフは、『外科室』の「あなたは、私を知りますまい」「忘れません」というセリフをもとにしてます。
うーん…あの素晴らしくも美しい短編が、この拙い文章ではどうしても伝わりませんね。もどかしい気分でございます。
ってなわけで。
泉鏡花氏の『外科室』、ぜひとも一度お読みになってみてくださいね(←そんな話だったか?)




