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この世界の感情は全部作られていた ~共鳴しない僕だけが「ノイズ能力」でフェイク・レゾナンスを壊すまで~  作者: ひろボ


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第6話:都市からの逃亡

 光の届かない、完全な暗闇。


 俺と神崎ミナは、ネオ・トーキョーの地下深くへと続く、赤錆の浮いた螺旋階段をひたすらに下っていた。

 地上から差し込んでいた僅かな光も、分厚い鉄の蓋が閉まった瞬間に完全に途絶えた。


 カツン、カツン。


 二人の乾いた靴音だけが、不気味なほど冷たく反響しては、底知れぬ闇の奥へと吸い込まれていく。


 ここは『地下区』。

 百年前、世界的エネルギー危機の後に現在の巨大都市が建設された際、そのまま土台として分厚いコンクリートの下に埋め立てられた、旧都市の死骸。


 天上世界であるネオ・トーキョーの居住区が、埃一つない完璧にデザインされた無菌室だとすれば。

 ここは、都市が百年かけて排泄し続けた汚泥と瓦礫が堆積する、巨大なゴミ箱だった。


「……ひどい匂いだな」


 俺は思わず、血と泥で汚れた袖口で鼻を覆った。


 むせ返るような、濃密なカビの匂い。

 どこかのひび割れた配管から漏れ出している、重油のツンとした悪臭。

 そして、泥水の中で何かが腐敗したような、得体の知れない生々しい臭気。


 地上に満ち溢れていた、あのフェイク・レゾナンスによる『作られた幸福』の、芳香剤のように甘ったるくて吐き気のする匂いとは、あまりにも対極にある空気だった。


「……ええ。でも、私は嫌いではありません」


 数段下を歩いていたミナが、暗闇の中で静かに答えた。


「システムの監視が行き届いた地上は、確かに綺麗で、安全です。でも……あそこにある感情はすべて、レゾナンスAIによって『不快なもの』を強制的に漂白された後の、ただの抜け殻ですから」


 彼女の真っ白だった制服は、コンクリートの粉塵と、俺の肩から流れた血でひどく汚れていた。


 ほんの数十分前まで、彼女はあの絶対的な秩序を守る共鳴調整局のエリート隊員だった。

 だが、俺の放った『ノイズ』を見て、彼女は自らの意志で組織に銃口を向け、すべてを捨てて追われる身となったのだ。


「お前、本当に後悔してないのか?」


 螺旋階段を下りながら、俺は彼女の背中に問いかけた。


「調整局に戻るなら、今ならまだ『俺のノイズで一時的に洗脳されていた』とか、いくらでも言い訳できるかもしれないぞ。……こんな泥水をすするような生活、お前には似合わない」


