魔法学園に通う十七歳。学園祭の実行委員で、組でいちばん苦手な男子と組まされた
「では、十一の星・赤の組の学園祭実行委員は、カミーユとオーギュストで決まりだ」
担任の先生が黒板に二人の名前を書いた。白墨がかつかつと鳴った。
カミーユは自分の名前の横に並んだ「オーギュスト」の文字を見て思わず机の下で拳を握った。
――よりによって。
くじ引きだった。誰もやりたがらない実行委員をくじで決める。四十人の組で二本の当たりくじ。カミーユが引いた紙に「当」の字があったとき、まあいいか、と思った。去年も学生会の手伝いをしたし、段取りを考えるのは嫌いではない。
でも、もう一本の当たりを引いたのが、オーギュストだった。
窓ぎわのいちばん後ろの席。椅子の背にもたれて、片肘をついて、外を見ている男子。黒い髪が少し伸びていて、制服の襟の留め具をいつも外している。
オーギュストは黒板の自分の名前を見ても、表情一つ変えなかった。それから、一言だけ言った。
「……だる」
組の何人かがくすっと笑った。
カミーユの眉がぴくりと動いた。
王立アステリア魔法学園、十一の星。十七歳。オーギュストとは、十の星のときから同じ組だ。でも、まともに話したことはほとんどない。
アステリアでは、学年を星の数で呼ぶ。入学した年が一の星で、いちばん上が十二の星。制服の胸の学年章に、一年ごとに銀の星が一つずつ増えていく。
いつも一人でいる。誰かと騒いでいるところを見たことがない。授業中は寝ているか、窓の外を見ている。話しかけられても、「別に」「どうでもいい」「勝手にすれば」。
十の星の夏、組の合唱祭の練習で、カミーユが声部の取りまとめをやったとき、オーギュストは一度も練習に来なかった。本番の前日、カミーユが「せめて明日は来て」と言いに行くと、オーギュストは、カミーユの顔も見ずに言った。
――おれが出なくても、誰も困んないだろ。
あの言い方が今でも忘れられない。
だから、カミーユはオーギュストが苦手だった。組で、いちばん。
「カミーユ、オーギュスト、放課後、実行委員の集まりがあるから、学生会室な」
先生の声に、カミーユは「はい」と返事をした。
窓ぎわの後ろの席から、返事は聞こえなかった。
放課後の学生会室は、各組の実行委員でいっぱいだった。長机に、二十人くらいがぎゅうぎゅうに座っている。天井の魔石灯の白い光。刷りたての配り紙の、インクのにおい。
オーギュストは来た。来たけれど、いちばん後ろの壁にもたれて、腕を組んでずっと黙っていた。
学生会長が学園祭の日程と注意事項を説明した。カミーユは配られた紙にペンで書きこみを入れながら聞いた。予算の上限。火の魔法の禁止。準備期間の寮の門限。
ちらりと後ろを見ると、オーギュストは目を閉じていた。
――寝てる。
カミーユはペンを強く握った。
説明が終わると、学生会の人が、各組に木箱を一つずつ配った。中には、去年の学園祭の資料と、貼り布の巻きと、太い墨筆の束。けっこう重い。
カミーユが箱を持ち上げようとしたとき、横から手がのびてきた。
オーギュストだった。何も言わずに、箱をひょいと持ち上げて、そのまま学生会室を出ていった。
カミーユは空っぽになった机の前でぽかんと立ち尽くした。
――何、あれ。
お礼を言う前に、いなくなった。追いかけて廊下に出ると、もう、オーギュストの背中は階段の向こうに消えていた。
教室に戻ると、カミーユの机の上に、木箱が置いてあった。オーギュストはもう寮に帰っていた。
カミーユは箱を見下ろしてむっと唇をとがらせた。
持ってくれたのはありがたい。でも、何も言わずに勝手に。まるで、カミーユに持たせるのが面倒だったみたいに。
――やっぱり、よく分かんない人。
学園祭まであと三週間。
