遠い星に愛を込めて
月の裏側で暮らす少女・月詠。地球を憎むよう教えられた彼女は、ある本との出会いをきっかけに、世界を変える小さな歌を紡ぎ始める。
遠い故郷と、まだ見ぬ世界をつなぐ、切なくも温かな物語。
【序章 名前のないCD】
月の帝国に、小さなラジオ局があった。
帝国の首都から少し離れた場所にある、古い建物だった。
放送設備は何度も新しくなっていたけれど、壁や床には長い年月の名残があった。窓辺には古びた鉢植えが並び、棚には、いつ誰が持ち込んだのかもわからない古い音楽の記録が積まれていた。
その日、局員のひとりが、郵便受けに入っていた小さな包みを見つけた。
差出人の名前はない。
宛名も、ただ「ラジオ局へ」とだけ書かれていた。
中に入っていたのは、一枚のCDだった。
表面には何も印刷されていない。曲名も、歌手の名前も、録音された年月もわからない。
「誰かの自主制作かな」
局員はそうつぶやき、試しに再生機へ入れた。
しばらくして、音楽が流れ始めた。
ピアノの音と静かな歌声。
まだ幼さの残る、女の子の声だった。
その声を聴いたとき、不思議な気持ちになった。
初めて聴く歌のはずなのに、ずっと昔から知っていたような気がしたのだ。
『懐かしい…』
けれど、何が懐かしいのかはわからない。
それなのに、胸の奥にしまい込んでいた何かが、そっと揺り起こされたようだった。
局員は椅子に座り直し、目を閉じた。
歌は、静かに続いていた。
優しく、遠くの人に届けたい思いを告げるような歌だった。
やがて曲が終わった。
局員はしばらく動かなかった。
それから、もう一度、再生ボタンを押した。
なぜだか、もう一度聴かなければいけないような気がしたのだ。
その歌が、どれほど遠い場所からやってきたのか。
その歌に、どれほど長い年月が積み重なっているのか。
その歌には、名前がなかった。
けれど、名前がなかったからこそ、失われずに残ったものがあった。
それは、ひとりの少女が、帰れなくなった故郷へ向けて歌った歌だった。
少女の名前は、月詠罪人の物語。
第一章 普通の女の子
月詠は、月の帝国に暮らす、ごく普通の女の子だった。
白銀の髪に、淡い桃色の瞳。
頭には、ふたつの長い耳が生えていた。
月世人と呼ばれる、月の裏側で暮らす人々の特徴だった。
月詠はその耳が、少しだけ厄介だと思っていた。
自分では平静を装っているつもりでも、嬉しいときにはぴんと立ち、落ち込んでいるときには、しゅんと垂れてしまう。
「月詠、今日カラオケ行かない?」
放課後、友達に声をかけられた。
「行く」
「ほんと? じゃあ、駅前で待ち合わせね!」
「うん」
短く答えた月詠の耳が、ぴょこんと跳ねた。
友達が笑う。
「楽しみなんじゃん」
「……別に」
「耳が言ってるよ」
月詠は慌てて両耳を押さえた。
「これは、違うの」
「何が違うの?」
「……もう、早く行こう」
そんなふうに、月詠の日々は過ぎていった。
学校では授業を受け、友達とおしゃべりをし、試験の前には後悔しながら勉強した。
休日には映画を観に行った。
少し怖い映画を観れば、友達の袖をつかんでしまう。恋愛映画を観れば、帰り道に感想を言い合った。
駅前のクレープ屋にも、よく立ち寄った。
月詠のお気に入りは、苺とクリームの入ったクレープだった。
食べるのが少し下手で、最後のほうになると、いつもクリームが口周りついてしまう。
「またついてる」
友達が笑いながら、紙ナプキンを差し出す。
「……見ないで」
「はいはい」
月詠は口を尖らせながら、それを受け取った。
帰宅すれば、両親がいた。
母親は月詠の学校の話を聞きたがり、父親は、月詠が好きな歌を口ずさんでいると、たまに一緒に鼻歌を歌った。
そんなとき、月詠は少し照れくさくなった。
「もう、聴かないでよ」
「好きな歌なんだろう?」
「そうだけど……」
「じゃあ、いいじゃないか」
父親は笑った。
月詠は自分の部屋に逃げ込む。
閉めた扉の向こうから、母親の笑い声が聞こえた。
月詠は、そんな毎日が好きだった。
明日も学校がある。
明日も友達に会える。
明日も帰れば、両親がいる。
それがずっと続いていくのだと、疑うこともなかった。
月詠は、歌が好きだった。
それは、彼女にとって特別な使命でも、誰かに褒められるためのものでもなかった。
歌っていると、心の中にある言葉にならないものが、少しずつ形になっていく。
悲しいときも、嬉しいときも。
どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからないときも。