 俺の言葉に。

 ミナは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


 暗闇の中でも、彼女の透き通るような銀色の髪と。

 氷のように冷たく、しかし今は確かな『熱』を帯びた瞳が、微かな光を放っているように見えた。


「私は……自分の意志で、あなたを助けました。朝霧レン」


 彼女は、一切のブレがない、凛とした声で言い放つ。


「他人の心を物理的に削り取ってまで維持される平和に、私はもう加担したくありません。……それに」


 ミナは、少しだけ目を伏せた。

 その長いまつ毛の影が、ひどく痛ましく揺れる。


「私自身の能力……『ソニック共鳴』も、本当は、暴動を鎮圧して誰かを傷つけるための力なんかじゃなかった。……私はただ、本当の音を鳴らしてみたかったんです」


 その横顔には、政府の猟犬として長年自分の感情を殺し続けてきた少女の。

 ひどく不器用で、痛ましいほどの純粋さが滲み出ていた。


『――おいおい、暗闇の中でイチャついてるところ悪いが、お喋りはそこまでにしな!』


 突然、右耳の通信端末から、生意気な少年の声が鼓膜を打った。

 先ほど俺たちをこの地下へと導いてくれたハッカー、黒崎ハルだ。


『レゾナンスAIの演算能力を舐めるなよ。地上の監視網をハッキングで誤魔化せたのは、ほんの数分だけだ。もう、調整局の『猟犬』どもが、お前らのすぐ上まで来てるぜ』


「猟犬……? さっきの部隊が、マンホールをこじ開けて追ってきたのか?」


『いや、生身の人間じゃねえ。……地下の複雑な構造をインプットされた、自律型の殺戮兵器だ。上を見な』


 ハルの緊迫した言葉に従い、俺とミナは弾かれたように、降りてきた螺旋階段の上方を振り仰いだ。


 ――カチ、カチ、カチカチカチッ。


 暗闇の奥深く。

 俺たちがくぐり抜けてきた頭上のマンホールの穴から、硬質な金属の爪がコンクリートを引っ掻くような、ひどく不気味な駆動音が聞こえてくる。


 そして、完全な暗闇の中に。

 血走ったような『六つの赤い眼』が、フワリと浮かび上がった。


「なっ……なんだ、あれは!?」


 それは、巨大な蜘蛛の胴体に、刃物のような脚をくっつけた多脚型の無人ドローンだった。


 流線型の分厚い装甲に覆われたボディ。

 六本の鋭い金属の脚が、重力を無視して螺旋階段の裏側や壁面に張り付きながら、異常なスピードでこちらに向かって這い降りてくる。


「『ハウンド・ドローン』……! 調整局の、対・地下レジスタンス用の索敵殲滅兵器です!」


 ミナが鋭く叫び、背中に回していた巨大な音響デバイス『ソニック・エミッター』を即座に構え直した。


『こいつらは地上のシステムから完全に切り離された独立AIで動いてる。俺のハッキングじゃ、完全には止められねえ! とにかく走れ、レン!』


 ハルの警告と同時に、這い降りてくるハウンド・ドローンの赤い六つ眼が、一斉にカメラの絞りを鳴らして俺たちをロックオンした。


 シュガガガガッ!!


 ドローンの下部にマウントされた銃座から、空気を焦がす青白いパルスレーザーが、雨霰のように掃射された。


「くっ……!」


 俺は咄嗟にミナの腕を掴み、螺旋階段を転げ落ちるようにして駆け下りた。

 コンマ数秒前まで俺たちが立っていた鉄の階段が、レーザーの直撃を受けてドロドロに赤熱し、溶解して崩れ落ちる。


「逃がしません……!」


 ミナが階段を駆け下りながら、しなやかな動きで体を捻り、後方へとデバイスの銃口を向けた。


「出力、40%! ――散れ!」


 ドゴォォォォン!!


 目に見えない、高圧縮された音の衝撃波が、狭い階段の空間を埋め尽くすように放たれた。


 音波の壁が、迫り来るドローンの一機に真正面から直撃する。

 強固な金属装甲が紙屑のようにひしゃげ、ドローンは火花を散らして壁に叩きつけられ、機能を停止した。


 だが。

 敵は一機だけではなかった。


 カチカチカチカチカチッ!!


 さらに上部の暗闇から、第二、第三のハウンド・ドローンが、カサカサと壁を這うようにして次々と姿を現す。

 狭い螺旋階段では、ミナの強力な『ソニック共鳴』の範囲攻撃は、少しでも出力を上げれば、下を走る仲間である俺の鼓膜や内臓をも破壊してしまう危険がある。

 そのため、彼女はフル出力を出すことができないのだ。


「くそっ、キリがないぞ……!」


 俺は荒い息を吐きながら、血と汗に濡れた右手を強く握りしめた。


 能力を使わなければ、背中からレーザーで蜂の巣にされる。

 だが、俺の精神エネルギーは、地上の戦いでフェイク・レゾナンスを全開で打ち砕いた時に、既に限界の底を突いていた。


 ここで無理をして『ノイズ共鳴』を放てば、確実に意識は闇に落ち、最悪の場合は脳のシナプスが焼き切れて廃人になる。


 ズキリッ!


 右手に少し力を込めただけで、頭蓋骨の裏側を熱した鉄串でかき回されるような激痛が走った。

 視界が激しく明滅し、階段を踏み外しかける。


「朝霧レン! 無理をしないでください、今のあなたの共鳴疲労では……!」


「……でも、お前一人に、戦わせるわけにはいかないだろ!」


 俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、右手に無理やり黒い粒子を集めようとした。


 その時。


『――おいおい、俺を忘れちゃ困るぜ、バグ野郎ども』


 通信機越しのハルの声が、ひどく楽しそうに、そして自信に満ちた響きで鼓膜を打った。


『少し先の踊り場まで走れ! そこに、俺からのとびきりの『プレゼント』を置いてある』


「プレゼント……!?」


『俺の電子共鳴の力を見せてやるよ。そのまま階段を駆け下りろ!!』


 俺とミナは顔を見合わせ、言われるがままに、崩れかける階段を必死に駆け下りた。

 背後からは、空気を焼くパルスレーザーの熱線と、多脚ドローンの不気味な駆動音がすぐそこまで迫っている。


 そして、広いコンクリートの踊り場へと飛び出した瞬間。


 俺たちの目の前に、それはあった。


 旧時代の遺物。

 百年以上前に打ち捨てられ、赤錆と分厚い埃に覆われた、巨大な配電盤の残骸。


『しゃがめ!!』


 ハルの鋭い叫びと同時に、俺はミナの肩を抱え込むようにして、冷たいコンクリートの床に強く伏せた。


 直後。


 バチィィィィィィィィィィィィィィン!!!