十一の星・赤の組の出し物は、多数決で「幻のお化け屋敷」に決まった。教室を暗幕で区切って、迷路を作って、幻灯の魔法とお化け役で驚かせる。準備が大変な出し物の、上から三番目くらい。
実行委員の仕事は、山ほどあった。
学生会への企画書。予算の申請。暗幕と、迷路の壁にする厚紙の板の手配。衣装と小道具の担当決め。当番表。教室の配置図。火と幻灯の魔法の、安全の点検。
カミーユはその全部を紙に書き出した。それから、オーギュストの席まで行って二枚を差し出した。
「これ、仕事の割り振り。半分ずつ」
オーギュストは紙を受け取ってちらりと見た。
「……ふーん」
「企画書と配置図は、わたしがやる。オーギュストは厚紙集めと、暗幕の手配と、当番表。いい?」
「勝手にすれば」
カミーユの奥歯が、きしりと鳴った。
勝手にすれば。十の星のときと、同じ言い方。
――やっぱり、この人とは無理。
カミーユはくるりと背を向けて自分の席に戻った。背中にオーギュストの視線を感じた気がしたけれど、ふり返らなかった。
それから一週間、オーギュストは何もしなかった。
少なくとも、カミーユにはそう見えた。
放課後、組のみんなが教室で準備をしているあいだ、オーギュストはいつも、いつの間にかいなくなっていた。厚紙の板は一枚も集まらない。暗幕の話も聞かない。当番表もできていない。
カミーユは自分の分の企画書と配置図を仕上げて学生会に出した。それから、衣装係の女子たちの相談に乗って、小道具係の男子たちに厚紙の切り方を教えて、毎日、寮の門限ぎりぎりまで教室に残った。
「カミーユ、大丈夫? 顔色悪いよ」
親友のセリアが苺の果実水の小瓶を差し出してきた。セリアは衣装係の取りまとめだ。
「大丈夫。……って言いたいけど、オーギュストが何にもしないから、こっちが倍」
「あいつ、相変わらずだね。先生に言えば?」
「言ったって、どうせ、勝手にすればって言われるだけだよ」
カミーユは果実水の小瓶に口をつけた。甘さが疲れた舌にしみた。
「厚紙の板、あと四十枚いるのに、一枚もない。暗幕も、まだ借りられるかどうか分かんない。来週から組み立てなのに」
言いながら、喉の奥がつまった。
去年も合唱祭で同じだった。カミーユが一人で走り回って、オーギュストは一度も来なかった。本番はなんとかなった。でも、終わったあと、カミーユは寮に帰ってから、自分の部屋で少しだけ泣いた。
誰も見ていないところで、一人で全部やるのは、思っていたよりずっと、さみしいことだった。
学園祭まであと二週間の月の日。
朝、カミーユが教室に入ると、教室の後ろに、厚紙の板が積み上がっていた。
ぴったり四十枚。どれも同じ大きさ。きれいに重ねてひもで束ねてある。束の上に、墨筆で「十一の星・赤の組 お化け屋敷用」と書いた紙が貼ってあった。
「え、なにこれ。誰が持ってきたの?」
「知らない。朝来たら、あった」
組の男子たちが首をかしげていた。
カミーユは束の上の紙を見た。墨筆の字。少し角ばった、細い字。
見覚えのない字だった。
その日の昼休み、学生会室に行くと、学生会の副会長が、カミーユを見てひらひらと手をふった。
「あ、赤の組のカミーユさん。暗幕の件、だいじょうぶだから。講堂の倉庫から、赤の組の分、八枚。もう押さえてあるよ」
「……え?」
「先週、オーギュストくんが来て手続きしていったよ。暗幕って、毎年取り合いになるから、早い者勝ちなんだけど。赤の組がいちばんだった」
カミーユは手の中の紙を握り直した。
「オーギュストが?」
「うん。それと、これ」
副会長は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
当番表だった。