歌えば、心が晴れる気がした。
だから月詠は、よく歌った。
友達とカラオケで歌うこともあったし、ひとりで口ずさむこともあった。
誰もいない帰り道。
自分の部屋。
放課後の教室。
歌っているときだけは、自分の気持ちを無理に説明しなくてもよかった。
だけど月詠は、まだ知らない。
自分の大好きな歌がいつか、自分では帰ることのできない場所へ向かうことを。
そして、その歌が自分の人生よりも長く生き続けることを。
【第二章 月の裏側】
月詠たちの暮らす世界は、月の裏側にあった。
そこからは、地球を見ることができない。
月詠にとって地球とは、実際に目にしたことのない、遠い世界だった。
学校の歴史の授業では、地球について何度も教えられた。
かつて月世人の祖先は、地球に暮らしていた。
けれど、ある時代に、彼らは地球から追い出された。
労働力として利用され、罪を犯した者とともに、月へ送られたのだという。
当時の月は、今のような文明を持つ場所ではなかった。
暮らすには厳しい土地を、自分たちの手で切り拓かなければならなかった。
祖先たちは働き、街を築き、家を建て、子どもを育てた。
長い年月の末に、月にはひとつの文明が生まれた。
帝国が成立し、法律がつくられ、学校が建ち、音楽や文学も発展していった。
月詠が友達と笑って過ごす日々も、その長い歴史の先にあった。
けれど、歴史の授業には、もうひとつ、必ず教えられることがあった。
地球を忘れてはならない。
地球を許してはならない。
祖先を見捨てた者たちを、決して許してはならない。
それは、月の人々が受け継いできた教えだった。
月詠も、その歴史を知っていた。
祖先がどれほど苦しんだのか。
どれほどの人々が、帰る場所を失ったのか。
それを忘れてはいけないという気持ちも、わからなかったわけではない。
ただ、月詠には、ひとつだけ不思議なことがあった。
地球に暮らす人々は、本当に、みんな悪い人なのだろうか。
今を生きている人たちも、同じように憎まなければならないのだろうか。
それは、授業中にふと思い浮かぶ程度の、小さな疑問だった。
月詠は、その疑問を誰かに話すことはなかった。
話したところで、どう答えればいいのか、自分でもわからなかったからだ。
それに、月詠は別に、帝国の教えを壊したいわけではなかった。
地球へ行きたいと思っていたわけでもない。
彼女の世界は、月にあった。
友達がいて、両親がいて、好きな歌があった。
それで十分だった。
そのはずだった。
第三章 あってはならない本
その日、月詠は図書館にいた。
借りていた本を返し、次に読むものを探していた。
いつもの棚には、読み慣れた物語が並んでいた。
歴史書。
帝国の英雄を描いた小説。
月の開拓時代を題材にした冒険譚。
月詠は背表紙を眺めながら、棚の奥へと進んだ。
すると、いちばん下の段の隅に、妙な本があることに気づいた。
ほかの本よりも、ずっと古い。
表紙は色あせ、角は擦り切れていた。
背表紙には、題名が消されて見えなかった。
誰かがしまい忘れたのだろうか。
月詠はしゃがみ込み、その本を引き出した。
表紙を開く。
最初のページには、青い海が描かれていた。
月詠は、息を止めた。
青。
空とは違う、深くて広い青だった。
波打ち際には白い泡が浮かび、遠くには、どこまでも続く水面が広がっている。
次のページには、草原があった。
風に揺れる草。
小さな花。
陽の光を浴びながら、笑っている子どもたち。
さらにページをめくると、家族が食卓を囲んでいた。
大人たちは笑い、子どもたちは何かを話している。
誰かが転んで、周りの人たちが心配そうに駆け寄っている絵もあった。
特別な出来事は何も描かれていなかった。
英雄もいなければ、戦争もない。
ただ、誰かが誰かと暮らしている。
そんな絵ばかりだった。
最後のほうには、花畑で遊ぶ子どもたちが描かれていた。
月詠は、その絵をじっと見つめた。
この人たちは、地球の人々なのだろうか。
こんなふうに笑うのだろうか。
誰かのために心配したり、誰かと一緒に食事をしたりするのだろうか。
もし、そうなのだとしたら。
今、地球に生きている人たちは、何も知らないまま生まれてきた人たちなのかもしれない。
自分たちの先祖が何をしたのかさえ、知らない人もいるのかもしれない。
月詠は、本を閉じた。
図書館の中は静かだった。
この本は、ここにあってはいけないものなのかもしれない。
そう思った。
それでも、手放すことができなかった。
月詠は周囲を確かめ、古い本を鞄の中にしまった。
誰にも見られていないことを確かめてから、図書館を出た。
