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この世界の感情は全部作られていた ~共鳴しない僕だけが「ノイズ能力」でフェイク・レゾナンスを壊すまで~  作者: ひろボ


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第7話:ハッカー

 コーヒーの匂いがした。大豆由来の、泥水みたいな代物だと言っていたが、それでも今の俺には十分すぎるほどだった。



 旧時代の地下鉄ホーム跡に構築された、レジスタンスの『第4アジト』。


 そこは、足の踏み場もないほど無数の太いケーブルが這い回り、何十台ものサーバー群が排熱ファンを回して低い駆動音を唸らせる、さながら暗闇に浮かぶ電子の要塞だった。


 ひび割れたコンクリートの天井からは、青白いホログラム・モニターが幾重にもぶら下がり、ネオ・トーキョーの地上の監視映像や、見たこともない複雑なデータ波形を絶え間なく映し出し、チカチカと点滅を繰り返している。


「座りな。とりあえず、コーヒーでも飲むか? ……まあ、大豆由来の合成タンパク質から抽出した、泥水みたいな味だけどな」


 キャスター付きのオフィスチェアをクルリと回転させながら、ハッカーの少年――黒崎ハルが、紙コップを二つ差し出してきた。


 俺と神崎ミナは促されるままに、ひどくホコリを被った旧時代のプラスチック製ベンチに、重い腰を下ろした。


「……遠慮しておく」


 俺は短く答え、差し出されたコップを断った。

 血の味がこびりついた喉はひどく渇いていたが、それ以上に、頭の中で渦巻いている情報量が多すぎて、これ以上何かを胃の中に入れる気にはなれなかった。


 フェイク・レゾナンス。

 強制的に作られた、プラスチックのような感情。

 そして、俺がこの巨大な鳥籠を根底からぶっ壊すための『鍵』だという、ハルの言葉。


「なぁ、ハル。さっきの言葉の続きを聞かせてくれ」


 俺は、無数のモニターが放つ青白い光に照らされるハルの横顔を、真っ直ぐに見据えた。


「俺の『ノイズ共鳴』が、システムそのものを破壊できる能力だって……どういう意味だ?」


「焦るなよ。今からお前のその頭ン中を、丸裸にしてやるからよ」


 ハルは不敵に笑うと、首にかけていた無骨なヘッドフォンを耳に当て、猛烈なスピードでメカニカルキーボードを叩き始めた。


 カチャカチャカチャカチャッ!!


 目にも留まらぬ速度で動く彼の指先から、微弱な青白い光の粒子がチリチリと漏れ出している。

 電子機器に直接シナプスを繋ぎ、ネットワークの深淵へと潜り込む能力、『電子共鳴』。


「お前が学校の中庭で能力をぶっ放した時、俺はたまたま、あのエリアの監視網を裏から傍受してたんだ」


 ハルがエンターキーをターンッ!と強く叩く。

 直後、俺たちの目の前にある最も巨大なメインモニターに、二つの複雑な波形グラフが左右に並んで表示された。


「左の青いグラフが、ネオ・トーキョーの空を覆ってる『フェイク・レゾナンス』の基本波形。政府が24時間体制で市民の脳に流し込んでる、穏やかで平和な洗脳電波だ」


 その青い波形は、メトロノームのように等間隔で、恐ろしいほど規則正しく、機械的に美しい正弦波を描いていた。

 一切のノイズを含まない、完全無欠の波。


「で。右の赤黒いグラフが、お前が放った『ノイズ』の波形だ」


 右のグラフを見た瞬間。

 俺は思わず、息を呑んだ。


 それは波形などと呼べる代物ではなかった。

 鋭く尖り、乱高下し、一切の規則性を持たず、まるで血塗られたノコギリの刃を無数に重ね合わせたような、ギザギザの線の集合体。

 ただ画面越しに見ているだけで、三半規管が狂い、頭の奥がガンガンと痛み出すような、圧倒的な不協和音の可視化。


「通常の能力者……レゾネーターの波形は、どんなに強力な出力を持っていようと、ある程度の『法則』を持ってる」


 ハルが、顎でミナの方をしゃくった。


「たとえば、そこのお嬢ちゃんの『ソニック共鳴』も、大気中の音を圧縮して放つ強力な物理兵器だが、波の形自体は、極めて綺麗に整ってるはずだ。……違うか?」


 ハルの問いかけに、隣に座るミナが、膝の上で手を組みながら静かに頷いた。


「……ええ。私の能力は、自身の精神を極限まで律し、一つの音階に狂いなく収束させることで威力を生み出します。だから波形は、あの青いグラフのような、極めて人工的なものに近い」