学園祭の二日間、午前と午後、一時間ごとの区切り。お化け役、受付、案内係、休憩。四十人全員の名前が、ぎっしりと書きこまれていた。部活の出し物がある人は、その時間を外してある。吹奏楽部の演奏の時間。幻灯部の上映の時間。家の用事で、二日目の午後に早く寮を出る人。
一人も、無理がなかった。
「学生会に出す前に、一回見てくれって。カミーユさんに渡しといてって頼まれた」
カミーユは当番表を両手で持ったまま、動けなかった。
角ばった、細い字。厚紙の束の上の紙と、同じ字。
――オーギュストの、字。
一枚目のいちばん下に、小さく書き足してあった。
――カミーユは、二日とも午後の三時から自由。後夜祭の準備があるから。
その日の放課後、カミーユはオーギュストを探した。
教室にはいなかった。寮の玄関にもいなかった。図書館にも、塔の上の展望台へ続く階段にも。
見つけたのは校舎の裏の、ほうき置き場の奥だった。
オーギュストはしゃがみこんで、厚紙の板を小刀で切っていた。お化け屋敷の迷路の壁にする、大きな板。地面に、定規と鉛筆と、切りくずが散らばっている。手のひらが灰色に汚れていた。
「……オーギュスト」
オーギュストの手が止まった。
ふり向いて、カミーユを見た。それから、すぐに厚紙に目を戻した。
「何」
「厚紙、四十枚。暗幕、八枚。当番表」
カミーユは手の中の当番表を見せた。
「全部、オーギュストがやったの?」
「割り振られた分、やっただけ」
「なんで言わなかったの」
「言う必要、ある?」
オーギュストは小刀を厚紙に当てた。すっ、と、まっすぐな線が引かれた。
「だって、わたし、ずっと、オーギュストが何もしてないと思ってた。セリアにも、何にもしないって愚痴って。先生に言おうかとまで思ってた」
「知ってる」
カミーユは息をのんだ。
「教室で聞こえてたし。別にいいよ。そう見えてたなら、そうなんだろ」
オーギュストは淡々と言った。怒っているようにも、傷ついているようにも聞こえなかった。
それがかえってカミーユの胸に刺さった。
「……よくないよ」
声が少しふるえた。
「よくない。わたし、勝手に決めつけてた。十の星のときの合唱祭のこともあって、オーギュストは、どうせ何にもしない人だって」
オーギュストの手がまた止まった。
「厚紙、どこで集めたの。四十枚も、同じ大きさの」
「町の市場の、紙問屋。毎日、店じまいのときに、裏で十枚ずつ、売れ残りの切れ端をもらってた。四日」
「暗幕は」
「学生会に、先週の月の日。毎年取り合いになるって去年の三年に聞いた」
「当番表は」
オーギュストは少しだけ黙った。
「……部活の時間とか、みんなに聞いて回った。教室だと、なんか、目立つから。部室とか、寮の食堂とかで」
カミーユは言葉が出なかった。
一週間、放課後になると、いつの間にかいなくなっていた。さぼっているのだと思っていた。
町の市場の紙問屋の裏で切れ端を十枚ずつもらって。部室を回って一人ずつ予定を聞いて。
誰にも何も言わずに。
「……なんで」
カミーユはしゃがみこんで、オーギュストと目の高さを合わせた。
「なんでそんなに一人でやるの」
オーギュストは小刀を置いた。
灰色に汚れた手で前髪をかき上げた。それから、少しだけ、カミーユのほうを見た。
「カミーユが、一人で全部やるから」
カミーユの指先が、制服の裾の端で止まった。
「……え?」
「去年の合唱祭。カミーユ、声部の取りまとめで一人で全部やってた。楽譜を写しの魔法で刷って、練習の日程決めて来ないやつに声かけて。毎日、最後まで残って」
オーギュストは厚紙の切りくずを指でつまんだ。
「おれ、あのとき、練習行かなかった。行けなかった。……母親が、施療院に入ってて。放課後、毎日、町まで通ってた」
カミーユの胸がぎゅっと縮んだ。
「知らなかった……」