その日の帰り道、月詠はいつもと同じように友達と話した。
新しく公開される映画のこと。
週末に行くクレープ屋のこと。
学校の課題のこと。
友達が何かおかしなことを言い、月詠は声を立てて笑った。
耳が跳ねる。
「なに、そんなに面白かった?」
「だって、変なんだもん」
月詠は笑いながら答えた。
いつもと何も変わらない。
それなのに、鞄の中には、ひとつの秘密があった。
その夜、月詠は自分の部屋で、もう一度、本を開いた。
青い海。
草原。
花。
笑っている人たち。
彼女は、地球を見たことがなかった。
本に描かれた景色が、本当はどんなものなのかも知らなかった。
それでも、その絵を見ていると、なぜだか胸が温かくなった。
「……悪い人たちばかりじゃ…ないのかな」
月詠は一人つぶやいた。
窓の外には、見慣れた月の街が広がっていた。
その向こうに、地球は見えない。
けれど、月詠の心には、見たことのない青い海が残っていた。
【第四章 歌になった気持ち】
古い本を見つけてから、月詠は時々、その本を開くようになった。
学校から帰ったあと。
家族が眠ったあと。
ひとりで過ごす、静かな時間。
本を開いては、絵を眺めた。
海はどんな音がするのだろう。
草原を歩くと、どんな匂いがするのだろう。
花を手に取ったら、どんな感触がするのだろう。
月詠にはわからない。
わからないからこそ、想像し惹かれた。
そして、想像するたびに、ひとつの気持ちが生まれた。
地球に生きている人たちも、誰かを愛し、大切にしているのかもしれない。
月に暮らす自分たちと、同じように。
ある日の放課後、月詠は一人で音楽室に残っていた。
窓の外は薄暗く、校舎の中には、ほとんど人影がなかった。
月詠はピアノの前に座った。
鍵盤に指を置く。
短い旋律を弾いてみる。
少し違う。
もう一度。
今度は、指が自然に動いた。
音がつながり、ひとつのメロディーになっていく。
月詠は小さく歌い始めた。
それは、地球についての歌だった。
見たことのない海。
触れたことのない花。
会ったことのない人たち。
そして、遠い昔に離ればなれになった、ふたつの故郷のこと。
憎しみを捨ててほしいと叫ぶ歌ではなかった。
誰かに許してほしいと願う歌でもなかった。
ただ、知らない誰かのことを、少しだけ知りたい。
それだけの気持ちが、歌になっていた。
歌い終えたとき、月詠はしばらく鍵盤を見つめていた。
「……変な歌」
自分でそう言って、少し笑った。
けれど、もう一度歌ってみたくなった。
歌い始めた、そのときだった。
「……月詠?」
扉の向こうから、声がした。
月詠は振り返った。
同じ学校の先生が、入口に立っていた。
「今の歌……地球のこと?」
月詠の耳が、ぴんと立った。
「えっと……」
「どうして、地球の歌なんか歌ってるの?」
その問いに、月詠はすぐには答えられなかった。
地球が好きだから、と言えるほど、地球を知っているわけではない。
帝国に逆らいたいから、と言うつもりもない。
ただ、絵本の中の人たちが、楽しそうに笑っていた。
それだけのことだった。
「……なんとなく」
月詠は、そう答えた。
相手は納得していないようだった。
「なんとなく?」
「うん」
月詠は鍵盤から手を離した。
「歌っていたら、そうなったの」
それ以上、うまく説明できなかった。
彼女自身にも、まだわからないことだったから。
けれど、その日を境に、月詠のいつもどおりの日々には、少しずつ変化が生まれ始めた。
誰かが彼女の歌を知っていた。
誰かが、その歌について話していた。
月詠が何を考えているのか、知りたがる人もいた。
最初は、小さな噂だった。
けれど、噂は人から人へと渡っていく。
やがて月詠は、帝国の歴史と異なる思いを抱いている少女として、上の者たちの目に留まることになる。
月詠は、自分が何か大きなことをしたとは思っていなかった。
彼女はただ、歌っていただけだった。
【第五章 罪と罰】
帝国の法廷は、静まり返っていた。
高い天井。
冷たい床。
並んだ椅子に座る人々。
月詠は、その中央に立っていた。
彼女は、自分がどうしてここにいるのか、何度も考えた。
地球のことを歌ったから。
地球の人々を、一方的に憎むことができなかったから。
ただ、それだけだった。
裁く側の人々は、彼女に問いかけた。
「地球を許すというのか」
「……許すとか、そういうことではありません」
月詠は答えた。
「では、何を考えていた」
「今の地球に生きている人たちが、昔のことをしたわけではないのに、どうして全員を憎まなければならないのかと……思いました」