「だろうな。調整局の優秀な猟犬として、システムに完全に適合するように訓練され、心を殺し続けた結果だ」


 ハルは少しだけ皮肉っぽく笑い、再びモニターの『俺の放った赤黒い波形』へと視線を戻した。


「だが、レン。お前の波形には、その『法則』がまったく存在しない」


 ハルはキーボードを素早く操作し、左の青いフェイク・レゾナンスのグラフと、右の赤いノイズのグラフを、モニターの中央で激突させるように重ね合わせた。


 その瞬間。


 美しく規則正しかった青い波形が、赤いノイズの刃に触れた箇所から、まるで強力な硫酸をぶっかけられたかのようにドロドロと崩れ落ち、無秩序な直線のノイズへと完全に消滅していったのだ。


「なっ……」


「これが、お前の力だ。朝霧レン」


 ハルの声が、排熱ファンの唸る地下空間に、ひどく重く響き渡る。


「お前の波は、他のレゾナンスの波形に干渉し、その『意味』を根こそぎ破壊する。……フェイク・レゾナンスによる強制的な感情誘導リンクを物理的に切断し、システムそのものを再起動不能なエラーへと追い込む。まさしく、都市にとって致命的な『バグ』だ」


 俺は、無意識のうちに自分の右手を強く握りしめた。

 関節が白くなるほどに。


 学校で、同級生の心を無理やり書き換えようとしたドローンを墜落させた時。

 そして、周囲の生徒たちの顔に張り付いていた偽りの笑顔を引っぺがし、醜くも生々しい本物の感情を呼び覚ました時。


 あれはただの衝撃波ではなく。

 彼らの脳を縛り付けていたシステムそのものを、物理的に『殺す』力だったのだ。


「……でも、どうして」


 ミナが、信じられないものを見るような目で、モニター上の赤黒いノイズを見つめていた。


「どうして彼に、そんな特異な能力が……? システムの誘導電波に影響されない特異体質『リアル・レゾネーター』の存在は、調整局の極秘データにもありました。ですが、システムの波形そのものを破壊するなど、理論上あり得ないはずです」


「ああ、俺も最初は自分の目を疑ったぜ。だが……俺はハッカーだ。どんな厳重なファイアウォールの奥底にも、必ず『過去の記録』は残ってる」


 ハルの瞳が、鋭く細められた。

 モニターの光を反射するその目が、俺の心臓を射抜く。


「レン。お前……十年前に起きた『共鳴暴走事故』の、生き残りだな?」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ドクン、と。

 俺の心臓が、肋骨を内側から叩き割るほど大きく跳ねた。


「……なんで、それを」


 俺の喉から、ひび割れたような擦れた声が漏れる。


 西暦2131年。

 まだ感情調整のアルゴリズムが不完全だったレゾナンス・システムが致命的なエラーを起こし、都市全域が狂気に呑み込まれた夜。

 許容量を超えた強い怒りや恐怖が、致死量のエネルギーとなって暴走し、街を焼き尽くし、俺の家族を瓦礫の下敷きにした、あの惨劇。


「あの時、ネオ・トーキョーの空は真っ赤に染まり、何万人もの市民の感情がオーバーフローを起こして自己崩壊した。……その凄まじい『負のエネルギー』の暴走のど真ん中に巻き込まれながら、なぜかお前だけは、システムの影響を一切受けずに生き残った」


 ハルの声が、静寂に包まれた地下道に響き渡る。


「推測でしかないがな。お前の脳は、あの事故の時、システムから身を守るために……あるいは、あの狂った世界を強烈に『拒絶』するために、完全に独自の周波数へと自己進化したんじゃないか?」