「言ってないから。言いたくなかったし。同情されんの、嫌だったから」
オーギュストは切りくずをぽいと厚紙の上に投げた。
「本番の前の日、カミーユが来て明日は来てって言った。おれ、あのとき、おれが出なくても誰も困んないだろって言った」
「……覚えてる」
「ひどいこと言ったってずっと思ってた」
オーギュストの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「本番、行ったんだ。後ろの、いちばん端に立って口だけ動かしてた。カミーユ、指揮台の横で、ずっと泣きそうだったのに、最後まで笑ってた。終わったあと、みんなが帰ってから、一人で音楽堂の椅子、全部片づけてた」
カミーユは口をおさえた。
見られていた。誰もいないと思っていたのに。
「それ見て思った。この人、いつも一人で全部やって誰にも頼らないんだなって。……だから、今年、くじで一緒になったとき、半分は絶対おれがやろうって決めた。カミーユが一人で泣かなくていいように」
オーギュストはそこまで言って、はっとしたように口を閉じた。
それから、横を向いた。耳が夕日の色に染まっていた。
「……今の、なし」
「なしにしない」
カミーユの声がふるえた。目の奥が熱かった。
「なしにしないよ、オーギュスト」
去年の合唱祭のあと。誰もいない音楽堂で一人で椅子を片づけた。寮に帰って、自分の部屋で少しだけ泣いた。誰にも見られていないと思っていた。
見ていてくれた人が、いた。
しかも、その人は今年、カミーユが一人で泣かなくていいように、誰にも言わずに、町の紙問屋の裏で厚紙を集めていた。
なみだが一つぶ、こぼれた。カミーユはあわてて手の甲でぬぐった。
「……泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「オーギュストのせいだもん」
オーギュストが困ったように眉を寄せた。それから、上着のポケットから、くしゃくしゃのハンカチを取り出して黙って差し出した。灰色の手の跡がハンカチのすみについていた。
カミーユはそれを受け取って思わず笑ってしまった。
「汚れてる」
「……悪かったな」
二人のあいだで、切りかけの厚紙が、夕日を浴びていた。
「……お母さん、今は」
しばらくして、カミーユは、ハンカチを握ったまま訊いた。
「元気。去年の冬に、施療院を出た。今は町の仕立て屋で働いてる。手紙が毎週来てうるさい」
オーギュストは少しだけ口の端をゆるめた。
「よかった……」
カミーユはほっと息を吐いた。それから、オーギュストの手もとの厚紙を見た。
「それ、迷路の壁?」
「ああ。教室で切ると、床に傷つくから。ここでやってた」
「手伝う」
カミーユは制服の裾を押さえて、オーギュストの隣にしゃがみこんだ。
「定規、押さえるくらいならできるから」
オーギュストは少しだけ目を見開いた。それから、黙って、定規をカミーユのほうへずらした。
二人で厚紙を切った。カミーユが定規を押さえてオーギュストが小刀を引く。すっ、すっ、と、まっすぐな線が、何本も引かれていく。
オーギュストの手は、思っていたよりずっと器用だった。小刀の刃を少しも迷わずに進める。曲がった線が一本もない。
「上手だね。切断の呪文、使わないの?」
「呪文だと、切り口が焦げる。厚紙は手で切ったほうがきれい。……父親が、大工だったから」
「だった?」
「……今はいない。初等科のとき、出てった」
カミーユの手が定規の上で止まった。
オーギュストは小刀を動かし続けていた。声は淡々としていた。
「だから、母親が倒れたとき、おれしかいなかった。施療院行って家のことやって。……一人でやるの、慣れてんだ」
カミーユは何も言えなかった。