ざわめきが起こった。
月詠は、少しだけ肩を縮めた。
それでも、言葉を続けた。
「私たちの祖先が苦しんだことは、知っています。それを忘れてはいけないことも、わかっています」
彼女は息を吸った。
「でも……地球に生まれた人たちにも、家族がいて、友達がいて、大切な人がいるんじゃないでしょうか」
誰も、すぐには答えなかった。
「私は、地球の人たちを憎むことができません」
それが、月詠の答えだった。
裁く者たちの中には、彼女の言葉を理解した者もいた。
理解してしまった者も、いたのかもしれない。
けれど、彼らには帝国があった。
守らなければならない秩序があり、受け継いできた歴史があり、反対の声を上げれば、自分たちの家族まで危険にさらされるかもしれないという恐れがあった。
誰もが、何かを抱えていた。
そして、その何かを、誰も口にすることができなかった。
判決が下された。
月詠は、月世人から人へ、そして地球へ追放されることになった。
その知らせを聞いたとき、月詠は泣かなかった。
ただ、両親の顔。
友達と行くはずだった映画のこと。
次の休日に食べようと思っていたクレープのこと。
部屋に置いたままの本のこと。
歌いかけの旋律のこと。
明日も会えると思っていた人たちのこと。
それらが、ひとつずつ、遠ざかっていくような気がした。
月詠は、初めて、自分が帰れなくなるのだと知った。
【第六章 さよならを言えない人たち】
追放の日、月詠は両親と向き合った。
母親は、いつもと同じように優しい顔をしていた。
父親も、いつもと同じように、落ち着いた声で話した。
「身体に気をつけるんだよ」
父親はそう言った。
「ちゃんと食べて、眠るのよ」
母親は、月詠の髪をそっと撫でた。
月詠は、ふたりの顔を見つめた。
本当は、聞きたいことがたくさんあった。
どうして、と聞きたかった。
寂しい、と言いたかった。
行きたくない、と言いたかった。
でも、何ひとつうまく言葉にならなかった。
母親の指が、月詠の髪を撫でる。
その手が、ほんの少し震えていた。
月詠は、それに気づいた。
けれど、何も言わなかった。
父親は顔を背け、しばらく黙っていた。
「……好きな事を…歌を、忘れないで」
やがて、父親が言った。
月詠は目を見開いた。
「え?」
「お前の好きなものを、忘れるな」
父親は、もう一度、月詠を見た。
「どこにいても」
月詠は、うなずいた。
それが、父親の精いっぱいの言葉だった。
母親は、月詠を抱きしめた。
何か言いかけて、やめた。
月詠も、母親を抱きしめ返した。
長い時間が過ぎた。
けれど、ふたりは最後まで、別れの言葉を口にしなかった。
皇帝もまた、月詠の追放を知っていた。
彼は、月詠を救うことができない。
帝国の歴史を背負う者として、地球への憎しみを掲げてきた。
それは、民を守るためでもあった。
先祖が受けた苦しみを、二度と繰り返さないためでもあった。
けれど、彼自身もまた、地球という世界に、言葉にできない思いを抱いていた。
地球を憎むことだけが、正しいとは思えない瞬間があった。
それでも彼は、皇帝だった。
誰よりも強くあることを求められ、誰よりも感情を表に出すことを許されなかった。
やがて月詠は、地球へ送られた。
出発の直前、彼女は一度だけ振り返った。
見慣れた街。
見慣れた建物。
友達と笑った道。
帰れば両親がいた家。
すべてが、そこにあった。
月詠は、耳を伏せた。
「……行ってきます」
誰に届くかわからない声で、そう言った。
そして、彼女は故郷を離れた。
【第七章 知らない世界】
地球は、月詠が想像していたよりも、ずっと広かった。
初めて目にする海は、本の中の海よりも大きかった。
波は寄せては返し、光を受けて輝いていた。
草原には風が吹き、花が揺れていた。
空は広く、雲はゆっくりと形を変えていた。
月詠は、しばらく何も言えなかった。
本に描かれていたものが、目の前にあった。
けれど、実際に見る景色は、絵本とは違っていた。
潮の匂いがした。
風が頬に触れた。
遠くから、人々の笑い声が聞こえた。
世界は、紙の上にあるよりも、ずっと生きていた。
それでも月詠は、故郷を忘れたわけではなかった。
夜になると、月を見上げた。
地球から見える月は、あまりにも遠かった。
そこに両親がいる。
友達がいる。
自分の帰るはずだった家がある。
そう思うと、胸が痛んだ。
けれど、月詠は泣いてばかりではいなかった。
地球で生きていくために、仕事を探した。
住む場所を見つけ、食べるものを買い、少しずつ生活を整えた。
わからないことばかりだった。