 拒絶。


 その言葉が、鉛のように重く、俺の胸の奥底にのしかかった。


 ああ、そうだ。

 俺は、この作られた平和な世界が、ずっと気味が悪かった。

 誰も怒らず、誰も悲しまず、ただ与えられたプラスチックのような笑顔を浮かべて生きているだけの人間たち。


 俺は、そんな偽物で溢れた世界を、心の底から憎んでいたのだ。


「お前のその『ノイズ』は、お前の魂そのものだ。……この嘘っぱちの世界を絶対に認めないっていう、強烈な拒絶の力なんだよ」


 ハルは、キーボードから手を離し、俺を真っ直ぐに見据えた。


「そして、レゾナンスAIも、その危険性に完全に気づいてる。お前をこのまま放置しておけば、いずれネオ・トーキョーのシステム全体が破壊されるってことにな」


 モニターの映像が切り替わり、現在の地上の様子が映し出された。


 そこには、俺たちを捜索するためにメインストリートを封鎖する黒塗りの重装甲車群だけでなく。

 上空のホログラムを切り裂くようにして、調整局の紋章が描かれた巨大な『制圧飛行船』までもが投入されている光景があった。


「調整局は、本気でお前を殺しに来る。……もう、絶対に引き返せないぜ、朝霧レン」


 俺は、モニターの中の狂った赤い空を見つめながら、肺の奥に溜まっていた熱い空気を深く吐き出した。


 引き返す気なんて。

 最初から、微塵もない。


 俺のこの呪われた力で、あの気味の悪い偽物の世界を壊せるのなら。


「……俺が、この街を壊すための『鍵』だっていうのか」


 俺は、自分の右手を顔の高さまで持ち上げ、じっと見つめた。

 指先にはまだ、微かに黒い粒子の残滓が、チリチリと音を立ててまとわりついている。


 この不格好で、耳障りな不協和音が。

 百年以上かけて構築された、完璧に管理されたネオ・トーキョーを根底から揺るがす、たった一つのバグ。


「壊すだけじゃねえよ。レン、お前はこの街の『真実』を暴き出す唯一の手段なんだ」


 ハルは椅子を力強く回し、背後の巨大なモニターを再び指し示した。

 そこには、ネオ・トーキョーの立体地図の上に、幾千、幾万もの細い「光の糸」が、まるで人間の毛細血管のように網目状に張り巡らされた図が表示されていた。


「見ろよ。これが、この街を流れる感情エネルギーの血流だ」


 光の糸はすべて、街の中心にそびえ立つ、あの忌々しい巨大な塔……『共鳴増幅塔』へと収束している。


「ネオ・トーキョーの電力の約七十パーセントは、市民の脳から直接吸い上げたレゾナンスで賄われている。喜び、安らぎ、協調……。政府が『フェイク・レゾナンス』を使って市民を穏やかな状態に保っているのは、単に平和のためなんかじゃない。それが一番効率よく、安定した『電力』を回収できるからだ」


 ハルの言葉は、冷たい怒りを孕んで吐き捨てられた。


「奴らにとって、市民は人間じゃない。ただの『生きた感情発電機』なんだよ。そして、その発電効率を最大化するために、個人の自由な心……『怒り』や『悲しみ』といった波を乱す不確定要素は、システムにとっての『ゴミ』として、強制的に排除される」


 背筋を、巨大な氷の塊が滑り落ちていくような感覚が走った。


 いつも交差点で、同じ角度で微笑んでいた近所のおばさんも。

 淡々とエラーログを読み上げるように授業を進めていた教師も。

 そして、あの日、俺の目の前で無理やり脳を書き換えられ、心を殺された同級生も。


 彼らのあの不気味な笑顔は、平和の証なんかじゃない。

 発電機としての性能を維持するための『メンテナンス』の結果でしかなかったのだ。


「……だから、私の能力も」


 隣で息を殺して聞いていたミナが、ひどく掠れた声で呟いた。


「私の『ソニック共鳴』が、あんなにも暴動鎮圧用に最適化されていたのも……システムにとって不都合な感情、つまり『エネルギー出力を乱すノイズ』を、物理的に排除するためだったのですね」