一人でやるのに、慣れている。
カミーユも、そうだった。誰にも頼らずに、全部、自分で。そのほうが早いし、確実だし、誰にも迷惑をかけない。
でも、本当はさみしかった。
オーギュストも、きっと、同じだったのだ。
「オーギュスト」
「何」
「これからは、半分ずつね。ちゃんと、言い合って」
オーギュストの小刀が、止まった。
「厚紙も暗幕も当番表も。オーギュストが一人でやったら、わたし、また勘違いするから。……わたしが一人でやったら、オーギュストが、また、見てるだけになっちゃうから」
オーギュストはしばらく黙っていた。
それから、厚紙に目を落としたまま、小さくうなずいた。
「……分かった」
夕日がほうき置き場の屋根の向こうに沈みかけていた。二人の影が切りかけの厚紙の上に、長く並んでのびていた。
それからの二週間、カミーユとオーギュストは、放課後、毎日一緒に残った。
オーギュストは相変わらず口数が少なかった。でも、カミーユが配置図を広げると、黙って隣に来て、迷路の通路の幅を定規で測った。カミーユが衣装係と小道具係のあいだで板ばさみになっていると、いつの間にか、小道具係の男子たちと話をつけていた。
「オーギュストって意外と話すんだね」
セリアがこっそりカミーユに耳打ちした。
「男子たちに、壁の組み方、教えてたよ。すごく丁寧に。あいつ、手先が器用なんだって」
「うん。知ってる」
カミーユは教室の後ろで、厚紙の壁を貼り布でつなぎ合わせているオーギュストの背中を見た。
「……カミーユ、顔」
「え?」
「にやけてる」
カミーユはあわてて手で頬をおさえた。
学園祭の前の日、夜の八時まで教室で最後の仕上げをした。門限は実行委員の届けで延ばしてもらった。暗幕を張って、迷路を組んで、幻灯の魔石の位置を確かめて。組の半分くらいが残っていた。
最後に、カミーユとオーギュストが、二人で迷路の中を歩いて確かめた。
暗幕の中は真っ暗だった。足もとを照らす小さな灯り石だけが、点々と光っている。厚紙の壁に手を当てながら進む。
三つ目の角を曲がったところで、カミーユの足が床の貼り布に引っかかった。
「わっ」
体が前につんのめった。
腕をつかまれた。
「……あぶない」
暗闇の中で、オーギュストの声がすぐそばで聞こえた。
腕をつかんだ手が、温かかった。厚紙の粉で少しざらざらしていた。
カミーユの心臓が、どくん、と鳴った。
暗くて、オーギュストの顔は見えない。でも、すぐ近くにいるのが分かった。息づかいが聞こえる。制服から、ほんの少し、洗濯石鹸の匂いがした。
「……ありがと」
「足もと、貼り布。明日までに貼りなおす」
オーギュストはカミーユの腕を離した。
でも、手は離れなかった。腕から、すべるように下りてきて、カミーユの手をそっとつかんだ。
「出口まで。暗いから」
カミーユは何も言えなかった。
つないだ手を握り返した。
迷路の出口までの、十歩くらい。暗幕の向こうから、組のみんなの笑い声が聞こえていた。
学園祭の一日目、開場から一時間がたったころ、事件が起きた。
「カミーユ! 迷路の三つ目の角の壁、倒れた!」
お化け役の男子が、暗幕の中から飛び出してきた。
カミーユは受付の机から立ち上がった。教室の前の廊下には、二十人くらいの行列ができている。見学に来た初等科の子どもたちが、わくわくした目で順番を待っていた。
暗幕をくぐると、迷路の真ん中で、厚紙の壁が一枚、斜めに倒れかかっていた。お客さんがぶつかったらしい。貼り布がはがれて、隣の壁までぐらぐら揺れている。
このままだと、迷路全体が崩れる。
カミーユの頭が真っ白になった。
行列を止めなきゃ。お客さんに謝らなきゃ。でも、止めたら、みんながっかりする。直すのに、どれくらいかかる? 貼り布、どこに置いたっけ。