失敗もした。
道に迷うこともあった。
買い物の仕方を間違えて、困ったこともあった。
それでも、人々は彼女に手を差し伸べてくれた。
困っていると声をかけてくれる人がいた。
失敗を笑い飛ばしてくれる人がいた。
疲れて帰った夜、店先から漂う甘い匂いに、ふと足を止めることもあった。
ある日、月詠は街の小さな店でクレープを買った。
苺とクリームの入ったものだった。
ひと口食べて、動きが止まった。
月でも、よく食べていた。
友達と笑いながら、何度も。
月詠は、少しだけ笑った。
それから、ひとりで食べ終えた。
最後のほうで、クリームが口周りについてしまった。
彼女は紙ナプキンでそれを拭いた。
そして、ふと思った。
あの子たちは、今もクレープを食べているだろうか。
そんなことを考えて、少しだけ寂しくなった。
月詠は、地球で新しい日々を始めていた。
けれど、月で過ごした日々が消えたわけではなかった。
彼女の中には、ふたつの世界があった。
帰れない故郷と、これから生きていく世界。
どちらも、彼女にとって大切なものになり始めていた。
【第八章 歌を想像る者】
地球で暮らすようになってからも、月詠は歌をつくり続けた。
最初は、誰かに聴かせるつもりなどなかった。
ただ、ひとりで歌っていた。
部屋の中で。
帰り道で。
眠れない夜に。
月で過ごした日々を思い出すと、歌が生まれた。
地球の景色を眺めると、また別の歌が生まれた。
故郷に帰りたいと思う気持ちも。
地球の人たちを好きになっていく気持ちも。
どちらかひとつだけを選ぶことはできなかった。
月詠は、その両方を歌にした。
やがて、彼女は自分の歌を、インターネットに投稿するようになった。
顔を出す必要のない、歌声を中心にした作品だった。
最初は、聴いてくれる人も少なかった。
それでも、誰かが感想を残してくれた。
「この歌、なんだか懐かしい」
「悲しいのに、優しい気持ちになる」
「どこか遠い場所を思い出した」
そんな言葉を読むたび、月詠は少し不思議な気持ちになった。
自分が抱えていた気持ちを、知らない誰かも感じ取ってくれたのだ。
彼女は、もっと歌をつくりたいと思った。
彼女の歌には、どこか遠くを見つめるような響きがあった。
聴いた人は、それぞれの思い出を重ねた…
帰れなかった故郷を思い出す人。
離れて暮らす家族を思い出す人。
もう会えなくなった誰かを思い出す人。
月詠は、自分の生い立ちを明かさなかった。
月から来たことも。
追放されたことも。
両親を故郷に残してきたことも。
誰にも話さなかった。
彼女は、地球で生きるひとりの少女として、歌をつくり続けた。
ときどき、街角で歌うこともあった。
最初は、恥ずかしかった。
人が立ち止まると、耳がそわそわと動いた。
誰かが拍手をしてくれると、顔が熱くなった。
「……ありがとうございます」
小さな声で礼を言い、月詠は少しだけ笑った。
彼女は、少しずつ、自分の居場所を見つけていた。
それでも、歌の中にはいつも、遠い月があった。
月詠は、故郷を忘れたわけではなかった。
ただ、故郷を思い出すことが、以前ほど苦しいだけではなくなっていた。
月で過ごした日々は、彼女から奪われたものだった。
けれど、それは同時に、彼女が確かに生きた日々でもあった。
友達と笑ったこと。
両親に髪を撫でられたこと。
好きな歌を何度も歌ったこと。
それらは、誰にも奪うことのできないものだった。
月詠は、歌にした。
忘れないために。
そして、いつか誰かの心に残ることを願って。
【第九章 世界中に響く歌】
月詠の歌は、少しずつ多くの人に知られるようになった。
動画の再生回数が増えた。
ライブへの出演依頼が届いた。
彼女の歌を聴いて、音楽を始めたという人もいた。
月詠は驚いた。
自分がひとりで歌っていたものが、こんなにも遠くまで届くなんて、思ってもいなかった。
やがて、彼女は大きなライブに出演することになった。
世界中の人々が集まる、特別なステージだった。
会場には、たくさんの観客がいた。
照明が輝き、歓声が響いていた。
月詠は舞台袖で、静かに息を吸った。
緊張していた。
耳が落ち着かない。
何度も深呼吸をした。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
好きな歌を歌うだけ。
いつもと同じ。
そう思おうとした。
けれど、ステージに上がった瞬間、目の前に広がる光景に、言葉を失った。
たくさんの人が、自分を見つめていた。
自分の歌を聴きに来てくれた人たち。
自分の知らない人生を生きてきた人たち。