 踊り場に鎮座していた旧式の配電盤から。

 本来ならとっくに死んでいるはずのケーブルから、尋常ではない量の高圧電流が、青白い稲妻の嵐となって爆発的に放たれた。


 それは、ハルの『電子共鳴』によって遠隔で強制的に励起された、致死量のトラップ。


「ピガァァァァァッ!!」


 勢いよく踊り場に飛び込んできた三機のハウンド・ドローンが、その高圧電流の網に真正面から突っ込んだ。

 強固な物理装甲も、雷撃の前には無意味だ。

 内部の精密な電子回路を直接焼き切られ、ドローンたちは断末魔のような不快な機械音を上げて、次々と床に墜落していった。


 火花が激しく散り、基盤の焦げるひどい悪臭が地下道に立ち込める。


『ははっ! どうだ、地下のネズミの歓迎会は!』


 ハルの、誇らしげで生意気な声が響く。


「……助かった。あんた、すごいな」


 俺が床の埃にむせながら礼を言うと、ミナも、黒焦げになって痙攣するドローンの残骸を呆然とした表情で見つめていた。


『感心してる暇はねえぞ。その踊り場の奥に、旧地下鉄のトンネルがある。そこをまっすぐ抜けろ。……俺たちレジスタンスのアジトだ』


 ハルの案内に従い、俺とミナは、ぽっかりと口を開けた暗いトンネルの奥へと足を踏み入れた。


 *


 ピチョン……。


 暗いトンネルのひび割れた天井から、冷たい水滴が落ちる音が響く。


 ハウンド・ドローンの追撃を振り切った俺とミナは、旧時代の遺物である地下鉄のトンネルを、足元の錆びついたレールに気をつけながら進んでいた。


 地上に溢れていた、作られた光も、プラスチックのような偽物の笑顔も、ここには一切ない。

 ここは百年前の都市の死骸。

 ネオ・トーキョーがその絶対的な輝きを保つために、文字通り分厚いコンクリートで『蓋』をして見えなくした、社会の暗闇だ。


「……歩けますか?」


 隣を歩くミナが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「ああ、なんとか……。さっき少し休んだおかげで、頭の痛みは引いてきた」