「カミーユ」
後ろで声がした。
オーギュストだった。貼り布を二巻きと、予備の厚紙を一枚、脇に抱えていた。
「行列、五分だけ止めて。お客さんに、お化けの準備中ですって言えば、待ってくれる」
「え、でも」
「おれが直す。五分で」
オーギュストはもう、倒れた壁の前にしゃがみこんでいた。
カミーユは一瞬だけ迷った。それから、うなずいた。
「分かった。お願い」
暗幕の外に出て、行列の先頭の子どもたちの前にしゃがみこんだ。
「ごめんね。今、お化けたちが、もっと怖くなる準備をしてるの。五分だけ、待っててくれる?」
子どもたちが「えー、もっと怖くなるの?」「やだー」と言いながら、目をきらきらさせた。
四分後、オーギュストが暗幕から顔を出して親指を立てた。
カミーユは行列の先頭の子に、手持ちの灯り石を渡した。
「お待たせしました。どうぞ、お化け屋敷へ」
子どもたちが悲鳴を上げながら暗幕の中へ消えていった。
カミーユは受付の机に戻って大きく息を吐いた。
隣に、オーギュストが戻ってきた。作業用の手袋を外して額の汗をぬぐっていた。
「……ありがと、オーギュスト」
「半分ずつ、だろ」
オーギュストはぼそっと言って受付の椅子に座った。
カミーユは思わず笑った。
一人だったら、きっと、慌てていた。行列を止めて、一人で壁を直して一人で謝って。去年までのカミーユなら。
今年は隣に、半分を持ってくれる人がいる。
学園祭の二日間は、あっという間に過ぎた。
二日目の午前中、カミーユは受付の机で行列の人数を数えながら、ときどき隣を見た。オーギュストは腕を組んで、迷路の出口から出てくるお客さんを見ていた。泣きながら出てくる初等科の子がいると、ポケットから飴を出して、黙って手のひらにのせてやっていた。
――あんなの、どこに隠してたんだろう。
カミーユはこっそり笑った。
机の下に置いたオーギュストのかばんの口から、苺味の飴の袋がのぞいていた。半分くらい、減っていた。小さい子が泣いたときのために、朝のうちに購買部で買ってきたのかもしれない。
お化け屋敷には行列ができた。セリアの作った衣装は本物みたいに怖くて、小さな子どもを三人泣かせた。当番表のおかげで、誰も無理をせずに、全員が交代で、ほかの組の出し物も見て回れた。
二日目の午後三時。
当番表に書いてあったとおり、カミーユは自由になった。
後夜祭の準備のために、実行委員は中庭に集まることになっていた。大かがり火の薪を組む。浮かべる灯籠の魔石に、光を込める。カミーユは学生会の天幕で進行表を確かめていた。
「カミーユ」
天幕の外から、声がした。
オーギュストだった。作業用の手袋をはめて薪の束を抱えていた。
「薪、どこ置けばいい」
「あ、真ん中の、白い線のとこ」
オーギュストはうなずいて、薪を運んでいった。
カミーユはその背中を見送った。
きのうの夜、迷路の中で手をつないだ。出口に出たとたん、オーギュストは手を離して、何も言わずに暗幕の片づけを始めた。カミーユも何も言えなかった。
あれから、二人とも、そのことには触れていない。
――なかったことにされたのかな。
胸の奥がちくりと痛んだ。
後夜祭が始まったのは日が暮れてからだった。
中庭の真ん中で大かがり火が燃え上がった。オレンジ色の火の粉が、夜空に舞い上がる。光を込めた小さな灯籠が、いくつも宙に浮かんでゆらゆらと揺れている。全校の生徒が火を囲んで輪になった。
輪舞の曲が流れはじめた。
毎年、この学園の後夜祭では最後に輪舞を踊る。男女で輪を作って、曲に合わせて、相手が一人ずつ入れ替わっていく。
カミーユは学生会の天幕の前で進行表を握りしめていた。実行委員は裏方だ。踊りには加わらない。