それでも、同じ歌を聴こうとしている人たち。
月詠は、マイクを握った。
最初の曲を歌い終えた。
歓声が上がった。
彼女は頭を下げた。
また次の曲も歌った。
そして、最後の曲になった。
月詠は、その曲のタイトルを口にしなかった。
そもそも、その歌には名前がなかった。
月詠は、マイクを両手で包み込むように持った。
「……最後の一曲…」
会場が静かになった。
「私が、ずっと大切にしてきた歌です」
それ以上、何を話せばいいのか、わからなかった。
自分の故郷のことを話すことはできない。
どうしてこの歌をつくったのかも、誰にも説明できない。
それでも、この歌だけは、どうしても歌いたかった。
月詠は目を閉じた。
思い浮かんだのは、月の街だった。
友達と歩いた帰り道。
クレープを食べた店。
放課後の教室。
自分の部屋。
そして、両親の顔。
母親が髪を撫でてくれたこと。
父親が、歌を忘れるなと言ってくれたこと。
月詠は、少し笑った。
「……聴いてくれると、嬉しいです」
ピアノの音が流れた。
月詠は歌い始めた。
それは、かつて月の音楽室で歌った歌だった。
見たことのない海に思いを馳せた歌。
会ったことのない人々を想像した歌。
地球に生きる誰かを、憎むことができなかった少女の歌。
けれど、今の歌には、あのころにはなかったものが加わっていた。
地球で出会った人たち。
自分の歌を好きだと言ってくれた人たち。
自分を受け入れてくれた世界。
そして、帰ることのできない故郷への思い。
それらが、ひとつの歌の中にあった。
月詠は、歌いながら、心の中で月に語りかけた。
お父さん。
お母さん。
私は、ここにいるよ。
ちゃんと生きているよ。
友達と笑っていた日々を、忘れていないよ。
大好きな歌も、忘れていないよ。
本当は、帰りたかった。
もう一度、みんなと話したかった。
何でもない話をして、笑いたかった。
帰れば、いつもどおりの明日が待っていると、信じていたかった。
けれど、もう帰れない。
それは、月詠にもわかっていた。
だから、彼女は歌った。
帰りたいという気持ちも。
今ここで生きているという事実も。
両親に会いたいという願いも。
地球の人々を好きになった気持ちも。
何ひとつ、捨てずに。
歌い終えるころ、月詠の頬には涙が流れていた。
声が少し震えた。
それでも、最後まで歌い切った。
会場は、静かだった。
やがて、大きな拍手と歓声が響いた。
けれど、誰も知らなかった。
彼女が、どこへ向かって歌っていたのか。
誰に会いたいと願っていたのか。
どんな故郷を思いながら、涙を流したのか…
月詠は、何度も頭を下げた。
涙を拭い、笑おうとした。
その顔は、どこか不思議だった。
悲しそうなのに、少しだけ、晴れやかだった。
まるで、長いあいだ胸の中に抱えていたものを、ようやく手放せたかのように。
舞台袖に戻ると、仲間たちが心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
「すごく感動したよ」
「最後の歌、すごかったね」
月詠は、うなずいた。
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
仲間たちは、彼女が泣いた理由を知らなかった。
ただ、長いライブを終えて、感極まったのだろうと思った。
それでも、彼らは気づいていた。
月詠の表情が、少し変わっていたことに。
何かを失ったような顔ではなく。
何かを取り戻したような顔でもなく。
ただ、ようやく、自分の中にあったものを受け入れられた人の顔だった。
月詠は、微笑んだ。
その日のライブの映像と音声は、世界中へと配信された。
ラジオでも放送された。
たくさんの人が、その歌を聴いた。
けれど、月詠は知らなかった。
その歌声が、いつか月に届くことを。
【第十章 一方通行の歌】
月の時間は、地球の時間とは大きく異なって流れていた。
地球では何年も、何十年も過ぎていくあいだに、月ではわずかな時間しか経っていない。
人々の寿命も、世代の移り変わりも違っていた。
月詠が地球で年齢を重ねていく一方で、月の人々にとって、彼女が追放された日は、まだ遠い過去とは言えないものだった。
それでも、時は流れていった。
帝国の街並みは少しずつ変わった。
人々の暮らしも変わった。
かつて当然とされていた教えに、疑問を抱く者も、少しずつ現れるようになった。
地球を憎むことだけが、祖先を大切にする方法なのだろうか。
そんな問いが、静かに生まれていた。
けれど、帝国がすぐに変わったわけではなかった。