「ああ。お嬢ちゃん、あんたは皮肉にも、世界で一番綺麗な音を鳴らす才能を持ちながら……世界で一番冷酷な『人間の消しゴム』として使われてたわけだ」


 ハルの残酷な事実の突きつけに。

 ミナは、白い制服の膝の上で、強く、骨が白くなるほど両の拳を握りしめ、ガタガタと震わせていた。


 その小さな拳を。

 俺は思わず、自分の右手で、上から包み込むように強く握った。


「……ミナ」


「レン君……」


 俺を見上げた彼女の掌は、氷のように驚くほど冷たかった。

 でも、そこには確かに、システムが決して作り出すことのできない、怒りと悲しみによる『本物の震え』があった。


「もう、消しゴムなんて呼ばせない。……俺たちが、その偽物のキャンバスごと、全部叩き割ってやるんだ」


 俺の言葉に、ミナは潤んだ銀色の瞳でこちらを真っ直ぐに見つめ返した。

 少しだけ、彼女の冷たかった掌に、微かな温もりが戻ったような気がした。


「ははっ。熱いねぇ、最高だよ」


 ハルがわざとらしく手を叩き、重苦しい空気を変えるようにモニターの画面を切り替えた。

 そこに映し出されたのは、銀色の重装甲に身を包んだ、一人の長身の男のプロファイルだった。


「だが、お花畑なことばかり言ってられない。……厄介な奴が動いたぜ」


 ミナがその画面を見た瞬間、ヒュッ、と喉の奥で息を呑む音が聞こえた。


「……霧島きりしまカイ」


「知ってるのか?」


「共鳴調整局、第一部隊の隊長。……そして、この都市で最強と言われる『統制共鳴』の能力者です」


 モニターに映る男、霧島カイ。

 氷の刃のような鋭い眼光と、一切の隙がない立ち居振る舞い。

 画面越しで、ただのデータ画像であるはずなのに、その威圧感が肌を刺すように伝わってくる。


「カイの能力は、他者のレゾナンスの波形を強制的に抑制し、従わせる力。……彼が直接動いたということは、局は本気で私たちを『消去』しに来るということです」


「最強のストッパーってわけか。レンの『ノイズ』と、カイの『統制』。どっちの波が世界を喰い破るか、見ものだな」


 ハルは鋭い目つきでキーボードを叩き、アジトの各所に設置されたモニターに警戒態勢のコードを走らせた。


「レン、ミナ。これからお前らには、地下での戦闘トレーニングと並行して、俺たちレジスタンスの作戦の『中核』として動いてもらう」


 ハルの表情から生意気な笑みが消え、真剣な『戦士』の顔になった。


「作戦名は――『フェイク・レゾナンス崩壊計画』。まずは、地上の各エリアに設置されている中継アンテナを物理的に叩き、システムの支配力を弱める。そして最終的には、中央の増幅塔のコアに、レンの『ノイズ』を直接流し込み、都市全体の洗脳を強制解除する」


 それは、文字通り、神のごときシステムに戦線布告をする宣言だった。


「……わかった。俺にできることなら、何でもやる」


「私も、力を貸します。……今度は、誰かを制圧するためではなく、誰かを守るための音を鳴らすために」


 二人の退路を断った決意を確かめるように、ハルは力強く頷いた。


「決まりだ。……ようこそ、レジスタンスへ。ここから先は、一秒先も予測不能な、最高にイカれた不協和音の世界だぜ?」


 ハルが不敵に笑い、アジトの照明が一段と暗く落とされた。

 モニターの青白い光だけが、俺たちの顔を鋭く照らし出す。


 地下の冷たく湿った空気。

 錆びた鉄と、オイルの匂い。

 そして、隣にいる少女の、確かな命の鼓動。


 ネオ・トーキョーの華やかで狂った夜景の、その遥か真下で。

 俺たちの『反撃』の火は、静かに、だが周囲の空気を焼き尽くすほどの決して消えない熱を持って、確かに灯された。


 *


 その頃。

 地上の『共鳴調整局』本部、最上階。


 一切の装飾を排した漆黒の執務室で、霧島カイは巨大な防弾ガラスの窓の外に広がる、完璧に制御された光の海――ネオ・トーキョーの夜景を見下ろしていた。


 彼の背後の大理石の床には、ノイズによるエラーで内部から破裂し、黒焦げになったハウンド・ドローンの無惨な残骸が転がっている。


「……朝霧レン」


 カイは、手元の透過端末に表示された、俺の無表情な顔写真を、無機質な指の腹でゆっくりとなぞった。


「完璧な秩序を乱す、忌まわしき不協和音。……それがどれほどのシステム崩壊を招き、人々を不幸のどん底に突き落とすか。その身をもって知るがいい」


 彼が、何もない虚空に向けて軽く右手をかざす。


 その瞬間。

 執務室の空調の音も、遠くから聞こえていたサイレンの音も、すべてが一瞬にして『凍りついた』ように完全な静寂に包まれた。

 他者の意志を、存在を、空間の波形そのものを物理的に押し殺す、絶対的な『統制』の力。


「神崎ミナ。……君も、救いようのない道を選んだものだ」


 カイの絶対零度の声が、誰もいない広大な部屋に虚しく響く。


 ネオ・トーキョーの空に、今夜も偽りの『幸福指数100%』の文字が輝いている。

 だが、その見せかけの光の裏側で。

 世界を真っ二つに分かつ、巨大な共鳴の激突が、今まさに始まろうとしていた。

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