 強がりではなく、本当に少しだけ呼吸が楽になっていた。

『共鳴疲労』による、脳が内側から焼き切れるような激痛は、この静かで冷たい地下の空気に触れているうちに、徐々に鎮まりつつあった。


 フェイク・レゾナンスの強制的な誘導電波が一切届かない場所。

 システムによる感情のコントロールがない、ただの『空っぽの空間』が、今の俺にとってはこれ以上ないほど心地よかった。


「それにしても……お前も結構、無茶をするんだな」


 俺は、ミナの汚れた白い制服を見ながら苦笑した。


「さっきの階段での衝撃波。俺を巻き込まないように、音の指向性をギリギリまで絞って撃ってただろ。……一歩間違えれば、お前自身が反動で吹き飛んでた」


 俺の指摘に、ミナは少しだけ目を丸くし、それから微かに俯いた。


「……私は、調整局の過酷な訓練を受けていますから。あの程度の出力制御は、問題ありません」


 冷静な声色を保とうとしている。

 だが、デバイスを握りしめる彼女の白く細い指先が、微かに震えているのを俺は見逃さなかった。

 冷酷なシステムの一部を演じるのをやめた彼女もまた、死の恐怖や緊張といった『本物の感情』と、今まさに正面から向き合っているのだ。


『――おっと、そこから先は足元に気をつけな。俺の可愛い防衛システムが、まだいくつか起動したままだ』


 不意に、トンネルの奥から声が響いた。

 通信機越しではない。空間を震わす、生身の肉声だ。


 俺たちが警戒して足を止めると。

 前方にある、古びた駅のホーム跡に、青白い光がパッと灯った。


 そこは、無数の太いケーブルが蜘蛛の巣のように張り巡らされた、異様な空間だった。

 旧時代の改札口やベンチの上に、最新鋭のサーバー群や、何十枚ものホログラム・モニターが無造作に積み上げられ、異常な熱気を放っている。


 その光の中心。

 キャスター付きのオフィスチェアに深く腰掛け、首にヘッドフォンをぶら下げた少年が、俺たちを見下ろしていた。


「よう。よく死なずにたどり着いたな、地上の迷子たち」


 黒崎ハル。

 電子機器を自在に操る『電子共鳴』の能力者にして、俺たちを地獄の釜の底から引きずり上げてくれた天才ハッカー。


 彼は、手元のキーボードを軽く叩き、周囲のホログラム・モニターの映像を一斉に切り替えた。


「歓迎するぜ。ここが、あの忌々しいレゾナンスAIの監視の目が行き届かない唯一の聖域……俺たちレジスタンスの『第4アジト』だ」


 俺とミナは、ホーム跡の階段を登り、彼と初めて直接対面した。


 年齢は俺と同じくらいか、少し下かもしれない。

 だが、その生意気そうな瞳の奥には、年齢に似合わない鋭利な知性と、この狂った世界に対する確かな『反抗の意志』がギラギラと宿っていた。


「あんたが、黒崎ハル……」


「そうだ。さっきは見事なノイズだったぜ、朝霧レン。……それに、そっちのお嬢ちゃんもな。まさか調整局の優秀な猟犬が、飼い主の喉笛に噛みつくとは思わなかった」


 ハルのからかうような視線に、ミナは表情を変えずに答えた。


「私は猟犬ではありません。……自分の意志で、ここに来ただけです」


「ははっ、いい目をしてる。フェイク・レゾナンスに毒されてない、本物の目だ」


 ハルは満足そうに笑うと、椅子から立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄ってきた。


「改めて聞くぜ、朝霧レン。お前、自分がどれだけ『ヤバい存在』か、分かってるか?」


「ヤバい……? 俺はただ、あの作られた波が気持ち悪くて、それを壊せる力に目覚めただけで……」


「それがヤバいんだよ」


 ハルは真剣な表情になり、背後の巨大モニターに、ネオ・トーキョーの血管のように入り組んだ巨大なネットワーク構成図を映し出した。


「この街は、人間の感情から発生する『レゾナンス』をエネルギーにして動いてる。そして、そのエネルギーを安定供給するために、政府は『フェイク・レゾナンス』を使って、市民の感情を穏やかな状態に強制固定している」


 それは、俺も授業で習った……いや、裏の真実を含めれば、今日身をもって知ったおぞましい事実だ。


「でもな、その完璧なシステムには、たった一つだけ弱点がある」


 ハルは、俺の胸元を真っ直ぐに指差した。


「システムに干渉されず、逆にシステムの波形を強制的に『乱す』ことができる存在。……それが、お前の『ノイズ共鳴』だ」


 俺は、泥に汚れた自分の右手を見つめた。

 黒い稲妻。フェイクを打ち砕く、不協和音。


「俺たちレジスタンスの中にも、フェイクに影響されない特異体質の能力者は何人かいる。だが、システムそのものを『破壊』できる能力を持ったやつは、歴史上、お前が初めてだ」


 ハルの言葉が、重く、地下空間の冷たい空気を震わせた。


「お前は、ただのバグじゃない。この巨大な鳥籠をぶっ壊すための、たった一つの『鍵』なんだよ」


 俺の心臓が、大きく高鳴った。


 ただ世界が気持ち悪いと嘆き、息を潜めて生きていた空っぽの高校生が。

 今、この世界を引っくり返す鍵だと言われている。


「……俺に、それができるのか?」


「できるさ。……いや、お前にしかできない」


 ハルはニヤリと不敵に笑い、そしてミナの方を見た。


「それに、お前には強力なボディガードもついてるみたいだしな。……調整局の内情を熟知した元エリート隊員と、システムを壊すノイズ能力者。最高の組み合わせだ」


 ミナは小さく溜息をついたが、否定はしなかった。


「……勘違いしないでください。私はただ、偽物の音が嫌いなだけです」


「そういうことにしておいてやるよ」


 ハルは肩をすくめ、再びモニターに向き直った。


「さて、これから忙しくなるぜ。調整局は、お前たちを絶対に逃がさない。都市のエネルギーを維持するためには、お前というイレギュラーは最優先で消さなきゃならないからな」


 モニターには、地上の各所で厳戒態勢を敷き、市民の笑顔の横を軍靴を鳴らして行軍する共鳴調整局の部隊の映像が映し出されていた。


「だが、俺たちにも計画がある。この街の『作られた幸福』を終わらせるための、特大の反撃計画がな」


 ハルの言葉に。

 俺は、強く、右手の拳を握りしめた。


 逃げるだけの時間は、終わった。

 今日、俺は平穏な日常を完全に失い、世界の敵になった。

 だが、後悔は微塵もない。


 俺の隣には、同じように偽物の世界に抗う仲間がいる。


「やってやるよ。……この『ノイズ』で、ネオ・トーキョーの目を覚まさせてやる」


 地下の暗闇の中で。

 俺の胸に宿った反逆の炎は、静かに、だが周囲の空気を焦がすほどの確かな熱を持って、燃え上がっていた。

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