歴史は重く、憎しみは深かった。
皇帝は、相変わらず地球への敵意を掲げていた。
民のために。
祖先のために。
そして、自分自身が何を思っているのかを、誰にも悟られないために。
ある日、皇帝はひとりでラジオを聴いていた。
遠い地球から届く電波や記録が、月の放送設備で時々受信されることもあった。
ただし、月と地球の時間の違いは大きく、届くものがいつの時代のものなのか、すぐにはわからないこともあった。
その日、ラジオから流れてきたのは、ひとりの少女の歌声だった。
皇帝は、手を止めた。
知らない歌だった。
知らない声だった。
けれど、その歌の中には、どこか懐かしい響きがあった。
静かな旋律。
遠い場所を思うような歌詞。
誰かに会いたいという気持ち。
そして、誰かを責めることのできない、優しい声。
皇帝は、椅子に座ったまま、動かなかった。
歌が進むにつれて、胸の奥が苦しくなった。
彼は、気づいていた。
この歌は、月に向けて歌われている。
遠い場所にいる誰かに、帰りたいと願っている。
その声は、長い時間を越えて、ここまで届いたのだ。
皇帝は目を閉じた。
思い浮かんだのは、ひとりの少女だった。
歌で罪人となり地球へ送られた少女。
皇帝は、口元を押さえた。
「……まさか…」
誰にも聞こえない声でつぶやいた。
歌は、まだ続いていた。
皇帝は、涙を流した。
それでも、誰にも知らせなかった。
この歌が届いたことを。
自分が矛盾の中で泣いていることを。
そして、彼女がまだ、どこかで生きていることを。
皇帝は、歌が終わるまで、ずっとラジオの前に座っていた。
同じころ、別の場所で、月詠の両親もまた、ラジオを聴いていた。
母親は、家事の手を止めた。
父親は、新聞を置いた。
ふたりは、顔を見合わせなかった。
ただ、流れてくる歌に耳を傾けた。
その歌声は、懐かしかった。
忘れようとしても忘れられなかった声だった。
母親は、口元に手を当てた。
父親は、目を閉じた。
「……あの子の歌だ」
父親が、かすれた声で言った。
母親は、何度もうなずいた。
ふたりは泣いた。
月詠が地球へ送られてから、ずっと心の奥にしまっていた思いが、静かにあふれ出した。
会いたい。
元気でいてほしい。
幸せでいてほしい。
帰ってきてほしい。
だけど
あの子が、どこかで生きているのなら。
あの子が、好きな歌を歌っているのなら。
それだけでいい。
ふたりは、声を上げずに泣いた。
皇帝も、両親も、同じ歌を聴いていた。
けれど、お互いがそれを聴いていることを知ることは無い。
誰も、誰かに伝えなかった。
伝えることができなかった。
月詠もまた、知らなかった。
自分の歌が、月へ届いたことを。
両親が聴いてくれたことを。
皇帝が、後悔の中涙を流したことを。
彼女は、地球で生き続けた。
月詠が歌った声は、確かに故郷へ届いていた。
けれど、そのこと話す者は、誰もいなかった。
確かに声は届いた。
【第十一章 子守唄】
月の帝国は、少しずつ変わっていった。
それは、ある日突然起きた変化ではなかった。
ひとつの歌だけで、長い歴史が塗り替えられたわけでもなかった。
人々は、何世代もの時間をかけて、少しずつ考えるようになった。
祖先が受けた苦しみは、忘れてはならない。
けれど、憎しみだけを受け継いでいくことが、本当に祖先の願いだったのだろうか。
地球に生きる人々を憎み続けることだけが、自分たちの歴史なのだろうか。
その問いに、すぐに答えを出せる者はいなかった。
それでも、問いは消えなかった。
やがて、帝国は地球への敵意を少しずつ和らげていった。
過去をなかったことにはしなかった。
傷ついた歴史を忘れたわけでもなかった。
ただ、今を生きる人々まで、同じ罪で縛り続ける必要はないのではないか。
そう考える者が増えていった。
皇帝もまた、年を重ねていた。
ある夜、彼は幼い孫を抱いていた。
孫は眠れずに、ぐずっていた。
皇帝は、しばらく困ったように笑った。
「どうした。眠れないのか」
幼い孫は、皇帝の服をつかんだ。
彼は、そっと孫を揺らした。
そして、ふと、ある歌を思い出した。
ずっと昔、ラジオから流れてきた歌。
遠い地球から届いた、名前のない歌。
皇帝は、小さな声で歌い始めた。
静かな旋律だった。
遠くを思うような、優しい歌だった。
孫は、少しずつ泣きやんだ。
皇帝の胸に頬を寄せ、やがて眠り始めた。
彼は、歌い続けた。
歌いながら、遠い少女のことを思った。
親に会うことのできなかった。
帰ることのできなかった。
それでも、自分たちのもとへ、歌だけを帰してくれた少女。