輪がゆっくりと回りはじめた。手をつないで、ステップを踏んで次の相手へ。笑い声と、手拍子。火の粉の、ぱちぱちという音。
セリアが輪の中でこちらに手をふっていた。
カミーユは手をふり返した。
――いいな。
小さく、そう思った。
輪の中で、誰かと手をつないで、笑いながら回る。そういうことをカミーユはしたことがない。合唱祭でも、運動祭でも、学園祭でも、いつも裏で進行表を握っていた。
それでいいと思っていた。誰かがやらなきゃいけないことを自分がやる。それで、みんなが楽しめるなら。
でも、今夜は。
きのうの夜、暗い迷路の中でつないだ手の温かさを思い出してしまう。
「カミーユ」
すぐ横で声がした。
ふり向くと、オーギュストが立っていた。作業用の手袋を外してポケットに突っこんでいる。大かがり火の光が、横顔をオレンジ色に照らしていた。
「進行表、貸して」
「え?」
「学生会の副会長に話つけた。最後の一曲だけ、おれが進行やる。カミーユは行ってこい」
カミーユはまばたきをした。
「行ってこいってどこに」
「輪の中」
オーギュストはカミーユの手から、進行表をそっと抜き取った。
「カミーユ、毎年、裏方だろ。去年も、一昨年の中等科のときも。……一回くらい、踊ってこいよ」
カミーユの胸がぎゅっと熱くなった。
知っていたのだ。去年も、一昨年も。この人はずっと、見ていた。
「でも、オーギュストは」
「おれはいい」
「よくない」
カミーユは首を横にふった。
「オーギュストだって裏方ばっかりだった。厚紙も暗幕も当番表も。誰にも言わずに」
輪舞の曲が終わりに近づいていた。次が最後の一曲。
カミーユは息を吸った。
いつも、裏で進行表を握っていた。誰かのために、誰にも頼らずに、一人で。
でも、今夜は自分で選びたかった。
「……オーギュスト」
カミーユはオーギュストの手から、進行表を取り返した。学生会の天幕の机の上に置いた。
それから、オーギュストの手を取った。
きのうの夜、迷路の暗闇の中でつないだ手。厚紙の粉はもうついていなかった。
「一緒に行こう」
オーギュストの目が大きく見開かれた。
「最後の一曲。二人とも、裏方はお休み」
大かがり火がぱちんと大きくはぜた。
オーギュストはしばらくカミーユを見下ろしていた。それから、つないだ手に、少しだけ力をこめた。
「……カミーユ、輪舞、踊れんの」
「踊ったことない」
「おれも」
「じゃあ、二人とも下手だね」
オーギュストがふっと、息を吐くように笑った。
はじめて見る笑い方だった。いつもの無愛想な口もとが、少しだけゆるんで目が細くなった。
カミーユの心臓が、大かがり火の火の粉と一緒に、夜空まで跳ね上がった。
最後の一曲が始まった。
二人は手をつないだまま、火を囲む輪の、いちばん端に入った。ステップなんて分からなかった。前の人のまねをして、足を出して、回って手拍子をした。二回、オーギュストの足を踏んだ。オーギュストは二回とも「いて」と言って笑った。
輪の向こうで、セリアが、両手で口をおさえてぴょんぴょん跳ねていた。
輪舞は相手が一人ずつ入れ替わっていく。次の相手へ、手を離す合図の手拍子が鳴った。
カミーユは手を離さなかった。
オーギュストも離さなかった。
二人だけ、輪の流れから外れて、火の明かりの外側で立ち止まった。
「……決まり違反だろ、これ」
「実行委員だもん。ちょっとくらい、いいでしょ」
オーギュストは空いているほうの手で前髪をかき上げた。耳が大かがり火より赤かった。
「カミーユ」
「なに」
「……来年も実行委員、やる?」
カミーユは少しだけ考えた。
それから、つないだ手をぎゅっと握り返した。
「くじで当たったらね。……もう一本の当たりは、オーギュストが引いてよ」
夜空に、火の粉と灯籠の光が、きらきらと舞い上がっていった。
(完)