皇帝は、孫の頭を撫でた。
「……おやすみ」
小さく、そう言った。
その歌は、やがて子守唄として受け継がれていった。
誰がつくった歌なのか、知る者はいなかった。
なぜ皇帝がその歌を知っていたのか、知る者もいなかった。
先の未来、ただ眠れない子どもがいると、誰かがその歌を歌った。
母親が子どもを寝かしつけるとき。
父親が、泣いている子どもを抱きしめるとき。
祖父母が、孫に昔話を聞かせるとき。
歌は、少しずつ形を変えながら、受け継がれていった。
かつて地球を憎むよう教えられた人々の世界で。
地球から追い出された人々の子孫が暮らす世界で。
その歌は、誰かを憎むためではなく、誰かを安心させるために歌われるようになった。
長い年月が過ぎた。
皇帝の孫は成長した。
やがて、月詠と同じくらいの年頃になった。
その子も、歌が好きだった。
子どものころから聴いてきた、名前のない子守唄。
なぜか心が落ち着く歌。
どこか遠くを思い出すような歌。
その子は、いつしか自分でも歌うようになった。
そして、ある日、その歌を録音することにした。
自分の歌声を、CDに収めた。
特別な理由があったわけではない。
ただ、大切な歌だったから。
いつか誰かが聴いてくれたらいい。
そう思っただけだった。
CDの表面には、何も書かなかった。
曲名も、名前も。
そして、そのCDをラジオ局へ送った。
宛名は、ただ「ラジオ局へ」。
その歌が、どこから来たのか。
誰が最初に歌ったのか。
その子は、何も知らない。
ただ、自分が大切にしてきたものを、誰かにも聴いてほしかった。
その願いだけが、小さなCDに込められていた。
【終章 帰ってきた歌】
月のラジオ局では、局員がもう一度、名前のないCDを再生していた。
流れてくる歌声は、若い子どもの声だった。
けれど、旋律には、長い年月を越えてきたような深さがあった。
局員は、歌を聴きながら考えていた。
どうして、こんなにも懐かしいのだろう。
まるで、ずっと昔に誰かが歌ってくれたような気がする。
彼は、目を閉じた。
歌の中に、見たことのない景色が浮かんだ。
青い海。
草原。
花畑。
誰かが笑っている。
誰かが、誰かを抱きしめている。
そして、遠く離れた場所を思いながら、ひとりの少女が歌っている。
局員は、ゆっくりと目を開けた。
「……不思議な歌だな」
彼は、そうつぶやいた。
そして、曲が終わるまで、静かに耳を傾けていた。
誰も知らない。
この歌が、かつて地球へ追放された少女の歌だったことを。
少女が、月へ帰りたいと願いながら、最後まで地球を憎むことができなかったことを。
彼女の歌声が、長い時間を越えて両親と皇帝のもとへ届いたことを。
皇帝がその歌を孫に歌い、子守唄として残したことを。
そして、その子守唄が、今、自分の目の前にあるCDへとつながっていることを。
何も知らないまま、局員は再生ボタンを押した。
もう一度、歌が流れ始めた。
月詠は、もうそこにはいない。
彼女がどんな顔をして歌っていたのか、知る者もいない。
月詠が地球でどんな人生を歩んだのか、知る者もいない。
彼女は最後まで、自分の歌が月へ届いたことを知らない。
両親が聴いてくれたことも。
皇帝が涙を流したことも。
自分の歌が、幼い子どもを眠らせる子守唄になったことも。
知らないまま、生きて、そして地球でその生涯を終えた。
彼女は、月へ帰れなかった。
それでも、彼女の歌は帰ってきた。
かつて憎しみを教えられた世界で。
かつて故郷を奪われた人々のもとで。
誰かを責めることなく。
誰かに許しを強いることもなく。
ただ、誰かを思う歌として。
その歌は、静かに流れ続けていた。
月詠が愛した月で。
月詠が生きた地球で。
ふたつの故郷をつなぐように。
誰も知らないまま。
誰も、返事を待たないまま。
それでも、確かに。
思いは届いた。
そして今日も、月のどこかで、誰かがあの歌を口ずさんでいる。
眠れない子どものために。
大切な人を思いながら。
帰れない場所を思いながら。
その歌に、名前はなかった。
けれど、誰かを大切に思う気持ちだけは、長い時間が過ぎても、失われることがなかった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は、たとえ声が届かなくても、想いが消えてしまうわけではない、そんな気持ちから生まれました。
誰かを理解すること。憎しみの向こうにいる人を想像すること。そして、大切な人を想いながら生きること。
月詠の歌が、読んでくださったあなたの心にも、そっと届いていたら嬉しいです。




